体力に自信のある柚は、ぐったりと疲れていた。布団に入れば、すぐに眠りについてしまう。野上弾正との生活に、休む暇などなかった。

「いつまで寝ておる!早く起きぬか!」

 夜明けとともに、弾正の声が聞こえて目を覚ます。けれど、まぶたはまだ重い。昨日の疲れも取れていなければ、普段ならばまだ寝ている刻限である。開け放された戸からは冷気が押し寄せるし、二度寝しようものなら、起きるまで声をかけられるので、柚は重い身体を引きずって外に出た。

(まったく……おじいちゃんは朝早いんだから)

 起きて一番にすることは、謎の体操である。弾正自身が健康のために考案したらしい。起きて早々、身体を動かすことは、かなり億劫おっくうである。寝ぼけまなこをこすりながらやっていれば、

「これ、しゃきっとせんかい!」

 と元気な老人は言うのだ。

 しかし体操はまだいい。もっと辛いのは、その後にやらされる木刀の素振りだ。

「何で女の私がこんなことを……」

「いざ敵が攻めてきたとき、家を守るのは女の務めぞ!」

(この平和な時代に、敵が攻めてくるわけないじゃない……!それに、私は武家の女じゃないっていうのに……)

 弾正に反論は無効だ。

 なるほど、毎日健康に気を配り、素振りも欠かさずにいれば、老いてなおたくましい身体なわけである。まさか木刀を振るう日が来るとは、夢にも思わなかった。しかも早朝に……

 でも、弾正と過ごす一日のすべてが苦痛なわけではなかった。

 やっとのこと朝餉あさげにありつけられた後に待っているのは、柚の大好きな畑仕事だった。

「ほう、随分と慣れているな」

「町に来る前はずっと畑仕事をしてましたから。子どものころからやってたんですよ」

 そうなのである。柚が月夜町に来たのはつい数か月前であり、生まれも育ちも、相生村と似通った村なのであった。母と祖父の三人で暮らしていたのだが、長年、自分の店を持つことが夢であった母が地道に金を貯めて、花乃屋を構えてから引っ越したのである。店を構えるより前に祖父は他界していて、父方の家族は誰一人おらず、母方の家族は亡くなった祖父だけであった。継父の定次のことは、父親だとは思っていないので、柚にとっての身寄りは、母だけだ。

 ともかく、百姓の家に生まれ、幼い時分から土をいじってきた柚には、畑仕事など慣れたものであった。浦野家の畑をいじりたかったのも、昔を思い出してである。

 生き生きと畑仕事をして、夕餉ゆうげを食べた後は、また勉学の時間が待っているのだ。

「……であるからして、我が国には異国の脅威が迫っているのだ。これからは危機意識を持ってだな……おい、寝るでない!まだ肝心なところは話しておらん!」

「うへっ……」

 弾正の話はわかりやすくて面白い。が、朝から木刀に勉学に畑仕事と動かしていた身体は、休みたがっている。しかし舟をげば、たちまちに起こされるので、たまったものではない。

 とまあ、柚の一日はこのようなものであった。

(おのれ……こうなることがわかって、私だけ行かせたな)

 春太郎がなぜ、自分だけを弾正の元に行かせたのか。文官の彼には、この生活は辛いところなのだろう。自分は断って、弾正に失礼にならないように、柚を行かせたのだ。

 主への恨みは募っていったものの、弾正との生活は嫌ではなかった。

 過酷といえば過酷。人使いは荒いし、すぐに怒鳴る。でも、弾正は悪い人ではない。

 実のあることをして、柚にもその実を学ばせていた。身分も性別をも通り越してである。だから肩たたきなんかもしてあげたくなるのだ。

「お主はこんな老いぼれに優しいな」

「老いぼれって、私より元気じゃないですか……おじいちゃんっ子だったから、優しくできるのかもしれないです」

(私のおじいちゃんはもっと穏やかな人だったけど……)

 一緒に住んでいた祖父は、よく一緒に遊んでくれた。父親がいないことに不満がなかったのも、祖父の存在が大きかったのだ。母が店を持ったら、今度は町で一緒に暮らそうと話していたのに、三年前にあっけなく、病で亡くなっている。

 今でも祖父との記憶を思い出すたびに、泣きそうになることもあった。

(いかんいかん……しんみりしちゃった……)

