第16話 白鹿との再会

 マリベルが火をおこして助けを呼んだ池は、毎夜降り続いた雷雨によってすっかり姿を失い、湖の一部になっていた。

 船を木の根元に寄せた後、クライドに手で支えられながらマリベルは船を降りた。


「水を含んだ苔は滑るから気をつけて」

「はい、でも大丈夫です、慣れていますから」


 そう言うマリベルを、クライドは不思議そうな顔をして見ていた。


「家の裏に、同じような森がありましたから」


 しっかりとした足取りで木の根を伝い、湖水のない岸まで降り立ったマリベル。そんな彼女にクライドは頷き言った。


「少し、ここで待っていて」


 クライドはマリベルを残して、樹上へと飛ぶ。

 細い枝を蹴って軽々と上へ登っていき、あっという間にクライドの姿は見えなくなる。

 残されたマリベルは周囲を見回して、あの日に身を寄せた根が作る穴蔵を探す。少し歩いた先の、半分水に浸かった木の根元に、煤けた痕跡があった。

 その周囲には、相変わらず色とりどりのリコリスが咲いている。この花たちが無かったら、マリベルは救出してもらえるのが何時になったか分からない。そう思いながら、マリベルはしゃがんで花を愛でる。


「マリベル」


 呼ばれて驚きながら振り向くと、いつの間にかクライドが降りてきていた。

 立ち上がって彼の元へ戻ろうとしたら、マリベルの足元が滑る。重心が後ろにずれて倒れそうになり、手を伸ばしたクライドが支えたおかげでマリベルは間一髪、転ばずにすんだ。


「……す、すみません」


 細く繊細だと思っていた腕は、マリベルの身体を支えてもびくとはせず、確かに男性なのだと感じてしまう。それに先ほど自信満々に大丈夫だと告げた自分を恥じて、頬を赤らめながらマリベルは姿勢を正したのだった。


「きみが落ちたと言っていた場所は、分かるか?」

「いえ、小さな沢を伝ってここまで歩いたので……」


 もう雨が一週間も続いたため、沢は大小無数にできて泉だった場所に流れ込み、かつて一本だった沢がどれなのか見当がつかない。

 森の中でもひときわ大きく太い樹の根元で目を覚ましたのは覚えているが、森の中で一本の樹を探し出すなど不可能だろう。だがクライドはすっと目線をマリベルからある一方向へと向ける。


「向こうに、白い影が見えた」

「白い……」


 マリベルはかつて自分を救った立派な白い牡鹿を思い出す。


「行ってみるか?」


 頷いて、マリベルはクライドの手を握り返した。

 湿った苔とときおり落ちてくる枝葉に溜まった雨粒が降る中、二人は森の奥へ進む。魔法で運ぶと提案されたが、マリベルは「濡れるのは平気」と断った。

 靴は濡れてしまうが、今日は手伝いをしようと思っていたからマリベルのスカートは短い。気をつけて進めばさほど汚れることは防げそうだ。まだまだ降り続ける雨を森が知っているかのように、二人が歩く辺りは下草が高く茂っていない。いずれはここも、水底に沈むのだろう。

 そうしてゆっくり歩いた先に、ひときわ太い幹の大樹が見える。

 暗い森の合間、幾筋も差す光を受けて、まるで二人を待っているかのように立つ大樹は、どこか神聖な存在にも感じられた。

 引き寄せられるかのように進むと、その木の根元に、白くて大きな牡鹿が座っている。

 マリベルとクライドは顔を見合わせてから、ゆっくり白鹿の元へ。

 二人が近づいているのに気づいているのか、鹿は黒い瞳を向けるものの、身体は微動だにしない。どうやらそこは鹿のお気に入りの場所なのか、台座のようになった樹の根元には柔らかそうな草が密集して生えている。

