第12話 婚約

 思わず叫び声をあげてしまったマリベルは、頬を染めながら慌てて口元を手で覆う。

 そして何度か深呼吸をしてから、再び手にしていた契約書に目を通す。

 間違いなく、契約者としてマリベルの名が記されている。そして契約結婚という言葉も見間違いではない。

 ドキドキと緊張しながらその内容を目で追うと、詳細が細かく記載されていた。

 ──マリベルとドラコニア公爵クライドとの婚姻は、形式上のものとすること。マリベルへの報酬は、公爵夫人として宛てられる費用を全額自由にしていいこと、それとは別にコールフィールド子爵家への資金援助と負債の肩代わりすること。そしてマリベルがクライドに支払う対価は、毎朝クライドを目覚めさせること。

 最後の短い一文に、マリベルは顔を上げる。


「どういう事、でしょうか……私が得るこの膨大な報酬への対価が、たったこれだけなのですか?」


 何度文字を目で追っても、マリベルの役割については、他には一切書かれていない。短い一文の後には、項目は契約解除の条件に移っている。

 いや、そこもおかしな所ばかりだ。契約解除は離婚をもって成立する。そこまではマリベルにも理解できる、だがその離婚もマリベルが希望した場合に限るという条件つきだ。

 困惑しきりのマリベルに、クライドは顔色ひとつ変えずに落ち着いた様子だった。


「他に、何も望まない。君はただ、その特異体質をもってして、僕を目覚めさせる役割を担って欲しい」


 思いがけない言葉を耳にして、マリベルは首を傾げる。


「特異体質……私が?」

「気づいていなかったのですか、転移魔法を中和してあのような危険な目にあったのに? ああいや、気づいていたらあのような危険な行動は控えていたかもしれませんね」


 チャールズの言葉に、ようやくマリベルも自分の魔法具へ不具合を与えてしまう失敗の数々に、考えが及ぶ。


「魔法具を壊してしまうあれは、体質と言っていいのでしょうか……」

「属性、みたいなものだ。君は、そうして立っているだけで、僕の魔力を打ち消しているのに気づかない?」


 今度はクライドにまで言われ、マリベルは困惑する。


「私は、魔法はほとんど使えないので、そういう事もさっぱり……」

「そうか、魔力がそもそも足りないから、感知もできないのか」


 マリベルはドキリとする。魔力が足りない、それは確かにその通りなのだが、その魔力を満たす方法があることは、まだ知られたくなかった。


「あの、魔法を打ち消す、みたいな力があるらしいということは初めて言われましたし、実感もないのですが、そうなのかなと納得できます。でも、それで私が目覚め係とか、どう繋がるのか分からないのですが」


 マリベルの疑問にチャールズが、そこから説明しなければなりませんでしたねと、手を打つ。

 そして咳払いをひとつしてから。


「これもまた、クライド様の体質が原因の困り事なのです」


 チャールズの説明によると、クライドは規格外の魔力を有しているために、常に溢れ出す魔法の力から彼自身を守るために睡眠が重要なのだという。特別に用意された魔法陣の中で寝ることで、無意識に魔法が展開し、雷雨を引き起こす。そうすることでスムーズに生命維持できる量まで魔力を減少させているとのだった。


「それでは、もしかしてリンデンの街に降った雷雨は……」

「はい、クライド様の魔力嵐を、恵みの雨に変換して起こされたものです」


 宿屋の主人の言葉を思い出す。

 ──予定では今日までですが。

 それだけでなく、リンデンの街に到着した時に御者のおじさんが「昨夜の雨でぬかるんでいる」と、当然のことのように告げた言葉にも、マリベルは少しだけ引っかかりを覚えていたのだ。その日到着したばかりの町で、前日の天気を知る術はないのだから。


「マリベルさん、クライド様が領内を転々と移り住むのには、今お教えした事が理由なのです。帝国一の穀倉地帯でもあるドラコニア領にとって、雨は恵みでもありますが、過ぎれば毒にもなりかねません」


 マリベルは驚き、黙ったままのクライドを見る。

 彼は、領民たちに迷惑をかけないように、住居を移動しているということだろうか。それはとても煩わしく、大変なことではないだろうかと。

 そしてチャールズが、ここからがマリベルに依頼する理由なのだと、話を続ける。


「クライド様がお休みになる時には、部屋に結界が施されています。帝国一、いえ、世界で右に出る者のいない魔法使いを封じる結界は、施した本人にしか解けません。本来ならば、クライド様がお目覚めにならない内に、誰も入れないことになっているわけです。なぜなら、お休みになっていて無意識で展開される魔法は、制御が効かないのでとても危険だからです。特にクライド様の最も強い属性は雷。当たれば即死です」


 とんでもない事をいいながらも、チャールズは「はっはっは」と笑いを付け加える。


「だがあなたはいとも簡単に結界を解除して入り、魔力嵐の干渉を受けずにクライド様の元まで辿り着きました。いやはや、あなたが部屋に入ったと聞いた時には、驚いたと同時に、ひどく後悔しましたよ。偶然雷に打たれなかっただけだと考えていましたからね」


 マリベルは、チャールズの言いたいことを察して、言葉を失う。

 あの真っ黒な霧の中、マリベルの周囲は凪いでいた。だから彼女を避けるように流れていた霧が、危険だとは思っていなかった。むしろ自分ではなく、黒い霧の渦中にいるクライドの心配が先だっていたのだから。


