棗ノ怪
一
雪が溶け始めていたが、まだ火鉢なしでは心許ない。晴れて放免となった清之進が浦野家に帰ってきてから、四ヶ月が経とうとしている。はじめの三ヶ月ほどは座敷牢で過ごすことが定められていたので、狭い部屋の中に閉じこもりきりだった。年が明けると、陽の光を浴びることができたのだが、本人は寒いと言って部屋の中に閉じこもっている。
「……ということで今宵、左近寺様が来られますから」
「うん、わかった」
「…………」
「何を怒ってるんだい?春太郎」
「別に、怒っていません」
兄のいる部屋に、左近寺の来訪についてを教えにきた春太郎は、少々憮然としている。普段からそのような態度だと言われれば、そうだと納得しそうになるが、事実、彼は怒っていた。
清之進は部屋の中で寝そべっている。牢の中での暮らしを強いられてきた清之進に、のびのびと過ごしてほしいという思いがあるので、兄の態度自体に怒っているわけではない。問題は、彼が枕にしているものであった。
「そんなに羨ましいなら、あとで春太郎もやってもらえばいいだろ。ね、柚ちゃん」
「はあ……」
気乗りのしない返事なのは、柚が快く清之進を助けているのではないという気持ちの表れである。
柚の膝の上には清之進の顔が、つまり、膝枕をしてあげているのである。
ちょっと座ってと言われ、それからすぐに頭をのせてきたのだから、柚は内心、困っていた。嫌だというわけではないが、何だか恥ずかしい。清之進に対して、払いのけるようなこともできるわけもなく、そこに春太郎が来たのである。
「ふん、俺はそんなまねはしない」
すっかりくだけた口調になっている春太郎は、冷静さを装っていた。
「しかし、見損なったぞ」
「へ?」
「誰彼構わず膝枕をするようなあばずれだとは思わなかった」
「あばずれって、ひどい……!」
「いて……」
柚は思わず春太郎の方に向き直ったので、清之進が畳の上に振り落とされる形となった。
「私は、清之進様だからしてあげてるんです!」
「なら兄上に好意を抱いているのか」
「そんなわけないじゃないですか!変なことを言わないでください!」
「まあまあ、夫婦喧嘩は犬も食わないってね」
「「誰が夫婦ですか!」」
清之進が来てから、より一層にぎやかになった浦野家であった。
その日の夜、約束通り左近寺が浦野家に来訪した。
「昨今、日ごと不穏な世情になっている気がする。棗の地でもそう感じるのだから、江戸は騒がしいのかもしれんな」
時代は激動の幕末期を迎えようとしている。かつての清之進のような若者が、今や日本中に溢れかえっていたのだ。
「押し流そうとする波には逆らえない。牢の中に入ってから、そんな気がしますよ」
何かができると思った。何かを成し遂げなければならないと思った。
だけど、どうなるのかは、すべて決まっているのかもしれないと、冷静に感じているのは、過激な行動に身を投じようとしていた清之進である。
再び、また投獄されるようなことをしでかそうとは、とうに思わなくなっていた。
「清之進の言う通りかもしれんな。大きな声では言えないが、棗藩、いや、幕府という根幹そのものがなくなってしまうような世の中がくるかもしれんぞ」
まさか、と柚はつい口を挟みたくなるも、静観する。
世情だとか、幕府とか、そんな難しいことはわからない。今日を生きるのに精一杯で、国の未来なんてことは考えられなかった。
幕末の火蓋を切った黒船来航は、翌年の出来事である。左近寺はそう遠くはない未来を、予言していた。
「そこで、儂は考えた。もし棗藩が、今の時代が終わろうとしているのならば、後世に残すべきものがあると」
「残すべきものとは……」
春太郎が尋ねると、左近寺はにやりと笑って答えた。
「この世に妖怪がいた証じゃ」
少しの間、三人はぽかんとしてしまった。今まで真面目で難しい話をしていたかと思えば、何と突拍子のないことを言い出したのか。
左近寺が言うにはこうだ。
風史編纂係は土俗のことだけではなく、妖怪についても調査していて、それを浦野家の資料としてまとめている。しかし、近代化の時代に、果たしてその資料は残っているのか。もし残っていなければ、妖怪たちの証がなくなってしまう。では、どうやって残そうか。と考えたとき、資料ではなく物語として残すべきだという、考えに至ったのである。
「題して『棗の怪異物語』、というのはどうじゃ。過去にいた妖怪、今に存在している妖怪たちをまとめて出版すれば、多数の人の手に渡ることができる。これは歴史に関わる大事業、ぜひとも風史編纂係に任せたいと思っておる」
町ですれ違う人に尋ねたならば、何を馬鹿なことをと一蹴される大事業を、ここにいる誰もが、嬉々としていた。
妖怪という存在を知っている、この世のごく僅かの人間たちである。