 柚は出そうになった涙を引っ込めようと、弾正に尋ねた。

「弾正様は旦那様のお師匠さんなんですか?」

 相生村に来る前、弾正は藩校で教鞭を振るっていたのである。棗藩の藩士の子弟が通う藩校は、身分は武家に限られていたが、家の石高に関わらず、学ぶことが許されていた。

 棗藩の始祖が勤勉であった故から、棗藩では学問が推奨されている。武士の教育はもちろんのこと、町人百姓にいたるまで、学ぶ場が整えられていた。優秀な武家の子弟たちは、藩校の中でも特別な教育が受けられる。弾正が教えていたのは、その限られた人たちにであった。町人たちが学ぶ私塾も、望む者には学者に手ほどきを受けられるし、そのまま学者になる者もいる。百姓の身分で学者になる者はいないが、村では寺の坊主が子どもたちに読み書きから算盤までを教えていた。他藩からは、棗藩で字を読めぬ者はいないと称されていた。

「いや、春太郎は私塾に通っていたから教える機会はなかった」

 てっきり昔の恩師と弟子という関係かと思ったが、違うようだ。春太郎と弾正の縁は想像がつかない。

「儂が教えていたのは兄の方だ」

「兄って……?」

「清之進に決まっておるであろう。あ奴は優秀で、同年の者の中では一番できた。しばらく見ていないが、元気にしておるかのう」

「まさか、旦那様にはお兄さんがいるんですか……?」

「何だ、聞いておらんのか」

 初耳であった。父は故人で、母は遠くに住んでいるのは知っていたが、兄がいるとは知らなかった。弾正の口ぶりからして、故人ではなさそうである。しかし、太郎と名の付く彼に兄がいるとは、意外だ。その兄はどこにいるのだろうか……

「隠しているわけではなく、打ち明けるときがわからないのだろう。追々、春太郎から聞けばよい」

「はあ……」

「その分では儂のことも聞いてはおるまい」

「そういえば、何も聞いていなかったです」

 藩校で教えていた以外に、弾正には秘密があるようだ。

「儂が藩校を辞めたのは、歳の所為せいではない。本音を言えば、もっと教えていたかった。儂は何も誤ったことはしていない。弟子たちに教えたことは、真実であり、今のこの国の姿だ……つまりだな、藩は儂のことを危険人物だと判断したのだ」

「危険人物には見えませんけど……あ!できの悪い弟子に竹刀を振るったりしたんでしょう。それで危険人物だと……」

「たわけ!儂は怒っても決して手を上げたりなどせん。それは、能力のない奴のやることだ」

「じゃあみっちり勉強をさせすぎて、お弟子さんたちがばたばた倒れちゃったとか……」

「……お主は儂のことを何だと思っている」

「へへへ……」

 弾正は気が抜けてしまったようだ。

「儂の教えていた内容に問題があったのだ。異国と比べて我が国は何もかも劣っている。もし異国が攻めてきたとして……」

「ひえ!異国の人が攻めてくるんですか!」

「もしもの話だ。だが、遠くない未来に、そのようなことがあってもおかしくないと、儂は思っている。そのときどう異国と対峙たいじするか。儂はこの国をうれいてこそ、ありのままを弟子たちに教えたつもりだった……」

 しかし藩は、弾正を危険人物として藩校から追いやった。弾正の教えた内容に嘘偽りはなくても、藩、そして幕府の手前、都合の悪い内容でもある。棗藩の藩校では、幕府を批判する教育をしていると、幕府に目をつけられれば、弾正にその気がなくても、叱る責だけではすまずに、取り潰しにもなりかねない。棗藩は保身のために、弾正という人物を追いやったのだ。

「だがな、儂が辞めさせられたところで、この国が滅びるわけではない。異国の情勢に敏感で、国を憂いているやからは儂以外にもいるはずだ。何も、心配することはない」

 もっと教えていたかったという弾正は、寂しいのだ。

 藩に危険人物と烙印らくいんを押された弾正を尋ねる者はいない。武士であればなおさら、体面を気にして弾正と会おうとはしなかった。弾正は一人、村で生活している。いくら身体が丈夫でも、ぽっかりと空いた穴は埋まらないのだ。だから耐えられなくなって、春太郎を呼んだのだろう。

