狐火ノ怪

 暦では冬に入った。盆地の棗藩において、厳しい寒さの到来はまだ先である。時折、肌を刺す風が冷たいと感じられるようになった頃、滝は浦野家を去っていった。

「怖いこともたくさんあるだろうけど、貴女ならきっと大丈夫」

 浦野家を去る日、滝は柚にそう言った。長年浦野家に勤めていた滝は、怪異の存在を知っていて、関わってきたのだと察することのできる言葉だった。お化け屋敷で作り物にも驚いてしまう柚は、時が経てば、滝のように豪胆になれるのだろうかと、ふと思う。そんなことを考えていたものだから、次に滝が春太郎にかけた言葉は聞こえなかった。

「清之進坊ちゃんにもよろしく」

「ああ、伝えておく。世話になったな」

 子どものころから側にいた滝がいなくなるのは、風変わりな春太郎にも、寂しいところである。腰は曲がっていても、矍鑠かくしゃくとした老婆は浦野家から姿を消した。

 浦野家は春太郎と柚の二人きり……になるわけではない。

 滝がいなくなった女中部屋には、柚ともう一人の姿があった。

「私ね、どこかの飼い猫だったのよ。一人暮らしのおじいさんの家に飼われていたんだけど……」

 猫だったときは、ただその日を生きていて、人間のような明確な意思はなかった。だからぼんやりとした記憶しか覚えていないと言ったのは、飼い猫から猫又に変化した玉緒である。

 昼は猫、夜になれば人の姿になれる不思議な存在が浦野家に住み着いたのは、つい最近のことだ。夜には柚の部屋にやってきて、柚ととりとめのない話をする。親元を離れて奉公している柚が寂しい思いをしていないのは、玉緒の存在が大きい。

 玉緒は人の姿になれるといっても、どうしても耳だけは獣の姿だった。そして朝が来れば、否応なしに猫の姿になってしまう。猫の姿のときには猫そのもので、人の言葉を話すことはできなかった。

 玉緒と名付けられた猫は、おじいさんに可愛がられていた。ある日、おじいさんが部屋で倒れ、動かなくなった姿を見た猫は、動転して外に駆けだした。誰かを呼びに行ったのか、そんな賢いことを考えられていたのかすら、当の本人は覚えていない。しかし、慌てていた猫は、道の途中で荷車にかれてしまい……

「気づいたら妖怪になってたの。どこに住んでいたのかもわからないから、おじいさんが無事なのかどうかもわからないけど、きっと……」

 何しろ記憶が朧気おぼろげなので、どんな家に住んでいたかも、外の風景までもがもやがかかったような感じである。覚えているのは、おじいさんが可愛がってくれたということと、そのおじいさんが亡くなっているというのが、直感でわかること。あとは……

「いま思えばあのおじいさん、寂しそうだったな……」

 時々、飼い主の顔が思い浮かんでしまうという玉緒に、柚が言った。

「おじいさんに大事にされていたから、猫又になったのかもね」

 想いが込められていた猫は、死後に妖怪となった。真実を知る術はないが、そう思えば素敵な話だと、柚は納得している。玉緒の方も、柚の言葉に満足しているようだ。

 そして浦野家にはもう一人、妖怪がいる。

 強大な力を兼ね備えているというその妖怪は、月尾という名の犬神で、春太郎を主と仰ぎ従っている。しかし、浦野家でも滅多に姿は見かけない。本人はほとんどを寝て過ごしていると言っているが、何しろ姿を消しているので、見ることができないのだ。

 柚が姿を拝めるときといえば……

 夜中、一通りの仕事を終えて、主に許可を得てもらった、余ったお菓子を食べようと、お菓子に手を伸ばす。すると、いつもどこからともなく現れた月尾に先を越されて、お菓子を食べ損ねるのだ。

「俺は犬神、鼻がいいんだよ」

 と自負するように、犬という名だけあって、嗅覚がすこぶるいいのだ。柚も負けじと攻防を繰り返すも、月尾に勝てたことはない。

「犬神はすごい妖怪だけど、私から言わせればそれを従えている春太郎の方が、よっぽどすごいと思うけどな」

 犬神という強力な妖怪を従えるには、犬神を従えるほどの力を備えていなければならない。妖怪は義理や人情で、自分より力のない人間には仕えないはずだと、玉緒が言った。

 ということは、春太郎は平凡な人間ではないということになる。

 風史編纂係という特殊な役職に就いていて、不思議なお札も作れるのは確かだ。だが、幽霊を見たり、祓ったりする能力はないと春太郎は言っていた。他に秘めている能力でもあるのだろうか。

