栗摩沼はおよそ丸い形をしていて、直径六間(約十メートル)くらいの大きさである。辺りは雑草が生い茂り、奥深くには林がそびえている。晴天の日に来れば何てことのない場所も、夜や霧があるときには、鬱蒼うっそうとした雰囲気がありそうな場所だ。

「少し匂いは残ってるが、今はいねぇようだ」

 妖怪が多数目撃されている栗摩沼は、井口が封鎖していた。誰も入ってこない場所にあって、月尾は姿を見せてそう言った。

 つまり、栗摩沼に妖怪がいたのは事実ということだ。

「数は?」

「どうやら一人みたいだぜ」

「じゃあ子どもも老婆も、みんな同じ妖怪ってこと……」

 月尾や玉緒のように、人間の姿に化けられる妖怪もいるが、様々な姿に変化できる妖怪もいるとは驚きだ。

「姿を変えては人間を驚かす、か……」

「怪我をしそうになった人もいたんですよね。危険な妖怪なんじゃ……」

「だが怪我人はいない。どれも不幸中の幸いなのかもしれないが、玉緒のように、ただ驚かすことだけを目的とした妖怪かもしれん」

 猫又になったばかりの頃の玉緒は、人を驚かすことを楽しんでいた。怪我をさせたいだとかを目的とせず、ただ純粋に、驚く人間の姿が見たかったのである。今回の妖怪は、そのたぐいかもしれないということだ。そうではないという可能性も……

「変化の術に長けているのだから、低級な妖怪ではないということは確かだ。用心してかかるのに越したことはない。しばらくは様子を見よう」

 どうやら早々、危険なことはないようだ。今は落ち着いていられても、油断をしてはいけない。人間に優しい妖怪もいれば、害をなす妖怪もいるとは、身をもって知っていることである。

 沼から引き返そうとすると、柚は今まで気づかなかったものをとらえた。

 沼をながめると背後にあるそれは、古びたほこらであった。

 柚は自然と、その祠に足を向けていた。すると春太郎も、同じく祠に向かっている。

 ちるに任せている、という印象だ。石造りの祠はひびが割れ、原形をとどめていない。様々な怪異事件を経験している柚は思わず、可哀想という感慨を持ったが……

「懐かしいな」

 春太郎は穏やかな声音でつぶやいた。

 唯一、主が教えてくれなかった過去の出来事は、この祠から始まった。


——十年前。

 春太郎は日々が怒濤どとうのように過ぎてゆくのを感じていた。

 浦野家に来たばかりの頃は、穏やかな日々だったと思う。いや、自分の知らないところでは、どうしようもないわだかまりが生じていたのだ。

 兄と母の確執を、感じていなかったわけではない。兄が罪を犯すほど母を、そして自分自身を追い詰めていたことには、気づけなかった。

 優しかった兄は捕らえられ、春太郎は父から風史編纂係の仕事を教わるようになる。

 次男の、ましてや浦野家とは血の繋がりのない春太郎は、まさか自分が家督を継ぐことになるとは、想像もしていなかった。兄が釈放されるまでの繋ぎであるとしても、当主の責務は全うしなければならない。

 風史編纂係の仕事は、はじめは楽しいというよりも、細かい決まりや心得を覚えるのに必死だった。気持ちの面でも、家族の蟠りがさいなんでしまう。春太郎の青春時代は、鬱屈としたものだった。

 風史編纂係は、妖怪を調べることだけが仕事ではない。土俗についてもまとめなければならなかった。

 春太郎はその日、栗摩沼にある祠について調べていた。誰が、何のために建てた祠なのかがわからない、いにしえの忘れ去られた祠だった。祠の由来については歴代の浦野家の人間ですら知り得ないことであり、長年の課題でもある。何の手がかりも得られず、春太郎は途方に暮れていた。

(まあ、わかるわけもないか……)

 収穫を得られなかったとしても、帰って父に叱られるわけでもなし、春太郎は懐に携えていた饅頭まんじゅうを祠に供えて、帰ろうと決めた。

 だが饅頭を添えて手を合わせていると、供えたはずの饅頭がなくなっているではないか。

「…………」

 小動物が来た気配はない。近くに饅頭が落ちてもいなければ、風も吹いていない。目をつむっていた少しの間に饅頭がなくなってしまった。

「誰ぞいるのか?」

 問いかけても、返事はなかった。

 それから毎日、春太郎は祠に饅頭を供えた。不思議なことに、毎回饅頭はなくなってしまうのだった。

 祠には、不思議な何かがいる。風史編纂係の仕事を学んでいる春太郎はそう確信した。

 祠の由来を解明できるかもしれないという思いよりも、ただ純粋に、その存在が気になった。

 そして、饅頭を供えるようになって五十日が経過したときだった。

「よく飽きずに来やがる」

 いつものように饅頭を供え終えると、どこからともなく男の声が聞こえた。

「ほほう。驚かねぇとは、どうやら怪異と関わりのある人間のようだな」

 声の主の姿は見えない。ならばどこからと、春太郎が狼狽うろたえることはなかった。

「少々、特殊な仕事をしている」

 このとき春太郎は、はじめて怪異と出会った。なのに落ち着いていると思いきや、静かに高揚こうようしていたのだ。

「それなら話が早い。あと五十日、饅頭を供えに来れば、俺は助かる」

「助かる?」

 姿の見えない彼は語った。

 この祠は、ある男が彼を祀るために建てたそうだ。だが、誰にもかえりみられなくなった祠は、人々の信仰心が薄れ、もうじき彼の存在も消えてしまうほどらしい。

 代々、浦野家の人間が祠を調べるも、朽ち果てた祠に饅頭を供えた者はおらず、ましてや春太郎に饅頭を供えられるまでは話すこともできなかった彼は、助けを求めることすらできなかった。