 柚には異国だとか、国の未来などの難しい話はよくわからないが、少しでも弾正の穴を埋められたらと、思うようになった。


「なんだ、柚はいねぇのかよ」

 柚を揶揄からかいに来た権助は、当てが外れてしまった。

「おもんは習い事だし、つまんねぇな」

「お前の遊び相手は子どもしかいないのか」

 春太郎は以前、家神にかれてしまった権助を助けたことがある。それ以来、権助は暇つぶしのように浦野家をたびたび訪れていた。気ままな商家の次男坊である。

「あれからちゃんと、家神はまつっているのか?」

 権助が家神に憑かれてしまったのは、今まで家神を祀っていた祖父が亡くなったことで、家神は忘れ去られてしまい、神をないがしろにしてしまった所為であった。結果、権助に憑いて悪さをするようになったのだが、再び神を祀ったことによって、災厄は免れた。だが、再び神を蔑ろにするようなことがあれば、ただでは済まされない。

「そりゃあもう、毎日欠かさず饅頭まんじゅうを供えてるし、手も合わせてますよ。うちには出来のいい兄貴がいるんでね。兄貴に何かあったら大変だって、そんな感じで。俺に優しくしてくれるのはおもんだけ……」

 兄に対して劣等意識を持っているようだが、本人はもう慣れたものだと言わんばかり。

「お前が家神に憑かれたとき、両親は相当心配していたようだがな」

「いやあ、普段は小うるさくっていけませんよ。旦那はいいですね。うるさい親は一緒にいねぇし、若い娘と一つ屋根の下に住めるなんて、うらやましいですよ」

「ふん……」

「それより旦那、柚がいなくて飯はどうしてるんで?」

 春太郎は自炊を……しているわけがなかった。柚は春太郎が米すら炊けないことを見通していたので、ある人物に頼んでいたのである。

「遅くなってすみません。今日に限ってお客さんがたくさん来てくださってね。商売繁盛でうれしいですよ。すぐに作りますからね」

 朝と夜、春太郎の飯を作りに来るのは、柚の母の小松であった。

 小松の作る料理は、柚が作るものと味が似ている。柚は母から料理を教わっているので、似ているのは当たり前だ。

 安い飯屋に通うつもりでいた春太郎は助かっている。

「あの子、迷惑かけていませんかね。何だか向こう見ずなところもあって、いまだに心配なんですよ」

「元気に頑張っていますよ。野上様も満足されているでしょう」

 柚のことだ。きっとへこたれずに弾正についていっているだろうと、春太郎は想像する。

「そういえば、柚は相生村に行ってるんですよね」

「うむ」

「今日、お客さんから聞いたんですけど、相生村にある、商家の隠居の方が暮らしていた家に、火の玉が出るんですって。何人も見た人がいるって言ってましたけど、ただの噂でしょうねぇ」

「…………」


 柚が野上家に来てから、十日が経った。

 弾正という人物にも慣れてきて、勉学はともかく、畑仕事は楽しい。町に引っ越すときに、畑仕事ができなくなることが名残惜しくもあったのだ。

 生き生きと畑仕事に精を出していれば……

「柚」

 忘れそうになるくらい、懐かしい声だった。

「あ」

 顔を見たら怒りが込み上げてきて、ついむすっと答える。

「旦那様、やっと来たんですか」

「……思っていたより満喫してるようで安心した」

「では旦那さまも充分に満喫してください」

「俺は……」

 二人の声に気づいて、弾正も姿を現した。

「春太郎、ちょうどよい。話がある」

 久しぶりに会った二人だが、挨拶あいさつもなしに弾正は言った。

「なかなか元気な娘を遣わしてくれたな。自分で言うのもなんだが、十日も儂と一緒にいてへこたれないとは、大した娘だ」

(おお、褒められてる……!)

 普段は怒声を浴びせられているが、弾正に見放されてはいなかったようだ。

「お気に召したのなら何よりです」

「そこでだな、柚を儂に譲ってほしいのだが……」

「野上殿……柚はまだ十六で野上殿とは歳が……」

「たわけ!儂が若い娘にうつつを抜かすと思うたか!何でも色恋で見おって、嘆かわしい。儂は女中としてほしいと言っているのだ。まだ勉学には身が入っていないようだからな。儂が毎日、手ほどきをして立派な女に育ててやる」