 柚は気になって、春太郎に月尾との出会いを聞いてみたのだが……

「まあ、いろいろあった」

 とにごされてしまった。

 普段であれば、妖怪について尋ねれば詳しく教えてくれるので、あまり聞かれたくないことなのかもしれないと、柚はそれ以上を尋ねなかった。

 柚にはもう一つ、気になっていることがある。

 柚が今までに出会ったことのある妖怪は、猫又と犬神、鎌鼬かまいたち。すべて動物に関係している妖怪で、猫又は猫の姿に、鎌鼬は鼬の姿になれる。ということは……

「月尾も犬の姿になれるの?」

 と聞いてみたことがある。

「そりゃ、犬神だからな」

 予想は当たっていた。

「普段は人の姿のままなんだね」

「わざわざ犬の姿になる必要もないだろ。この姿に慣れちまってるしな」

「ふーん……ね、犬の姿になってみてくれない」

 猫に鼬、そこから考えるに、月尾はきっと、凛々しい柴犬に違いないと、柚は目をきらきらさせてお願いしてみた。

「……めんどくさい」

 月尾が断ったのは、半分が本当で、半分は別の理由によるところであった。

「あんなに期待してたら、犬の姿にはなれねぇよ」

 月尾はそう春太郎にぼやいた。

 柚はきっと、そこらにいるような柴犬を想像しているが、月尾の姿はそんな可愛いものではない。だから柚のがっかりした顔、あるいは怖がる顔を見たくなかった。

「しっかし、あいつも変わった妖怪だよな」

「あいつ?」

「玉緒のことだよ。人間に懐きすぎだし、最近、でれでれしてたるんだ顔してやがるんだよな。あいつの怖ろしい顔より、俺にはよっぽど怖いぜ」

 いわゆるにやけの原因は……

「あれは町に遊びに行って、からすに追いかけられた日……」

 と、玉緒はうっとりしながら柚に説明した。

 昼間、もちろん猫の姿で町をぶらぶらしていたときのことである。悪戯好きという性分は直っておらず、かといって、人間を驚かせるようなことはもうしていなかった。玉緒の対象は、たまたま見かけた烏に定められた。

 烏が取ろうとした食べ物を、先に取ってみせる。玉緒にしてみれば、それで満足で、しかも妖怪が烏に後れをとるわけがないと自信があった。だが、烏という生き物は、時に獰猛どうもうである。自分がねらっていた食べ物を取られたことで、烏は執拗しつように玉緒を追いかけた。昼中の出来事であったから、人型の姿にはなれない。猫の姿で一生懸命に逃げるしかなかった。烏ごときに後れをとるなんて、妖怪の風上にも置けない……という矜持きょうじを考える暇などない。とにかく逃げて、塀の上から飛び降りた先には、昨日の雨でぬかるんだ地面と、水たまりがあった。

 ばしゃん、と大きい音とともに、玉緒は泥だらけの姿になってしまった。その姿に溜飲りゅういんが下がったのか、烏はどこかに去ってゆく。真っ白な猫が、無残な姿だった。

 それから玉緒は、とぼとぼと浦野家を目指した。すれ違う人間たちは、汚れた猫を見て顔をしかめる者もいる。みじめだった。でも、柚なら優しく身体を洗ってくれるだろう。早く柚に会いたいと思っていると……

「こんなに汚れてしまって可哀想に……すぐにきれいにしてあげるからね」

 玉緒に声をかけたその人物は、手が汚れてしまうこともいとわずに、軽々と玉緒を抱きかかえた。柔和な印象の、男性であった。柚以外にも優しい人間がいるのだと、玉緒は身動きせずに男に従った。

 男が向かった先は、黄梅堂おうばいどうという菓子屋の家屋であった。どうやら男は、黄梅堂の奉公人らしい。すぐに男は温かいお湯で、玉緒の身体を洗ったのだった。

 きれいになった玉緒を抱き上げ、男が言ったのは……

「おや、美人な猫さんだね」

 男の所作やその言葉に、玉緒は一瞬でころっといってしまったようだ。

 妖怪も恋をするのだと、柚は感心した。本当に、猫耳さえ生えていなければ、普通の人間の少女だと思ってしまうほどである。

「黄梅堂って、前に権助さんが練り切りを買ってきてくれた、けっこう評判の店だよね。でもさ、私に相談しても、いい助言はできないよ。今まで好きになった人もいないし……」

