棗藩領から、妖怪たちが姿を消した。一部の人間を除いて、人間たちの記憶からも、妖怪はいなくなってしまっていた。

 柚と春太郎は、思い出の一つ一つを辿たどる。

 お化け屋敷には、伊佐三なる者は誰もいなかった。だけど、誰かがいなくなった気がすると、誰もが口にする。

 黄梅堂には、弥市なる番頭はいなかった。だけど主は、ひどく寂しい気持ちになっている。

 弾正の家には、葉太なる少年はいなかった。だけど、清之進は覚えている。

「俺たちは妖怪といっしょにいる時間が長い。だから影響を受けにくいのかも。それか、あえて俺たちだけの記憶を残しているのか……」

「まさか皆が妖怪を忘れちゃってるのって、妖怪の仕業……」

「だろうな。こんな芸当ができるのは妖怪しかいない」

「でも、なんでこんなこと……忘れられるのは嫌なはずなのに……」

 弾正は誰かのことを忘れてしまったと、しきりに呟いている。

 清之進の友人がいる真先に行くも、さすがに中に入ることは躊躇われて、門の前で立ち止まる。正直に妖怪を探しているとも言いにくい。

「私、ここで捕まったことがある……」

「そうだ……俺も、月尾が止めてくれなければ、禁忌を犯そうとした」

 柚は明確に、誰によって捕まったとは、覚えていない。春太郎も、柚が殺されたと思い、浦野家の禁忌である呪いを発動させようとした。柚が誰に殺されそうになったのかは、覚えていない。

「すごく怖かったのに、何で忘れちゃったんだろう……」

 忘れてはいけなかった。だから妖怪たちがいなくなってしまったのだと、なぜかそう確信する。

 捕まってしまったとき、春太郎と月尾、玉緒も、弥市と伊佐三までが助けに来てくれた。清之進が硯の魂を差し向けて、命の危機を救ってくれた。伊佐三は自分を庇って、大怪我をした。だけど肝心なところを、忘れてしまっている。

 妖怪たちと練り歩いた鬼灯神社にも、見覚えのある妖怪は誰もいなかった。

 栗摩沼はしんとしていて、いくら呼びかけても濡女は現れない。朽ちた祠にも、月尾がいるわけもなく、いつも柚から離れなかった玉緒もいない。

 猫の鳴き声が聞こえるたびに、玉緒ではないかと目で追うも、姿形はまったく違う。どこを探しても、妖怪がいなかった。

「旦那様」

「うむ。西安はもう帰っている頃だろう」

 二人の考えは一致していた。

 返魂香は、会いたい人の姿を映し出す。でもそれは、死者でなければならない。では、妖怪だとしたら……

 二人が寺に向かうと、数日前に行ったときには不在であったが、西安は帰ってきていた。西安は相変わらずの、腹の底の読めない顔で、二人を迎え入れた。

「ほう……妖怪たちがいなくなった」

 西安は興味深そうに、二人の話を聞いた。

「急に、忽然と」

「それは困りますね。浦野様は今、大事なお仕事をなさっているはず」

(どうしてそのことを……)

 西安にはまだ、『棗の怪異物語』については話していない。西安が不在のときに寺にいた僧にも話さなかった。西安は誰から、『棗の怪異物語』のことを聞いたのだろうか……

「皆が妖怪のことを忘れてしまったら、『棗の怪異物語』を編纂する必要もなくなるようなものですからね」

「そうではなくて……」

 春太郎が訂正する。

「大事な家族がいなくなってしまい困っている、という表現が正しいのです」

(旦那様……)

 はじめは怪異のことにしか興味のない冷血漢だと、柚は思っていた。

 人使いが荒くて、でも普段は表に出さないだけで人間味がある。いつからだろう、胸が火照るようになったのは……

「なかなか、面白いことを仰いますね」

 西安の、どこか冷たさを秘めた言い方に、柚は現実に引き戻される。

(なんか、今日の西安さん変……)

