六
棗藩領から、妖怪たちが姿を消した。一部の人間を除いて、人間たちの記憶からも、妖怪はいなくなってしまっていた。
柚と春太郎は、思い出の一つ一つを
お化け屋敷には、伊佐三なる者は誰もいなかった。だけど、誰かがいなくなった気がすると、誰もが口にする。
黄梅堂には、弥市なる番頭はいなかった。だけど主は、ひどく寂しい気持ちになっている。
弾正の家には、葉太なる少年はいなかった。だけど、清之進は覚えている。
「俺たちは妖怪といっしょにいる時間が長い。だから影響を受けにくいのかも。それか、あえて俺たちだけの記憶を残しているのか……」
「まさか皆が妖怪を忘れちゃってるのって、妖怪の仕業……」
「だろうな。こんな芸当ができるのは妖怪しかいない」
「でも、なんでこんなこと……忘れられるのは嫌なはずなのに……」
弾正は誰かのことを忘れてしまったと、しきりに呟いている。
清之進の友人がいる真先に行くも、さすがに中に入ることは躊躇われて、門の前で立ち止まる。正直に妖怪を探しているとも言いにくい。
「私、ここで捕まったことがある……」
「そうだ……俺も、月尾が止めてくれなければ、禁忌を犯そうとした」
柚は明確に、誰によって捕まったとは、覚えていない。春太郎も、柚が殺されたと思い、浦野家の禁忌である呪いを発動させようとした。柚が誰に殺されそうになったのかは、覚えていない。
「すごく怖かったのに、何で忘れちゃったんだろう……」
忘れてはいけなかった。だから妖怪たちがいなくなってしまったのだと、なぜかそう確信する。
捕まってしまったとき、春太郎と月尾、玉緒も、弥市と伊佐三までが助けに来てくれた。清之進が硯の魂を差し向けて、命の危機を救ってくれた。伊佐三は自分を庇って、大怪我をした。だけど肝心なところを、忘れてしまっている。
妖怪たちと練り歩いた鬼灯神社にも、見覚えのある妖怪は誰もいなかった。
栗摩沼はしんとしていて、いくら呼びかけても濡女は現れない。朽ちた祠にも、月尾がいるわけもなく、いつも柚から離れなかった玉緒もいない。
猫の鳴き声が聞こえるたびに、玉緒ではないかと目で追うも、姿形はまったく違う。どこを探しても、妖怪がいなかった。
「旦那様」
「うむ。西安はもう帰っている頃だろう」
二人の考えは一致していた。
返魂香は、会いたい人の姿を映し出す。でもそれは、死者でなければならない。では、妖怪だとしたら……
二人が寺に向かうと、数日前に行ったときには不在であったが、西安は帰ってきていた。西安は相変わらずの、腹の底の読めない顔で、二人を迎え入れた。
「ほう……妖怪たちがいなくなった」
西安は興味深そうに、二人の話を聞いた。
「急に、忽然と」
「それは困りますね。浦野様は今、大事なお仕事をなさっているはず」
(どうしてそのことを……)
西安にはまだ、『棗の怪異物語』については話していない。西安が不在のときに寺にいた僧にも話さなかった。西安は誰から、『棗の怪異物語』のことを聞いたのだろうか……
「皆が妖怪のことを忘れてしまったら、『棗の怪異物語』を編纂する必要もなくなるようなものですからね」
「そうではなくて……」
春太郎が訂正する。
「大事な家族がいなくなってしまい困っている、という表現が正しいのです」
(旦那様……)
はじめは怪異のことにしか興味のない冷血漢だと、柚は思っていた。
人使いが荒くて、でも普段は表に出さないだけで人間味がある。いつからだろう、胸が火照るようになったのは……
「なかなか、面白いことを仰いますね」
西安の、どこか冷たさを秘めた言い方に、柚は現実に引き戻される。
(なんか、今日の西安さん変……)
