第2話 雷雨の訪問

 翌未明、マリベルが予定よりもかなり早く目を覚ましたのは、新しい奉公先へ向かう緊張のせいではなかった。

 まだ空は暗くランプの明かりに頼りながらマリベルが着替える間も、部屋の中を閃光が通り抜けていく。それと同時に、窓をビリビリと震わせるほどの雷音が轟く。


「ひゃっ……すごい音」

 マリベルが細い身体をビクリと震わせるのも、これで何度目か分からない。

 昼間はよく晴れていたリンデンの街は、夜になってから急に雷雨に襲われている。

 時折激しく降る雨音とともに、雷が鳴り響く。風はそれほど強くないようだったが、この様子ではリンデン・ブルーム城に着くまでに、ずぶ濡れ確定だろう。

 初奉公の日にずぶ濡れで訪問することになるとは、本当に自分はついていない。マリベルはそうため息をつくも、招かれた期限は今日まで。諦めるという選択肢はない。

 鏡の前で長いホワイトブロンドの髪をまとめながら、マリベルは小さなため息をつく。


 マリベル・コールフィールドは、これまで数多の行儀見習い先をクビになり続けている。

 様々な国と地域を吸収するかのようにして大きくなっていった神聖帝国は、貴族位をもつ家がかなりの数に上る。マリベルの子爵家のような下位貴族家は、上位貴族家に娘を行儀見習いとして出すことで顔を売り、人脈などに依って婚姻先を探すのが常である。

 そうした慣習に則り、年頃になったマリベルは行儀見習いに出されたのだが、どこも長くは続けられなかった。十八歳で最初に訪れた伯爵家では、三ヶ月もしないうちにすぐに暇を出され、それからもどこへ行っても長続きせず、結局二十歳を越えた今でも、こうして領地を点々としている。

 理由は魔法と魔法を補う魔法具が上手く操れないため。

 貴族家にとっても、日々の生活には魔法は欠かせない。それどころか魔法は、容姿や家柄とともに令嬢の器量の善し悪しを決める大事な要素の一つ。マリベルにはそれが欠けていた。

 当然ながら世の中には魔法が苦手な者が、居ないわけではない。魔法には属性があり、火の魔法が得意な者は総じて水を扱うのが苦手だ。そうした時に助けになるよう、補う魔道具が存在する。だがマリベルは、それらの魔道具すら、上手に扱うことができなかった。

 どうしようもなく、落ちこぼれなのである。

 そんなマリベルに追い打ちをかけるように、どこからか悪食令嬢と噂されてしまえば、花嫁修業の意味合いをもつ行儀見習いを断られるのは当然のこと。

 そうしてクビになった伯爵家に頼み込んで紹介してもらい、一縷の望みをかけたのがドラコニア公爵家なのだ。

 

「少しでも雨が少ない合間に走って、辿り着かないと……」


 マリベルはそう決意し、鞄を抱えて部屋を出た。

 宿代は先払いだ、加えて早朝に出発することは伝えてある。きっと玄関だけは開けておいてくれてあるのだろう。そう思って階段を降りた先で、マリベルは宿の主を見つける。


「ご主人、お早いですね。もう朝食の準備をなさるのですか?」


 すると宿の主人は微笑みながら「いいえ」と首を横に振り、綺麗にたたまれたコートを差し出したのだ。


「え……あの?」

「これは雨用のコートです、お使いください」

「あ、ありがとうございます……」


 マリベルが受け取ると、宿の主人は満足したように微笑み、そしてこう告げた。


「毎夜降る雨と雷は、この地に恵みを与えてくださるものです。ご令嬢の足元を汚してしまいますが、どうか嫌わないでやってください」

「嫌うだなんて……私、雨は好きです。雷は、大きな音に少しだけ驚いてしまいますが……お言葉に甘えてお借りしますね」


 だがふと、主の言葉にマリベルは疑問がもたげる。


「毎夜、雨なのですか?」

「ええ、毎夜でございます。予定では、今日が最後のはずですが」

「予定……? もしかして、雨の予測が可能なのですか。さすが帝国でもっとも豊かで魔法に長けた領地だけありますね」

「そうじゃなくて……いえ、私の口から聞くより、詳しいことはそのうち分かりましょう」


 目を輝かせているマリベルにそう告げると、宿の主は再び微かに笑顔を作り、彼女にコートを着るよう促す。そして宿の玄関にかかるカーテンを開けた。


「どうやら雨足が弱まったようです、今のうちに出発を」

「はい、そうさせていただきます。ご主人、お世話になりました」


 そうしてマリベルは借りたコートを羽織ると、フードを深く被り、鞄を胸に抱える。そして主に何度も礼を告げてから、雷鳴が走る暗い夜の街へと走り出したのだった。

 未明の空は白むどころか、立ちこめる雷雲のおかげで月光を隠して、真っ暗だった。所々に建つ街灯を頼りに、雨に浸る石畳をマリベルは進む。

 幸いなことに街灯は、マリベルをリンデン・ブルーム城へと誘うかのように、小島へと連なっている。

 雷雨のなか、街には人一人どころか、野良猫すら物陰に隠れているようだった。心細いのはそれだけが理由ではない。マリベルが向かうリンデン・ブルーム城には、まるでそこが嵐の中心かのように、一層黒い雲を空に渦巻かせていて、厚い雲の向こうで雷を孕んでいるように、時おり光が漏れている。

 不安になって足を止めて空を見上げているマリベルをあざ笑うかのように、空から轟音とともに閃光が走り、湖に雷が落ちた。

 マリベルは身をすくめ、声にならない悲鳴を上げる。


「だめよ、諦めてはだめ」


 マリベルは濡れる鞄を抱え直し、次の街灯を目指して足を進める。

 そうして雨に濡れながら歩き続けると、湖に繋がる橋に辿り着く。いつしか雨は弱まり、雷もゴロゴロと時折聞こえてはくるが、しばらく落ちてくるような気配はない。

 約束の時間はもうすぐだ。足早に橋を渡り終えると、すぐに城への入り口が見える。

 城門のようなものはなく、橋からすぐ目の前に城の壁が立ちはだかり、大きな扉がある。どうやって入ろうか、そう悩んでいたマリベルの目の端に、ふと光るものが見えた。

 城の外はすぐに崖となっている。その崖を覆うような茂みの下に、ほんのりと光る小さな花が、吹き付ける風で大きく揺れている。

 赤や青、黄色など色とりどりに光るその花は、リコリスという。

 闇夜でもほんのりと小さく光る様は、まるで夜空の星のよう。風に揺れて瞬く小さな五つの花びらは、幻想的であり可憐だった。

 花に釘付けのマリベル。その喉が、微かに鳴る。

 と同時に、立ち止まっていた足がほんの少しだけリコリスに向きかけた時だった。


「いつまでも外に立っていては、お風邪を召されますよ」


 ハッとして振り返るマリベル。

 いつの間にか開いた扉の向こうには、白髪交じりの髪を綺麗になでつけた、丸眼鏡の老執事がマリベルの様子を覗っていたのだった。

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