「聞いてくれるだけで、すごく役に立ってるよ」

 最近の二人の夜の話題は、もっぱら玉緒の恋についてである。

「歳はいくつくらいなの?」

「うーん、実際のところはわからないけど、春太郎よりは上っぽいな」

 わかっているのは、名前は弥市やいちということ。黄梅堂の手代だということ。住み込みで働いているので、独り身であるということ。くらいなものだ。なにせ猫の姿では話ができないので、これが精一杯の情報である。名前は別の奉公人が彼をそう呼んでいるのを聞いたのである。

 玉緒は毎日のように黄梅堂を尋ねては、縁側で弥市の膝の上に乗っているという。菓子屋なので、店の中をうろちょろすることはできない。店の商いが終わった頃合に尋ねるというのが、日課になっていた。

 たとえ人間の姿になっても、弥市に会うことはできない。どうにも隠せない猫耳があるからだ。そうでなくても、妖怪と人間の恋なんて、はたから見れば上手くいきっこないと思ってしまう。

「別に弥市さんとどうにかなりたいって思ってるわけじゃないの。猫の姿で、時々側にいられるだけで満足。人間の姿で会うなんて、恥ずかしくてできないよ」

 玉緒は明るく言ったが、柚には切なかった。

 何十年、何百年とこの世に生きる妖怪たちには、歳をとるという概念がない。容姿は変わらず、老いもしないと、春太郎が教えてくれた。でも人間は、言わずもがな。

 だから弥市も歳をとって、玉緒より先に死んでしまう。生き死にの問題は人間にもいえることだが、人間と妖怪では、まるで死生観すら違うのだ。玉緒もわかっていて、弥市と深くかかわろうとはしていない。それでもきっと、弥市がいなくなれば、玉緒は泣いてしまうのだろう。

「玉緒は人間の姿のときも可愛いよ。弥市さんだって、そう思うんじゃない」

「え……!だって、こんな髪だし変だよ」

 玉緒が気にしているのは。癖毛のことである。

「ふわふわしてて可愛いけどな」

「そうかな……」

 このとき柚は、自分に置き換えて考えることをしなかった。仲良くなった妖怪と、同じ時間は生きられないのは、弥市だけではない。考えたくなかったのだ。 

「人間と仲良くなっても、いいことなんかねぇからやめとけ」

 と玉緒に釘を刺したのは、月尾だ。

 妖怪になったばかりの玉緒より、遥かな年月を生きている月尾の言葉は、説得力がある。

「あんただって、仲良くしてるじゃん」

「俺と春太郎は主従関係であって、好き好んで一緒にいるんじゃねぇよ。人間なんて、すぐにいなくなっちまう」

 かつて主と仰いだ人は、もういない。何百年前の話だったか。忘れたつもりなのに、今さらよみがえってくる。

「ふーんだ」

 玉緒はそっぽを向いて、行ってしまった。

 意地悪で言ったわけではない。傷つくくらいなら、人間のように情は持ち合わせない方がいいのだ。


(少しはましになったかな)

 柚が見渡しているのは、浦野家の庭である。

 はじめて浦野家を訪れたときには、枯葉が舞い、寂しい感じが鬱蒼うっそうとしていたのが、毎日掃き清めるだけで少しは見違えた。

 何しろ、柚が浦野家に来る前は、春太郎と滝しかおらず、春太郎は掃除などしないし、高齢の滝は庭にまで手が回らなかった。

(ていうか、お滝さんのこと考えたら、早く女中を雇ってあげたらよかったのに……)

 浦野家にはお化けが出る。という噂がある所為せいで、なかなか滝に代わる女中が現れなかった。お化けの正体は玉緒だったのだが、春太郎は玉緒の存在を知っていて、放置していた――正しくは観察していたのである。風史編纂係は怪異を調査するのが仕事だと春太郎は言うが、滝の負担も考慮してあげればいいのにと思う反面、もし他に女中が決まっていれば、浦野家に奉公することもできなかったのだという事実もある。

 ともかく、枯葉は掃除できても、手入れのされていない庭をいじるのは、素人の柚には限界がある。枯れ木となったものは抜いて、生きているものは残したが、余計に寂しくなってしまった。新しい植木を頼みたいところだが、浦野家にそこまでの余裕はない。春太郎は庭木のことはどうでもよいという感じである。

