邪魅ノ怪 一

 師走しわすに入った途端、棗藩内の景色は白い雪片に覆いつくされようとしていた。標高高い山々は、粉砂糖をまぶしたように化粧されている。

 わびしくも美しい景色は、棗藩の人々にとっては見慣れた景色だ。子どもの頃はきずにはしゃいでいても、大人になれば寒いという感情が強くなって、景色に見惚みとれることも少なくなってしまった。

 柚がもっぱら見ているのは地面だ。浦野家の庭には、柚が丹精込めて作っている畑がある。白い雪の中には、みずみずしい大根がたくさん植えられていた。

 幸いにも土が良く、あっという間に大根畑と化した景色こそ、柚には壮観だった。

 狐火や古椿に出会ってからは、しばらくは怪異に巡り合うこともなく、穏やかな日々である。

(なにが怪異を引き寄せるよ。あれっきり、怪異は音沙汰なしじゃない。それにしても、妖怪と生活するのも慣れちゃったな)

 玉緒と寝起きをともにして、ときどき月尾と話すのは、柚にとってはごく普通の日常でも、妖怪と生活している人間が、いったい何人いるのか。

 柚はてきぱきと農具を片づけ、入念に身体についた泥を落としてから、身支度を整える。

「月尾、行ってくるね」

 彼の姿は見えない。が、どこからともなくおうと返事が聞こえた。

 主の春太郎と玉緒は外出していて、家にいない。柚も出かけるので、留守を預かるのは月尾であった。

 柚は大きい風呂敷を抱えて、雪道を歩く。目的地に着くころには、すっかり鼻の頭が赤くなっていた。

 門番に用件を伝えると、別の係の者がやってきて、すぐに中に案内される。

 場所柄、身構えていたが、特に身の危険は感じなかった。

 なにせここは、罪を犯した棗藩の士族の者が捕らえられている、中尾獄である。どんな乱暴者が捕らえられているのかと思いきや、獄の中はいたって平穏であった。

 囚人たちは、獄の中であれば自由に出歩けるようだ。柚の他にも、囚人に会いに来た家人の姿もある。罪人とはいえ士族だから、待遇もよい。

 獄舎はコの字型に建てられていた。一人につき一つの獄舎が与えられている。そのうちの一つに案内された。

「面会だ」

 獄舎の中にいる男は、背を向けて寝そべり、書物を読みふけっている。看守が声をかけても、すぐにこちらを向こうとはしなかった。

「頼んだ本は持ってきてくれた……て、春太郎じゃない」

 振り返った男は、だらしなく無精髭ぶしょうひげを生やしている。予想だにしない来訪者に、目を見開いていた。

「旦那様の代わりに来ました。新しく女中をしている、柚といいます」

「君が……わかってれば、ちゃんとしたのに……」

 伸ばした髪は、無造作に一つに束ねただけ。急いで居住まいを正す彼に、柚は思わずくすりとしてしまう。気分を害してしまったかと危惧きぐしたが、彼は穏やかに、にこりと笑った。

「会いたかったよ。春太郎ったら、いつまで経っても会わせてくれなかったんだもん」

 優しそうだ、と同時に、春太郎には似ていないという印象だった。

 彼ら兄弟が似ていないのは当たり前だ。二人は、血がつながっていないのだから。


 いずれ話そうと思っていたと春太郎に切り出されたのは、つい昨日のことだった。

「野上殿から聞いて知っているだろうが、俺には兄がいる」

 柚が弾正の家にいたとき、たしかに聞いていたことだった。とても優秀な、弾正の元教え子だと。

「兄上がいるのは、中尾獄だ」

 獄にいるということは、兄は罪人として捕らえられているということである。

「野上殿が藩政府に危険視され、追いやられたのは聞いているか」

「はい……」

糾弾きゅうだんされたのは、野上殿だけではなかった。野上殿の門弟数人も糾弾を受けていて、兄上はその中の一人だ」

 国を憂える心が、幕府を批判した。藩政府は弾正と門人たちが暴発するのを恐れ、ある者は蟄居ちっきょを命じられ、ある者は獄につながれた。

 春太郎の兄、清之進は、蟄居にとどまらず、獄につながれてしまっていた。

 兄が投獄されているのも驚きだが、もっと衝撃的だったのが……

「実は俺と兄上は血がつながっていない。俺はもともと、同心の子だ」

 もともとは同心職の小山田家の長男として生まれたという。

 しかし春太郎がわずか二歳のときに、父の汚職が露見し、同心職を没収されたうえに切腹している。残された春太郎と母は、母方の実家でしばらく暮らしていたが、およそ三年後に母は浦野家の当主と再婚した。

