(最、悪……)

 着物の、しかも尻のところを破かれ、その姿を人前で見られてしまった。

 とどめをさしたのは、

「尻に受難の相がでている」

 という春太郎の言葉だ。

 たしかに昨夜は尻をまれ、今日は着物を切られるという始末だ。皮膚には達していないので、怪我をしなかっただけましだが、充分に恥ずかしい思いをした。そこにきて無神経な言葉を投げられては、軽くにらみ返してしまう。

 春太郎の方は柚のにらみなど物ともせずに聞いてきた。

「いつ切られたんだ?」

「わかりません……でも、お化け屋敷の中に入ってからだと思います」

 白昼堂々と切られたのであれば、人混みができるほど混雑した場所は通っていないので、そのときにわかるはずであった。お化け屋敷の中に入る前には、視線を浴びた様子もない。しかも、木戸口で受付をしていた男も何も言わなかった。つまり、着物を切られた場所は、お化け屋敷の中でしかありえないのだ。

「まさか、これも怪奇現象とか……」

「…………」

 否定も肯定もなかった。春太郎としても説明がつかないのだろう。

 浦野家に帰って早々に、新しい着物に着替えたけれど、何だかすっきりしない。着物を切った犯人もわからないし、お化け屋敷の中に犯人がいるとも思えない。ましてや、お化け屋敷の中は真っ暗だったのだ。一体、誰がこんなことをしたというのか……

「柚おねえちゃん!」

 もやもやとした頭に響いたのは、つい最近、聞いたことのある声だった。

 その明るい声は、庭の方に回ってくる。柚が顔を出すと、やはりあの子であった。

「あ、権助さんも!」

 浦野家に訪れたのは、万国屋の権助とおもんだった。

 家神にかれてしまった権助を助けたのは昨日のこと、そのときはかなりやつれていたが、こうして来たからには回復できたようだ。

「どこも悪くないか?」

 おもんの大きな声で自室から現れた春太郎が聞いた。

「へい、お陰様で。できが悪いのは治ってませんが」

 茶化していいのか、笑っていいのか困ったが、本人は楽し気だ。

 そういえば、権助は多少羽目を外している次男坊であったことを思い出す。

「ろくにお礼をしてねぇってんで、おもんと遊びに……じゃなかった。お茶でもご馳走になろうかと」

 言い直したところで、目的はただの暇つぶしであるということが見え見えだ。昨日まで命の危機にあったというのに、何とも暢気のんきである。そして自ら持ってきたお礼の品を開けて、一緒に食べましょうというのだから呆れる。

「図々しいやつだが仕方ない。滝とお前も一服しろ」

 主の許しを得て、しばしの休憩となった。

 権助が持ってきたのは、練り切りである。花や鳥、一つ一つ形の違う、色とりどりの練り切りは、どれも目を奪われるほどにきれいだ。

「いっとき味が落ちたって噂だったけど、また持ち直したって評判の店なんで」

 練り切りなんて普段は買ったことがない柚からしてみれば、元の味はわからないが、もらった練り切りは最高に美味しい。着物を切られてもやもやしていた気持ちが、少し晴れた。

「俺は何も覚えてねぇけど、起きたら自分の部屋がめちゃくちゃになってるもんだから、参ったのなんのって。しかもすげぇ暴れようだったって、兄貴や両親からうんざり聞かされる始末だ」

「すごかったよ。暴れて家を壊すかと思った」

 おもんは鳥の形をした練り切りを頬張りながら言った。権助としては、その暴れっぷりを見ていたおもんが変わらずに、怖がることなく接してくれるのがうれしい。

「でも一つ残念なことが……」

「どこか怪我でも……」

 と真面目に聞き返してしまった自分に、柚は後悔することになる。

「大事にしまってあった枕絵が、破けちまったんだよ。破ったのは俺だけど……」

「なっ……!おもんちゃんの前で、なんてことを言うんですか!」

「枕絵くらいでかっかすることないだろ」

「また言った!」

 柚を揶揄からかうのが楽しくなってきた権助はにひひと笑って、柚の反応を面白がっている。そんな二人のやり取りを、おもんはきゃっきゃと見ている。

「子どもに笑われているぞ」

にぎやかになってよかったですねぇ、坊ちゃん」

 おもんは最近、お札を作ることにはまっているらしい。先日、権助が張られたお札に影響を受けてしまったようだ。お札といっても、文字とも呼べないものが書いてあったり、動物らしき絵が描いてあるもので、家族や奉公人に貼りまくっているという。柚も一枚もらったので、春太郎からもらった札と一緒に、ふところにしまった。

