第20話 両親からの手紙

 ドラコニア公爵クライドと、マリベルの婚礼の儀式が行われてから、二週間が過ぎようとしていた。

 マリベルは子爵令嬢から公爵夫人となったわけだが、相変わらず彼女の最も重要な仕事は夫となったクライドを起床させることだった。

 ドラコニア城とその周辺の町や森では、毎夜雷雨が降り注ぎ、たっぷりと森と大地に水を与え、朝には晴れやかな空を見せる。婚姻の儀式の日以来、魔物の襲来はなく、毎日が平穏で穏やかだ。

 それは町の人々にとっても同じだったようで、最初こそ突然知らされた公爵様の婚姻に驚いた様子だったが、変わらずクライドが滞在している間は恵みの雨が降り続けたことで、次第に浮き足立ったお祝いムードも収まりつつある。

 そもそも、町の住人たちに公爵夫人となるマリベルの紹介をしたわけではない。姿を現さない公爵夫人について、チャールズやクリステルたちに問うてはいたものの、夫人が社交的ではないと知らされると、そういった興味も失せていったようだ。

 そうしてマリベルは、最初に誤解されたのをいいことに、ときおりクリステルとルイーゼとともに町に出て買い物などを楽しんでいた。

 今日も三人で、雑貨店や服飾店を回っているところだ。


「そろそろ次の町へ向かう準備もあるから、欲しいものがあったら遠慮せずに買っておくといいぞ」


 雑貨店にやってきて、クリステルがマリベルに篭を渡す。

 空の篭を持たされるが、マリベルの篭に物を入れていくのはルイーゼだった。寄せ木細工でできた小さな箱と、美しい漉き紙のレターセット、それから丁寧に仕上げられた櫛などをぽんぽん入れていく。


「このような細工物は、次に訪れるアッパー・カーンでは手に入りませんのよ」


 アッパー・カーンというのは、次に訪れるカーン港の岬に建つお城のことだ。カーン港はドラコニア公爵領の海の玄関口で、これまでマリベルが訪れた場所のなかでは、一番大きな街だという。漁業が盛んだけでなく、他領との間で取り引きされる荷を運ぶ大型漁船も停泊できる港で、大層賑わっているのだという。地理的には、最初に訪れたリンデン・ブルーム城よりも南に位置しているため、より温暖な気候だ。北部に位置するドラコニア湖周辺はそろそろ秋めいてきたが、カーン港ではまだ夏真っ盛りの気温なのだという。

 今頃アッパー・カーン城では、クライドを受け入れるために、大勢の人の手によって清掃と必需品の運び込みが行われている。同時に、仮拵えのような今の私室とは違い、しっかりと公爵夫人の部屋を用意するために、大工の手も入っているようだった。


「じゃあ最後に、いつものケーキを食べて帰ろうか」


 両手に抱えられないくらい買い物をして、城への配達手配を終えると、クリステルがにっこりと微笑む。

 マリベルたちは最初に訪れた日に食べた、美味しいパイを再び堪能しに行く。

 店主には、公爵夫人のための侍女増員だったとすっかり勘違いされていて、マリベルがその噂の夫人だとは気づかれることはなかった。

 たっぷりパイとハーブティーを楽しみ、手土産を持って帰城する。ちょうどお茶の時間に戻ったマリベルは、パイを切り分けてもらってクライドも元へ届ける。

 二人がお茶の時間を共にするようになって以来、クライドは食事を摂るのを忘れるほど熱中することは少なくなった。いつものようにクライドの作業部屋へ訪れると、この日も時間に合わせて仕事にきりをつけたのか、クライドがマリベルを待っていた。

 自分は先にクリステルたちと食べたからと前置きしながら、今日はクライドだけの支度をして、彼の前に差し出す。


「ちょうど、マリベルに手紙が届いていた……読む?」


 差し出された手紙の封蝋は、ミツバチの紋章、つまりコールフィールド子爵家からのものだった。

 一瞬、躊躇ったものの、マリベルはそれを受け取る。

 これまでマリベルから、直接手紙を送ったことはない。クライドが公爵家からの手紙を書き、そこにマリベルが自筆でサインを入れる形を取り、二人の婚姻について報告をしたのみだ。


