棗ノ怪異物語
夏野
鎌鼬ノ怪
一
三方を山に囲まれた
棗藩はその名の通り、植物の棗と、茶道具の棗が有名だ。前者は棗が豊かに実る地でその名の由来になったという逸話があるが、後者は名前にあやかり作るようになったという逸話がある。自然に恵まれている
これは酷暑が遠のいた、秋の頃のことだ。
「
柚は口入屋という所に、はじめて来た。もちろん仕事を探しに来たのであるが、本人は小さい茶問屋の娘で、とりわけ裕福でもないが、暮らしに不自由しているわけでもない。ではなぜと問われてしまうのが嫌で、柚は口入屋の主人に、家の商売が
本当の訳は、家にいたくない。正直に言ってしまえば、子どもの
一通りの家事は母に教えられてできるので、どこかの大店の女中がいいと希望を出したのだが……
「ちょうど一昨日で、女中の口はなくなったんだよ」
「そんな……」
女が住み込みで働けるといえば女中くらいのものだが、一人娘でのうのうと生きてきた自分が、多少の心得があるくらいでは武家の奉公人にはなれないことも、柚は自負している。秀でているものもなければ、そう簡単には職にありつけないのだと不安になった。だが、柚はどうしても家を出たい。
「女中じゃなくてもいいので、何かありませんか?」
「うーん……」
「ないことはないが……」
主人は渋って話そうとしない。
「私には無理そうなんですか?」
「うーむ……何とも言えぬ。武家の女中なら空いているが……」
「お武家様ですか」
「そんなに格式ばったお家じゃないから、気張ることはない。明日からでもすぐに働けるところだ」
すぐに、とは魅力的だ。こんな優良物件がありながら言うのを渋られたのは、やはり武家の女中は務まらないと思われたからかという柚の心中を、主人は察して答えた。
「お主がどうこうではなくて、これまで長続きした女中がいないんだよ」
「それは……」
その武家の主は横暴なのか、それとも実は色狂いなのかとあっけらかんと聞いた柚に、主人は少々面喰いながら言った。
「どうしてだか、辞めてしまうんだ」
「はあ……」
明らかにいわくありげであった。思い当たる可能性を聞いてみても、主人は違う違うと首を振るばかりでなぜという、肝心なところを教えてはくれない。これはよくないと感じるのが大半で、柚もまた、そのような予感がしていた。だが、どうしても家が出たいという気持ちで満たされている柚には、嫌な予感があってもと思ってしまった。
「そこにします」
「本当に、いいのかい?」
「はい!身体だけは丈夫ですから」
主人は何か言いたそうにしていたが、その後は黙々と手続きを進めたのだった。
「冗談じゃないよ!お前はいつも勝手なんだから!」
定次が家の前まで着くと、戸口の向こうから小松の怒鳴り声が聞こえた。怒鳴られているのはきっと柚であろうと検討する。
家の中に入ろうかと
さっそく目に飛び込んできたのは、目を怒らせている小松の前で正座をさせられている柚の姿だった。柚は小松に負けじとむっつりしている。
「一体どうしたんだい?」
「お前さん、聞いておくれよ」
努めて優しく聞いたのだが、小松の怒りは収まってはくれなかった。定次も一緒に怒られているような心持ちで、小松の横で小さくなる。一方、柚は定次が帰ってきたことで、ますます不機嫌になるばかりであった。
そもそもの原因は、この定次である。
定次は柚の継父だった。柚の母の小松と連れ添ったのは、半年前である。実の父は柚が物心がつく前に病で亡くなってしまったと、柚は母から聞かされていた。今まで母一人子一人。父親がいなくても、柚に不満はなかった。それが急に……
『柚に紹介したい人がいるのよ』
と、前触れもなく言われ、定次を紹介されたのだった。小松に定次と一緒になってもいいか、つまり、定次が新しい父になってもいいかと問われ、柚は……
『おっかさんがいいならいい』
と答えた。これは本心であり、本心でないような言葉だった。
今まで女手一つで育ててくれた母が連れ添いたいと思う人がいるのならば、自分が何かを言える立場ではない。だから、反対はしないけれど、新しい父などいらないという気持ちが大いにある。
定次は穏やかで、気を遣っているのが見え見えであるし、彼に対して何がという不満はないのだが、誰であろうと父親という存在がほしくなかった。
母がいればそれでいい。幼いころからの想いが、定次を受け入れてはくれないのだ。
「この子ったら、明日から奉公に行くってぬかすんだよ」
「奉公だって!」
常には穏やかな定次も、さすがに驚いた調子の声を上げた。
「だって、柚は
馴れ馴れしく呼び捨てで呼ばないでほしいと、柚は心の中で苦々しく思う。
「その饅頭屋は今日で辞めたっていうのよ。あれだけ働きたいってお願いしてきたくせに、すぐに辞めて、今度は奉公に行きたいって言うんだから、勝手にもほどがあるわ」
「…………」
