「はぁ……」

 君江のあまりに大きい溜息が聞こえた。

 まるでお通夜のような雰囲気に、柚は早く抜け出したい気持ちである。それは定次も同じのようで、しきりにそわそわしている。隣に座す小松は、動じていなかった。

「私はまだ、認めていませんからね」

(ですよね……)

 柚を嫁に迎えたい。とは、以前から、春太郎が君江に相談していたことだった。すぐに君江が許してはくれないとわかっていて、早めに行動していたのである。

 しかし柚からしてみれば、君江は絶対に、万が一にも許してくれないと思っていた。

 いま柚は、春太郎と君江、それに小松と定次を交えて、浦野家で話し合いをしていた。

「どうしてそう頑固になったのかしら。春太郎が知らないだけで、気立ての良い女子はたくさんいるというのに。よりにもよって……」

 女中なんかと、と君江は言いたげである。

「柚だって気立てがいいですよ。多少のことじゃあびくともしませんし、愛嬌もあるし、可愛いじゃありませんか」

「ちょっと、おっかさん……!」

「小松の言う通りだ。どこに嫁に出しても恥ずかしくないよ」

「おとっつあんまで変なこと言わないでよ。真面目に話そうってときに……」

「真面目に柚の良さを教えてあげてるのよ。おきゃんなところは相変わらずなんだから」

「褒めてるんだか、貶されてるんだかわかんないわよ」

 おほん、と君江の咳払いが聞こえて、三人は押し黙る。

 しんとした空気が、しばらく続いた。

 はじめに口を開いたのは、春太郎である。

「まあ、このように母もしぶしぶ認めてくれましたから、何卒よしなに」

(どこが認めてるんですか!)

 と、柚はつっこみたい気持だったが、これ以上うるさくすれば、君江の印象を悪くするばかりである。今さら印象もあったものではないが……

 君江は文句を言いたそうな顔で、座している。

「それで、祝言はいつ頃にいたしましょうか」

 定次が取りなすように尋ねた。

「早くて一年は待ってもらいます」

「そりゃあ何かと準備ってものが必要ですけど、もう少し早くてもいいんじゃ……」

 おずおずと、今度は小松が尋ねると、君江は睨み返した。

「春太郎はいま、とても大事な仕事をしているんです。祝言なんか挙げている暇はありませんよ」

 『棗の怪異物語』が完成するまでは、祝言はまかりならぬとのことである。小松と定次からしてみれば、早く柚の白無垢姿が見たかったのだが、柚が武家の家に入ることを許してもらった手前、強くは言い返せない。柚と春太郎からしても不服ではないので、祝言は一年後と決まった。

「柚さん」

 いきなり君江に名前を呼ばれて、どきりとする。ちゃんと名前で呼ばれたのは、これが初めてであった。しかもさん付けで。

「もし間違いがあったら、祝言は絶対に認めませんからね」

「間違いって……」

「口答えしない!一年後までには、もっと武家の嫁らしくなりなさい」

「はい……」

 間違いとは何だろうかと、柚は意味がわからなかった。春太郎たちは、気まずいような雰囲気でその場にいる。

 一件落着かどうかも怪しいまま、君江たちは浦野家を後にした。

 そして柚は、春太郎と二人きりになったときに尋ねてみた。

「旦那様、間違いって何のことですか?」

「…………」

「そりゃあ私は完璧に仕事をこなせるような人間じゃありませんし、何かを間違えることだってありますけど……」

「母上の言ったことは気にするな」

「はぁ……でも本当に、私たちのこと認めてくれたんですかね?」

「あれで、母上は私には甘いんだ」

 君江はとやかく文句を言うが、春太郎がぶれない態度で、めげずに説得すれば認めてくれるのだと、彼は思い知ったようだ。彼も相当のことではないと、反抗しないが……

(それは私もだ……)

 柚は今になって気づいた。本心では、婿を取ってほしいと願っていた両親が、何一つ文句を言わずに、春太郎とのことを応援してくれたのだ。甘いのは自分も同じだと、柚はしんみりする。

「旦那様、近いうちにお滝さんにも報告しに行きましょう」

「…………」

 春太郎はすぐに頷きはしなかった。

 長年、浦野家に仕えていた滝に、柚とのことを報告したいという気持ちはある。だが、滝が隠棲している村には、柚の実の父親がいた。その人は柚が自身の子だとは知らず、柚も父親だとは思っていない。柚としては複雑で、村に行きたくないのではないかと、春太郎は気を遣っていたのだ。