「あの……返香魂って、妖怪の幻は見せてくれるんでしょうか?」
「私の知る限り、妖怪を思い浮かべた方を存じ上げませんので、何とも……」
「試してみたいんです。貸していただけませんか?」
西安は一拍置いてから、どうぞと言って、返香魂を持ってきた。
香を焚くと、
柚は、姿を見たい妖怪のことを考えながら、目を閉じる。しかし、いくら待っても、幻は現れなかった。
「まさか……」
西安の声に、柚は目を開ける。目の前に座す西安は、胸を押さえて苦しげな表情をしていた。
「…………!」
これで西安の様子が、以前とは違ったことに合点がいった。
柚が返香魂で姿を見たかったのは、玉緒でも月尾でも、いなくなってしまった他の妖怪たちではなく、ずっと思い出せなかった妖怪である。
「邪魅」
頭の中に刹那、その名前が浮かんで呟いた。
「どうして今の今まで、忘れていたんだ……」
柚が呟いて、春太郎も思い出す。
忘れられないのは、妖怪たちとの楽しい思い出だけではない。恐ろしかったことも、哀しかったことも、負の感情こそ焼き付いてしまうのだ。
「はぁ……私が、人間ごときに……」
西安に化けていた邪魅は、本来の姿に戻っている。すでに胸の痛みは治まっているようだ。
「玉緒たちをどうしたの!」
「心配いらないよ。もうじき、私の術は解けるはずだ」
柚や春太郎などの人間はおろか、己の存在すらも忘れさせる術を玉緒たちにかけていたと、邪魅が打ち明ける。もはや存在しないも同然で、姿が消えたのも、術の影響らしい。
「あと一日、忘れ去られたままだったら、今度はお前たちの記憶をすべて、消してやろうと思ったのに」
緊迫な状況が続いた。たとえ春太郎が強力な術士だったとしても、邪魅の力も相当だ。月尾がいれば、対等に渡り合えるかも知れないが、柚を護りながらでは、命が危ない。
邪魅の目に、冷酷な殺意が宿った。
「せめて柚と、祝言を挙げたかった」
「私だって、早く旦那様の奥様になりたかったです」
これが最後になるかもしれない。二人はこの世の未練を言い合う。
二人が覚悟を決めたとき、邪魅は目を見開いていた。
「…………ふ、ふはははは」
邪魅は端正な顔で、屈託なく笑っている。嘲笑うわけでもなく、冷笑でもない、心の底からの笑いだった。
「約束は守るよ」
今度は柚が目を見開いた。
言い終えた後の邪魅の顔が、あまりにも穏やかで、美しかった。それは彼の性格とはちぐはぐな感じであるのに、胸がじんと熱くなって、どこか切なくなる。
そして邪魅は、姿を消した。
「「………………」」
二人はしばらく無言のまま、邪魅のいた場所を見つめる。すべては夢であったように感じられるほど、あっけなかった。
すると、寺の扉が壊される轟音が響いて、後ろを振り返る間もなく、柚の頭の上に、何かが降ってきた。
「あ……」
感触でわかった。柚は泣き出したい気持ちに駆られる。
「玉緒!」
猫の姿の玉緒は、目がちかちかとして、焦点が定まっていなかった。
「これくらいの早さに、へたばってんじゃねぇよ」
この声は……
「月尾!」
どうやら二人の元に向かうために、月尾はとんでもない早さで、向かっていたようだ。
「くそっ、俺としたことが、主から離れるなんて」
「俺は無事だ。月尾も無事でよかった」
「弥市たちも帰ってきているから安心しろ」
「よかった……」
柚は心底安堵する。彼らがいなくなってしまったことが、あまりにも寂しかった。そして再び会えたことが、かけがえもないほどにうれしい。
「何じゃこりゃ……」
「千、それに……」
破壊された扉に驚いているのは、春太郎の幼馴染みである井口千蔵だった。なぜ同心の彼がここに……しかも、隣にいるのは、西安だった。
柚と春太郎は、もしかしてと西安を見てぎょっとする。
