二
ほんの少しだけ、油断していた。だって、しばらく現れなかったから。
邪魅は薄く微笑む。 きれいな顔なのに、柚には底冷えのするような思いだった。
「もしかして、忘れちゃった?」
忘れるものか。あんなに、怖い目にあったというのに。
覚えている恐怖が、身体を硬直させているのだ。
「さすがに、そんなわけないか」
楽しそうに言う邪魅から逃れる術はないか考えるも、頭の中は恐怖でいっぱいだった。
逃げなくては……どうやって?……もう逃げられないのかも……
「よかった。覚えていてくれて。もし忘れていたら、殺してたかも」
ほら。やっぱり怖い。
柚は圧倒的な絶望を前に、死を覚悟した。
(せっかく楽しくなってきたのに……)
特殊な武士の家の女中にも慣れて、継父との蟠りもなくなって、浦野家の家督問題も一件落着してこれからというときに、なぜ……
ここで柚に光明が差した。
(そうだ……!旦那様のお札がある!)
春太郎からもらったお札は、強力な妖怪濡女をも退けた。それを持ち歩いていたことに、いまさらながら気づいた。
「君は感情が素直に出るようだね」
「う……」
「さっきまで怯えていたかと思えば、今度は浮上しているみたいだし。ふふっ、大丈夫だよ。もう君を襲ったりしない。……信じられるものかって顔をしてるね」
表情に出てしまうのなら、言葉がなくても会話が成立している。
「まだ月尾を狙ってるの……?」
柚は恐る恐る聞いてみた。
「うーん、なんか、飽きちゃった」
まるで子どものような言い草に、柚は拍子抜けする。
「私なりにいろいろ頑張ったけど、うまくいかないし」
知らないところで、邪魅が何をやっていたのか。考えるだけで恐ろしい。
「だから最後の賭けをしたくなってね」
「賭けって……」
「今から君の中にある、私に関する一切の記憶を消す。それでも君が私のことを覚えていたら、この先何百年、何千年経とうと、人間に危害は加えない。もしも忘れたら、最悪な目にあわす」
「ちょっと待って。記憶を消されたら、覚えているわけないじゃない。言っていることがあべこべよ」
そもそもが不可能な難題を突きつけて、忘れさせることが目的なのか。
柚は必死に訴えるも、邪魅は不敵に笑っている。
――忘れないで。
それは、人間よりも長い時を生きる妖怪の、根本にある願いなのかもしれない。
「棗藩の命運は、君にかかっている」
そう言い終えると、邪魅は姿を消した。
「そんなこと言われたって……」
邪態は記憶までも消せるのか。本心だけを言っていたのだろうか。恐怖の存在として、疑わざるを得ない。
(そうだ!紙に邪魅を忘れるなとでも書いておこう)
できることは、それしかない。あとは、早く春太郎たちに伝えなければ……柚は一度動き出して、止まった。
(あれ……何してたんだっけ……?)
なぜ自分がここにいるのか、まるで覚えていなかった。が、徐々に思い出していく。
(昨日は家に泊って、旦那様のところに戻るところだった)
不可解にも一瞬、忘れてしまっていた。
(やだ。ぼけちゃったのかな……そんなわけないか。旦那様に言ったら絶対揶揄われるに決まってる)
だから言うのはやめようと、柚は再び歩き出した。
風史編纂係の一大事業が始まる……それ以外は、いつもの日常だ。
たった一つ零れ落ちてしまった記憶を、どう思い出せるものだろうか。
およそ一月が経った。
清之進は約束通り浦野家を去り、弾正の元で暮らし始めている。葉太ともすぐに仲良くなったそうだ。そして浦野家では……
「私と弥市さんは、隣同士に書いてね!」
玉緒が念を押して言っているのは、『棗の怪異物語』のことである。
『棗の怪異物語』は一頁に一つの怪異を載せることになっている。なので見開きで、玉緒は弥市と隣合わせを希望しているのだ。
ちなみに、玉緒と弥市――猫又と狐火の担当は、柚ということになっている。もちろん柚は、玉緒に言われずとも、二人を隣同士にするつもりでいた。
(玉緒は本当に弥市さんのことが好きなんだな)
妖怪だって、恋をする。だが、月尾に言わせれば、そういう妖怪は稀のようだ。
(弥市さんだって……)
