四
柚と春太郎に気づいて見やる弾正の顔は、にわかに苦し気だ。
あんなに
「どうなされたのですか?」
「なに、大したことはない。儂としたことが不甲斐ないのう……」
清之進によると、弾正は腰を痛めてしまったそうだ。しかもその訳というのが……
「実は葉太の姿を見ちゃったんだ」
朝のことである。葉太は巣から落ちた雛鳥を見つけて、巣に戻してあげたという。それだけの事実ならば、驚く要素など、どこにもない。
問題は、葉太の戻し方にあった。
葉太の正体は、古椿の霊という妖怪である。人間の姿をしていても、体を自在に椿の枝や葉に変化できる、むしろその姿こそが本来の姿である。
一緒に暮らしている清之進は、風史編纂係の人間であるからして、もともと葉太の正体を知っていたし、驚くこともなかったのだが、弾正はそうはいかない。
清之進のような人間は稀だ。弾正が、あるいは他の人間が見たならば、まことに驚く光景に違いないのだ。
そう、葉太は雛鳥を戻すときに、手をしなやかな枝にして戻してみせた。まさか弾正に見られているとも知らずに……
「で、驚いた拍子に腰を痛めちゃって寝込んでる。医者にも見てもらったけど、丈夫な人だから二、三日もすれば大丈夫だろうって。絶対安静だけどね」
「そこまで大事ではなくてよかったです」
弾正が寝込むなど何事かと思ったが、ひとまずは胸を撫で下ろせる程度で、柚と春太郎は安心する。
「それで葉太は……」
故意にではないが、弾正を驚かせてしまった葉太の姿が、どこにも見当たらなかった。
「どっかに行っちゃったんだ。正体がばれて、思うところがあるみたい……硯の魂がついてるけど」
葉太がいなくなったとき、清之進は
「噂には聞いていたが、かような者がいようとは……」
弾正がそっと呟いた。
「して、葉太はどこにいる?」
わからないという皆の反応に、弾正は少し驚いただけなのにと、独り言ちた。
「私、探してきます。葉太くんはきっとあそこにいるはず……」
柚は、葉太がいる場所に、心当たりがあった。
葉太はずっと、弾正に正体を隠し通すつもりだった。月尾と玉緒、二人の妖怪と一緒にいる柚からしてみれば、どうしてと思ったのだが、それはごく一部の反応だと葉太に言われたことがる。
「人間からすれば、妖怪なんて恐ろしくてたまらない存在なんだ。柚と浦野様は妖怪のことを調べているから身近に感じるだろうけど、本来はもっと、遠い存在なんだ」
妖怪は恐ろしい。柚は十分にわかっている。でも、そう思うたびに何かを忘れているような気がした。
ともかくも葉太は、弾正に恐れられることを懸念して、正体を明かさないつもりでいたのだ。
柚はそんな考えを巡らせながら、ある空き家へと向かった。
「ここって、おじいさんの家……」
一緒についてきてくれた玉緒が、ぽつりと
「葉太くんは、ここにいるはず」
柚が向かったのは、黄梅堂の先代が隠棲していた小さい屋敷である。黄梅堂が所有する屋敷であるが、先代が亡くなってからは、誰も使う人がいないのか、かなり庭も荒れている。
玉緒はこの屋敷で、先代に飼われていた猫だった。そして葉太も、先代と菓子を食べ合った、二人にとって思い出の場所である。
「あ!」
柚と玉緒が屋敷に着くと、縁側で硯の魂が飛び跳ねていた。
部屋の中を指さして、促している。
「葉太くん!」
彼は部屋の隅で、蹲っていた。柚たちの姿を捉えると、顔を上げたが、すぐに視線を下に落とす。つかさず、二人は葉太の元に駆け寄った。
「弾正様の腰はすぐ治るって!それに、葉太くんのこと、気にしてないよ」
たとえ妖怪だろうと、一緒に暮らせない理由にはならない。弾正は驚いただけで、毛嫌いするわけでも、畏怖したわけでもないと、柚は必死に説いた。
「このまま、忘れてくれた方がいい……」
「どうして……」
「玉緒ならこの気持ち、わかるでしょ?」
「わかるけど、わかんない」
玉緒は眉根を寄せて、続けた。
「人間と忘れられないくらいの関係になるくらいなら、はじめから、人間と仲良くしない方がいいって、思うときもあったよ。でも、今はもう、そんなことは思わない。柚のこと、絶対に忘れたくないし、私のことも覚えていてほしい」
「玉緒……」
柚と一緒にいて、玉緒は怖くなったときがあった。
人間の柚は、自分よりも先にいなくなってしまう。もしそうなったときに、とても耐えられないと、想像してしまった。
ならばいっそのこと、深い関係にならなければいい。すぐに忘れてしまうような、そんな仲に。
