五
「はぁ……」
君江のあまりに大きい溜息が聞こえた。
まるでお通夜のような雰囲気に、柚は早く抜け出したい気持ちである。それは定次も同じのようで、しきりにそわそわしている。隣に座す小松は、動じていなかった。
「私はまだ、認めていませんからね」
(ですよね……)
柚を嫁に迎えたい。とは、以前から、春太郎が君江に相談していたことだった。すぐに君江が許してはくれないとわかっていて、早めに行動していたのである。
しかし柚からしてみれば、君江は絶対に、万が一にも許してくれないと思っていた。
いま柚は、春太郎と君江、それに小松と定次を交えて、浦野家で話し合いをしていた。
「どうしてそう頑固になったのかしら。春太郎が知らないだけで、気立ての良い女子はたくさんいるというのに。よりにもよって……」
女中なんかと、と君江は言いたげである。
「柚だって気立てがいいですよ。多少のことじゃあびくともしませんし、愛嬌もあるし、可愛いじゃありませんか」
「ちょっと、おっかさん……!」
「小松の言う通りだ。どこに嫁に出しても恥ずかしくないよ」
「おとっつあんまで変なこと言わないでよ。真面目に話そうってときに……」
「真面目に柚の良さを教えてあげてるのよ。おきゃんなところは相変わらずなんだから」
「褒めてるんだか、貶されてるんだかわかんないわよ」
おほん、と君江の咳払いが聞こえて、三人は押し黙る。
しんとした空気が、しばらく続いた。
はじめに口を開いたのは、春太郎である。
「まあ、このように母もしぶしぶ認めてくれましたから、何卒よしなに」
(どこが認めてるんですか!)
と、柚はつっこみたい気持だったが、これ以上うるさくすれば、君江の印象を悪くするばかりである。今さら印象もあったものではないが……
君江は文句を言いたそうな顔で、座している。
「それで、祝言はいつ頃にいたしましょうか」
定次が取りなすように尋ねた。
「早くて一年は待ってもらいます」
「そりゃあ何かと準備ってものが必要ですけど、もう少し早くてもいいんじゃ……」
おずおずと、今度は小松が尋ねると、君江は睨み返した。
「春太郎はいま、とても大事な仕事をしているんです。祝言なんか挙げている暇はありませんよ」
『棗の怪異物語』が完成するまでは、祝言はまかりならぬとのことである。小松と定次からしてみれば、早く柚の白無垢姿が見たかったのだが、柚が武家の家に入ることを許してもらった手前、強くは言い返せない。柚と春太郎からしても不服ではないので、祝言は一年後と決まった。
「柚さん」
いきなり君江に名前を呼ばれて、どきりとする。ちゃんと名前で呼ばれたのは、これが初めてであった。しかもさん付けで。
「もし間違いがあったら、祝言は絶対に認めませんからね」
「間違いって……」
「口答えしない!一年後までには、もっと武家の嫁らしくなりなさい」
「はい……」
間違いとは何だろうかと、柚は意味がわからなかった。春太郎たちは、気まずいような雰囲気でその場にいる。
一件落着かどうかも怪しいまま、君江たちは浦野家を後にした。
そして柚は、春太郎と二人きりになったときに尋ねてみた。
「旦那様、間違いって何のことですか?」
「…………」
「そりゃあ私は完璧に仕事をこなせるような人間じゃありませんし、何かを間違えることだってありますけど……」
「母上の言ったことは気にするな」
「はぁ……でも本当に、私たちのこと認めてくれたんですかね?」
「あれで、母上は私には甘いんだ」
君江はとやかく文句を言うが、春太郎がぶれない態度で、めげずに説得すれば認めてくれるのだと、彼は思い知ったようだ。彼も相当のことではないと、反抗しないが……
(それは私もだ……)
柚は今になって気づいた。本心では、婿を取ってほしいと願っていた両親が、何一つ文句を言わずに、春太郎とのことを応援してくれたのだ。甘いのは自分も同じだと、柚はしんみりする。
「旦那様、近いうちにお滝さんにも報告しに行きましょう」
「…………」
春太郎はすぐに頷きはしなかった。
長年、浦野家に仕えていた滝に、柚とのことを報告したいという気持ちはある。だが、滝が隠棲している村には、柚の実の父親がいた。その人は柚が自身の子だとは知らず、柚も父親だとは思っていない。柚としては複雑で、村に行きたくないのではないかと、春太郎は気を遣っていたのだ。
そんな春太郎の気持ちを察した、柚が言った。
「大丈夫ですよ。私もお滝さんに会いたいですし、それに西安さんにも……」
「……!」
春太郎はあからさまに嫌な顔をした。
西安とは、村に住む住職で、少し曲者なのである。意外にも柚は西安のことを好ましく思っているが、春太郎は苦手であった。
「風史編纂係の仕事もしないと、ですよね」
「そうだな」
西安がいる寺には、ある不思議な物がある。怪異に関係する物であるから、『棗の怪異物語』を編纂するにあたっては、西安に話を聞かなければならなかった。
