第19話 守りの指輪

 マリベルは生まれてすぐから幼少期までに、幾度か死にかけたことがある。

 コールフィールド家に生まれた初めての子を、失わないよう両親は献身的に支えていたと祖父から聞かされている。だが彼女の心臓は、大人になるまでには止まるだろうと医者からは匙を投げられていた。

 日々、胸の苦しさに見舞われるマリベルは、外で遊ぶことを禁じられ、不自由な暮らしを強いられて育った。だがそれでも両親がマリベルに献身したおかげで、ゆっくりではあるがマリベルは発作を抑えながら成長することができていた。

 とはいえマリベルの身体は、動きの悪い心臓のせいで人よりも成長が遅く、そのせいで魔力が足りないのだと最初は思われていた。だがそれはある日の出来事で、勘違いであることが証明される。

 それは、マリベルが十二歳になった頃のことだった。コールフィールド家の裏に広がる森で、魔物が出たと騒ぎになった。猟に慣れていた祖父と父が、村人たちとともに魔物狩りの罠をしかけている間に、屋敷が襲われた。留守を預っていた使用人たちの目の届かぬうちに、隠れていたマリベルと妹のシャルロッテが攫われてしまったのだ。

 だが恐怖に泣き叫ぶシャルロッテと、じっと耐えるマリベルを運んでいたのは、魔物ではなく大きな白い牡鹿だった。

 白鹿が二人を攫った後、マリベルたちが居なくなった屋敷を、祖父たちが追っていた魔物が襲撃し、屋敷にいた使用人の何人かは亡くなった。つまりマリベルとシャルロッテは、白鹿に守られたのだ。

 だが森深くに連れてこられた幼い二人は、自力で家に帰ることもできずに身を寄せ合いながら心細い夜を過ごした。そこでマリベルは、ついに発作に襲われる。

 心臓が今にも止まりそうなマリベルを救ったのは、その白鹿……いや、白鹿の差し出したリコリスだった。

 毒花であることを知らずにリコリスを口に含み、マリベルの心臓はそれ以来、弱いながらもしっかりと拍動を繰り返すようになる。

 だがそれと引き換えに、マリベルは家族からの『愛』を失った。

 リコリスを食べる姉を見たシャルロッテは、その時に「姉」は死んだのだと言った。そして心臓を動かして生きているマリベルを「化け物」と罵るようになった。そんな妹を最初は諫めていてくれた両親も、そのすぐ後に起きた転移魔法陣の件でマリベルを庇うことを止めてしまう。


 マリベルは、痛みも苦しみもない生を望んではいけなかったのだ。

 涙が涸れる頃には、そう悟るしかなかった。

 そうして家族の重荷だったマリベルは、生きながらえて幸せを掴むどころか、家族の恥となった。

 唯一の救いは、そんなマリベルに、祖父だけは変わらず接してくれた。生きながらえたにも拘わらず、苦しみの絶えないマリベルを連れて森に入り、たくさんの事を教え込んだ。そして「生きたいと望んでくれて嬉しい」と、ただ一人言ってくれたのだった。


 そんな祖父も二年後に亡くなり、マリベルはとても孤独な四年を過ごした。そして十八を迎えるとすぐに、行儀見習いとして家を出ることになったのだった。

 魔力がないことへの偏見は、マリベルが思っていたよりも根強く、行く先々で困難が待ち構えていたが、それでもリコリスを摂るようになってからのマリベルは健康そのもので、差別や偏見には耐えることはできた。だがこの乱される動悸にだけは、幼い頃から刻みつけられた恐怖が甦る。

 ドキドキと早く打つ合間に、うっかり途切れてしまうのではないかと、恐れおののきながら浅い呼吸を繰り返す。

 それでも時折思い出すのは、今日の婚姻の儀式での優美なクライドの姿。契約とはいえ、結婚など諦めていたマリベルにとって、想像以上に素晴らしい式だった。それだけではない、無表情でありながら優しい申し出をしてくる彼の姿が次々と浮かび、はなかなか鼓動が落ち着かず、マリベルはどうしたものかと困惑するばかり。