でも結局は、離れられなかった。
「長く生きるって、厄介だね……」
「うん。本当に」
妖怪ならではの悩みは、人としての時間を生きる柚には、すべてを理解することはできない。だけど、妖怪が人間と歩む上での辛さも、喜びも、確かにひしひしと伝わってきた。
「お前、考えてないようで考えてたんだな」
「あ、月尾!何しに来たのよ」
ふいに姿を現した月尾は、玉緒のふくれ面を面白そうに見ている。
「葉太のことが心配で、わざわざ来てやったんだろ」
「嘘だ。私のこと、揶揄いに来たんだ」
「よくわかってるじゃねぇか」
「なにを!」
玉緒が鋭い爪を振りかざす。もちろん冗談で。
またやっていると、柚と葉太は苦笑する。
悩んでいた葉太は、つかえがとれたような顔をしていた。
「ま、一人でも一緒にいたいと思える主がいるのは、悪くねぇよ」
月尾には、忘れられない主が二人もいる。別れの辛さを存分に知っている月尾は、それでも、春太郎と一緒にいることを選んだのだ。
「本当は、弾正様と暮らしたいんだ。もちろん清之進ともね」
葉太の気持ちを聞いて、柚は笑顔になる。
きっとこの気持ちは、玉緒も月尾も持っていると思えば、なお微笑ましい。
かくして葉太は、屋敷には戻った。
「弾正様、驚かせてごめんなさい。あと、勝手にいなくなってごめんなさい」
「もう心配はかけるでないぞ」
「はい!」
よかった。これで一件落着と、柚がほのぼのしていると、弾正に話しかけられる。
「柚、今日からみっちり、武家の心構えを教えてやるから、覚悟するのだぞ」
「はい?」
「さてと、まずは……」
寝ながら講義をしようとする弾正を、清之進が止めた。
「弾正様、腰が治ってからにされては……まだ時間もあることですし」
「しかし、今まで町人として生きてきたのだから、早いうちに仕込んでおかねば……」
「あの……」
今度は春太郎が口を挟んだ。
「今まで通りでよいのです。格式ばった家でもありませんから」
「ちょっと、皆さん!私にわかるように話してくれませんか!」
柚は声を荒げて、説明を求める。
「柚ちゃんが弾正様の養子になって、俺の義妹になる話だよ」
「うむ。だから儂のことは、父上と呼べ」
清之進と弾正が、穏やかな表情で言った。
「え……!」
「嫁でもいいんだけど」
「兄上!」
「てことは私、旦那様の……って、勝手に話を進めないでくださいよ!」
柚は春太郎に訴える。
「ちゃんと説明しようとしたが、ぐーすか寝られては話せるものも話せない」
「ぐーすかって……だいたい、旦那様のお母上が、許すわけないじゃないですか!」
春太郎の母である君江は、とかく厳しく、柚にも辛く当たったことがある。以前は嫌われている様子だったので、しかも町人との婚儀など、決して認めてくれなさそうだと思っている。
「母上は俺が折れないとわかって、不承不承、了解してくれた。一緒に住むわけではないから、安心しろ」
柚は戸惑っている。
気づかないふりをしていただけで、そんな予兆はあったが、実際に話が進んでしまうと、素直にもなれない。
「嫌ならなかったことにできる。俺も無理やり嫁にするほど、非道な男ではない」
「嫌なわけないじゃないですか!」
思わず言ってしまって、口を押さえたところでもう遅い。
春太郎は満足気に笑った。
周囲はおめでとうと言っているが、柚は赤い顔で硬直している。弾正がいることも気にせずに、否、もう正体を隠す必要のなくなった月尾と玉緒、それに硯の魂が姿を現す。玉緒は、我ごとのように喜んで、柚に抱きついた。
【古椿の霊】
屋敷の庭に、ひっそり咲き誇る赤い花、夜半にひそかに動き出す。
枝はしなやかに伸びて、さながら人の手足のように揺れている。大事に育てられた花は意志を持ち、屋敷を去ってゆく。時々、庭に揺れる影は、再びまみえる古椿なり。
主なしとて忘れじの花。亡くした屋敷の主を慕いては、廃墟に訪れる。
他事は忘れても、主だけは記憶に留めり。
【硯の魂】
暇を持て余した男、にわかに誰かの声が聞こえけり。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
誰ぞが平家物語を読んでいる。否、演じている。
硯に宿りし、いと小さき精霊、さながら役者のごとく、科白を朗吟す。それ義経や、軽々
次は何を、演じるものか。
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