 浦野家の当主、牧之進は先妻に先立たれ、先妻の忘れ形見である長男の清之進と暮らしていた。つまり、春太郎は後妻の連れ子であり、牧之進と清之進とは血が繋がっていない。だが、牧之進も、五つ歳が離れている清之進も、春太郎のことを可愛がった。実の父のことを覚えていない春太郎にとって、父とは牧之進のことである。彼には何の不満もなかったが、実は内心で不満を抱いている者がいた。

 清之進は、継母を受け入れられなかった。

 新しい弟を可愛がる気持ちに嘘はなかったが、どうしても後妻である君江とは折り合いが悪かった。

 何年経っても、言い争いは絶えず、次第に清之進は家に寄り付かなくなる。学友たちと遊び明かすか、一人でふらふらしているか。過激な国政を論じていたのは、師の影響もあるが、ほとんどは憂さ晴らしのためである。師と連座して、清之進は獄に繋がれてしまったのだった。

(そっか……私のことを女中として受け入れたのは、お兄さんの気持ちがわかったからなんだ)

 継父といるのが嫌で家を飛び出した柚を、春太郎は何を言うでもなく女中として雇った。それは、兄に共通する思いを抱いている柚を、突き放すようなことはできなかったのだ。

 清之進が獄に繋がれたのは自分に責任があるとして、母の君江は再び実家に帰ってしまったという。離縁されたわけでもなく、牧之進は再三戻ってくるように声をかけたが、頑として君江は浦野家の敷居をまたごうとはしない。そして九年の歳月が経とうとしていた。

「四年前に父が亡くなり、私が後を継いだ。だが、兄上が戻られたら、私は家督を兄上に返上するつもりだ」

 春太郎は若くして、父を二人も亡くしたことになる。

 通常であれば家督は長兄が継ぐものだが、獄に繋がれている者にそれは許されない。自然と春太郎が家督を継ぐ役目を担った。

 清之進に言い渡されたのは、十年の獄舎生活である。晴れて来年には、自由の身になれるのだ。そうなれば、兄に家督を返さなければならないというのが、春太郎の考えである。

 本来家督とは長兄が継ぐべきもの、という理由もあるが、自分は浦野家とは血のつながらない人間で、自分は悪くないにしても、兄が投獄されたのは母の再婚に一端があるという負い目からだった。

「お兄さんが家督を継いだら、旦那様はどうするんですか?風史編纂係って旦那様の天職みたいなものなのに、何だかもったいないですね」

「まだ考えてないが、この家からは出て行くつもりだ。兄上に負担はかけられないからな。それに俺には、風史編纂係は合っていない」

「え!そんなわけ……」

 怪異が好きかどうかはともかく、分析力に優れた春太郎には、ぴったりの仕事ではないかと思っていた。明らかに、文官気質でもある。

 もともとの同心職は剥奪はくだつされているので、同心にもなれない。武家の次男は冷や飯食いとは言うが、職にありつくのも大変である。

――春はいい同心になってたかもなぁ。

 幼馴染の同心が彼に言った言葉には、複雑な意味も込められていたのだ。

 春太郎は、兄に遠慮している。ただ兄だからというだけではなく、複雑な事情が混ざり合っていて、本人たちにもどうすることもできないのだろう。

 家を出て行かなくても、一緒に風史編纂係の仕事をすればいいではないか。とでも言いたかったが、主君の家の事情に、一介の女中が口をはさむことはできない。どうなるんだろうと、思っていることしかできないのだ。

「明日は兄上との面会を約束していたのだが、俺は左近寺殿の家に行かなくてはならない。代わりに、兄上に会ってきてほしい」

 今までに出会った武士たちを思い浮かべて、柚はつい言ってしまった。

「人使いが荒かったり、お尻を揉んだり、勉強とかさせられないですよね」

「誰のことを言っているのかは聞かないでやるが、兄上はいたって真面目な方だ」

「はあ……」


 牢越しにいる清之進は、顔はもちろんのこと、雰囲気も春太郎とは似ていない。髭を剃っていない姿が恥ずかしいのか、しきりにほおでている。

(き、気になる……)