 クライドはマリベルを連れたまま白鹿の前まで進み、見つめた。

 二人……マリベルはそう表現するのが正しい気がする、二人が言葉ではない何かで会話をしているように見えてしまう。そうでなくても、きっと顔見知りなのだろう、確かいつでも会えると言っていたのだ。

 そんなことを考えているマリベルの方に、白鹿がふいに鼻先を伸ばす。

 まるで撫でてくれと言わんばかりのその仕草に、つい手を伸ばしそうになるマリベルだったが、相手は神の使いとされる神聖な生き物であることを思い出して、手を止めると。


「撫でてかまわない」


 クライドにそう言われて、マリベルは困惑しながらも白鹿の鼻筋をそっと撫でた。

 すると鹿の方からマリベルの手に顔をすりつけて、甘えるように目を細めた。その仕草が可愛らしくて、マリベルの緊張が解けて頬が緩む。


「あの時は、ありがとう。側にいてくれてとても嬉しかったです」


 マリベルがそう言うと、白鹿はゆっくりと立ち上がる。

 白鹿は思っていたよりも大きく、鼻先はマリベルの肩あたり。立派な角まで入れると、横に並ぶクライドよりもずっと高い。

 クライドもまた白鹿に手を伸ばして首を撫でながら、マリベルの方を向くと。


「セス、彼女はマリベル。私の妻になる人だ」


 なんとマリベルを紹介したのだ。


「マリベル、僕は彼のことをセスと呼んでいる。恐らくセスが、落ちてきたきみを助けたのだと思う。ここに見覚えはある?」

「そういえば……でも、どうやって」

「セスは魔法が使える。とても原始的なものだが」


 マリベルは驚きながら、大樹の根元に茂る葉と、大きな幹を伝ってはるか樹上を見上げる。

 確かに、先ほどの池の周辺ならまだしも、ここは枝葉に覆われて空がほとんど見えない。隙間から日が差すが、入り組んだ枝は空に向けて針のように伸びていて、上空から落ちたらマリベルは串刺しになっていただろう。

 改めてマリベルは目の前の白鹿、セスに手を伸ばしてその黒くて湿った鼻に額を寄せた。


「ありがとうございます、セス。私を助けてくれて……」


 セスが鼻をぶるっと震わせる。

 マリベルの長い髪が触れてかゆかったのだろうか。頭を振ると、そのまま寝床から離れた。挨拶に満足したのか、はたまた二人には興味を無くしたのか、背を向けて歩き出す。そして根元に生えていた木の芽や、リコリスを食んでいった。

 やっぱり彼はリコリスすら平気で食べてしまうのだとマリベルが眺めていると。


「セスは普通の鹿ではなく、神霊の一種なのだろう。僕が子供の頃から変わらず森に棲んでいる」


 リコリスを食べたせいなのか、暗い森の中でセスの身体が、一層白く輝いているようにも見えた。


「セスは、仲間はいないのですか?」


 暗い森に灯る明かりのようなセスの姿が、どこか浮いている。


「他に白い鹿は知らない。魔法を使える動物も」

「……寂しくないのでしょうか」

「そうだな。だが、孤独が救いになることもある」


 マリベルにとって、孤独なものの気持ちは痛いほど分かる。マリベルは人より足りないもののせいで孤独を味わってきたが、もしかしたら過ぎるものを持ってしまった場合も、同じなのだろうか。

 クライドのような存在を初めて知ったマリベルには、まだその答えは分からない。

 

「行こうか」


 手を差し出されて、マリベルはその手を掴む。

 誰よりも多くの魔物を屠ってきたという魔法使いの手は、温かくて優しい。出会う前に抱いていた印象は、マリベルの中からすっかり消え失せてしまった。何も言わず魔道具を造り替えてくれたりや、セスに妻になる人だと紹介するような、不器用だけれども深い優しさを、惜しみなく与える人だと分かった。

 だからこそ、マリベルの胸に針のような濁りが差す。

 そっと振り返ると、白鹿セスが赤いリコリスを口にして、ほんのりと光った。

 自らもまたリコリスを口にすることを、クライドに言い出せずにいる。悪食令嬢と噂されていることは、知られているかもしれない。だがそれすらも、確かめることができずにいた。