 その早い鼓動がどこからくるものなのか、普通ではない環境で育ったマリベルには、思い至る術はなかった。


 そうしてしばらく寝台の上で静かに呼吸を整えていると、いつもの鼓動に戻ってきた。

 安堵するマリベルだったが、ふと物音ひとつしない静かな夜に、違和感に気づいて起き上がる。


「……嵐が、起きてない?」


 マリベルは閉じられていた厚いカーテンを開けて、窓の外を見る。夜空には欠けた月と、満点の星空。クライドを浴室に追い立ててから、もうかなり時間が経っているはずだ。

 慌てて踵を返し、部屋を飛び出していた。


「クライド様、起きてらっしゃいますか?」


 扉を叩きながら、マリベルは返事を待つ。

 するとすぐに内側から扉が開かれて、クライドが顔を見せてくれた。


「あの、お休みになられていないので、どこか具合がお悪いのかと……」


 マリベルがそう言うとクライドは身を翻し、彼女に「入れ」と言わんばかりに扉を開け放つ。


「そこは冷える」


 すたすたと部屋に戻ってしまうのを、マリベルは後を追う。

 中はいつも通り殺風景で、いつでも就寝時に使う結界が発動できるよう準備はされていた。だがまだ寝るつもりがないのか、クライドは机に置かれていた本を手にして長椅子に座る。


「チャールズから、まだ起きているよう言われている」

「……どうしてですか、お疲れですのに」


 そう問うマリベルをクライドは見上げて、少し考えてから言った。


「いつも通りの時間に寝たのでは、花嫁に失礼だと。婚礼の儀を行うことは、町にも通達した上で結界を施していたから、いらぬ噂を防ぐためだと言っていた」

「……いらぬ噂ですか?」


 花嫁に失礼なことって何だろうと考えても、答えに至らぬマリベルだった。だがクライドは言葉を選んでいてはマリベルが察しないことを悟ったようで、言い直す。


「婚礼を挙げた夫婦は、初夜を迎えるものだ」


 それを聞いて、マリベルはようやく理解する。そして自分の心配がとんでもなく的外れだったことに気づき、顔を赤らめる。


「……す、すみません、そういえばチャールズから聞いていたような……すっかり忘れていました」

「いい、予想外なことが起きたのだから当然だ」


 穴があったら入りたい気持ちになるマリベルだったが、彼がまだ寝る気がないことが分かると、それはそれで心配になってしまう。


「それでも、そろそろお休みになられる方がいいのではないでしょうか、もう日付が変わる頃ですし」

「ああ、もうそんな時間か……だが今日は魔力を消費できたから、それほど調整に時間は必要ない。マリベルこそ、休んだ方がいい」


 睡眠は、魔力調節のためだけだと考えていそうなクライドに、マリベルは違う意味で心配になってしまう。身体を休めるという意味でも、必要なはずなのにと。

 けれども、色々なことがあって眠気が飛んでしまうことは、マリベルにもある。


「……どんな本をお読みになられるのですか?」


 ふと気になってクライドの手元の本を見ると、古代語のような文字が書かれた重厚な装丁だった。

 思わず眉をしかめてしまうマリベルに、クライドは指で追いながら表題を読んでみせた。


「基礎魔法と魔力循環、古い魔道書だ」

「……難しそうですね」

「そうでもない、古語で書かれているだけで、魔法理念の基礎が書かれている。魔力を最小値で使う方法とその理論が載っている」


 稀代の大魔法使いが、基礎の本を読むなんて思わなかった。マリベルの顔には素直にそう書いてあったのだろう、クライドが珍しく口元をほころばせる。


「これを参考にして、魔道具の新しい起動装置を造ってみた。案外、古い物に見落としていた視点が見つかる時がある」

「そうだったのですね……私が読んでも、分かるでしょうか」

「ここ……」


 クライドが頁をめくり、指差すところをマリベルは覗き込む。反対側からではただでさえ難しい古語を読むには、難解だ。するとクライドが長椅子の端に移動して、マリベルを横に誘う。それを受けてマリベルも腰を下ろして、隣から本を読む。

 クライドにとって難しい古語も、慣れたものに違いないのだろう。マリベルに合わせて、ゆっくりと内容を解説する。


「マリベルとは違うけれど、魔力が枯渇した時の注意点と、枯渇した状態での最小量で使える魔法の種類が書いてある」


 素朴なペン画が添えられているの。倒れた旅人が、指先に小さな炎を灯す絵だ。


「私も火を熾すのが関の山です」

「それも注意深く使わないと、致命的になりかねないと書いてある」


 その言葉に、マリベルはドキリとする。胸をそっと押さえながら、難解な古書の字列を目で追う。


「致命的な枯渇は、生命維持すら危うくさせる。僕は、これを読むまで知らなかったんだ……だからマリベルにはどんな状況でも、魔法を使って欲しくない」


 マリベルは、何と答えていいのか分からなかった。

 黙り込む彼女に、クライドが本を閉じて続ける。


「大魔法使いと呼ばれても、未だ知らないことはいくつもある。僕は魔力が多いことだけが不便だと思っていた」

「……私は、魔力さえあれば何もかも不便は解消されると思っていました。何だか私たち、似てまいすね」


 似たもの同士という言葉を使うのはおこがましい気がしたが、つい口から出てしまった。

 だがクライドは気にする様子もなく、側にあったチェストの引き出しから、一つの小さな箱を取り出した。見た目は、指輪ケースのようにも見えなくはないが、いったい何だろうとマリベルが見守っていると。