「転移魔法の中で、偶然ではないと確信した」


 ずっと説明をチャールズに任せきりだったクライドが、断言する。


「きみは、魔力が無いのではなく、中和している。今、この瞬間ですら……身に覚えがあるはずだ」


 決して責めるような口調ではないが、マリベルは酷く胸が抉られるような気持ちに襲われる。これまで魔法が上手く使えないのも、魔法具を壊してしまうことも、転移魔法を解除させて事故を引き起こしたことも、やはり全部繋がっていたのだと分かり、消えてなくなりたいとさえ思う。だが。


「我々にとって、マリベルさん。あなたは救世主も同然です」


 チャールズの言葉に、いつしか俯いていたマリベルが顔を上げる。


「救世主……私がですか?」

「ええそうです。なにしろ私どもでは結界を突破できませんし、何かあってもクライド様をお起こしすることは不可能。クライド様が自らお目覚めになられるのを待つしかなかったのです」


 何かあっても。その言葉にピンと来ないでいるマリベルに、クライドが。


「魔物の襲来が皆無になったわけではない」


 三年前、クライドをはじめとする英傑たちが魔境の向こうで、魔物たちの王を討伐して以来、数は少なくなったものの今でも討伐は行われている。魔王に従っていた魔人の生き残りがいると囁かれていることを思い出し、マリベルは納得する。


「ですが私どもとしましては、クライド様にご自身のためにもっと深くお眠りになって欲しいのです。ですが当のクライド様は、深い眠りが続いた時に制御できない嵐を引き起こすことを恐れて、眠りを浅く保っているような状態なのです。ですからマリベルさんのように、結界を外から解除できる者がいるならば、魔力嵐に干渉されずにお起こしできる。そしてクライド様は真に深い休息をとることができて、より魔力量を安定させることが可能になるでしょう」


 思った以上に、重要な役割であることを理解し、マリベルは緊張する。

 だが頭では理解できても、マリベルはこれまで幾度となく役立たずと言われ、自分に対してまるで自信がない。乞われたとはいえ、すぐに引き受ける勇気もない。


「本当に、クライド様を目覚めさせるだけ、なのですか?」

「そのが重要なのですよ、他の誰にも出来ないことなのですから」


 マリベルが前向きに捉えたと思ったチャールズは、嬉しそうにマリベルの両手を握り、念押しをする。


「万が一、駄目でも現状維持なので、気負うことはありません。どうかクライド様のため、そして私たちのためにもお引き受け願えませんでしょうか」


 そこまで懇願されるならと、マリベルとしても応えたいのは山々だ。だが同時に、懸念は残る。


「あの……私がその役目を望まれる理由は、よく分かりました。ですがどうして、行儀見習いではなく、け、結婚なのでしょうか。少し飛躍しすぎな気も……」

「とんでもない! 重要なことです、貴族令嬢が就寝中の独身男性の寝室に、毎朝入室する正統な理由は他にありません」


 そうだろうか。侍女として雇ってもらう気でいたくらいなので、いまいちピンとこないでいると、そんなマリベルにクライドも歩み寄る。


「朝だけとは限らない。魔物の襲来時に寝ていては領地と民が失われる。その対価として、不足無い地位を与えようと考えた。僕は、君を必要としている」


 それは、マリベルがこれまで生きてきた人生のなかで、与えられることはないと諦めた言葉だった。

 何を言葉にして返せばいいのか分からず、唇を震わせるだけのマリベル。手を握っていたチャールズが離してそっと下がる。するとクライドは頼りなく立つマリベルに、真っ直ぐ向き合い、もう一度繰り返した。


「君のその稀なる特性は、僕が長らく求めてきたものだ。書類上での婚姻が、君を守るのに最適だと判断したが、嫌ならば強要はしない。君がここに存在してくれるだけでいい」

「嫌じゃ、ありません」


 マリベルは、自分で驚くほどすんなりと口にしていた。


「役に立てることがあるなんて、信じられなくて……。でも、書類上とはいえ私なんかが公爵夫人になったら、クライド様が恥をかかれるかもしれません」


 そんな懸念には、チャールズが答える。


「心配には及びませんよ、マリベルさん。そもそもクライド様は社交界に行く必要がありませんし、実際のところこの二年ほど、領をお出になってすらいません。妻もそれに倣うという形をとるのは自然なこと。外野の噂など、そよ風のようなものです。それにドラコニア公爵には、婚姻の自由が認められておりますゆえ、皇帝陛下への報告以外にすることなどありはしません」


 マリベルはそれならばと、頷く。

 自分のことはいい、どんな風に言われようとも慣れている。クライドと彼ら使用人たちが困らなければ、それでよかった。


「では、署名しますので、一つだけ契約条項を変更していただけますか?」


 黙って頷くクライドに、マリベルは続けた。


「契約結婚の解除には、私だけではなく、クライド様からの申し出でも可能としてください」


 それを聞いて、彼の新緑の瞳が少しだけ揺れたのを、マリベルは見逃さなかった。

 きっと、彼もまた優しい人なのだと確信する。

 そうして改めて彼女の要望を盛り込み、魔法で書き換えた契約書に、マリベルとクライドは連名で署名する。

 それは形だけの契約結婚を交わす約束。

 マリベル・コールフィールドはこの日、ドラコニア公爵クライド・レイ・ドラコニアの婚約者となったのだった。

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