濡女ノ怪
一
牢の向こうにいる清之進は、真面目な顔つきで耳を
「なるほど……」
十日後に、清之進は晴れて
今は兄に代わり春太郎が家督を就いているが、浦野家の長男は清之進である。順当に考えれば清之進が家督を継ぐはずであったのを、清之進は獄に繋がれてしまったため、次男の春太郎が継いだ
清之進が赦免となれば、兄に家督を譲ると言っている春太郎に対して、清之進はその気がないと言っていた。兄は兄なりに、弟は弟なりに考え、二人は本音で向き合っている。
「怪異に関する仕事が続けられるならば、家督など興味はありません。兄上に遠慮をしているわけでもないのです」
清之進に家督を譲り、自身は柚と家を出る。怪異現象の相談所を開く傍ら、柚の実家の店である花乃屋の分店を開いて生活をするというのが、春太郎と柚の考えであった。風史編纂係を辞することになるが、怪異に関わる仕事を続けられるので、春太郎にとっては最良の選択だと言えた。
この案の言い出しっぺである柚も、春太郎の隣で緊張しながら座についていた。
「それもいいけど、やっぱり俺が家を出るよ」
にっこりと笑って、清之進が言った。
「兄上……」
「いまのを聞いて思いついたんだ。お互いが遠慮せずにすむ方法を」
清之進は家督を継ぐことにこだわりはないと、きっぱり言い切った。そして風史編纂係の仕事をできなくても、未練はないという。
「父上がしていた仕事を継がないのは親不孝なことだと思う。それ以上に、自分がしてきたことは
「兄上には才があります。私は……」
一度、呪おうとしたことがある。浦野家の禁忌を犯そうとした春太郎は、自身に負い目を抱いていた。札を作る才能だって、清之進には
「春太郎なら、大丈夫だよ。能力に優れていることだけがすべてじゃない。もちろん好きなだけでもうまくいかないけど、春太郎じゃなきゃうまくいかないんだ。そうでしょ?」
柚は視線を向けられて、迷うことなく
月尾が彼の
「ですが、やはり兄上には家督を継いでもらわなければ」
「うん。継ぐつもり」
家を出ていくのに家督を継ぐと言った清之進の考えがわからず、柚と春太郎は顔を見合わせる。
「
「名案ですが、本当によろしいのですか?」
「今さら春太郎に嘘なんか言ってないよ。柚ちゃんに負担をかけるのも悪いでしょ。それに、俺を当主にしておけば、もう悪いことはしない」
再び罪を犯せば、家族に類が及ぶ。その心配はないと、清之進は言い聞かせた。
「俺に申し訳ないなんて思わないで。俺は自由に生きたいし、春太郎も好きな仕事ができる。これ以上ない最良の選択だ」
お互いが納得できる形で決着がついた。一言も口を
「あ、そうそう。俺は妻を持つつもりはないから、柚ちゃんに春太郎の子を産んでもらって、その子を俺の養子にして浦野家の跡継ぎにしてね」
「……えぇ!!!!!」
思わず柚は、
「何で私が旦那様の子を産まなきゃならないんですか!」
顔を真っ赤にして抗議する様は、清之進の
「私も、妻を持つつもりはありません!」
春太郎までもがむきになっている。
「ふーん。じゃ、俺が柚ちゃんをお嫁さんにしちゃおうかな」
「な……!さきほど妻は持たないと言ったではありませんか!」
「冗談だよ、冗談」
空気は一気に
「あとは、あの人を納得させないとね」
清之進がいまだ母上と呼べない人が、一番の難関であった。
中尾獄に行った翌日、浦野家の畑では柚と、
「月尾が畑仕事に興味を持ってくれてうれしい」
あまり何事も興味がなさそうな彼は、ある日突然、畑をいじってみたいと言い出した。一時の気まぐれかもしれないが、一緒に畑をいじる仲間がいるというのは楽しいものだ。
「いつも柚が生き生きとやってるから、気になってたんだ。案外、面白いじゃねぇか」