 あと五十日、春太郎が信仰を続ければ、彼は元の姿に戻れるという。

百夜ももよ通いというわけか」

 かの有名な平安時代の美女、小野小町は、自身に想いを寄せる男に、もし私のもとに百夜通えば貴方のものになると言い、男は毎晩、小町の家を訪ねた。男は幾晩も通い続け、とうとう百日目を迎えるも、小町の家に向かう途中で、凍える雪の中で死んでしまった。

 という甘くも切ない雰囲気はないものの、春太郎は祠に通いつめたのであった。

 五十日目以来、声は聞こえなくなった。だが饅頭は消えてしまうので、問題はないのだろう。

 そして、百日目。小町に想いを寄せた男のような悲劇もなく、春太郎は無事に饅頭を供えることができた。

「…………」

 しかしその日、饅頭は消えなかった。声も聞こえなければ姿もない。助けられたのかすらもわからず、春太郎は困惑した。

 次の日も、また次の日も、春太郎は祠に饅頭を供えた。饅頭は消えることなく、そこにあり続ける。

 詳細な由来も、謎の主の正体もわからないまま、時は過ぎた。


「……て、月尾と出会ってないじゃないですか」

 饅頭好きであるし、祠の主が月尾であることは柚にもわかった。今の話を聞く限りでは、結局、春太郎は祠の主と出会わなかったことになる。

「その後も主は祠に通い詰めてくれたんだが、俺はとっくに力を取り戻していたんだ」

「じゃあなんで、姿を見せなかったの?」

「まあ要するに、月尾は恥ずかしがりやなんだ」

「…………!」

 春太郎の言葉に、月尾は赤らめたほおをかく仕草をする。猫の姿の玉緒は、揶揄からかうように鳴いた。

「百夜通いから二年後、とある怪異事件に巻き込まれて、妖怪に襲われたときがあったのだが、そのとき月尾が助けてくれたんだ」

 まだろくに護身用の札も作れなかった時分のことである。父からもらった札はあったものの、危険な目に遭ってしまったことがあり、そのときに月尾が守ってくれたのであった。

「声を聞いて、すぐに祠の主だとわかった」

「それから一緒に……」

「なんやかんや、俺の主になったんだよな」

 そんなこと言って、本当は好きで一緒になったくせにと、柚は心の中で呟く。

 てっきり壮絶な戦いの末に仲間になったのではと、そんな想像もしていたのだが、出会いも主従になったのも、あっけないものであった。

 月尾はきっと、春太郎にかれるものがあったのだろう。主として仕えたいと、忠臣さながらの心だったのかもしれない。玉緒が単純に柚と一緒にいたいと思う気持ちと一緒だ。

 隠すような出会いではないのに、春太郎が柚に話さなかったのは、勝手に大きい想像を膨らませていた柚に、言えなかっただけだった。


 昔々、それこそ小野小町がいた頃の時代、月尾という名の犬神は、さる陰陽師に仕えていた。陰陽師は都を離れ、各地を旅し、妖怪退治などを行っていた。人間には寿命というものがあり、流れ着いた棗の地で陰陽師は死の床についてしまった。

 月尾、私が死んだら、他の者に仕えて助けてあげなさい。

 陰陽師はそう言った。

 月尾にその気はなかった。主以外の誰にも仕えるつもりはない。と、月尾が答えれば、陰陽師は弟子に命じて、月尾のための祠を作った。

 やがて陰陽師は死に至り、途方もない時が経っても、月尾は祠にあり続けた。

 いつしか祠は忘れ去られ、たまに祠を調べに来る奇妙な人間が来るのみになる。

 一際奇妙だったのは、祠とも呼べないお粗末なものに、饅頭を供える者がいた。彼のおかげで月尾は元の力を取り戻す。

 いまさら、力などいらない。祠が忘れ去られようとしたときなら、余っていた力で人間をおびやかし、信仰を求めることなど容易たやすかった。なのにそうしなかったのは、主のいなくなった世界から消え入りたいと思っていたからだ。なまじ力が強いだけに、簡単には消滅してくれない。もう少しで、消えたはずだったのに……

 だが、奇妙な饅頭の彼をうらんだりはしなかった。力を取り戻しても彼に姿を見せなかったのは、妙な情が芽生えてしまいそうだったからだ。

 饅頭を供え続けてくれる彼はある日、妖怪に襲われてしまう。気づけば彼を助けていた。

「どうかしもべにしてください」

 そんなことまで言ってしまった。


 翌日、柚は春太郎と栗摩沼で待ち合わせていた。もちろん、妖怪の調査のためである。

「まだ来てないみたいね」

 腕に抱く玉緒に声を落とすと、何かの気配を感じて顔を上げる。玉緒は柚の腕から降りて、威嚇いかくを始めた。

「ふふっ……」

 怪しげな笑みを浮かべる女が、柚を見ていた。

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