「面白そうです。物語が出回って、たとえ信じてくれなくても、たくさんの人に妖怪の存在を知ってもらえたなら、妖怪だってうれしいはずです」
いずれ妖怪は忘れ去られる運命にある。そう危惧している妖怪たちがいて、暴走しようとしているのも確かだ。もう二度と人間を襲わないと約束した濡女、そして……
柚は脳裏に、あの邪悪な妖怪の姿が浮かんでしまい、少しぞくっとした。
「兄上、手伝ってくれますね」
「もちろん。俺も非常に興味がある」
かくして風史編纂係の創設以来の、一大事業が始まろうとしていた。
左近寺が帰った後、これから忙しくなるから、明日は実家でゆっくりしてきてよいと春太郎に言われて、柚はありがたく羽を伸ばしていた。
「へぇ、あんたも手伝うのかい?」
小松に一大事業のことを明かした柚は、うんと答えた。
(手伝うっていうか、こき使われるんだろうけど……)
春太郎に命令される様が、ありありと浮かんできた。だが、不思議と憂鬱にはならなかった。
「ふふっ」
小松が柚に、穏やかな笑みを向ける。
「どうしたの?」
「女中を始めた頃よりも、楽しそうだからさ」
「そうかな?」
「いい顔してるわよ」
いまだに妖怪の調査は恐いけれど、毎日の生活は満たされているように思う。毎日、玉緒と一緒に寝て、月尾とお菓子の取り合いをして、人使いの荒い風変わりな主との生活は、捨てたくないし、一生続けばいいとさえ思っている。
(初めはそんなつもりなかったのにな)
嫌いだった継父の定次と離れたくて、見つけた仕事だった。しかし、定次との蟠りが解けた今でも、女中を続けている。
ちょうどそこに、定次が帰ってきた。
「おとっつあん、お帰りなさい」
「柚、帰ってたのか」
うれしそうな顔をする定次が嫌いだったことが、今ではまるで嘘のようだ。
「今日だけ旦那様が休みをくれたの。お茶淹れるね」
それからやはり、風史編纂係の一大事業の話をして、家族団らんとした。
「あ、そういえば……」
と、思い出して言ったのは、小松だった。
「この前、浦野様のお母様が来たのよ」
「え!」
清之進が帰って来てからは、君江は一度も浦野家に来ていない。わざわざ花乃屋に来たのか、それともついでだろうか。ともかく、君江が花乃屋に来たのは意外だった。
「びっくりしたのなんのって、お武家の奥様がずっと店を睨んでるんですもの」
「たまらず俺が声をかけたら、浦野様だったんだよ」
まさか、自分の身元調査にでも来たのか。まだ女中として信用されていないのかと、一瞬しょげるも……
「お宅の一人娘を嫁に出すつもりですかって、いきなり言ってきたのよ」
「……?」
あいにく、嫁に行くといった話はないのに、君江はどうしてそんなことを聞いたのだろうと、柚は疑問符を浮かべる。
「あれじゃあ柚も苦労するわね」
「でも普段は家にいないんだろ。来たときだけ我慢すれば……」
「ちょっと待って。何の話を……」
柚には小松と定次の話が、うまく理解できないでいる。
「あんたの話に決まってるじゃない。早く嫁に出さないと行き遅れになっちゃうし、今年にはなんとかしたいわね」
「嫁って、私、婿をとらないと……」
「そりゃあ婿をとって、一緒に暮らせたらって思わなくはないけど、あんたが嫁に行きたいとこがあるなら、そうするしかないじゃない。あんたの人生だものね」
隣で、定次も頷いた。
「まるで私の嫁入り話が決まってるみたい……」
「もう、なに照れてるの。浦野のお母様が言ってたわよ。よくもうちの息子を誑かしてくれたって」
「ふぇ?」
「くどくど言われたけど、半分は諦めてたから、すぐに二人のことは許してくれそうよ」
「なっ……!旦那様と……ありえない、ありえない」
君江が許すなんてこと、天がひっくり返ってもあり得ない話だ。そもそも、いつの間に両親は春太郎との仲をそう解釈したのか……
「仮に旦那様といい仲だったとしても、私は町人で、向こうはお武家様なんだから、絶対に無理よ!」
「俺もそこが心配で、ある人に相談してみたんだが、身分を合わせれば問題ないそうだ。つまり、浦野様が町人になるか、柚が武家になるか。浦野様が変わるのは無理だから、柚が誰かお武家様の養子になって、それから嫁げばいいんだよ」
身分?養子?かなり具体的な話までされたことに、柚は困惑している。
「二人とも、からかわないでよ!」
小松と定次はにこにこしていたが、話はそこまでとなった。
翌日の早朝、朝餉の準備に間に合うように、柚は花乃屋を後にした。
冷気が肌を刺す中で、柚は背中が総毛立ったことに自分でも気づかなかった。
柚の前に、一人の男が立ちはだかる。
「久しぶりだね」
目を奪われるほどの端正な顔も、安心させるような声も、柚は恐怖として記憶している。
柚が知る限り、この世で最も怖ろしい妖怪が、目の前にいる。――邪魅だ。
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