 調子のいい権助と、人見知りのしないおもんと和んでいると、その人はしかめ面で現れた。

「うげ……!」

 あからさまに嫌なものを見る顔をしたのは、権助だった。

「え、お役人……?」

 現れたのは、灰色の羽織を着た、春太郎や権助と同じくらいの歳の男である。細い眉と眉間の皺が、とても人相が悪い印象である。

 棗藩の城下町には町奉行が置かれ、町人を統制している。江戸幕府の機構をならったものだが、幕府をはばかってか、江戸の町の同心たちが黒羽織なのに対し、棗藩の同心たちは灰色の羽織を着ている。つまり灰色の羽織と十手を刺していれば、役人だと一目でわかった。

 役人が来るほどの悪いことをした覚えはまるでない、と思っている皆が一斉に、権助の方を向いた。

「な、何で俺を見るんだよ!」

「だって、うげって……」

 役人はふんと鼻を鳴らして言った。

「役人に目を付けられるような覚えがありすぎるのだろうが、今日はお前の詮議をしに来たわけじゃねぇ」

 権助がほっと息を吐くのと、役人のするどい視線が柚に向くのが同時だった。

「……?」

「用があるのは、あんただ」

 十手の先を目の前に掲げられて、柚は狼狽うろたえた。

「え、え、え、悪いことは何もしてないです!きっと冤罪えんざいです!」

 溜息とともにぽんと軽く、頭の上に十手を置かれた。

「ぴーぴー騒ぐな。ここにいる人間は、後ろめたいやつしかいねぇのか」


 役人の名は井口千蔵といい、春太郎の幼馴染である。部屋に上がるのを遠慮して、縁側に腰をかけた井口は、れたての熱いお茶を物ともせずにすすった。

 ちなみに権助はおもんを連れて、逃げるように帰っていった。

「なんだ、お化け屋敷のことを聞きに来たんですね」

 井口が浦野家を訪れたのは役目のためであり、お化け屋敷で着物を切られた事件のことを聞きに来たためであった。

「役人ってだけで怖がられてたんじゃ、こっちもやりにくくて仕方ねぇよ」

 だって人相も怖いとは、とても言えない。

 井口に切られたときのことを聞かれるも、答えられることは少なかった。なにせいつ切られたのかも、誰が切ったのかもわからない。

「また同じか……」

「また?」

「あんたで三人目なんだよ。お化け屋敷で切られたのは」

「……!」

 くだんのお化け屋敷が開業したのは、三か月前だという。開業したばかりの頃は、城下町から訪れる人もいるほど人気で、列をなしたこともあったという。ひと月も過ぎると、はじめの盛況ぶりは衰えてしまったが、それでも興行は成り立つほどの人足だった。はじめの事件は、その一月後に起きた。

「てて親と子どもの二人連れで、切られたのはてて親の袖だ」

 お化け屋敷に入る前には何ともなかったそでが、出た後には切れていたらしい。自然に切れてしまったとは説明できないほど、ざっくり、鎌で切られたような跡だったという。幸いにも怪我はなかった。

「姿なき犯行がお化け屋敷で起きたとなって、ちょっと話題になった。怖がったやつもいたが、興味を持った客が押し寄せたようだぜ。流血騒ぎになってたら違ったんだろうが……」

 もし腕が切られていたのならば、自分も怪我をするかもしれないとおびえて、客足が途絶えていたかもしれない。しかし、無傷の犯行によって、逆に賑わったのだ。

 二度目は……

「つい十日前だ。旅人で男二人連れの片割れが、今度は背中をざっくり切られている。深手じゃねぇが、そいつは怪我を負った」

「怪我をしたのに、犯人はわからなかったんですか」

 井口は苦々しくああと答えた。

「もちろん、切られた場所はわかっている。お化け屋敷の出口付近と言ってたが……」

 少し言葉を途切らせたあとで、井口が言った。

いたちを見たそうだ」

「……鼬?」

「なるほど。それで鎌鼬かまいたちの噂というわけか」

 今まで黙って井口の話を聞いていた春太郎が、口をはさんだ。柚はまだ状況が飲み込めていない。

「宿場町にあるお化け屋敷に、鎌鼬という妖怪が現れるらしいと、左近寺様に教えていただいたんだ。鎌鼬はその名の通り鼬の格好をしていて、切り裂くことを得意とする妖怪と伝承されている」

