悪食令嬢と魔公爵の類い稀なる契約結婚

宝泉 壱果

リンデン・ブルーム城

第1話 馬車の行きつく街

 神聖帝国アンブロワーズの都、聖都ヴァルハリウスから馬車に乗り、ひたすら西を目指して揺られること十日。

 マリベル・コールフィールド子爵令嬢が到着した地は、帝国最西端に位置する広大な穀倉地帯と大きな湖を二つ有する、ドラコニア公爵領。二つある大きな湖のうちの一つ、ブルーム湖畔のリンデンという街だった。


「お嬢さん、足元に気をつけて降りておくれ。昨夜の雷雨で停車場の土がぬかるんでいるからな」


 年配の御者が手を差し出してくれたので、マリベルはその手を取って公爵領に降り立った。


「ありがとう、おじさん。ここでお別れなのが、とても寂しいです」

「ああ、儂もだよ。長らく荷馬車で旅をしているが、ヴァルハリウスからリンデンまで、通して乗せたお客さんは滅多にいないからね。いたとしても、人目を憚る者ばかり。お嬢さんと仲良くなれて、単調な旅がいつになく楽しかったよ」

「私の方こそ、訪れたことのない街や、ここドラコニア公爵領のお話をたくさん聞かせていただき助かりました」


 マリベルが手を差し出すと、御者は日に焼けた顔にくしゃりと皺を寄せて目を細め、笑顔で握手を返した。


「希望通り、良い仕事に就けるといいなぁ、微力ながら祈っているよ」

「ありがとうございます、是非またお会いしましょう、おじさん」

「ああ、そうだな。待っているよお嬢さん」


 そうしてマリベルは年老いた人の良い御者と別れ、大きな鞄を抱えてリンデンの街へ歩き出す。

 いつまでも手を振ってくれる彼に巡り会えなかったら、マリベルの旅はもっと困難を極めていただろう。感謝してもしきれない。

 広大な領土をもつ神聖帝国では、魔法が人々の暮らしには欠かせない。日々の火起こしから、水汲み、およそ考えつく重労働のほとんどを、魔法の力を利用して成り立っていると言っても過言ではない。

 そんな社会の中で、今回マリベルがしたような長距離馬車の旅をする者はほとんどいない。なぜなら帝国内各領地には転移魔法陣が整備されていて、最も近い場所にある魔法時から目的地近くの魔法陣まで、どんな距離だろうと一気に転移することが出来るからだ。そうして転移した場所から目的地へ、辻馬車を利用するのが主流になって久しい。

 転移魔法陣を利用するには料金がかかるが、庶民でも何とか工面できるほどの金額に抑えられている。その為ほとんどの帝国民は、長距離移動には馬車を使わずに、転移魔法陣を利用する。

 ただ、そんな魔法陣も決して万能ではない。大量の物資を運ぶには専用の巨大な陣が必要になる。だから庶民の生活に必要な安価な荷物の運搬には、荷馬車が使われていた。

 マリベルは今回、そんな荷馬車に便乗し、十日間にも及ぶ旅をしてきたのだった。

 目的地は、大陸最大の領土を持つ神聖帝国の最西端、ドラコニア公爵領にあるリンデン・ブルーム城。


「期限ぎりぎりになってしまったけれど、何とか到着できて良かったわ」


 まずは宿探しを始めるマリベル。初めて訪れる領地、街、見知らぬ人だらけのこの地で、今度こそ上手くやっていかなくてはならない。

 都合がいいことに、到着したのはまだ昼を過ぎたばかり。

 マリベルは足を止めて、澄み渡った空を仰ぎ見る。

 紺青の空に白い雲が浮かび、強い日差しがマリベルを照らす。夏の盛りは過ぎたけれども、まだまだ暑い。

 降り立った停車場は街の市場通りに面していて、たくさんの店が軒を連なり、賑やかに人が行き交っている。リンデンの街は公爵領の領都ではないのにもかかわらず、道はよく整備されていて、マリベルが生まれた聖都ヴァルハリウスの片隅よりも立派に見える。

