五
いま自分は、現実にいるのだろうか。もしかしたら夢の中にいるのかもしれない……
(……って、そんなわけない。全部、現実なんだ)
浦野家に来なければ知らなかったこと。こんなにも、身近に存在していた。
「妖怪、なの?」
猫耳を生やした――先ほどまで猫だった女に問いかけるも、女は素早く柚の真後ろに移動する。人の形をしていても、猫のように四足で動いた。春太郎と月尾から逃れるように、柚の後ろに隠れている。
「妖怪、猫又。おそらく、どこかで飼われていた猫が化けたのだろう。夜な夜なうちに来ては、女中たちを驚かしていたが……」
「ええ!違いますよ。だって、私が見たのはもっと怖い顔で……」
ちらと後ろを見る。背中に隠れているのは、目がくりくりしていて、長い癖毛の髪が可愛らしい、柚と同じくらいの少女だ。あの恐ろしい化け物とは、似ても似つかない。
「怖い顔くらい、できるんだろ?」
月尾がそう言って、猫耳少女は、ばつが悪そうに柚から目を
「うそ……」
猫から変化し、猫耳を生やした少女を人間だとは思わないが、怪我をしていてか弱い姿に、とても人間を驚かしていた姿は浮かばない。それよりも柚が気になったのは……
「旦那様は知ってたんですか!」
「何を?」
「この猫又が女中たちを驚かしてたってことです。知ってたなら、追い払うなり魔除けでもして、そうすれば前の女中たちは辞めなかったんじゃ……」
浦野家に奉公しようとした女中たちは、猫又の恐ろしい姿を見て辞めていった。それどころか、浦野家にお化けが出るという噂が広まってしまい、誰も奉公に行きたがらない有様である。柚を除いては……かくいう柚も、猫又を見て恐怖に
「言っただろう。風史編纂係は怪異を調べるのも仕事だ。怪異がやってきてくれて、観察しないわけがない」
(観察したいがために、放置してたっていうの……!)
お化け屋敷の怪異事件のように、怪我をさせるなどの害があれば、さすがに放置しなかったのだろうが、人を驚かすくらいでは、家の噂よりも観察の方が勝るらしい。
そろそろ見過ごせなくなってとは、春太郎の
「えっと、月尾さんも、妖怪だったりして……」
「ま、そういうことだな。お前も主の僕だ。気安く呼んでくれよ」
「はあ……」
月尾はにたりと笑ったが、果たして妖怪的な怖さを感じられない彼に、悪意はないのか。
「ちなみに、何の妖怪で……」
「犬神。お前も猫又も、すぐにけちょんけちょんにできるくらい強力な妖怪だから、滅多なことはしない方がためだぞ」
と、説明したのは春太郎である。この期に及んで、月尾が妖怪であることを疑ったりはしないが、妖怪と言われなければ人間と見分けがつかない。ましてや、けちょんけちょん扱いされるほど、恐ろしい妖怪にも見えなかった。しかし猫又だって、あの恐ろしい顔とは結びつかないのだから不思議だ。
「さて、猫又の始末はどうするか……」
再び皆の注目が、猫又に集中する。逃げても捕まると観念してか、しおらしい様子である。
「猫又さん。名前はあるの?」
「玉緒。さんなんかつけなくていいよ」
恐ろしさは皆無の、少女の声だ。
「玉緒はどうして、人間を驚かしていたの?」
「うーん……」
玉緒は言うのを渋っているのではなく、本当に悩んでいる様子だ。
「そうね、きっと、妖怪の性よ。特に理由なんてないもの」
「なんとも妖怪らしい答えだな」
妖怪とか怪異に詳しいであろう春太郎からすれば、ありきたりな理由だったのかもしれないが、柚からしてみればそういうものなのかという感じである。
確かに猫又の
でも、
「別にどうすることもないですよ。私とか他の女中さんのことが憎かったわけでもなくて、ただ驚かせたかっただけみたいですし。お化け屋敷の事件みたいに、誰も怪我はしてないじゃないですか」
玉緒の
突然、ひゅっと乾いた音が鳴った。後を追って、
少し欠けた月は、雲居に隠れている。だから庭先に現れた存在を、すぐには見つけることができなかった。何かが動いていると認識できたとき、月が雲をのけて出たかのように、その存在を浮かび上がらせた。