「え!毎日ですか……」

 弾正は自分をそんな風に思っていたのか。

 畑仕事は構わない。だが、毎日勉学に励むのは、正直きつい。それに、急に弾正の女中になれと言われても、困ったものだ。

「光源氏は結構ですが、柚がいなくなっては私が困ります。柚には風史編纂係の仕事も手伝わせておりますので」

「そうか……残念だが、柚はもともと春太郎のところの女中だ。あきらめるとしよう」

 春太郎がすぐに断ったのは、意外だった。弾正からは女中にほしいと言われ、何も秀でたものもない自分だが、役に立っているのだと有頂天になる。

「せっかく来たんだ。今日はお主にも儂が直々に勉学を教えて進ぜよう」

 そうだ。本来は春太郎がしていたはずなのだから、眠くなるまで勉学をしてもらわなければと、柚は彼をじろりと見た。

「野上殿に教えてもらうなど光栄ですが、私は仕事がありますので」

「仕事……?」

 春太郎が相生村に来たのは、野上と柚を尋ねるためでもあったが、噂を確かめるためでもある。

 小松から聞いたところによると、相生村には黄梅堂の隠居が住んでいたという屋敷があり、夜な夜な火の玉が現れるそうだ。しかも火の玉は、隠居が亡くなった後に出現するようになったようで、隠居の幽霊だと信じている人が多いようだ。

「わざわざ夜になってから行かなくても……」

 夜半よわになり、春太郎と柚はくだんの屋敷を目指していた。例によって、柚は有無を言わさず供を命じられている。

「昼間に火の玉が出るわけないだろう」

「そうですよね……」

 百姓たちは、早くに眠りに入っていて、辺りは静まり返っている。火の玉が出るという屋敷に向かうのに、人気もない暗い道は、より一層の雰囲気をかもし出していた。

「今日は物分かりがいいな。野上殿の教えの賜物たまものか」

「私は旦那様にけっこう信頼されてるようですから。自覚はなかったんですけど、役に立てるなら怖くても頑張ろうと……」

「ふん。俺が引き止めたのは、他に理由がある」

「理由って……」

「柚!」

「ぎゃっ!!」

 誰かにいきなり名前を呼ばれて、思わず叫んでしまった。恐る恐る見上げた先には、人間の姿の玉緒がいた。

「ごめん、驚かせるつもりじゃなかったんだけど……」

「何だ、玉緒か……」

 黄梅堂の手代である弥市に会いに行っている玉緒は、その帰りに柚の元に来ていた。黄梅堂といえば、偶然にもこれから向かう先に、関係している。

「その姿を他の者に見られては面倒だ。猫の姿になれ」

 玉緒はどうしても、人間の姿のときに猫耳までを隠せない。柚と春太郎は玉緒の正体を知っているが、他の誰かに見られれば、騒ぎになることは必定だ。

「他に誰もいないからいいじゃない」

「身ぐるみがされても、俺は知らんぞ」

 玉緒は不承不承ふしょうぶしょう、猫の姿になった。猫の姿のときは話せないので、人間の姿でいたかったのだろう。

 玉緒も二人の後を追った。

 屋敷といっても、二間あるくらいの、こじんまりしたものだった。弾正の家と同じく、周りに人家がない寂しい場所だ。

 まず屋敷を見て、火の玉がいないことに安堵あんどする。

「火の玉って、人の魂なんですか?」

 故に人魂とも呼ばれていると、春太郎が言った。

「他に鬼火などの呼び方もあるが、詳しいことはわからない。歴代の風史編纂係の記録には、火の玉の記述はないからな。俺も見たことはない」

「本当に人の魂なら、亡くなったご隠居さんの幽霊なんじゃ……」

「かもしれないな」

「ひえっ……」

 視界の端に、すたすたと歩いていく玉緒の姿が映った。

 玉緒は二人を待たずに、屋敷に入ろうとしている。

「どうしたの、玉緒」

 先に屋敷の中に入ってしまった玉緒を追いかけて、誰もいないのにお邪魔しますと言って障子戸を開けてみる。すると、部屋の中には毛を逆立ててうなる玉緒がいた。

「……!」

 玉緒の視線の先を追ってみる。

 急に明かりが灯った。それは、柚と春太郎が持っている提灯ちょうちんではない。けれどその明かりは提灯に似ている。

 同じ火が放つ明かりだった。

「き、狐が……」

 視線がたどり着いた場所には、口から火を放つ、異様な狐がいた。

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