第24話 温もり


 マリベル、愛しい孫娘。

 赦しておくれ、お前を置いて逝くことを。


 マリベルの祖父は、寡黙でありながら、周囲のことをよく見ている人物だった。幼い頃は彼の厳しさに、マリベルは萎縮してしまうこともあった。だがそれが杓子定規に物事を見ているのではなく、マリベルを思っての厳しさだったことを、成長するごとに理解できた。

 身体が弱く何をするにも人を頼り、臆病だった頃には誰よりも厳しく接し、家族に見放されて独りになってからは人一倍優しく接し、マリベルを片時も側から離さなかった。

 マリベルは、そんな祖父から火の熾し方を学び、猟で得た兎を解体する方法を習得した。それまでやったことの無い掃除や、道具の手入れ、服の洗濯、水を運ぶこと、雨がどうやって森に落ちて井戸になるか。様々なことを教えられた。

 凍てつく冬に霜焼けになりながら、祖父と見上げた満天の空は、マリベルに魔法がなくとも生きていく術だけでなく、豊かな心も育ててくれた。

 気づいてみれば、両親に大事に守られて暮らしていた頃よりも、幸せだと感じる瞬間が増えていた。


「健康な身体があれば、少しの不幸は耐えられるものだ。いつ心臓が止まるかしれないと震える時間はもう来ない、それだけで寒さをしのぐために薪を拾いに行けるし、今日の狩りが失敗しても明日があると笑って耐えられる。これを幸せと言わず、何が幸せなのか」


 そう言っていた祖父は、突然、病を得てしまった。まだ老衰するには早く、しかし気づいた時には手遅れだった。

 マリベルは、病床に伏す祖父にすがった。祖父の苦しみよりも、独りになる苦しみが怖かったから。

 きっと祖父には、そんなマリベルの情けない心の内など、お見通しだったろう。だが分かっていても、耐えられなかった。

 叱られてもいい、情けないと失望されたら、置いていけないと頑張ってくれるかもしれない。マリベルはそんなことすら考えた。

 だが祖父は、力なく謝った。


「マリベル、赦しておくれ、お前を置いて逝くことを」


 嫌です、独りにしないで。お祖父さまが逝くなら私も一緒についていく。

 そう泣きじゃくるマリベルの頬を撫でながら、祖父は哀しそうに笑う。


「生きろ、マリベル。苦しくとも、生きていれば、いつか独りではなくなる。いつか、生きたいと思える日が、お前にも訪れるから」


 今だって生きたいと思っているよ、だからもういい、一緒に連れて行って。

 そんな日が来るなんて到底信じられないマリベルは、泣いて縋る。

 生きろ、マリベル。

 繰り返しマリベルを諭し、そして息を引き取った。


 その言葉に呪縛されたように、マリベルは孤独の日々をただ生きた。祖父との時間を無駄だったと言う両親に、それ以上祖父を罵られないように、それだけを心がけて。

 そして今は、祖父の言うとおりだったとマリベルは知った。

 辛くとも生きていたら、共に生きたいと思える人たちに会えた。

 生きたいと思ったら、死にたくないと自然と願うことを知った。

 あの日、泣き叫ぶマリベルを諭しながら、一番死にたくないと思っていた祖父の気持ちを知った。

 ごめんなさい、お祖父さま。





 頬を伝う涙の冷たさで、マリベルは目を覚ました。

 冷たくなっていったはずの身体が、ぽかぽかと温かい何かに包まれているらしく、微睡みの中でその温かな何かに頬を寄せる。意識は浮上したものの、瞼は重く、周囲が明るいことしか分からない。

 しかし何気なく力を入れた左肩に、激痛が走って夢心地が吹き飛んでしまう。


「マリベル?」


 とても近くから名を呼ばれ、マリベルはようやく重い瞼を開けるが、ぼやけた視界に幾筋の黒いものが見えた。

 真っ直ぐで、艶やかな髪。

 手を伸ばして一房掴み、それに縋るように口元に寄せると、とても良い匂いがする。

 再び眠気がマリベルを襲い、瞼が閉じかける。


「マリベル、起きたのか?」


 ハッと目を開ける。

 そして顔を上げると、触れるほど近くにクライドの顔。


「クライド、様?」

「良かった、マリベル……」


 何かを言い返す間もなく、マリベルはぎゅっと抱きしめられる。

 それは先ほど微睡みのなかで温かいと感じていたもので、それがクライドの腕だと知る。

 それだけではない。触れるのは布を介さない肌で、それを感じているマリベルの方も同じく素肌だ。困惑のあまり声も出せずにいると。

 ふいに力を緩められ、マリベルを心配そうに覗き込むクライドと目が合った。


「あ、あの……私……っ痛」


 腕を動かそうとして、再び肩に激痛が走る。

 それでようやく正気に返った。

 痛みのあまり押さえた肩には、包帯が巻かれていた。それが顕になっているのは、マリベルがノースリーブの薄手のワンピースを着ているせいだ。

 一方でマリベルを抱き込むクライドも、胸元が広く空いた貫頭衣姿だ。日頃から極力肌を晒さないクライドの、初めて見る格好だった。

 傷ついた右肩を上にして、クライドの胸の中にもたれかかるようにして包まれるマリベル。マリベルを支えるクライドもまた、クッションを背もたれにして寝具に身を委ねていた。