小さい顔をしかめて
「一夜にして猫又と鎌鼬に出会えるとは、今日はついている」
春太郎がうれしそうに言うからして、ただの鼬ではないのだ。柚にはちゃんと明日がやってくるのかと思ってしまうほど、非現実的な夜である。
「鎌鼬って……もしかして、玉緒の足を切ったのは……」
春太郎から教えられた、鎌鼬は切り裂く妖怪だというのを思い出して、もしや玉緒を切ったのは、この鼬ではないかと口にする。
「そいつが悪さをした所為で、めっきり客足が絶えちまったんだよ。人間の仕業じゃねぇと思っていたが、やっと見つけた」
妖怪は、人間の姿をしているときではなくても、人間の言葉を話している。玉緒も猫の姿のときでも話せるのだろうか。そんなことよりも、鎌鼬が言っていることは、柚たちの知っている事件のことだった。
「女中を驚かせていたのはただの悪戯で済むが、お化け屋敷の方は怪我人までいるからなぁ。いくらあんたが
「私、やってない!この子とかを驚かせていたのは素直に認めるけど、お化け屋敷の事件なんて知らないわよ!」
鎌鼬に引き渡そうとする月尾に、玉緒は必死に訴えた。
「ではなぜ、俺たちが行ったとき、お化け屋敷にいたんだ」
「あのときの猫……」
お化け屋敷の中で、荷物の下敷きになっている猫を助けたことを思い出した。お化け屋敷の中では、猫の姿をよく見ることができなかったが、あれも玉緒だったのか。
「それは……町で偶然この子を見つけて、また驚かせてやろうって後をつけたから……」
「驚かすつもりが助けられて、いまも助けてもらおうと、のこのこ現れたわけか」
鎌鼬に襲われ怪我を負った玉緒は、散々怖い思いをさせた柚に助けを求めたとは、間抜けな話だ。しかもお化け屋敷のときにも助けられている。
「お前ら、そいつの言うことを信じるのか?」
鎌鼬はまだ、玉緒を疑っている。
「知らないって言ってるじゃない。私を追ってお化け屋敷にいただけで……それに、私が切られたのは、玉緒が出て行った後……」
そもそもどうしてこの鎌鼬は、お化け屋敷の事件の犯人を追っているのか。むしろ切り裂く妖怪なら、犯行の手口からは鎌鼬の方が怪しいといえる。
しかしそれを聞くことはできなかった。柚が言い終えるよりも前に、鎌鼬が手を振り上げる。やはり妖怪だと思ったのは、振り上げた手が鎌の形をしていたからだ。先ほどまでは普通の手であったはずなのに。衝撃は刹那の間であったが、冷静に見てしまう。何が起きたのかはわからなかった。
「……!」
鎌鼬が振り上げた衝撃は、春太郎と月尾の間を抜けて、柚に当たった。
ざっくりと切られてしまった……と感じたのに、痛みはやってこない。恐る恐る身体を見下ろすも、赤い鮮血すらなかった。
(なんだ、ただの空気か……)
てっきり鎌で切られたような衝撃がきたのだと恐怖するも、鎌鼬が放ったのはただの空気。少し脅されただけだと柚は
「あの事件は、猫又が犯人というにはどうにも
「……あんたたちが犯人を見つけるっていうのか」
お化け屋敷では荷物の下敷きになり、鎌鼬には足を切られた玉緒は、人間を驚かしていた報いは十分に受けていて、これ以上、何も思わないという柚の考えは一貫している。悪戯をしていた相手に頼ってきた妖怪が、可哀そうであり、可愛かったのだ。
このままでは猫又が犯人にされ、鎌鼬に痛めつけられてしまう。
「絶対、見つけてやりますとも!」
猫又のことを思えば、胸を張って言っていた。
翌日、春太郎と柚は、再びお化け屋敷に足を向けていた。
「お前は
犯人を見つけると皆の前で宣言してしまってから、同心にも捕まえられない犯人を捕まえることができるのかと、
柚の宣言の前に、鎌鼬はしぶしぶ帰っていったが、いつまで待ってくれるかもわからない。春太郎は個人的に気になっていることがあるようで、お化け屋敷の事件を調べる気があるようだが、これが柚一人ではどうにもできなかったであろう。月尾はやる気がないらしく、昼間は姿を現してはくれない。柚が一番に驚いたのは、昨晩の騒ぎで一度も目を覚まさなかったという滝だ。
