アッパー・カーン城

第21話 事件の予感

 ドラコニア城を馬車で出発し、その先の町で帆船に乗り換えて約二日と半日。

 マリベルの目の前には、信じられないほどの多くの人で賑わう、港町が広がっていた。ドラコニア湖からひたすら南に下るレジウス川は、下流に行くほど川幅を広げ、ドラム湾と呼ばれる海に流れ込む手前で、東のブルーム湖から繋がるユールス川と合流する。

 そのような立地を活かして、カーン港は水路がたくさんあり、巨大な水の都といった風情を造りあげていた。

 そして何よりも、マリベルを驚かせたのは、海の広さ。

 カーン港よりも東の岬に建てられたアッパー・カーン城から見渡す水平線は、どこまでも世界が続いていることを、マリベルに教えてくれた。

 寄せては返す波が、キラキラと太陽を反射し、波音も心地よい。潮の香りも、事前に聞いていたよりもマリベルには気にならず、見る物感じる物全てが、マリベルの好奇心を刺激して、わくわくさせていた。


 そんなご機嫌なマリベルではあったが、心配事が無いわけではない。

 船旅で仮眠しかとらずに二日を過ごした、クライドのことである。


「クライド様、本当に大丈夫ですか?」

「ああ、気にする必要はない」


 平然と返されるが、マリベルは正直心苦しいとしか言い様がなかった。そもそも転移魔法陣で移動できたならば、クライドが無理する必要すらなかったのだ。全ては、魔法道具を破壊してしまうマリベルのせいなのだ。気にしないでいろという方が無理だろう。


「簡易結界の強度は充分あると証明されていますから、ああ見えてもクライド様は短くても深い眠りを得ていますよ。それに戦場ではよくあることです」


 フォローを入れるのは、チャールズだった。

 実際、船上でクライドが仮眠を取るときには、特殊な魔法具で小さな結界を張り、その中に籠もっていた。そうすることで魔力があふれ出ることをある程度防ぐことができていた。まさか船の旅で嵐を呼ぶわけにはいかない、転覆の危機だろう。

 とりあえずマリベルたちは、必要最低限の荷ほどきを終えて、皆が食堂に集まって早めの夕食をとることになった。オルコットは早速、調理場に籠もって腕を振るい、クリステルとマリベルはその間に寝床の確認に行っている。マリベルは人目がないのを良いことに、ここでも得意な掃除を分担するつもりだ。だが今は他の使用人たちの手でしっかりと事前準備がされているので、マリベルの出番は明日以降しかない。

 そうしてクライドとともに食堂で食事の準備が整うまで、アッパー・カーン城に届いている手紙の仕分けをすることになった。


「ああ、クライド様ありましたよ」


 チャールズが手紙の束から見つけ出したのは、雄々しい鹿の角を象った紋章の手紙だった。マリベルはそれを見て、驚きを隠せない。その紋章を知らない帝国民はいない。


「どうして、皇太子殿下の手紙が他のものの中に紛れ込んでしまうのですか」


 マリベルの言葉に、クライドとチャールズは顔を見合わせる。


「ええその疑問はもっともです、これらの手紙は領都ダリウスから転送されて来ていまして。ダリウスの主は、大奥様。ぞんざいになるのも仕方がありません、なにせ奥様にとってはクライド様もジル殿下も、いつまでも小童同然でしょうし」


 チャールズはいつものように「はっはっは」と笑いを付け足す。


「ジルに関して言えば、見た目がそうだから仕方がない」


 クライドまでもが、そんなことを言う。

 噂ではマリベルも聞いたことがある。皇太子殿下は御年二十歳だが、特別な能力のおかげで若々しい容姿を持つために、十台半ばほどにしか見えない少年のような姿をしているのだと。