 マリベルは自分がクライドの寝台のなかで、何にもたれかかって寝ていたのか悟る。そして恥ずかしさのあまり彼を押し戻そうとして、再度痛みに悶えるのだった。


「まだ応急処置しかできていない、動いては駄目だ」


 再び抱き寄せられ、抵抗できずにクライドの胸元に顔を押し当てる形になってしまうマリベル。


「どうして……」

「きみは独りで居るところを獣化した魔人に襲われ、毒爪で傷を負ったんだ、覚えている?」

 

 あれは毒爪だったのか。

 だから怪我をしただけで、身体から魔力を失い、死にかけてしまったのだとマリベルは悟る。

 けれどもいったいどうやって助かったのだろう。そう疑問に思っていると……


「指輪の魔法を発動しただろう? だからすぐに君が危機だと分かった」

「でも、炎は出なくて……だから失敗したとばかり」

「炎が出なくても……いや、君の力で発動できなくなる可能性を考えて、発動の言葉を告げた時には、それが僕に分かるよう細工をしておいた」


 マリベルは驚いて、自分を抱き込むクライドを見上げようとする。しかし彼はマリベルをしっかりと抱き込んだまま、離そうとしない。

 苦しいほどきつく抱きしめられ、頭の上に彼の熱い息が触れる。その温かさにマリベルは身を委ねてしまいそうになる。


「助けに、来てくださったのですね……ありがとうございます」


 生きたいと願った。その希望を叶えてくれたクライドに、マリベルは心からお礼を言う。

 だがクライドは黙り込んだまま。いや、苦しげにため息をつくのが、分かった。


「僕は、何の力にもなれなかった。君を助けたのはジルだ」


 そう言われて、マリベルはようやく金髪の少年の後ろ姿を思い出す。


「そういえば、あの方はご無事ですか? あの魔獣は……?」

「ジルなら無事だ。だが魔人にはまた逃げられてしまった」


 その言葉を受けて、マリベルの気持ちは再び落ちる。自分が怪我を負ったから、仕留められなかったのではないかと。


「マリベルが毒に冒されたと気づいたジルが、解毒魔法をかけて助けようとしたらしい。だがそれが原因で、マリベルの心臓が一度止まって……僕が駆けつけた時には、君は息をしていなかった」


 死の淵にいたことを知り、マリベルは驚く。


「解毒魔法は……治癒魔法全般がそうだが、治療対象自身の魔力を操ることで治療をする。毒を中和するのも同じ……僕は治癒魔法がほとんど使えない。でもジルは治癒が属性で……ジルがかけた解毒魔法でマリベルの命を維持する、僅かな魔力まで枯渇させてしまったんだ」

「まって……それじゃあ、どうして今……」


 マリベルの心臓は、今はいつも通り拍動している。冷たくなった四肢は、感覚を取り戻して温かい。

 どうやって、枯渇した魔力を補ったのだろう。そうなったらリコリスを食べるしか……困惑するマリベルに、クライドが答えを与える。

 怪我をしていない方のマリベルの腕に、自らの腕、素肌を触れさせる。そして手を合わせて握り込む。


「初めて君の腕を掴んだ時、不思議に思っていた。こうして触れると、僕の魔力が凪ぐことに気づいたから」

「凪ぐ……?」

「溢れて荒ぶる波が静まるかのような気がして、最初はそう思った。でも何度か繰り返し触れてみて、そうじゃないと分かった。僕の魔力が鎮まったのではなく、君に触れて、魔力を受け渡したのだと気づいた」


 マリベルは肯定も否定もできず、言葉を詰まらせてしまう。


「今も、こうして君に魔力を渡し、その力で君は生命維持をしつつ、解毒までを終わらせたんだ。気づいているかい?」


 マリベルをようやく腕の中から解放し、身体を離したクライドが、繋いだマリベルの手を天蓋の影にかざす。

 するとマリベルの腕が、ほんのりと光を放っているのが見えてしまう。

 それはリコリスを食べた時や、クライドが眠る魔力嵐の中に入った時とも同じ現象だ。今は彼の放つ雷のように、時折点滅している。


「僕の魔力が、君の中にある」


 マリベルは咄嗟に、クライドの手を振り払う。

 そして早まる鼓動を収める時のように、胸に抱き込んで隠す。

 クライドは自ら魔力を渡していると思っているが、本当にそうなのだろうか。

 困惑するマリベルの脳裏に、かつて自分を慕ってくれていた妹が『化け物』と悲鳴のように叫ぶ声が甦った。


「……ごめんなさい」


 マリベルの目から、涙が溢れる。


「マリベル?」

「ごめんなさい……ごめんなさい」

「マリベル、泣いているのか?」


 困惑したクライドの声に、迷惑をかけていると分かっても、涙が止まらない。


「どうして謝る? マリベルが謝ることなど何もない、むしろ守れなかった僕が責められるべきだ」


 マリベルは泣きながら頭を横に振る。


「違……クライド様に、黙っていたから。私が……」


 泣きじゃくるマリベルの頬を、クライドが優しく撫でて、涙を拭う。


「マリベル、泣くな……」


 クライドがそう言いかけたところに、扉が大きく開かれた音が重なる。


「クライド、いいかげんにしろ、いつまで待たせる気だ?!」


 凜とした声とともに、部屋に入ってくる足音。

 びくりと身体を震わせたマリベルを、再びクライドが抱き込んでしまう。

 涙と長い黒髪に遮られ、マリベルからは姿が見えないが、恐らく皇太子殿下に違いないと悟る。


「ジル様、まだお入りにならないでくださいとあれほど……」


 チャールズの声も続くが、それを振り切って厳しい声がマリベルを糾弾するかのごとく続いた。


「死なせたくなかったら、その女をこちらに寄越せ!」

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