「あの……返香魂って、妖怪の幻は見せてくれるんでしょうか?」

「私の知る限り、妖怪を思い浮かべた方を存じ上げませんので、何とも……」

「試してみたいんです。貸していただけませんか?」

 西安は一拍置いてから、どうぞと言って、返香魂を持ってきた。

 香を焚くと、伽羅きゃらの匂いが充満する。

 柚は、姿を見たい妖怪のことを考えながら、目を閉じる。しかし、いくら待っても、幻は現れなかった。

「まさか……」

 西安の声に、柚は目を開ける。目の前に座す西安は、胸を押さえて苦しげな表情をしていた。

「…………!」

 これで西安の様子が、以前とは違ったことに合点がいった。

 柚が返香魂で姿を見たかったのは、玉緒でも月尾でも、いなくなってしまった他の妖怪たちではなく、ずっと思い出せなかった妖怪である。

「邪魅」

 頭の中に刹那、その名前が浮かんで呟いた。

「どうして今の今まで、忘れていたんだ……」

 柚が呟いて、春太郎も思い出す。

 忘れられないのは、妖怪たちとの楽しい思い出だけではない。恐ろしかったことも、哀しかったことも、負の感情こそ焼き付いてしまうのだ。

「はぁ……私が、人間ごときに……」

 西安に化けていた邪魅は、本来の姿に戻っている。すでに胸の痛みは治まっているようだ。

「玉緒たちをどうしたの!」

「心配いらないよ。もうじき、私の術は解けるはずだ」

 柚や春太郎などの人間はおろか、己の存在すらも忘れさせる術を玉緒たちにかけていたと、邪魅が打ち明ける。もはや存在しないも同然で、姿が消えたのも、術の影響らしい。

「あと一日、忘れ去られたままだったら、今度はお前たちの記憶をすべて、消してやろうと思ったのに」

 よこしまな邪魅の笑いに、柚はぞっとする。

 緊迫な状況が続いた。たとえ春太郎が強力な術士だったとしても、邪魅の力も相当だ。月尾がいれば、対等に渡り合えるかも知れないが、柚を護りながらでは、命が危ない。

 邪魅の目に、冷酷な殺意が宿った。

「せめて柚と、祝言を挙げたかった」

「私だって、早く旦那様の奥様になりたかったです」

 これが最後になるかもしれない。二人はこの世の未練を言い合う。

 二人が覚悟を決めたとき、邪魅は目を見開いていた。

「…………ふ、ふはははは」

 邪魅は端正な顔で、屈託なく笑っている。嘲笑うわけでもなく、冷笑でもない、心の底からの笑いだった。

「約束は守るよ」

 今度は柚が目を見開いた。

 言い終えた後の邪魅の顔が、あまりにも穏やかで、美しかった。それは彼の性格とはちぐはぐな感じであるのに、胸がじんと熱くなって、どこか切なくなる。

 そして邪魅は、姿を消した。

「「………………」」

 二人はしばらく無言のまま、邪魅のいた場所を見つめる。すべては夢であったように感じられるほど、あっけなかった。

 すると、寺の扉が壊される轟音が響いて、後ろを振り返る間もなく、柚の頭の上に、何かが降ってきた。

「あ……」

 感触でわかった。柚は泣き出したい気持ちに駆られる。

「玉緒!」

 猫の姿の玉緒は、目がちかちかとして、焦点が定まっていなかった。

「これくらいの早さに、へたばってんじゃねぇよ」

 この声は……

「月尾!」

 どうやら二人の元に向かうために、月尾はとんでもない早さで、向かっていたようだ。

「くそっ、俺としたことが、主から離れるなんて」

「俺は無事だ。月尾も無事でよかった」

「弥市たちも帰ってきているから安心しろ」

「よかった……」

 柚は心底安堵する。彼らがいなくなってしまったことが、あまりにも寂しかった。そして再び会えたことが、かけがえもないほどにうれしい。

「何じゃこりゃ……」

「千、それに……」

 破壊された扉に驚いているのは、春太郎の幼馴染みである井口千蔵だった。なぜ同心の彼がここに……しかも、隣にいるのは、西安だった。

 柚と春太郎は、もしかしてと西安を見てぎょっとする。

「本物ですか……?」

 急にそんなことを柚から問われた西安は、戸惑うことなく、

「さあ、どうでしょう」

 と答えた。

(あ、本物だ……)