そして数日後。柚と春太郎は、滝に会いに来た。
「よかったねぇ。坊ちゃんも、柚ちゃんも」
滝は目尻に涙を浮かべてよろこんでくれた。柚の方も泣きたくなって、急に春太郎と祝言を挙げるのだと実感する。
祝言には浦野家まで来てくれると、滝は約束してくれた。
「さてと、そろそろ帰るか」
「まだ西安さんに会っていませんよ」
「……忘れていなかったか」
「大事な仕事のことなのに、忘れるわけないじゃないですか」
柚はそう言った後で、妙な引っかかりを感じた。
忘れるわけない。確かに西安に会うことは忘れていたかったけれど、もっと他に、大事なことを忘れている気がした。
「私、旦那様から何か頼まれていましたっけ?」
「何も頼んでいないぞ。まさか、
「う……」
相変わらずの口ぶりに、たとえ春太郎が夫になっても、この関係が続くのだと予感する。
柚は違和感の正体を思い出せないまま、西安のいる寺に向かった。
だが、西安は不在であった。代理で寺の切り盛りをしている隣村の僧が言うには、あと十日は帰ってこないそうだ。
春太郎は少しほっとした顔をして、柚は残念そうにしていた。
また数日後、柚は春太郎から自由な時間をもらったので、その日は濡女に会いに行った。
「うれしいわ。私のこと、忘れていなかったのね」
柚が出会った中でも邪悪な妖怪で、命の危機に瀕したこともあったが、今では友人のような関係が続いている。濡女も柚には友好的で、決して人は襲わないと約束していた。
(まただ……)
忘れる……そのような言葉を聞くたびに、不安に駆られてしまうようになっていた。
何かを、忘れている。とても大切な、何かを……
「ねぇ、お願い。柚と一緒に、街を歩きたいの」
「でもここから出られないんじゃ……」
「そんなことないのよ。私が好きでここにいるだけで、どこにでも行けるから」
「じゃあ私も行く!」
夕方になり、人の姿になった玉緒が、勇んで言った。
玉緒は、柚が濡女に襲われやしないか、心配なのである。
三人が向かったのは……
「お前はには人間の友達はいねぇのか」
「大きなお世話よ」
宿場町にあるお化け屋敷には、妖怪が一人、働いている。
柚に軽口を叩くこの男こそ、伊佐三と名乗っているが、正体は鎌鼬という妖怪であった。
以前に柚は、怪異の調査でこのお化け屋敷を訪れたことがある。玉緒や伊佐三と出会った頃のことで、何だか感慨深いものがあった。
暗闇を進み、ときにお化け役の人間に脅かされ、悲鳴を上げながら出口を目指す。何度来ても、ここのお化け屋敷は恐ろしい。
「二人は恐くないの?」
返事はなかった。近くにはいるのだろうが、しかと二人の居場所が見れないため、柚は余計に不安になる。
やっと、出口に着いた。
「怖かったぁ。ねぇ……」
隣にも、振り向いても、玉緒と濡女の姿はなかった。
(やだ、はぐれちゃったのかな……)
妖怪に暗闇など関係ない。だから、柚を見失うわけはないのに……
しばらく待っても二人は姿を現さないので、柚は入り口にいた伊佐三のところに向かった。
「あの、すみません。伊佐三さんは……」
彼の姿がなかったので、お化け屋敷で働いている他の人に尋ねたのだが、衝撃的な答えが返ってきた。
「そのような名前の人、うちにはいませんよ」
誰もが伊佐三のことを、忘れてしまっていた。
玉緒と濡女も姿を消したまま、戻ってはこなかった。
【鎌鼬】
宵闇の中、にわかに突風が吹く。提灯の明かりが消え、再び灯したら、己の袖が切れていて、あっと驚愕す。
風に紛れて姿は見せず、着物を切り裂く妖怪なり。決して人は傷つけず、破れた着物を見て、満足す。
驚きたまえ。恐れれば、襲ず。侮るなかれ。その鼬に切れぬものなし。
道中で鼬を見つけしときは、その手を見てごらん。鎌のようなる鋭い刃があれば、用心せよ。
【濡女】
沼から女のすすり泣く声、たびたび聞こえり。あるときは年若い女、幼女、老婆にて、見る人により様々な姿なり。
女、助けを求める。
可哀そう。そう思えしとき、命の危機に直面す。
油断した人間の手を掴みて、沼に引きずり込む恐怖の妖怪なり。大蛇のごとき身体が巻き付いて、逃げること叶わず。
助かりたくば、決して魅入られぬこと。沼の中は、さぞ寒い。
【返魂香】
大切な人、死して哀し。もう一度会いたし。
その香、会いたい人を思い浮かべれば、たちまち姿を映し出す、不思議な香なり。
行方知らずの人、思い浮かべれば、姿を現す有無にて、無事を知れるだろう。もし生きているなら、香は姿を映し、死せしときは、姿は映さず。
香はある寺にありて、何度も焚かれた逸話あり。
虚しいかな。香が映し出す人、霊ではなく幻なり。死後に会いたくば、三途の川を渡りし後ぞ。
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