「ここで、手紙を読んでもいいですか?」


 マリベルは一人でこの手紙を開ける勇気がなかった。

 しばらく家に帰ることなく、そのまま嫁いだマリベルのことを、両親はどう思っているのか。知るのが怖かった。失望しているのだとしたら哀しいし、歓迎しているとしてもそれはそれでどこか虚しい。


「かまわないよ」


 クライドはペーパーナイフを手渡しながら、そう答えた。

 マリベルはナイフを受け取って封を切る。

 広げた手紙にまず書かれていたのは、マリベルの婚姻に至った理由を問う言葉だった。どうしてマリベルのような身分の低い家の娘を、公爵が娶ることになったのか。公爵に体調面など何か問題があって、正常な判断が下せない状況なのかとさえ書かれている。

 そして万が一マリベルからの粗相があって離婚となった時に、今のコールフィールド家には保証に宛てられる財がないことなどが書き連ねられていた。

 マリベルはそんな手紙に目を通し終わると、長い吐息とともに肩を落とす。

 時節の挨拶どころか、結婚した娘に対して祝福の言葉、そうでなくともマリベルを案じる言葉すらどこにもなかった。

 ただただ、迷惑だったようだ。

 マリベルは手紙を元あったように折りたたみ、封を戻す。


「僕宛にも、手紙が届いている」


 読み終わったのを見計らって、クライドが口を開く。


「一度、きみと話をさせて欲しいそうだ。こちらの予定に合わせて、カーン港に来るつもりらしい」


 クライドは食べ終わった皿を横によけて立ち上がると、空になった自分のカップにお茶を注ぎ足す。そして固まるマリベルの分もカップを用意して、彼女の前に湯気の立つお茶を注いで差し出す。


「何の話をしたいのかは、そちらの手紙に書いてありそうだね……顔色が悪いよ」


 マリベルが家族と折り合いが悪いことは、クライドに伝えてある。だが具体的に何が原因なのかまでは、話していない。クライドも詳しく聞こうとしなかったし、式を挙げるまでは何かと忙しく、そんな暇がなかった。

 だがそれからは、マリベルにとって信じられないほどに穏やかで楽しい日々に、言い出せなかった。


「大丈夫、きみが望まないことを、僕が強要することはない。僕にそうさせるだけの者も、ここには存在しない」


 マリベルは勧められるままに温かいお茶を口に含む。温かくて香しいお茶が喉を潤し、熱がお腹に広がると、少しだけ身体の緊張がほぐれた気がする。

 そんなマリベルに、クライドが問う。


「僕も読んでいい?」


 マリベルは素直に、家族からの手紙をクライドに手渡すことにした。

 それを広げて目を通すクライドの顔に、相変わらず読めるほどの表情の変化はなかった。だが紙面を眺めながら、口元に手を当てて何かを考え込んでいるようだった。

 それもそのはず、マリベルを結婚相手に選んだのが、クライドが病気でも患っているのではと疑っている書面を見せられたら、気分を害するのは当たり前なのだから。

 マリベルは申し訳ない気持ちになりながら、クライドの思案が終わるのを、ただ待つしかなかった。

 そんなクライドはというと、大きな作業机の縁に腰をもたれるようにして、マリベルの座る椅子の側に立つ。左手で手紙を持ち、少しだけ下を向いているせいか、まとめられていない長い黒髪が肩をするりと滑り落ちる。