「それでお化け屋敷に……」

 妖怪がいればどこにでも調べに行くとは、春太郎の言った言葉だ。

(って、本当に出たんですけど……)

 実際に切られた人がいるとはじめに聞いていれば、嫌だと駄々をこねたものを、この主はそうなるとわかって何も言わなかったのだ。しかも柚も被害者の一人になってしまった。

「鼬を見たのは、怪我をした男か?」

「いや。出口で客を案内する、お化け屋敷で働いているやつだ」

 柚たちがお化け屋敷に行ったときにも、その男はいた。

「はじめの袖が切られたってのも、まずその男が袖が切れているのに気づいたんだが、まあ、出口は明るい場所だからな。中は暗くて、他のやつはわからなかった」

 仮に切り裂いたのが妖怪ではなく人だとして、犯行は不可能である。客は提灯ちょうちんを掲げていたとはいえ、提灯の明かり以外は何も見えないくらいに、中は真っ暗である。その中で犯行をするのは不可能だ。ましてや、明かりのある出口にいた男が袖を切り裂けば、すぐに犯行がばれるところだ。

「春、やはり妖怪の仕業か?」

「……何とも言えん。妖怪である気もするし、そうでない気もする」

 大の大人が、真面目に妖怪の話をしているというのは面白い。自然のことわりでは説明がつかないのならば、妖怪の仕業ではと考えてしまうが、春太郎は悩んでいる様子だ。

 何かわかったらすぐに教えろと言い残して、井口は去っていった。

(妖怪、ね……)

 本当にそんな存在がいるのか、一人になって冷静に考えてみれば、素直にその存在を肯定することはできそうにない。着物を切ったのは妖怪でしたと言われたところで、実感がないのだ。

 春太郎は犯人の存在をにごしていたが、妖怪の仕業であったとして、どうするのだろう。犯人が人間であれば、井口が捕まえるのだろうが、妖怪でも捕まえるのか。そんな話は聞いたことがない。

 でも、人間にしろ妖怪にしろ、悪さを働いているのならば、早く犯人が見つかってほしい。

 と、浦野家で仕事をしながらぼんやり考えていれば、すっかり夜も更けた。柚にとって、恐怖の夜が再び訪れたのである。

(大丈夫……昨日だって現れなかったもの)

 隣に眠る滝が寝入るのは、いつも早い。滝が一緒に寝てくれるのは心強いが、それも今だけだ。柚が仕事に慣れれば、滝は村で隠棲することになっている。そのとき、恐怖に耐えられるだろうか……

 一昨日見た化け物だけではない。これから、きっとたくさんの怖い思いをする。柚は浦野家に来てから一番に、布団の中で身を震わせた。

「にゃー」

 思いっきりびくりとしてしまった。絶対に聞きたくなかった鳴き声が、聞こえた気がした。

(気のせいだ……気のせいだ……)

 次いでびりびりと障子を破る音まで聞こえて……

(噓でしょ……)

 化け物が、来る。あの夜に見た恐ろしい顔が頭を占めて、布団の中から手足の一つも出さないように身を潜めた。

 絶対に、布団から出てはいけないと自分に言い聞かせる。

「にゃ……」

 紛うことなき猫の声だった。でも、どこか弱々しくて、消え入りそうな声だ。だから気になってしまった。出てはだめだ。怖い思いをすることになる。この前でりたはずだ。

 出てはいけないという思いと、確かめたいという思いが拮抗きっこうする。やがて、猫の声も絶えると見たい思いの方が勝ってしまった。

 思い切ってがばりと身を起こす。寝ている滝の姿をまず確かめて、安堵あんどする。そして、ゆっくりと障子戸の方を振り返った。

「あっ……!」

 そこに恐怖はなかった。破かれた障子から月明かりが漏れていて、その先に映し出されているのは、足から血を流した猫だった。

 化け猫でなければ恐怖などない。怪我を負っている猫に、駆け寄らずにはいられなかった。

「ひどい……」

 猫の左前足は、一寸ほどざっくりと切れていて、血が流れている。何かで切ってしまったというよりは、切られたような切り口だ。誰がこんなことをしたのか、それよりも手当をする方が先決だと、猫を抱きかかえて部屋を出る。