 今度は違和感のない答えが返ってきて、二人はほっと息を吐いた。

「大変だ。春たちの知っている人間だか妖怪だかわかんねぇ奴らが、急に行方不明になっちまって、しかも誰も、あいつらのことを覚えてねぇんだよ」

 千蔵も、彼らを覚えている人間であった。不可解な事件について、風史編纂係である春太郎に尋ねに来たわけだが……

「それならもう、解決した」

 春太郎は、この一件について、千蔵と西安に説明した。

「約束は守るって、信じられねぇな」

 柚は記憶を消されても、邪魅のことを思い出すことができた。だがら邪魅はこの先、人間に危害を加えないという約束を守り続ける。彼の言葉を信じれば……

「私は、信じてもよろしいと存じます」

 穏やかに言った西安を、皆が見つめる。

「邪魅はお二人を見て、おかしく笑ったそうな。きっと邪魅は、殺意がそがれるほど美しいと感じたのでしょう」

「美しい……」

 邪魅に、そんな感情があるのかははなはだ疑問だ。でも、柚は一つだけわかることがある。

「邪魅は私たちの記憶を薄れさせただけで、忘れさせてはいなかったんじゃないかって気がします。だって、記憶そのものを消されたら思い出せるわけがないし、清之進様と井口の旦那の記憶まではいじらなかったわけですから」

 妖怪のことを覚えている第三者を作ることで、あえて思い出すきっかけを作ったのではないかと、柚は考えている。

「何にしろ、厄介な妖怪だ。このまま現れてくれなければいいが……」

 この先、柚たちの前に、邪魅が現れることはなかった。邪魅の真意はわからぬまま、『棗の怪異物語』には記録が残ることになる。

「ふぁ、これで一件落着」

「間抜けな声を出しているところ悪いが、柚はこのまま寺に残って、怪異のことを西安から聞くんだな」

「これから仕事をしろってんですか!」

 相変わらずの口ぶりと、人使いの荒いこと。

「もっと大事にしてくれないと、祝言のこととか考えちゃいます」

「ほう。早く俺の妻になりたいと言ったのは、どこのどいつだ」

「うわ!変なことを言わないでください!」

「柚が言ったことだろう」

 二人のやり取りに、千蔵はうんざりした目で、西安は微笑ましく見ている。月尾は眠そうに姿を消して、玉緒はうれしそうに柚にくっついていた。


  *


 約十五年後、長らく続いた徳川幕府の政権が終わり、時代が明治へと突入するに伴い、風史編纂係の仕事も幕を閉じることになる。

 近代化の中にあって、旧棗藩領では怪異の存在が信じられており、かつて風史編纂係を務めていた浦野春太郎とその妻柚は、茶葉の商いをしながら、怪異の相談を請け負っていたそうだ。



【犬神】


 さる陰陽師の眷属けんぞくにて、強大な力を持つ式神なり。

 犬神、たちまち悪鬼をなぎ倒し、敵うものなし。

 主を失った式神、そのうちに力を秘めながら、祠に立てこもる。亡き主を忘れるまではと。

 幾年の時を経て、いつしか祠、奇特な者に祀られる。

 犬神、かつての主の姿も、亡くした痛みも忘れず。心惹かれれば、再び人間の眷属にならんとす。主を護る、鏡なり。


【邪魅】


 この世で最たる悪は、誰ぞ。答えは邪魅なり。

 人を陥れ、同族までもを容赦なし。

 決して、邪魅の存在を忘るるな。もし忘れしときは、この世に災厄が降り注ぐ。忘れずば、邪魅はこの世を見捨てることなし。

 かつて邪魅は、ある人間と約束した。

 君が忘れずば、姿は現さず、二度と人間を傷つけず。

 もしあなたが忘れしとき、邪魅は再び、悪となろう。



 これは、この国の一部の怪異に過ぎず。

 怪異は今も、すぐそばに。

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棗ノ怪異物語 夏野 @cherie7238

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