 大きな街だけあって、宿はいくつかあり、マリベルはすぐに部屋を確保することができた。

 選んだのは、ひときわ高い建物で目を引く、敷居が高そうな宿だ。

 奮発して浴室つきの個室を、一晩だけ借りることにして、マリベルは差し出された台帳にサインをすると。


「……コールフィールド子爵様の、ご令嬢でございましたか」


 受け取ったサインを見て、白い髪の宿の主人が一瞬だけ戸惑うのを、マリベルは察する。

 マリベルの悪い噂は、貴族界だけでなく遠くの領地にまで広がっているのだろうかと、不安がよぎる。

 悪食令嬢──それがマリベルに与えられた不名誉な二つ名だ。どこで、誰によってその名をつけられてしまったのかは、マリベルには分からない。けれども、マリベルはその名を否定して回れるほどに顔が広くないし、貧乏子爵家であるコールフィールド家に、そもそも茶会などに回る余裕はない。

 ただ令嬢らしく穏やかに微笑み、礼儀正しく振る舞うことしかマリベルにはできなかった。


「公爵家から召喚状をいただきましたの、明日にはリンデン・ブルーム城へ赴かねばなりません。一晩だけお世話になります」

「……では、出発は夜明け前に?」


 宿の主が言うとおり、召喚状でわざわざ登城時間を朝の四時に指定されている。これまで行儀見習いをいくつかの家に赴いたことがあるマリベルだったが、このような時間で指定されたことはない。

 驚いたものの、行儀見習いが居着かないと噂されているドラコニア家なので、これまでもマリベルと同じようにこの宿から向かった令嬢が、何人もいたのだろうかと考えた。


「ええ、早い時間に鍵を開けていただかなくてはなりませんが、お願いできまか?」

「承知いたしました」


 この宿を選んで正解だったと、マリベルは内心ほっとする。主人は少しだけ憂いの含んだ笑顔をたたえながら、マリベルに部屋の鍵を差し出してきたものの、いらぬ詮索はしない懸命な人物のようだ。

 そうして案内された三階の部屋に入ると、そこはとても見晴らしの良い部屋で、マリベルは吸い寄せられるように、窓辺へ身を乗り出す。

 眼下に広がるのは、ブルーム湖。穏やかな風に揺れる湖面はキラキラと輝きながらも、空の青を映して美しい。湖を囲う山々が連なり、空と湖面を隔てている。湖畔から岬のようにリンデンの街が伸びて、市場から続く街道がその先にある小島へ繋がる橋へと変貌する。

 行き着く小島には木々が生い茂り、中央には石造りのお城がそびえ建つ。

 青い屋根と白い壁が静かな湖に映えてとても絵画的だ。


「あれが、リンデン・ブルーム城なのね……なんて美しいのかしら」


 マリベルは、ポケットの中から一通の封筒を取り出す。

 押された封蠟には、長い尾を巻くドラゴンの姿。今代の魔王を倒した英傑の一人、魔公爵と恐れられるドラコニア公爵の紋章だ。

 これはマリベルが必死な思いで手に入れた、召喚状。

 丁寧にそっと取り出して、広げたそこに書かれていた一文を読む。


 貴殿を行儀見習いの侍女として、ドラコニア公爵家へ招聘する。

 青葉の月の最終日までに、リンデン・ブルーム城に来られたし。

 なお、期限内であれば日は問わず、ただし登城時間については早朝四時を厳守とする。

 ──ドラコニア公爵 クライド・レイ・ドラコニア

 公爵家の印章の下には、代筆者として、執事チャールズ・ハスラーの名が連なっている。


「もしかして、朝が早い仕事ばかりだから行儀見習いの令嬢たちが辞めてしまったのかしら……それなら寝坊しないように、早めに準備だけはしておかないと。もうここが駄目だったら、私に行くところは無いのですもの」


 マリベルは召喚状を丁寧に折りたたみ元通りに封筒に仕舞うと、長旅の疲れと汚れを落とすため、浴室へ向かうのだった。

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