 もし、クライドに厭われたら。チャールズや他の使用人たちに、気味悪がられてしまったら。

 ドラコニア侯爵領を出ていかねばならないだろうか。そう考えるだけで、マリベルは足がすくんでしまう。一度受け入られたと思ってから嫌われるのは、耐えられそうにない。けれども、黙って秘密にし続けていいのだろうか。だがクライドのために、マリベルの代わりを務められる者はいないと懇願され、望まれて居るのも事実。

 クライドとの結婚式は、もう一週間後に控えている。 

 マリベルは罪悪感と責任感の狭間で、揺れていた。


「……疲れさせてしまったか?」


 ボートに乗って湖上へ出たところでクライドから問われて、マリベルはハッとして顔を上げる。


「大丈夫です、少し考え事をしていました」

「式のことを、心配しているのか?」


 突然そう問われて驚いていると。


「チャールズから聞いた……マリベルは自分の家族と会うことを嫌がっていると」


 マリベルは力なく、けれども心配ないと伝えるために微笑んで見せた。


「私は、いつも家族のお荷物でしたので、なるべく一緒にいない方がいいと思ってきました。家族で参加するような場にも、あまり……特に妹には迷惑ばかりかけてきたので」

「妹、か」

「はい、シャルロッテといいます。姉である私とは違い、魔法もよく使えて器量も良いのですが、どうしても私の存在が障害になり、良い縁談を結べないようで……でも今年十八を迎えますから、こうしてクライド様の元に私が嫁げば、子爵家から私は去るわけですし、妹にもきっと良い縁が舞い込むと信じています。だから……クライド様には本当に申し訳ないのですが式には……」


 両家が揃わない式を、公爵家当主が挙げる。そんな不名誉が許されるとは思っていなかったのに、クライドはそれを許したのだった。

 それだけではない。マリベルに恥をかかせないために、公爵家の親族も呼ばずに挙げると言い出したのだ。驚くマリベルを余所に、クライドはチャールズに命じて、そのように準備が進められていた。


「どちらにせよ、僕の方も出席するのならば母と伯父くらいなもので、そう変わらない。母は領都を離れるには、準備がかなり必要となる。そうなったら、いつまでたっても僕たちは式を挙げられない」

「……お母様、ソニア様はお怒りになられては」


 マリベルは言い淀む。

 しょせん契約結婚妻でしかない自分が、そこまで踏み込んでいいとは思わないし、義理の母となる人の機嫌を取るなどおこがましいのではと。

 だがクライドはそんなマリベルの様子をじっと見つめて、こう言った。


「僕の側に居る限り、君のことを誰も笑ったり、バカにしたりしない。だから疑問に思ったことは聞けばいいし、望みがあるならどんなことでも口にしていいんだ。幸いにして、チャールズたちは僕の望みすら、それが世間的に正しくないなら決して聞き入れてくれない頑固者たちだ。安心していい」


 マリベルは目を丸くして、そして少ししてから心から笑った。

 そんなマリベルに、クライドは母ソニアについて少しだけ口を開く。


「気高く裏表のない人だ、きみのために花嫁衣装を送ってきたのだから、それが全てだ」

「……はい」


 先代公爵、つまりクライドの父が亡くなった後からずっと、領を治めて来た人だという。

 そうしてボートはゆっくりとドラコニア城へと戻っていく。

 爽やかな風がマリベルとクライドの長い髪を揺らし、穏やかな時間が流れていく。

 そうしてその日以来、午後のお茶の時間を共にするようになり、さらに余裕がある時はそこから散歩をしたり、セスと会うために森へ赴くなどするようになる。

 クライドは決して多くを語らないし、マリベルも相変わらず遠慮から口数は少ないものの、お互いに静かな時間を過ごすことに慣れていったのだった。

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