(なんか、どんどん主の私に対しての印象が、悪くなっているような……)
「怖い思いはしましたけど、悪戯好きの可愛い妖怪じゃないですか」
「妖怪を甘く見るな。人を害する妖怪は、ごまんといる」
「でも玉緒は……」
「そう、猫又は犯人じゃない」
「犯人の正体がわかったんですか!」
「……いや、まだわからないことがある」
今日はそれを確かめに行くのだと、
お化け屋敷は相変わらず、
「早く犯人を見つけろよ。でないと明日にでも、猫又をずたずたにしてやるぜ」
何でこの男が猫又という存在を知っているのか。まるで、昨夜にいたかのような言動は……
「かまいた……う……!」
月尾も玉緒も、人間の姿になれる。ならば鎌鼬だってそうなのだと、木戸番の男こそが鎌鼬であったと思い至り、正体を口にすれば、がっと鎌鼬に口を塞がれる。
「俺の正体を言いふらすな。俺には伊佐三って名前がある。……ったく、あんたは妙な力に守られているし、厄介な存在だ」
「ふが……!」
「何をしている。早く来い」
春太郎はお構いなしに先に行ってしまう。柚は
「まさかあの人も妖怪だったなんて……だから玉緒のこと、あんなに怒ってたんですね」
鎌鼬が人間のふりをして、お化け屋敷の興行をしていたのであれば、事件の犯人は許せなかったところなのだろう。妖怪がお化け屋敷を営むとは、
玉緒は猫耳があるが、月尾と鎌鼬には動物的な特徴がなく、人間と見分けがつかない。知らないだけで、町には妖怪があふれているのだとすれば、恐ろしいと思うべきところを、柚はそうならなかった。好奇心にも似た、高揚。
(主の影響か……?)
「こんな暗いところで、着物を切り裂くなんて……」
人間にはできない芸当だ。
「はじめの事件は、おそらく鎌鼬の仕業だろう」
「そんな!嘘を吐いて、玉緒に罪を着せようとしたってことですか!」
「そうではない。鎌鼬にしてみれば、ほんの悪戯だったのかもしれん。お化け屋敷で不可思議なことが起これば、客足が増えると踏んだのかもな。現に、一人目の事件の後は、繁盛したと聞いている」
「でも二人目は、怪我をしちゃったんですよ」
「この事件をより複雑にしたのは、犯人が複数いたからだ」
「複数……?」
すべて同一犯だと思い込んでいたが、犯人が違うとすれば、
「話題性が目的だったのではなく、人を傷つけることが目的だったとすれば、二人目のときの犯人は、鎌鼬ではない」
「じゃあ、他の妖怪が……」
「俺がわからないのはそこだ。仮に、また話題を呼ぶために、鎌鼬が切り裂いたとして、客足が絶えたあとでも事件を起こしたとは考えにくい」
話題性を呼ぶためが、逆に人足が絶えてしまったという結果であれば、二人目の犯人も鎌鼬だと仮定できるものを、柚が切り裂かれてしまったのは、客足が絶えた後である。もしまた事件が起これば、ますます人が来なくなると簡単に想像できるところを、犯行に及ぶはずがない。鎌鼬は、興業が
「他の妖怪の犯行だったとして、素直に犯人が名乗り出てくれるわけもない。妖怪が人間の姿に
「でも、人間の犯行は不可能なんじゃ……」
「…………」
もう一人の犯人の正体がつかめないまま、あっという間に出口に来てしまった。
「ありがとうございました」
出口の幕が開ける。柚の脳裏には、玉緒の痛ましい姿が浮かんだ。陽光が二人の姿を映し出す。
「そうか……!」
春太郎が
柚には何が起こったのかわからなかった。間に合わない……焦る春太郎の目には、鳴き声とともに飛びかかる、白猫の姿が映った。
「うわっ……!」
白日の下に
「まさか春が人間の犯人を捕まえるとはな」
旅人の背中を切り裂いた二回目と、柚の着物を切り裂いた三回目の犯行、そして、再び柚を切り裂こうとした犯人は、出口で客を見送っていた、お化け屋敷で働く男であった。
同心の井口がすぐに駆けつけ、犯人は無事に捕縛された。