こういうとき、父親なら厳しく叱るのだろうか。柚にはわからない。でも、定次に父親としての立ち位置は求めていないし、干渉もしてほしくない。
小松と定次が営んでいる茶問屋は、二人が連れ添ったときに興した店だ。いつか店を持ちたいと、小松は常々言っていて、兄弟もいない柚は母の手伝いをしたいと思っていたものだ。だが、定次がいることは想定外で、四六時中同じ空気を吸いたくはないと、饅頭屋で働くことにしたのだ。何で他の店に働きに行くのかと、小松は大反対したのだが、自分の家で働いていたら小遣いが少なくて嫌だと駄々をこねて、求めてもいない定次のとりなしもあり、饅頭屋で働くことを許されていたのだった。
しかし、その饅頭屋で働いても、三日を置かずに定次が様子を見に来るので、どこぞに奉公に行けば定次が
「柚、お前はもう十六なんだよ。そろそろ立派なお婿さんをもらって、一緒に働いてほしいんだけどね」
「
「おっかさんがいい人を見つけてあげるから」
「嫌よ。自分で見つけるんだから」
「ちょっと、二人とも……」
話が本筋からそれてしまいそうで、
「ゆ……」
柚は定次の言葉を
「明日から浦野様のお屋敷で働くのは決まったことなの。おっかさんが何て言おうと、だめにできないんだから」
ぷいと、そっぽを向いた柚に、小松は
それから微妙な空気が
母は何も言わなかった。荷物をまとめるのを黙って手伝ってくれたのが、かえって気持ち悪い。やっぱりやめたと言い出すのを待っているか。それとも勝手にしろという気持ちなのか。たとえ母に反対されようと、奉公に行くのは自分で決めたことだ。今さらやめたとも言えないし、思ってもいない。しかし、この日の柚はなかなか眠りにつくことができなかった。皆がすぐに辞めてしまうという家に行くのが、急に怖くなった。母に言えば、何が何でも絶対に行くなとなるに違いない。他に空きがないと口入屋の主人は言っていたが、探せば他に、もっとよいところがあったかもしれない。もう少し待てば、どこかが空くのかもしれないとも考えてしまう。
「何であんなに強情なのかしら……」
「奉公に行ったら、年に二回しか帰ってこれない……明日になったら、断りに行こう」
「いいわよ、断らなくて」
にべもなく言い放った小松に、柚もまた意外に思った。
「でも……」
「どうせすぐに帰ってくるんだから。あれだけお願いしてきたくせに、饅頭屋はもう辞めちゃったじゃない」
なにを……辞めたのは定次が来てしまうからで、めげたわけではない。
こうなったら意地でも帰るものかと、不安よりも怒りが勝った。そもそもはと、柚の怒りの矛先は定次に向く。
定次という人が気に食わないわけではない。父親なぞ今さらいらないと思っている柚にとって、定次ではなくても、誰でも気に食わないのだ。
翌日、柚は小松と定次に付き添われて、浦野家を目指していた。
浦野家は月夜町より約一里ほど離れた
商家の連なった賑やかな町に住み慣れた柚は、人家ばかりの、家と家がさほど密集していない武家屋敷ばかりの場所が、寂しく感じられた。しかも武家屋敷といわれなければ、商人の別荘とも見えるそれは、こじんまりとしている。少し離れればこんな静かな場所になるのかと、はじめて知った。だが柚にとって、大きい家がいいというような欲はない。家を出ることができればよいのだ。
「ここでいいのかい……?」
小松の
寂しいのは、何も場所だけではない。遊び回れるほどある庭には、枯葉の海と、使われなくなった畑がより陰気である。
「すみません……」
柚は表口の前で声をかけた。
「…………」
家の中までしんと静まり返っている。しかし今日来るとわかっていて無人なわけがないと、柚は先ほどより声を張り上げた。
「もし!」
「はいよ」
今度は返事があった。奥の方から聞こえる声は間延びしていて、年老いて聞こえた。
がらと、戸口が開く以外の音は何も聞こえなかったので、不意打ちに一同はびくりとした。
「あ……」
すぐに言葉が出なかったのは、戸口を開けた老婆が、想像していたよりも年老いていて、腰がくの字に曲がっていたからである。どうということのない老婆だが、この陰鬱とした場所で、やけに不気味に見えてしまったのだ。
「柚さんかの?」
「は、はい……」
皺と染みにまみれた皮膚は長い歳月の間にくすんでしまっていて、髪は真っ白である。これが山奥で暮らす老婆ならば、
「坊ちゃんがお待ちだ。こっちにいらっしゃい」
細い目を三日月に歪めた老婆を見て、愛想のよさに柚は
老婆は浦野家に仕えているのだろうか。しかし坊ちゃんとは、小さい子でもいるか。そういえば、浦野という名前と所在以外、何も聞いていなかったと、柚は己の軽率さに呆れた。
「連れてきましたよ」
通された部屋には、一人の青年が座していた。坊ちゃんという割には成長しているように思えるが、他に家人らしき姿もなければ、この青年こそが主なのだろうか。