 居間に薬箱があることは滝に教えられていたので、すぐさま居間に行き、手当てを施した。

 傷薬を塗って止血はしたが……きれいな白猫の足は痛々しい。傷口はそれほど大きくはないが、かなり失血してしまったようで、力なく横たわっている。

「大丈夫かな……」

「足を少し切られたくらいで、そう簡単にはへたばらねぇよ」

 一瞬、その声は春太郎かと思ったが、口調も声音も違った。男の声だ。滝の声とは程遠く、この家には春太郎しかいないはず。他に誰の声だというのか。

「え……」

 開け放したままだった障子戸には、見知らぬ男が立っていた。

 叫び声を上げなかったのは、恐怖というよりも、男に見惚みとれてしまったからである。肩までの短い髪は整えず伸ばしたままに、異様な風体だが、前髪の隙間からのぞく目はきりりとしていて、整った顔をしている。

 まずは見惚れてしまうほどの男でも、知らない人が屋敷の中にいる事実に、やっと追いついた。

「ど、泥棒……!」

 最近、物騒な事件は聞かなかった。よりにもよって、なんで浦野家に来たのか。泥棒にあげるほど、余裕な金はないはずだ。命の危機の前には金を差し出すべきか。しかし、金は春太郎が管理しているので、隠し場所など知らない。

 殺されたらどうしよう……そればかりが頭をめぐる。

「誰が泥棒だ。そんな姑息な真似はしねぇよ。俺だって矜持きょうじってもんがあるんだ。そんなことより、そいつをよこせ」

 男が指し示したのは、怪我をした猫だ。もしかして、猫に怪我をさせたのはこの男なのだろうか。

「あなたが、足を切ったの……?」

「俺じゃねぇよ。ここだけじゃなくて、いろんなところで悪さを働いているみたいだが、そろそろ看過できないっていう主の命だ。さあ……」

 と言って、猫を片手で取ろうとしたので、柚は猫をかばった。

「どんな悪戯いたずらをしたのか知らないけど、たかが猫のしたことじゃない」

 主の命と言っているが、そもそも男は何者なのか。勝手に人の家に上がり込んで、猫をよこせとは怪しいやつ。

 さてどうしたものか。男は溜息をついている。猫はそっぽを向いて大人しくしている。

「お前もその猫に悪さをされた一人だろう」

 忘れたころにやってきたのは、柚の主、春太郎だ。

 猫よりも気になるのは……

「旦那様、侵入者です!」

 同心の井口を呼んでこようかと言う前に、春太郎はあっけらかんと答えた。

月尾つきおは俺のしもべだ」

「な……僕……?」

 では月尾が主と言っていたのは、春太郎のことだったのか。

 浦野家に仕える下男か、それにしては僕という言い方は引っかかる。僕というが、柚が月尾と会ったのは、今日が初めてだ。滝からも何も聞いていない。

「今までどこに……」

「ずっとここにいたぜ」

「そんなわけないじゃない。私、一回も見てないのよ」

「そりゃあ、あんたを憚って姿を隠してたんだ。もう見せていいんだろ?」

 月尾が春太郎を仰いだ。

「こんなに早く月尾の存在を打ち明けるつもりはなかったが、お前が来てから立て続けに怪異現象が起こっている。いま打ち明けたところで、何の支障もないだろう」

(何を言ってるの……?)

 春太郎に僕がいようと、柚には口出しもできないことだ。存在を打ちけることを渋る理由などないはず……そして姿を隠していたとは、屋根裏にでも住み着いていたのか。いや、そうではないという勘が、柚を駆け巡っていた。

「お前も姿を見せろ」

 油断していたところをついて、月尾が猫を取り上げた。

 猫が暴れて宙を舞う。ひらりと身をひるがえしたのと同時に、猫が、人間に化けた。

 柚の目の前には、長い髪が揺れる女の背があった。

「なっ……!み、耳が……!」

 怪異というものは、いつまでたっても慣れてくれない。しかし人間であれば誰でも、頭に獣の耳が生えた女を見て、驚かずにはいられないだろう。正体を知っていた、春太郎を除いては……

「やはり、猫又か」

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