 何をしていても絵になる人だと、マリベルは感心してしまう。

 そんな風に美丈夫な旦那様を眺めていると、新緑色の瞳がマリベルを見返してくる。


「……あの、失礼な両親で申し訳ありません」


 とりあえず謝っておこう。そう考えて口にしたマリベルの意図が分かりやすかったのか、クライドが珍しく笑った。

 笑ったといっても、クライド基準であるので、彼に慣れていない頃のマリベルだったなら、笑ったというより睨まれたと思ったかもしれない。


「いや、気にしていない……それより、アッパー・カーンまでの移動方法についてだが」

「あ、はい」


 マリベルは背筋を伸ばす。

 ドラコニア城から、次の目的地アッパー・カーンまでは、前回転移魔法陣を使ったリンデン・ブルーム城からの時の、倍の距離がある。半分の距離でも魔法陣が壊れてしまったくらいなのだ、その倍の距離の移動を転移するとなると、クライドの負担が大きすぎる。


「船で移動しようと思う」

「……船、ですか?」


 予想外の提案で、マリベルは驚き言葉を失う。

 ドラコニア湖は海のように広いので、船で漁業をすることはある。だがここは内陸、南側は海に面して北と西に山脈を有する公爵領の、北部にあたるからだ。


「ドラコニア湖から、二つの大河が流れているのを知っている?」

「あ、はい。確か領都のダリウス方面と、南の……」


 そこまで言って、マリベルはクライドの意図を悟る。


「そう。南西へ流れる川の下流にはダリウス。まっすぐ南に向かっている先にあるのは、カーン港だ。川を船で下って、移動する」

「待ってください、そうすると何日も移動にかかってしまいます」

「ああ、だから支度を早めて、準備を整えよう」


 どうやらクライドは本気のようだと、マリベルは気づく。


「カーン港はここと違って人の出入りを全て管理するわけにはいかない。恐らく、転移魔法陣を使ったら、マリベルの両親や皇室関係者が待ち構えているだろう。彼らの突撃を受けずに済んで喜ぶのは、きみだけじゃない」

「でも、川を船で下ったら結局、目立ちませんか?」

「心配はいらない、港に近づくにつれて、運搬のための船は頻繁に行き交っている」


 そう言われてみれば、マリベルはこれまで習った公爵領についての勉強で、ワインなどの重量があるものは船が使われると習っていたことを思い出す。

 とはいえ、船での移動が彼の突発的な思いつきであるかは分からないが、船に乗ったことがないマリベルは少しだけ心が躍る。


「どれほどの大きさなのですか? 皆で乗るのですか?」

「ここから三つほど村を越えた先にある町になら、比較的大きな船を着けられる場所がある。そこに用意させよう」


 そうして急遽、船旅が決まった。

 クライドの決定とはいえ、マリベルのために数日分の旅の支度が必要になってしまった。だが申し訳なく思う彼女とは反対に、使用人たちは嬉しそうに支度を始める。どうやら毎度繰り返される魔法陣での移動に、少々飽きているのだと笑った。

 クリステルは日程を確認して身の回り品の荷造りに勤しみ、ルイーゼは日差しを避けるパラソルや肌を守る香油選びに頭を悩ませ、オルコットは傭兵時代を思い出すなと言いながら、船上でも使い回せる保存食を作り始める。そんな使用人たちの要望を聞き、道具や材料を手配するのにチャールズはさらに忙しそうだった。

 そんな慌ただしい中、マリベルはクライドと相談しながら、初めて両親に宛てて手紙を書いた。

 これからアッパー・カーン城へ赴くこと、両親さえ良ければそこで面会に応じることを書き留めてサインを入れる。

 名前はもちろん、マリベル・ドラコニア公爵夫人と記す。

 そしてその手紙に、クライドがドラゴンを象った封蠟を押したのだった。


 二十日の滞在を経て、マリベルはドラコニア城を後にする。

 マリベルとクライドが乗る馬車は、大きな荷物を山ほど積んだ二つの馬車を引きつれている。毎夜降り続けた雨によって、ドラコニア湖は二回りも大きくなっている。この水が、収穫前の恵みとなる。

 そんなドラコニア湖のまばゆい反射光を浴びながら、車列は下流へとゆっりと進んでいくのだった。

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