遥かな時を生きている妖怪が、畑仕事をしている。
月尾の正体は犬神という妖怪で、
しかし妖怪の中には、その力を使い、人に害をなすものも存在する。
例えば……
「あれから邪魅って妖怪、現れないね」
月尾と共に人々に恐怖を与えようと企てている妖怪は、かつて柚を
妖怪が忘れ去られてしまうことを恐れていた邪魅が、自分が忘れ去られてしまうようなことをするのだろうか……
「……あいつの目的って、よくわかんねぇ」
いつでも柚たちの前に現れる機会はあった。
厳密に言えば、姿は見せていないものの、悩む春太郎をさらに
「もしかしたら、月尾と一緒かも」
「一緒って……」
「ただ面白いだけだったりして。月尾が旦那様と一緒にいる理由と一緒ってこと」
「そんなもんかねぇ」
言い終えた月尾は、急に身震いする。柚がどうしたのと問う前に、玄関の方から人の声が聞こえた。
客人がきたのかと、急いで柚は準備する。畑仕事の格好をしているので、人前に出るのは大変だ。
「お待たせしました」
玄関の前には女が一人、立っていた。武家の格好をしたその人は、庭から飛び出してきた柚を軽く
「えっと……」
女の怖い印象に、小さい声で尋ねる。
「貴女は誰ですか?」
「この家で女中をしている柚と申します」
そう言うと、女はさらに眉間に皺を寄せた。まるで
「女中って……私は知りませんよ」
知らないと言われても、見ず知らずの人に女中をしていると教えているわけがない。第一、この人は何者なのだろうか。
「母上」
いつの間にか、春太郎が部屋から来ていたようだ。
つまりこの人は……
「旦那様のおっかさん……」
「まあ、何て口の利き方ですか。私のことは大奥様と呼ぶのが筋でしょう」
ぴしゃりと
「早く中に入ってください」
春太郎に
(あれが、おっかさん……)
出会いは衝撃的だった。
彼女の急襲に気づかずに、
「どうして猫が……!春太郎、早く追い払って!」
「玉緒は飼い猫です」
「私は猫を飼っていいと許可してません!早く捨ててきなさい!」
座布団で叩きつけられそうになって、玉緒は威嚇を始めている。ますます甲高い声が聞こえたが、春太郎は何とか彼女を居間に案内した。
親子の対面は、穏やかではなかった。
「あの娘は誰なんですか。瀧はどうしたのです」
「柚と名乗ったじゃありませんか。母上も瀧が年老いているのは知っているでしょう。代わりに彼女に働いてもらってるんです」
「口の利き方も知らない娘なんか、早く辞めさせなさい。私が女中じゃなくて、嫁を探してあげますから」
「まだ嫁はいりません」
「貴方は、浦野家の跡取りなのですよ」
「跡取りは兄上です」
ぴくりと眉を動かして、彼女は押し黙った。春太郎の意図がわかったからである。
「清之進さんとは話し合ったんですか?」
「はい。私たちの最良の選択をすることにしました」
春太郎は清之進と話したこれからのことを話す。
話せば話すほど、母が不機嫌になってゆく。
「春太郎が考えを改めるまで、私は帰りません」
春太郎は内心で、重い溜息を吐く。こうなることは予測していた。
災難は、柚にまで及んだ。
「味付けが濃すぎます。春太郎を早死にさせるつもりですか」
「す……申し訳ございません」
他にも具材がどうのこうのと、
「母上、食事のときくらい静かにしてください」
と春太郎が
柚のなすことすべてが気に入らないとでもいうように、事あるごとに叱りつけてくる。
畑仕事をしているよりも、どんと身体は疲れていた。
ぐっすり眠ってしまった柚は、朝日が登る前に叩き起こされる。
「私が春太郎の世話をしますから、貴女は出て行きなさい」
寝ぼけ
(な、なんなのよ……)
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