「以前、男は宿場町で見世物小屋を営んでいたそうだが、繁盛しなくて潰れちまったらしい。誰が潰したってわけでもねぇのに、それから繁盛している店で働いては、事件を起こして客足を遠のかせてたってんだから、勝手な奴だ」
今回のお化け屋敷の事件だけではなく、定期的に宿場町の興行小屋では、事件が起こっていたという。どれも怪我人が出ている事件で、お化け屋敷の事件では、男の関与していない客の
暗闇での犯行は不可能であり、つまりお化け屋敷で働く者の犯行は不可能であるという状況下が、盲点であった。
「お化け屋敷の中で唯一、客の姿が見えるところがある。その場で気づいたわけだが……」
出口の幕が上がれば、日の光が差し込み、客の姿は
「紐解いてみれば単純な事件だ。旅人のときは出口でざっくりと、春の女中も同じ要領でやってたんだ」
「旦那様、すごいじゃないですか。犯人は妖怪じゃないって、わかっていたみたいですし。私なんか、ただついてきただけで……」
「それがわかったのはお前のお陰だ」
「へ?」
「役に立ってもらうと言っただろう。お前に渡した札は、妖怪から身を守るためのものだ。昨晩、鎌鼬に攻撃されたときも、無傷で済んだではないか」
「なっ……!」
お化け屋敷に入る前に渡された札に、そんな効力があったとは露知らず。一応、身を守るための札を渡してくれたと喜ぶべきか、いろいろ試してくれると怒るべきか、後者の気持ちの方が大きい。
「でもまあ、春はいい同心になってたかもなぁ」
「俺は文官の方が向いている」
(同心になっていたらって、そんなわけないのに)
井口の言い方に少し引っかかりを覚えたが、それよりも、玉緒の無罪が晴れたことにほっとしていた。
そうだなと返して、井口は犯人を連行していった。
「鎌鼬が事件を起こさなくても、犯人は別の方法で事件を起こしていたとは思うが、滅多なことは控えるべきだな」
と、人間の春太郎に
「……すまなかったよ」
いつの間にか現れた月尾に背中をつかまれ、不服そうにしていた玉緒に、伊佐三は謝る。玉緒の方は、どうということもないと、軽く鳴いて返事をする。それから必死にもがいて、柚の肩に飛び乗った。
「お前らみたいな低級な妖怪は、悪戯好きだからな。ま、少しは大人しくなるだろう」
人間の柚からしてみれば、猫又も鎌鼬も、敵になれば充分に恐ろしい相手である。それを軽くあしらえる月尾は、もっと恐ろしい存在なのだろうか……
(主の僕だし、大丈夫だよね)
味方だと思えば、怖くとも何ともない。
「よかったね、玉緒」
「にゃお」
目を細めて笑う玉緒の足は、妖怪のなせる業か、もう完治していた。
すぐに帰ってくれると思っていた柚は、一向に帰ってこない。お化けが出るという噂の屋敷に勤めて数日が経っていた。
「俺の所為だ……」
定次は何度目かもわからない溜息をついてぼやく。
柚が自分をよろしく思っていないことは気づいていた。一度もおとっつあんと呼ばれたこともなかった。
すぐに父親だと思ってほしいわけではない。しかし、小松は柚と一緒に店の商いをしたいと願っている。定次だって、家族三人で暮らしたいと願っていた。
「あの子はもう子供じゃないんだもの、大丈夫よ。昨日お滝さんと話したんだけど、柚、頑張っているみたい。いい修行よ」
時間はかかるけど、いつかきっと。小松が信じているように、自分も信じてみようと定次は決めた。
浦野家では……。
「早くしないと置いていくぞ」
こっちは好きでついて行っているわけではないという言葉を飲み込んで、柚は駆けた。朝餉の片づけをして、洗濯も終わりそうな頃合に、春太郎に供をしろと命じられていたのである。一息つく暇もない。
「もう任せても大丈夫みたいだね」
滝は二人を微笑ましく見送る。さて、二人を待ち受ける怪異は……
「にゃー」
「玉緒!」
最近、柚の側には一匹の白猫がいる。その正体を知っているのは、ごく
「すっかり懐かれたな」
かくして人間と妖怪が共存する、奇妙で恐ろしい、愉快な物語がはじまった。
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