(う……寒い……)

 早朝、浦野家から叩き出された柚は、寝間着のまま花乃屋を目指していた。寒さが骨身に染みて、眠気は吹き飛んでいる。

 まだ棒手振ぼてふりの声も聞こえていない。まったく、なぜ追い出されなくてはいけないのかと憤慨もしたいが、寒いという気持ちの方が勝っている。

「にゃー」

 玉緒は猫の姿のまま、心配してついて来てくれた。というより、一緒に追い出されたという表現が正しいのか……

「こんな刻限に追い出されて、私たち可哀想ね」

 花乃屋に着いた柚は戸に手をかけるも、開いているわけがない。もう少しで両親は起きるだろうが、とにかく寒いので、待たずに裏から声をかけることにした。

「おっかさん、おとっつあん、開けて」

 柚、と寝ぼけた声で応えてくれたのは、定次だった。次いですぐに、小松が戸を開けてくれた。

「どうしたんだい、そんな格好で……」

 起こされた二人は、驚いた様子で柚を見る。

「鬼婆に追い出されたのよ」


 君江は庭の畑を見て、顔をしかめた。

 早朝に追い出した女中の顔が頭に浮かんで、さらにむっとする。

「春太郎!」

「そんなに大声を出さなくても、聞こえますよ」

 君江の機嫌は、最高に悪かった。春太郎は毎日これでもかというくらい溜息を吐いている。

 しかも寝てる間に、柚が追い出されてしまった。柚のことを気に入っていないのは明白だったが、まさかそこまでするとは思わなかった。

「もう一度よく、清之進さんと話してきなさい。弟だからといって、遠慮することはありませんよ」

 清之進に家督を譲ることを、君江は気に食わないのだ。

 兄妹二人が下した最良の決断だと何度説明しても、君江はわかってはくれない。

「何度話したところで同じです。私も兄上も不服はないというのに、どうしろというのですか」

 不服なのは君江だけだ。君江が納得してくれれば、すべて丸く収まる。

「……随分と反抗的になりましたね。あの女中の影響かしら」

「私が反抗的かどうかはともかく、柚は関係ありません。母上がなぜ柚を気に入らないのかはわかりませんが、彼女はとてもたくましくて、仕事でも役に立つんですよ」

「まあ!仕事の手伝いまでさせてるんですか!何を考えているのです。春太郎は、あの女中を甘やかしすぎですよ。庭に畑まで作らせて……」

「そもそもあの畑は、滝が若い時分に作っていたものです。柚が作ってはいけない道理はありません」

 清之進に家督を譲ることもだが、春太郎の柚に対する態度も、君江は気に食わなかった。

 柚が来てから、春太郎は変わってしまった。

 今までは何でも言うことを素直に聞いていたのに、逆らうようになる始末である。あの女中が春太郎を変えてしまったのだと、君江の怒りの矛先が柚に向けられていた。

「母上、畑の話より家督の件について、ご納得いただきたい」

「私は貴方のためを思って言っているのです。罪人の家族がどれだけみじめか、わかっているでしょう」

「…………」

 春太郎の父、つまり君江の亡夫は、汚職をした末に切腹している。同心株も取り上げられ、親子は肩身のせまい生活を送っていた。

 いま再び罪人の清之進が当主になれば、春太郎の立場が昔のようになってしまうのではと、君江は危惧きぐしている。

「では母上は兄上に、どうしろと……」

「私のように、浦野家から離れてもらえばよいのです。そうすれば口さがない者の声は少なくなるに決まっています」

「兄上は野上殿と暮らすので、この家にはおりません」

「いくら離れて暮らしていても、当主の位がある限り、また事を起こされては私たちに類が及びます」

「……縁を切ろと仰るのですか?」

 あまりにも非情だと、春太郎は君江を見つめる。しかし君江は動じなかった。

「もういいです。私は仕事に行きますので……」

 春太郎は憮然ぶぜんとその場を去った。

 清之進が帰るまで、あと八日……


「はあ……何なんだあの婆は……」

 ぐったりとした様子で、権助はおもんと共に花乃屋を訪れていた。

「千蔵の旦那より恐かった……」

 とおもんまでもが、被害に合ったようだ。

 同心の井口千蔵より恐れられているのは、君江のことである。

 権助とおもんは、柚が追い出されていることを知らずに、浦野家を訪ねていた。春太郎も見知った仲の二人は、いつも玄関からではなく、裏庭に回って訪れる。で、裏庭で柚の名前を呼ぶと、君江に怒鳴られてしまったという。

「不審者だの、出ていけだの散々言われて、こっちは旦那の知り合いだって言っても、聞く耳すら持たねぇ。しまいには、おもんを行儀が悪いだのけなすもんだから、思わず怒鳴ってみたが……」

「え!あの鬼……大奥様に怒鳴ったんですか?」

 柚はとても、言い返せる気がしない。

「それがいけなかった……鬼の形相ぎょうそうで、散々説教されたよ」

 君江からすれば、気安く裏庭から訪ねてきた町人の二人が許せなかった。しかも目の敵にされている柚の名前を言っていたので、余計に気に触ってしまったのである。

「こりゃあ柚も逃げ出すに違いないってここまで来たってわけ」

「まあ、追い出されたんだけどね……」

 柚と権助は、同時に溜息を吐いた。

(旦那様は大丈夫かな……)