 清之進の髭、ではなく、清之進の背中に隠れている何か。人の指ほどの大きさのそれらは、遠目には真っ黒い姿をしていて、もぞもぞと動いている。

 動物や虫ではない。特殊な存在への抗体ができてしまった柚は、またかと思うにとどめられた。

「おや、柚ちゃんの匂いにあてられて、姿を現したようだ」

「匂いですか……ということは、清之進様にも見えてたり……」

「浦野家の人間だからね。小さい頃から妖怪を見てきて育ったんだ。柚ちゃんは妖怪と一緒に生活してるから、その妖怪たちの匂いがついてるんだよ。俺たち人間にはわからない匂いだけどね」

 そういえば、古椿の霊にも、妖怪の匂いがしたと言われたことがある。もしや畑仕事でかいた汗の匂いでもしているのかと必死に鼻をひくつかせてしまったが、やはり柚には何の匂いも感じられなかった。

 そして清之進にも、妖怪という存在が、当たり前であるらしい。月尾と玉緒の存在も、春太郎から聞いて知っているのだろう。

「彼らはすずりの魂。その名の通り、硯が妖怪に変じた存在なんだ」

 柚が安全な存在とわかり、硯の魂たちは一斉に柚の前に躍り出た。

 まさに突撃するような格好である。

 胴体は硯のように真っ黒な色をしている。全部で九体。どれもが甲冑を身に纏い、槍や刀を手にしていた。

「ひえ……!この妖怪、武器を持ってますよ!」

「人に危害は加えないから大丈夫だよ。この子たちは役者なんだ」

「役者……?」

「平家物語を演じるのが得意でね。けっこう臨場感があって面白い。今度、柚ちゃんにも見せてあげなよ」

 飛び跳ねているのは、わかったの合図なのだろうか。

 硯の魂が清之進のもとに現れるようになったのは、牢に入ってすぐのことだった。毎夜、平家物語を演じてくれるので退屈しなかったそうだ。

 人を驚かせる妖怪もいれば、楽しませる妖怪もいる。柚が今までに出会った妖怪たちには、どれも危険視するような存在はいなかった。しかし、柚が知っている妖怪たちは、世の中に存在するほんの一部の妖怪たちに過ぎない。妖怪のすべてが人に害をなさないわけではなかった。

 柚はまだ、妖怪の本当の怖ろしさを知らない。

 清之進はとても話しやすかった。弾正に秀才と言わせるほどの実力を兼ね備えていても、堅苦しいところはない。女中の柚にも親しく、冗談を交えて話す。次第にお互いのあれやこれやを話していた。

 実は柚にも苦手に感じている継父がいること。継父と一緒にいたくなくて、女中を始めたこと。友達になった妖怪は可愛くて、毎晩一緒に話したり寝ていること。

 清之進の方は……

「棗藩では藩校の成績優秀者に、江戸での遊学が許されるんだ。昌平坂学問所っていうとこで勉強できるんだけど、俺はそれをずっとねらってたんだ」

 成績優秀者は士分であれば、家の禄高を問わずに江戸遊学が認められた。清之進には叶わぬ夢ではなかったが、江戸遊学を許される前に、獄に繋がれてしまったのである。

「もう一度、藩校で学べないんですか?」

「うーん……さすがに前科者だからなぁ。それに、弾正先生がいないんじゃつまんないし。でも、いつか俺は江戸に行くよ」

「え!風史編纂係のお仕事はどうするんですか?」

「春太郎に任せるつもり。春太郎にはさんざん迷惑をかけてるからね。今度は迷惑をかけないで、一人でのんびりするつもりだよ」

 なんということだ。春太郎は清之進に家督を返上するつもりで、清之進は春太郎に任せるつもりでいる。

(でも、兄弟の本心はわからないか……)

 どちらも遠慮しているだけで、本心では風史編纂係の仕事をしたいのかもしれない。あるいは、家督を譲ってもいいと思っているのかもしれない。

 武士の世界は本心だけでは生きられないのも、事実だ。

(私が聞いちゃいけないことだよね……)