(せめてこの畑を……)

 庭には小さいながら、昔誰かが作っていたのだろう畑があった。畑を見ると血が騒いでしまう。よし、主に畑で何か作ってもよいかと聞こうとしたところで、主の方から柚の元にやってきた。

「柚」

「は、はい……!私のことでしょうか」

「他に柑橘系の名前はいないだろう」

 ほうけたのかと軽口を叩かれて、いつもの主だと冷静になる。驚いてしまったのは、名前で呼ばれたからだ。柚、と名前で呼ばれたことなど、今までに一度もない。

(少しは認めてくれたのかな……)

相生あいおい村にいる、野上のがみ弾正だんじょう殿のところへ行ってほしい」

「お武家様でしょうか」

「ああ。最も今は隠棲いんせいしていて、何分一人暮らしなものだから、少しの間だけでも手伝いに来てくれとお願いされたのだ。俺は用があって行けないから、代わりに行ってほしい」

「少しの間って、どのくらいですか……?」

「十日もすれば満足されるだろう」

「私は構いませんけど、その間、旦那様の食事はどうするんですか?」

「一人で何とかなる」

「……お米、炊けるんですか?」

「ふん、いざとなれば月尾がいる」

 とてもではないが、春太郎にしろ月尾にしろ、料理とは無縁なように感じる。春太郎は今まで滝に飯を作ってもらっていて、月尾は食事ができないわけではないが、妖怪は人間のように生きるうえで食事が必須ではない。

(なんか怪しい……)

 春太郎と野上がどんな関係かはわからないが、頼まれたのであれば自分も行けばいいものを、柚に押し付けている。

(もしかして、追い出したい理由があるとか……?)

 まさか、女の人でも連れ込む気かと、じとっと春太郎を見る。

「何を考えているかは大方予想がつくが、下衆げす勘繰かんぐりというものだ」

「うっ……」

 そうですよね、普段から女遊びもしなければ影もない主が、まさかですよねと、柚は心の中で言ってみせる。しかし、野上家に行けと命令したのには、何か裏がありそうで仕方なかった。


 相生村は、棗藩の城下町から一里もない距離にある。山間にある棗藩は、城下町を外れれば、のんびりした村が広がるばかりだ。

 村を覆いつくす田んぼは、稲刈りが終わった後で何もない。百姓はもっぱら畑で野菜を育てている。城下町ではひしめき合っている家々も、相生村では家と家の間隔が長く、ぽつんぽつんと数えられるばかり。山の色も濃くくすんでいて、季節特有の色を出している。景色的には、今が一番寂しい季節なのだろう。けれど、柚はちっとも寂しいとは感じなかった。

 帰ってきた、という感覚すらしている。

「えっと、ここかな……」

 百姓に尋ね歩いて、柚は野上弾正が暮らしている、山のふもとにある家に着いた。

 野上は武士だというが、百姓の家と変わりない。一人で住むには充分な広さだが、村で寂しく隠棲するとは、およそ柚の思い描く武士の姿ではなかった。

「すみません。浦野家から来た者ですが」

 家の中からではなく、裏の外からぬっと姿を現したのは、くわを携える老人だった。裏には畑があり作業していたのだろう。近在の百姓が手伝いに来ているのか、それにしては背筋がぴんと伸びていて、たたずまいも百姓という感じがしなかった。

「あの、野上様は……」

「野上はわしだ」

 柚はぎょっと、野上と名乗る老人を見る。老人にしてはたくましい脚は土にまみれ、今まさに畑仕事をしていたという風体である。武士が、畑仕事をするなどありえない。いくら村に隠棲したとはいえ、自ら鍬を振るうなど、よほどの酔狂者だ。

「そうか、春太郎のところの女中だな」

「はい。柚と申します」

「うむ。ではさっそく、荷物を置いたら畑に来てくれ。今日中に大根を収穫しておきたい。他の畑も耕さねばならぬからな」

「え……あ、あの……」

 野上はすたすたと畑に戻っていった。柚は呆気あっけにとられたまま、その場に立ち尽くす。

 急に畑を耕せと言われても、いま来たばかりだというのに……

「早くせぬか!」

「は、はいっ……!」

 怒号が響き渡って、柚はあたふたと準備をはじめる。

 怒鳴られたことはなかったが、急かされるのは浦野家にいるときと変わらない。どうやら、隠棲したおじいちゃんの面倒を見るといった、想像していたような生活ではないようだ。

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