 チャールズから受け取った手紙の封をあけると、目を通すクライド。そして珍しく彼の表情が動く。


「チャールズ、母上が勝手に調査依頼を出したようだ。カーン港の管理を任されている勅任官との面談を準備してくれ、明日の朝一番で」

「分かりました、連絡をしておきます」

「マリベル、カーン港湾では僕の一存で移動を制限できない。明日からは、いらぬ客が押し寄せてくるだろう。僕がいいと言うまで、侍女として振る舞っていてほしい」

「もちろん私はそれでかまいませんが……何か、あったのですか?」


 部屋を出て行くチャールズの後ろ姿を見送りながら、マリベルはただならぬ状況を察する。

「一週間ほど前に、カーン港で不審死した者が見つかっている、その調査に聖都から人が派遣されてくることになった」

「不審死、ですか?」

「ああ……不可解な状態だったようだ」


 クライドは詳細については言葉を濁した。もしかして、人ならぬ者の手による惨劇が起きたのだろうか。マリベルは婚礼の日の襲撃を思い出してしまう。

 もし魔人が町に現れたとなると、町の人々の生活が危険に晒される。早急に対応するために、クライドの母が皇室に調査の打診をしたようだ。


「それで、その調査にジル……皇太子ギディウスがアッパー・カーンに来るようだ」

「皇太子殿下が、ですか? それほど大事だったのですね」

「いや……そういうわけではないが」


 どうやら皇太子殿下の来訪には別の目的……つまりマリベルに関した何かがあるのだろう。

 当のマリベルは、自分が皇太子の御前に出るには礼儀に関しても、堂々とした公爵夫人としての自信も何もかも不足している。礼儀を欠き、殿下の不興を買ってしまったらどうしよう。マリベルはそんな不安にかられた。


「彼は直情型で、時に独善的になりやすいが、そう恐れる必要は無い」

「はい……」


 マリベルはつとめて明るく返事を返す。クライドほどの地位を持つ者に嫁いだのだ、いずれは避けて通れぬ道ではある。契約が続く間は、クライドが困らないよう頑張ろうと心に誓う。

 だがそれよりも、クライドには心配事が他にあるようだった。


「それともう一つ……ここに事前準備をした使用人たちから、母上に上げられた情報がある」


 手紙を広げ、クライドはそこに視線を落とす。


「カーン港で働く人々の間で、僕たちの婚姻はとても話題になっている。とりわけ、公爵夫人となったきみについてだ。きみの経歴や、噂についても……」

「私の噂、ですか」


 マリベルの胸が、ぎゅっと締め付けられるような気がした。

 胸元を押さえつつ、マリベルが「どのような噂かお聞きしても?」と問うと、クライドが珍しく躊躇う素振りを見せた。


「クライド様、私は様々なお屋敷を追い出されてきました。慣れていますので、遠慮なさらないでください」


 そう言うと、クライドは空いていた左手で、マリベルの頭を一撫でした。


「……魔力を持たない、問題を抱えた令嬢。そして魔物のように毒を口にする、悪食令嬢。行儀見習いを追い出された役立たず、そんな悪名高き女性ならば、魔公爵の妻に収まるために、同情を引いて欺したのではないかと……悪意に満ちたものばかりだ」


 マリベルは、それら聞き覚えのある言葉を久しぶりに耳にして、小さくため息をつく。


「悪意かどうかは分かりませんが、少なくとも魔力を持たないというのは、真実ですから」

「僕はマリベルに何も欺されていないし、マリベルは誰よりも役に立っている」


 淡々と事実を述べたつもりなのだろうクライドに、マリベルは「ふふっ」と笑う。


「そうですね、その噂が真実だったら、クライド様が悪女に欺された情けない領主様になってしまいます」

「……不快かもしれないが、しばらくは色々と我慢して欲しい」


 大丈夫だと何度も言っているのに、クライドは噂について気にした様子だった。だがマリベルにとって、それよりも大事なことがある。


「ありがとうございます、役に立てることがあるのは、とても幸せです」


 今までどんなに願っても、得られなかった自分の役割。それを与えられたマリベルは、改めて感謝の気持ちが募るのだった。




 アッパー・カーンに来て最初に迎えた朝。

 いつも通りの時間にクライドの部屋を訪れ、彼を起床させるという仕事を完了させて、食堂へ向かうところでマリベルは階下から響く声に気づく。

 食事の支度を終えたオルコットが、足を止めたマリベルに気づいて様子を見に来た。


「ああ、さっきチャールズが対応に行ったところだ。カーン港で何かあったみたいだ」

「……カーン港で?」


 マリベルは昨日聞かされた事を思い出し、嫌な予感がする。


「マリベルは朝食を取っていてくれ。俺は少し様子を見てくる」


 オルコットが階段を降りていく。気になってマリベルも階段の手摺り越しに、アッパー・カーン城の玄関ホールを覗き込む。

 三階分くらいの高さがあるため、訪ねてきた人たちはよく見えなかったが、五人ほどの男たちが来て、チャールズに何かをしきりに訴えていた。そこにオルコットが合流するのと同時に、別の扉からクライドが歩いていくのが見えた。