 家督について、君江がすんなり納得したとは思えない。苦戦していることは間違いないのだが、清之進が帰るまでの日にちは残りわずかである。

 君江と会って疲れていた権助とおもんは、饅頭まんじゅうを食べて早々に帰って行った。

 店番を任された柚は、のんびりと考える。

 悩みに悩み抜いた春太郎が兄と決断し、何もかもが上手くいくと思いかけた瞬間、嵐がやって来た。浦野家のこともだが、柚は自分の立場も心配している。

 すっかり君江に嫌われていることは自覚していた。なので……

「女中を辞めさせられたらどうしよ……」

 そうつぶやくと、玉緒は心配そうに鳴いた。

 畑も作らせてもらえるし、帰ってくる清之進とも、もっと話してみたい。それに、風史編纂係の仕事をするのも……

(楽しい……って、怪異に巻き込まれるのは嫌だって、散々思ったじゃない!好奇心旺盛おうせいな主の影響で、感覚が麻痺まひしちゃってる……あ!女中の仕事を休めるってことは、怪異とはしばらく無縁になるってことよ。何だか気軽になって……)

 と、そこまで考えると……

「げっ!……旦那様!」

 いつの間にか春太郎が目の前にいて、まるで怪異に出会ってしまったかのような声をあげてしまった。

「気を落としているかもしれないと見に来れば、随分元気そうで安心した」

「ははは……」

 怪異と関わりたくないと思っていた矢先、怪異を調べる人物に出会ってつい本音が出てしまった。

 昨日ぶりだというのに、春太郎の嫌みも懐かしく感じる。

「家にいると母上がうるさくて仕事ができない。しばらく上がらせてもらうぞ」

「あ、ちょっと……」

 小松と定次が不在と知ってか知らずか、遠慮のないことである。

(逃げてきたな……)

 君江の被害に遭った人たちはみな、柚の元にやって来る。

 はてさて、どうなることやら。嵐は簡単には去ってくれないようです。


「お前は風史編纂係の職を手放して、茶屋になる道を選んだか」

 にやりと笑い、十手をちらつかせながら花乃屋を訪れたのは、井口千蔵である。

「それも悪くはないと思うが、母上は発狂してしまいそうだ」

 春太郎も幼馴染みの気安さで返した。

「井口の旦那、毎度ありがとうございます。今日は特別におまけしてあげますよ」

「俺はお茶を買いに来たわけじゃねぇ」

 柚は思いついて、そっと千蔵に聞いた。

「井口の旦那も、あの鬼……大奥様の被害に遭われて来たんですね」

「ふっ……そろそろ鬼婆が来ていると思って、浦野家には行ってねぇよ」

 清之進が釈放される間近、きっと君江が来ているだろうと千蔵は推測していたのだ。そして、春太郎が花乃屋に逃げていることも、的中させていた。

「さすがですね」

「まあな。ところで春、仕事を頼みたいんだが……」

 柚はぎくりとした。春太郎に頼みたい仕事というのは、つまり怪異が関係しているのではないかと、勘が働いてしまった。

「私はお邪魔のようなので……」

「よし、すぐに行こう」

「って、早!まだ何も言ってないじゃないですか!」

「春は話が早くて助かる」

 行きたくないという気持ち以前に、柚は店番を任されている。今回は大丈夫そうと胸をなで下ろした矢先、小松と定次が帰ってきてしまった。

 案の定、春太郎には供を命じられるも、嫌だと駄々をこねれば、小松にしかられて、否を言えなくなったのである。

「怪異が絡んでいるんですか……?」

 もしかしたら、怪異ではないかもしれないという一縷いちるの望みをかけて尋ねるも、すぐに千蔵からは「そうだ」と返事をされる。

「ここ数日、栗摩くりま沼で怪しい女の目撃例が増えている。ある者は沼で幼子を見かけ、一人でいるものだから声をかけてみれば、いきなり牙を剥き出しにされて腕を噛まれそうになったそうだ」

「ひっ!」

「とても人間の形相ではなかったとか……」

 柚は想像して、腕に抱く玉緒を強く抱きしめる。

「またある者は、若い女がうずくまっていたので声をかけると、その女はむしゃむしゃと狸を骨まで食べていたとか……」

「ぎゃっ……!」

 柚の身体が震え始めた。

「またある者は老婆がいて……」

「もうやめてください!」

 たまらず、柚が声を上げる。

「ふん、春の手伝いをしている割には臆病だな」

(どうせ臆病ですよ!その臆病者を、主はこき使うんですよ!)

 柚がにらんでいることなどものともせず、春太郎が聞いた。

「怪我をした者は?」

「今のところいねぇな。腕を噛まれそうだの掴まれそうだのはあるが、実際に怪我をした者はない」

「幼子に若い女に老婆……」

「誰一人、同じ容姿を見ていねぇんだ。てんでばらばらばな何者かを目撃してやがる」

「ほう……」

 一行は、栗摩沼に着いた。

 誰の姿もなかったが、見えないだけでいるのではと、柚は気を抜かなかった。

「あとはよろしく頼む。なあ、春……」

 案内を終えた千蔵は、仕事に戻ろうとする前に尋ねた。

「鬼婆様の説得はできそうか?」

 春太郎と幼馴染みである千蔵は、君江を幼い時分から知っている。よく叱られた記憶もあるのだ。

「かなりてこずっている。妖怪より難しい……」

「そうか……俺では力になれんが、まあ頑張れよ」

「気にかけてくれるだけでありがたい」

 千蔵はその場を後にした。柚も一緒に帰りたい気持ちである。

「さて、頼りにしているぞ」

「へへ……」

 力なく笑って、だけど主との調査を待っていた自分がいることを、柚は噛みしめた。

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