なにも玉緒の一方的な想いではない。柚から見れば十分に、弥市の気持ちも感じ取れていた。さて、二人をどう書こうか。柚が構想を練っている、ある夜のことだった。
「玉緒、どうしたの?」
明らかに玉緒は元気がなかった。とても落ち込んでいて、肩をがっくりと落としている。
「弥市さんが……お見合いするんだって」
「え!お見合い……」
妖怪でもお見合いをするのかと一瞬思ったが、弥市の正体を知るものは自分を含めて、ほんの一部であったことを思い出す。 若い番頭が独り身でいたら、放ってはおかないだろう。だが、玉緒のことは弥市の勤める黄梅堂の者はみな知っているはずである。どこの誰が持ってきた話だか知らないが、柚は憤ってみせる。
でもよく考えてみたら、たとえお見合い話があろうと、なんてことはない。
「大丈夫よ。玉緒がいるんだから、弥市さんきっと断るに決まってるじゃない」
玉緒は弥市に会いに行こうとして偶然、彼のお見合い話について話している手代たちの話を聞いてしまったらしい。で、弥市には会わずに帰ってきてしまったそうだ。
「うん……そうだよね」
と言ったが、玉緒の元気は戻らなかった。
弥市のことが信じられないというより、弥市にお見合い話があったことが嫌だったのだろう。
月尾は、 「妖怪がお見合いなんかするか。あほくせえ」といった感じである。
(明日、黄梅堂に行ってみるか)
お見合い話がなくなったとわかれば、玉緒も元気が出るはずだ。となれば、わざわざ行く必要もないのかもしれないが、本人からちゃんと聞いたと伝えるためにも、柚は行ってみることにした。
そして、翌日。
「柚さん、いらっしゃいまし」
出迎えてくれたのは、黄梅堂の主人の茂介である。あいにくと、弥市は外出してしまっているらしい。
「あの……ちょっと伺いたいことが…。」
本人からは聞けなかったが、茂介であれば事情を知っているだろうと思い、柚は聞いた。
「はい、何でしょう」
「弥市さん……お見合いをするんですか?」
茂介は少し驚いた表情をしてから、
「いえ、その話は私から断ったんです」
と言った。
弥市のお見合い話を持ってきたのは、黄梅堂と付き合いをしている商家の主人だった。独り身の弥市のことを案じてのお節介からだが、弥市が断るよりも先に、茂介が断ってしまったという。
「弥市には玉緒さんっていう可愛い子がいることは、黄梅堂の者なら誰でも知っています。だからはっきり、私から断ったんですよ。あとで弥市に聞いてみたら、自分でも断っていたと言ってましたから、安心するように玉緒さんに言ってあげてください」
これで柚も一安心した。
でさっそく、浦野家に帰ってから玉緒に伝えてあげた。
「よかったあ。 そうよね、もっと自信を持たなきゃ!」
と、玉緒はすぐに元気を取り戻したのだが……
「またか」
と呆れたように呟いたのは、春太郎である。
「今度はどうしたの……?」
すっかりいつもの調子に戻った王緒は、昨日のように、弥市のもとから帰ってきたときには沈んでいた。
「うぅ……弥市さんが……」
お見合い話はなくなったというのに、今度は何があったのだろうか。
「しゅ……」
「しゅ……?」
「祝言の話してた……」
「祝言……!?」
お見合いを飛び越して、祝言とは驚きである。だが、弥市の祝言だと決まったわけではない。
「それって、知り合いとかの祝言の話をしてただけなんじゃ……それか、もしかしたら玉緒とのことだったり」
「違うもん!私は祝言とかそういうの面倒くさいからやだって言ってから」
そこは面倒くさいのねと、軽く心の中でつっこむ柚であった。
「だったら他の誰かのことよ」
「なんか具体的な話だったよ」
「じゃあ主人の茂介さんのことだったりして」
「主人はしばらく所帯を持つ気はないって言ってて困ってるって、弥市さんが前に言ってた」
どう慰めても、玉緒は泣きそうな顔をする。確かに、好きな人がお見合いやら祝言の話をしていたら不安になるかもしれないと思えるが……
柚は無意識に、春太郎を見ていた。
「ふん。どうせ大したことはないんだ。落ち込むだけ損だぞ」
(なんて身も蓋もない……)
乙女心の機微がわからない主に、少しむっとした。