「本物ですか……?」
急にそんなことを柚から問われた西安は、戸惑うことなく、
「さあ、どうでしょう」
と答えた。
(あ、本物だ……)
今度は違和感のない答えが返ってきて、二人はほっと息を吐いた。
「大変だ。春たちの知っている人間だか妖怪だかわかんねぇ奴らが、急に行方不明になっちまって、しかも誰も、あいつらのことを覚えてねぇんだよ」
千蔵も、彼らを覚えている人間であった。不可解な事件について、風史編纂係である春太郎に尋ねに来たわけだが……
「それならもう、解決した」
春太郎は、この一件について、千蔵と西安に説明した。
「約束は守るって、信じられねぇな」
柚は記憶を消されても、邪魅のことを思い出すことができた。だがら邪魅はこの先、人間に危害を加えないという約束を守り続ける。彼の言葉を信じれば……
「私は、信じてもよろしいと存じます」
穏やかに言った西安を、皆が見つめる。
「邪魅はお二人を見て、おかしく笑ったそうな。きっと邪魅は、殺意がそがれるほど美しいと感じたのでしょう」
「美しい……」
邪魅に、そんな感情があるのかは
「邪魅は私たちの記憶を薄れさせただけで、忘れさせてはいなかったんじゃないかって気がします。だって、記憶そのものを消されたら思い出せるわけがないし、清之進様と井口の旦那の記憶まではいじらなかったわけですから」
妖怪のことを覚えている第三者を作ることで、あえて思い出すきっかけを作ったのではないかと、柚は考えている。
「何にしろ、厄介な妖怪だ。このまま現れてくれなければいいが……」
この先、柚たちの前に、邪魅が現れることはなかった。邪魅の真意はわからぬまま、『棗の怪異物語』には記録が残ることになる。
「ふぁ、これで一件落着」
「間抜けな声を出しているところ悪いが、柚はこのまま寺に残って、怪異のことを西安から聞くんだな」
「これから仕事をしろってんですか!」
相変わらずの口ぶりと、人使いの荒いこと。
「もっと大事にしてくれないと、祝言のこととか考えちゃいます」
「ほう。早く俺の妻になりたいと言ったのは、どこのどいつだ」
「うわ!変なことを言わないでください!」
「柚が言ったことだろう」
二人のやり取りに、千蔵はうんざりした目で、西安は微笑ましく見ている。月尾は眠そうに姿を消して、玉緒はうれしそうに柚にくっついていた。
*
約十五年後、長らく続いた徳川幕府の政権が終わり、時代が明治へと突入するに伴い、風史編纂係の仕事も幕を閉じることになる。
近代化の中にあって、旧棗藩領では怪異の存在が信じられており、かつて風史編纂係を務めていた浦野春太郎とその妻柚は、茶葉の商いをしながら、怪異の相談を請け負っていたそうだ。
【犬神】
さる陰陽師の
犬神、たちまち悪鬼をなぎ倒し、敵うものなし。
主を失った式神、その
幾年の時を経て、いつしか祠、奇特な者に祀られる。
犬神、かつての主の姿も、亡くした痛みも忘れず。心惹かれれば、再び人間の眷属にならんとす。主を護る、鏡なり。
【邪魅】
この世で最たる悪は、誰ぞ。答えは邪魅なり。
人を陥れ、同族までもを容赦なし。
決して、邪魅の存在を忘るるな。もし忘れしときは、この世に災厄が降り注ぐ。忘れずば、邪魅はこの世を見捨てることなし。
かつて邪魅は、ある人間と約束した。
君が忘れずば、姿は現さず、二度と人間を傷つけず。
もしあなたが忘れしとき、邪魅は再び、悪となろう。
これは、この国の一部の怪異に過ぎず。
怪異は今も、すぐ
棗ノ怪異物語 夏野 @cherie7238
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