「マリベルがもし一人で居るときに、先日のように助けを呼ばねばならない状況が訪れても、魔法を使わなくていいように用意してみた」


 クライドは箱を開けると、やはりそこには指輪が収められていた。

 銀の台座に、クライドの瞳と同じ新緑色の石がはめられた、綺麗な指輪だ。


「これを私に……ですか?」

「ああ、これも魔法具だから、常に付けていて欲しい。マリベルの声に反応して、一回だけ炎の魔法を使えるようにする」

「炎ですか? 雷ではなく?」


 クライドの最も強い属性は、雷だ。


「雷は強力だが、方向性を定めるのは難しい。炎ならば、握り込まずに石を向けた方向へ、マリベルを傷つけることなく真っ直ぐ放てる」

「そんな強力な魔法を、どうやって……?」

「簡単だ、マリベルが予め定められた言葉を唱えたら、魔法が発現するようにする」

「定められた言葉?」

「ああ、何にする? 非常時に使うものだから、普段は滅多に使わない言葉がいい……何がいいかはマリベルに聞いてから決めようと思っていた」


 そう言われて、何がいいかとマリベルは悩む。

 うっかり口にして、炎が上がってしまっては大変だ。


「例えば、嫌いな人や物の名前とか」

「クライド様、それは相手が目の前に居たら大変ですよ。名前をお呼びしないなんて不躾ですし……長い言葉でも大丈夫でしょうか?」

「文字数に制限はない。そうだな、二つの単語を組み合わせても良いかもしれない」


 マリベルは指輪を手にして、眺めながら考える。

 意匠はよくある形で、見た目は誰かに盗まれる心配がなさそうな装いだ。しかし美しくカットされた新緑色の石は、マリベルがクライドの妻と知る者にとってみたら、特別なものにも見える。


「例えば、危機に瀕している時に口にしそうな言葉は、避けた方がいいな」

「それはそうですね、助けてください、って言葉は駄目ですね。お願い、とかも」


 マリベルはきっと簡単に口にして惨事を招きそうだ。想像するだけでも、恐ろしい。

 それならばと、ある言葉を思いつく。だがそれをクライドに言うのが、少しだけ恥ずかしい気がする。


「クライド様、その言葉を決める方法は、どのようにするのですか?」

「僕が指輪に魔法をかけている間に、マリベルに言葉を口にしてもらい、その音を石に刻みつける」

「じゃあ、クライド様に聞かれてしまうんでしょうか」


 それなら別の言葉にしよう。そう思い直したマリベルに、クライドは聞かれたくないならば席を外すと告げたのだ。


「いいのですか?」

「僕が居ない時のための道具だから、僕が知る必要はない。その代わり、よく考えて決めて欲しい」


 マリベルは頷き、先に考えた言葉にすることを決めた。

 そうして魔法を唱えた後、クライドが席を外したのを確認してから、マリベルは指輪に向かって言葉を告げる。

 すると指輪が燃えるような赤い光を放ち、そしてすぐに収まる。

 どうやら言葉を刻み込むと同時に、クライドの魔力が石に封印されたようだった。


「うん、しっかりと魔力がこめられている、大丈夫そうだ」


 クライドの太鼓判を受けて、指輪はマリベルの右手の薬指にはめられている。


「ありがとうございます、クライド様。大切にします」

「ああ……そろそろ、部屋に戻ってもいい頃だ」

「そうですね」


 さすがにもう寝てもいい頃合いなのだろう。マリベルは褥についての知識は浅いので分からないが、クライドがそう促すのならばと、部屋に戻ることにした。


「それでは、おやすみなさいクライド様」

「ああ、おやすみ、マリベル」


 そうして二人は別れ、長い一日を終えた。

 マリベルは寝台にもぐりこむと、指輪をはめた手を掲げ、にこにこと眺めながら眠りにつく。

 うとうとと意識が遠のくなかで、次第に近づいてくる雷の音が、いつもより心地よい気がしていた。

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