さてどうしたものか。慰めたところで、玉緒は元気にならない。柚が考え込んでいると、すっと背後から風が突き抜ける。
「玉緒さん」
一匹の狐――弥市が現れていた。
弥市はすぐに、人間の姿に変化する。
「…………」
いつもなら弥市の姿を見ただけでうれしそうな顔をするのに、玉緒は泣きそうな顔のまま、振り向いた。
「私がきちんと説明せずに、不安な思いをさせてすみません」
「…………」
玉緒は黙ったまま、何か言いたげにしている。代わりに柚が尋ねた。
「弥市さん、近々祝言の予定なんて、ありませんよね……?」
「祝言ですか……」
弥市は否定するより先に、閃くものがあった。
「まさか、旦那様とのお話を聞いて……」
玉緒はこくりと頷く。
不安そうな瞳を湛える玉緒に、弥市は柔和に微笑んだ。
「私の知人が祝言を挙げるのも間近になって、何か私にできることはないかと思い、旦那様に相談していたのです。祝言に必要な物とか諸々を話していましたから……玉緒さんに誤解されるような話でしたね」
申し訳なさそうに言う弥市に、玉緒も同じく己の誤解を恥じながら、弥市への申し訳なさに襲われる。
「だから大したことはないと言ったんだ」
春太郎が本当に言いたいことを、玉緒はわかっていた。玉緒のことをずっと心配していた柚は怒るでもなく、よかったねと言ってくれている。
「ごめん。柚もたくさん心配してくれてありがと……いたっ!」
「ったく、お前のドジもいい加減にしろ」
月尾にぽかんと頭を叩かれた玉緒は大袈裟に痛いと訴えている。
騒がしくなって、弥市が宥めて、玉緒が柚の後ろに隠れて、どれも柚にとっては、ありふれた日常だった。
数日後、柚が再び黄梅堂を訪ねると、弥市がいた。
「そういえば祝言を挙げるのって、もしかして妖怪だったりするんですか?」
「柚さんもすっかり風史編纂係が板につきましたね」
傍から見れば、怪異を調べようとするちょっと変わった女の子に見えてしまうかもしれないが、もうそんな感覚は柚にはなかった。
「祝言を挙げるのは人間です。柚さんもよく知っているお方ですよ」
「……?」
はて、思い当たる人物がいない。ただ自分が知らないだけだろうか……
「日取りが決まったら、早く教えてくださいね」
「えっ……!て、私!?」
弥市は冗談を言っているようには見えなかった。両親しかり、弥市までもが変なことを言ってくる。
「相手もいないのに祝言なんて、できっこないですよ」
「私にはそうは見えませんが」
「もう、弥市さんったら……」
顔を真っ赤にした柚に、弥市は優しく微笑んだ。
弥市の心の中には、ある虚しさが去来していた。
守りたい主も、玉緒の大好きな柚と過ごすのも、妖怪にとっては刹那の瞬きである。いつか、あっという間に別れがやってきてしまうのだ。
別れをくり返してきた弥市でも、その虚しさには慣れはしない。玉緒は、そのときに耐えられるだろうか……
後には決して忘れられない思い出しか、残りはしないのだから。
ただ今の瞬間だけは、人間と共にありたい。玉緒が言っていた、『柚といると楽しくて仕方ないんだ』という気持ちが、充分なほどに理解できるのであった。
【猫又】
夜な夜な武家屋敷に現れては、げに恐ろしき形相にて、人々を驚かす。
猫又、その怯えた顔が好物なり。
ある日、少女、猫又を見る。恐れ慄いて、猫又したり顔。 猫又、再び少女を驚かそうと欲する。後をつければ少女、別の悪しき者に襲われんとする様を目撃す る。 猫又、牙をむいて少女を助ける。少女、ありがたく猫又を友にする。
もとは主に可愛がられた飼い猫、情の深き妖怪となれり。
【狐火】
夜半に一つ、また一つ、灯がともる。 正体は人を惑わす妖怪にあらず。人魂にもあらず。世にも珍しき、火を噴く狐、すなわち狐火なり。
稲荷社が住処にて、毎日おあげを供えれば、狐火、永年のときをもって家を守り、顧みずは、家は廃れにけり。
普段は温厚、凛々しき姿なれど、恐ろしきは、家に仇なす者には容赦のないところなり。
家を守るその姿は、母が子を守るように温情あり。
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