 そんな春太郎の気持ちを察した、柚が言った。

「大丈夫ですよ。私もお滝さんに会いたいですし、それに西安さんにも……」

「……!」

 春太郎はあからさまに嫌な顔をした。

 西安とは、村に住む住職で、少し曲者なのである。意外にも柚は西安のことを好ましく思っているが、春太郎は苦手であった。

「風史編纂係の仕事もしないと、ですよね」

「そうだな」

 西安がいる寺には、ある不思議な物がある。怪異に関係する物であるから、『棗の怪異物語』を編纂するにあたっては、西安に話を聞かなければならなかった。


 そして数日後。柚と春太郎は、滝に会いに来た。

「よかったねぇ。坊ちゃんも、柚ちゃんも」

 滝は目尻に涙を浮かべてよろこんでくれた。柚の方も泣きたくなって、急に春太郎と祝言を挙げるのだと実感する。

 祝言には浦野家まで来てくれると、滝は約束してくれた。

「さてと、そろそろ帰るか」

「まだ西安さんに会っていませんよ」

「……忘れていなかったか」

「大事な仕事のことなのに、忘れるわけないじゃないですか」

 柚はそう言った後で、妙な引っかかりを感じた。

 忘れるわけない。確かに西安に会うことは忘れていたかったけれど、もっと他に、大事なことを忘れている気がした。

「私、旦那様から何か頼まれていましたっけ?」

「何も頼んでいないぞ。まさか、耄碌もうろくしたのではあるまいな」

「う……」

 相変わらずの口ぶりに、たとえ春太郎が夫になっても、この関係が続くのだと予感する。

 柚は違和感の正体を思い出せないまま、西安のいる寺に向かった。

 だが、西安は不在であった。代理で寺の切り盛りをしている隣村の僧が言うには、あと十日は帰ってこないそうだ。

 春太郎は少しほっとした顔をして、柚は残念そうにしていた。


 また数日後、柚は春太郎から自由な時間をもらったので、その日は濡女に会いに行った。

「うれしいわ。私のこと、忘れていなかったのね」

 柚が出会った中でも邪悪な妖怪で、命の危機に瀕したこともあったが、今では友人のような関係が続いている。濡女も柚には友好的で、決して人は襲わないと約束していた。

(まただ……)

 忘れる……そのような言葉を聞くたびに、不安に駆られてしまうようになっていた。

 何かを、忘れている。とても大切な、何かを……

「ねぇ、お願い。柚と一緒に、街を歩きたいの」

「でもここから出られないんじゃ……」

「そんなことないのよ。私が好きでここにいるだけで、どこにでも行けるから」

「じゃあ私も行く!」

 夕方になり、人の姿になった玉緒が、勇んで言った。

 玉緒は、柚が濡女に襲われやしないか、心配なのである。

 三人が向かったのは……

「お前はには人間の友達はいねぇのか」

「大きなお世話よ」

 宿場町にあるお化け屋敷には、妖怪が一人、働いている。

 柚に軽口を叩くこの男こそ、伊佐三と名乗っているが、正体は鎌鼬という妖怪であった。

 以前に柚は、怪異の調査でこのお化け屋敷を訪れたことがある。玉緒や伊佐三と出会った頃のことで、何だか感慨深いものがあった。

 暗闇を進み、ときにお化け役の人間に脅かされ、悲鳴を上げながら出口を目指す。何度来ても、ここのお化け屋敷は恐ろしい。

「二人は恐くないの?」

 返事はなかった。近くにはいるのだろうが、しかと二人の居場所が見れないため、柚は余計に不安になる。

 やっと、出口に着いた。

「怖かったぁ。ねぇ……」

 隣にも、振り向いても、玉緒と濡女の姿はなかった。

(やだ、はぐれちゃったのかな……)

 妖怪に暗闇など関係ない。だから、柚を見失うわけはないのに……

 しばらく待っても二人は姿を現さないので、柚は入り口にいた伊佐三のところに向かった。

「あの、すみません。伊佐三さんは……」

 彼の姿がなかったので、お化け屋敷で働いている他の人に尋ねたのだが、衝撃的な答えが返ってきた。

「そのような名前の人、うちにはいませんよ」

 誰もが伊佐三のことを、忘れてしまっていた。

 玉緒と濡女も姿を消したまま、戻ってはこなかった。



【鎌鼬】


 宵闇の中、にわかに突風が吹く。提灯の明かりが消え、再び灯したら、己の袖が切れていて、あっと驚愕す。

 風に紛れて姿は見せず、着物を切り裂く妖怪なり。決して人は傷つけず、破れた着物を見て、満足す。

 驚きたまえ。恐れれば、襲ず。侮るなかれ。その鼬に切れぬものなし。

 道中で鼬を見つけしときは、その手を見てごらん。鎌のようなる鋭い刃があれば、用心せよ。

 

【濡女】


 沼から女のすすり泣く声、たびたび聞こえり。あるときは年若い女、幼女、老婆にて、見る人により様々な姿なり。

 女、助けを求める。

 可哀そう。そう思えしとき、命の危機に直面す。

 油断した人間の手を掴みて、沼に引きずり込む恐怖の妖怪なり。大蛇のごとき身体が巻き付いて、逃げること叶わず。

 助かりたくば、決して魅入られぬこと。沼の中は、さぞ寒い。


【返魂香】


 大切な人、死して哀し。もう一度会いたし。

 その香、会いたい人を思い浮かべれば、たちまち姿を映し出す、不思議な香なり。

 行方知らずの人、思い浮かべれば、姿を現す有無にて、無事を知れるだろう。もし生きているなら、香は姿を映し、死せしときは、姿は映さず。

 香はある寺にありて、何度も焚かれた逸話あり。

 虚しいかな。香が映し出す人、霊ではなく幻なり。死後に会いたくば、三途の川を渡りし後ぞ。

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