 気にならないと言ったら嘘になるが、ここから先は立ち入り禁止だと、柚は口をつぐむ。そんな柚に、清之進は言った。

「春太郎が柚ちゃんを気に入ったのが、わかる気がするよ」

 柚は決して、他人の深いところに触れようとはしなかった。

 継父に触れられるのが嫌で、それを他人にしないように、自然と心がけていたのである。

「私は妖怪を引き寄せるからって言うんですよ」

「照れ隠しで言ってるだけだよ。本当は柚ちゃんのこと……」

「本当は……」

「その先は春太郎から聞いてみてよ」

 清之進の言っていることはよくわからなかったが、春太郎が照れている姿など、微塵みじんも浮かばない。清之進はにこにこと、楽しげである。

「初めて会ってお願いするのも悪いんだけど、一つ、頼まれてくれないかな」

 と言って清之進から手渡されたのは、数冊の書物だった。

「俺の友達に、真先まさき長一郎って人がいるんだけど、これを渡してくれないかな。あいつの読みたがってた本なんだ」

 断る理由もなく、柚はこころよく引き受けた。

 真先長一郎は清之進とともに藩校で学び、清之進同様、藩に糾弾された一人である。が、獄には繋がれず、三年の謹慎処分で済んでいた。

 真先家は代々藩の重役に就いてきた家柄で、重い処罰を免れたのである。清之進は獄に繋がれてしまったが、その後も二人の親交は絶えなかった。

 柚は清之進に書いてもらった簡略な地図を片手に、真先家を目指す道中、知人を見つけて声をかけた。

鎌鼬かまいたちさん、お久しぶりです」

 見た目はいたって普通の人間だが、彼の正体は妖怪である。

「てめぇ、まだ俺の名前を覚えてねぇのか。ずたずたに切り裂いてやってもいいんだぜ」

「ちょっと口がすべっただけですよ、伊佐三さん」

 物騒なことを言っているが、伊佐三はそんなに恐い妖怪ではない。お化け屋敷の興行を生業としていて、持ち前の鎌で切り裂くことはできても、無暗に人を襲ったりする妖怪ではない。

(ま、ほんとに切られたところで、私には主のお守りがあるもんね)

 以前、鎌鼬の刃を受けたことがあったが、春太郎からもらったお守りの効力で、無傷で済んでいる。そのお守りは肌身離さず持っているので、柚には絶対の自信があった。

(ふん。俺が本気で切ったら、お守りなんて意味もない……ここまで言ってやるほど、俺は親切じゃねぇよ)

 お互いに思うところは隠したまま、ふふふと笑い合った。

 伊佐三と別れた柚は、真先家に着いた。

 浦野家よりも立派な建物からは、人の気配がしなかった。声をかけても返事一つもない。門は開いていたので、少し顔をのぞかせて見るも、人の姿は見えなかった。

(誰もいないのかな……)

 仕方ない。明日また尋ねて来ようと、顔を戻そうとしたとき、ふいに声が聞こえた。

「待っていたよ」

 一瞬、その言葉に声の主は長一郎かと思った。だが、柚が尋ねに来ることは、清之進しか知らないことだ。

 ならば一体、誰の声だ……?しかも先ほどまで、誰もいなかった。

「おいで」

 ぐいと腕を引っ張られる。抵抗することを忘れた身体は、されるがまま。

 やっと、恐いという思いがやって来て、助けてと叫ぼうとするも、すでに口をふさがれた後だった。


 この冬、手代から番頭に昇格した弥市は、黄梅堂の近くに小さな一軒家を構えていた。

 弥市の正体は、黄梅堂の稲荷狐である。人間の姿に化けて、黄梅堂を助けていた。

「玉緒さんのために、炬燵こたつを用意したんですよ」

 玉緒は毎日、弥市を訪ねていた。

 はじめは弥市が妖怪であることを知らず、人間だと思い込んでいた玉緒であったが、弥市の方は玉緒の正体に気づいていたという経緯があり、羞恥しゅうちでしばらく会えなかったのを、最近は復活させていた。

 玉緒はほのかな恋心を口にしたことはないが、二人の関係は良好である。

 まだ人の姿にはなれない刻限、玉緒は猫の姿でぬくぬくと暖かい炬燵に寝そべって、弥市とほのぼのしていると、突然に起き上がった。

「どうしたんですか、玉緒さん」

――柚に何かがあった……

 玉緒の勘は、そう告げていた。

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