青年と真向かいに柚が座り、彼女の両脇には小松と定次がいる。
「浦野春太郎と申す」
小松たちに
「あの、このお屋敷には他におられないのでしょうか」
小松がおずおずと尋ねた。
「私の他に、先ほど案内したお滝がいるが……」
ちょうど滝が、茶を持って部屋に入ってきた。
「この通り高齢であるからして、ゆっくり休ませたいと思っている」
「柚はお滝さんの代わりですか?」
「うむ」
「慣れるまではお滝にこの家にいてもらうつもりだが……」
柚が女中の仕事に慣れたら、お滝はどこかで隠棲するということだ。
つまり、浦野家には春太郎と柚だけが住むことになる。
柚にも状況は理解できたが、だから何だといった顔。一方、小松の顔は晴れない。小松以上に驚いているのは定次だ。
「給金は一両を前払い。これが……」
「一両って、安くないですか?」
春太郎の言葉を遮ったのは、小松だった。
まさか武士の言葉を遮るとは、我が母ながら恐ろしいと、柚は口を開けた。
「女中の給金なら、二両はいただきたいところですよ」
商人根性が我慢できなかったのか、ずけずけと肝っ玉の強いことだ。
もし母の態度に怒って奉公の話がなくなったらどうしてくれるものかと、恨めしくなる。
「薄給の武士ゆえ、一両が限界だ。もし不満があるなら……」
「ありません!私は未熟者だから、一両で結構です」
「柚!あんたはまた勝手に……!」
「おっかさんこそ……」
「ちょっと……」
歯止めの利かなくなった二人を止めるのは、定次の役目らしい。これから仕える主を前にして醜態をさらしてしまっていることに、柚は今さらながらに恥ずかしくなった。
「ところで、浦野様は何の仕事をなさっているんでしょうか」
取りなすように言った定次の問いは、気になっていることではある。なにせ何も知らずに奉公を決めた柚の口からは、わからないのだから。
「右筆役配下風史編纂係……まあ、藩の土俗を日々まとめている」
文官か……言われてみれば、筋肉質でもないし、剣より筆を握っている方が似合うといった印象である。
この風史編纂係というのが、ただの文官ではないと柚が思い知るのは、もう少し先の話であった。
春太郎に手渡された一両をもらって、小松と定次は何か言いたげな顔をしていたが、浦野家を去っていった。
去り際に、
「何かあったら、すぐに帰ってくるんだよ」
と定次が言ったものだが、誰が帰るものかと柚は意固地になっている。
その後は、春太郎は部屋の中にこもって仕事を始めたそうだ。基本、坊ちゃんはこうしていると滝が説明した。
母の無礼にも怒らなかったし、口数も少なそうだ。やかましいよりはいいことだと柚は安堵したが、油断はできない。浦野家に奉公した女中は、なぜかすぐに辞めてしまうといういわくつきだからだ。
滝から家の勝手を教えてもらい、あれよあれよという間に一日が終わっていた。
(なんだ、何もないじゃん……)
柚が作った夕餉の味に文句も称賛もしなかった無口な主と、時折にこやかに笑う顔が愛らしい滝の手ほどきにも、文句の一つもなかった。
でもどうして、今まで働いていた女中たちは辞めてしまったのだろうか。これから春太郎が、あるいは滝が本性を見せるというのか。
ちらと、柚は隣の布団で眠りについている滝を見やる。女中部屋は二人分の布団が敷けるほどの大きさだが、滝が浦野家を去れば充分な広さだ。布団に入るなり刹那に夢の中へと入った滝は、軽い
滝に聞いたところによると、春太郎の父はすでに亡くなっているが、母はわけあって離れて暮らしているらしい。そのわけは滝も言わなかったし、柚も聞くのは
義父に会いたくなくて家を出たかった自分もいれば、わけあって母と暮らせない侍もいるのだと、感慨深くなる。
「にゃー」
柚の思考を途切れさせたのは、猫の声だった。声は、障子戸の向こうから聞こえる。
起き上がって障子戸を見れば、ゆらゆらと尻尾を揺らす猫の陰がくっきりと移っていた。まるでそのしっぽに誘われたかのように、柚は障子戸を開けた。……が、そこに猫はいなかった。
不思議に思ったのは、障子戸を開ける寸前まで、陰はそこにあり続けていた。まあ、猫は素早いから逃げてしまったのだろうと、今度は頭上を
あの月に、兎は住んでいるのだろうか……夢想的なことを思いついたのは、それほどまでに、月がこの世のものとも思えないほど幻想めいていたからだ。
「にゃー」
再び聞こえた猫の声が、現実に引き戻した。
振り返ってはいけない。予感はしていたが、反射的に振り返ってしまっていた。
「……っ!」
間近に見えるのは、赤黒い顔をした女の顔……異様に大きい目が、柚を捉えている。にたりと笑った口は耳まで裂けていて、牙がむき出していた。
この世のものとも思えぬその姿を目に焼きつけたあとで、柚は意識を失った。
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