 すると来訪していた者たちが、クライドに対して深々と頭を下げている。


「マリベル、あまり身を乗り出すと危ないですわよ」


 後ろからルイーゼに声をかけられた。


「ここから眺めていても、何の助けにはなりませんわよ。まずは朝食をとりましょう」


 それも尤もなことだと、マリベルは促されるままにその場を離れる。

 そうして食堂で待っていたクリステルと三人で、手早く食事を済ませたところで、チャールズとオルコットが戻ってきた。


「クリステルさん、クライド様が出られますので準備を手伝ってください。ルイーゼはマリベルさんと離れないように」


 いつもの軽い調子でチャールズが指示を出すと、クリステルさんを伴って、階上のクライド様の部屋へ向かった。

 残るオルコットが、朝食の片付けをしながら事情を語る。


「今朝、港の片隅で変死体が発見されたらしい。どうも夜のうちに何かに襲われたようだが、嵐のせいで痕跡が流されているってんで、港で働く官吏が協力を仰ぎに来たんだ……どうやらこれで四件目らしい」

「以前から、ということですのね」

「ああ、一ヵ月くらい前から。それまでは物陰や廃墟での発見だったせいで、違う意味で捜査が進まなかったらしい。だが今回は、公爵閣下が訪れる期間ということで、警護の意味も含めて警戒していたところだったらしい」

「それで、遺体の状態は?」


 平然と聞くルイーゼに、オルコットの方が参ったという表情を浮かべて、肩をすくめる。


「酷い有様だそうだ。まるでボロ雑巾を絞ったかのように、干からびた状態で見つかった」

「どこかで放置されて乾いた遺体という意味かしら」

「いや、腐敗はしていないから、すぐに身元が判明して……どうも、数時間前には家族が生きていることを確認しているというんだ」


 その言葉にルイーゼの目が、すっと細められる。


「魔人……少なくともやっかいな魔物の可能性は、かなり高いようですわね」

「ああ、慌ただしくなりそうだ。こちとら皇太子殿下を受け入れる準備で、ただでさえ忙しいってのにな」


 マリベルは、二人に肝心なことを聞いていなかったのに気づく。


「その皇太子殿下は、いついらっしゃる予定なのですか?」


 二人は顔を見合わせ、そして同時に言った。


「さあ、どうだろう」

「どうでしょうね」


 首を傾げるマリベルに、ルイーゼの続く言葉は、さらに困惑させるものだった。


「放っておけばよろしいのですわ。いつも勝手に来て、勝手に歩き回るお方ですもの、特別なおもてなしなどはいたしませんわ。まあ……食事については皇室からの指示があるので、オルコットは大変でしょうけれども」


 勝手に来て、勝手に歩き回る……

 苦笑いが漏れそうになるマリベル。


「気にする必要はなくってよ、マリベルは私たちとアッパー・カーン城でいつも通り過ごしましょう。ちょうど侍女の服を着ていることですし」

「ああそうだ、城内に居る時は安心していいぞマリベル。この城は、ドラコニア城よりもさらに完全に独立した造りになっているんだ。転移魔法陣も、城内には設置されていないし、門を閉ざせば自動で隔離結界が発動する仕掛けだ。凄いだろう?」

「まるで要塞ですね……陸続きなのに」

「陸続きだからこその用心だ。それに港は、広く開かれている。全ての人間の出入りを監視することは出来ないからな」


 なるほど、どこまでいっても、クライドの側には四人の使用人だけで成り立つよう環境が整えられているのだと悟る。

 そうしてマリベルは、ルイーゼに連れられながら、侍女の仕事を手伝うことに。


 朝食の卓につくことが敵わなかったクライドが、収穫ひとつなく城に戻ってきたのは、昼を過ぎてからだった。  

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