一人でも柚の元に行こうとした春太郎を、決して行かせまいと、彼を止めた者がいた。

「こんな結界、俺なら壊せる」

 猫又、そして狐火よりもすさまじい妖力がある月尾には、結界を壊すことは不可能ではなかった。だが……

「待て。相手の狙いは、月尾に結界を壊させることかもしれない」

「どういうこと?」

 本人よりも前に、玉緒が聞いた。

「柚がねらいなら、人間には効かない結界を作ったところで無意味だ。この屋敷の中には柚と、得体の知れない何者かがいることは間違いない。その何者かは、柚を捕まえれば妖怪が来ることがわかっていた。そして結界を壊せるのは月尾だけだ。単なる深読みならいいが……」

 並の妖怪には壊せない結界を壊せるといえども、簡単にというわけではない。かなりの力を消耗しょうもうすることになる。ましてや月尾は、古椿の霊に力を分け与えたばかりであった。

 凄まじい力は減少してしまうのだ。

「すぐにへばりはしねぇよ。それに、妖怪が三体もいるんだ。人間の一人くらい助けられなかったら、妖怪の名がすたるぜ」

 瞬間、月尾の周りに柔らかい風がまとわりついた。

 千年を生きている妖怪の意地が、厄介な結界に手をかざす。かたくなに傷さえも受けつけなかった結界には、亀裂が入った。


 部屋の四隅にある行灯あんどんが、一斉に火を灯した。おかげで辺りが見えるようになり、自分がいるのは大広間のような場所で、目の前にいるのは知らない誰かであるということがわかった。

 先ほどまで春太郎だった人物は、明かりとともに、姿を変じている。

(やっぱり、旦那さまじゃなかった……!)

 思わず、美人と言いそうになってしまった。

 端正な顔は芸術でもあるかのようで、油断しそうになる。

邪魅じゃみ

「…………」

 男の声だった。てっきり女だと思い込んでいたので、意表を突かれる。

 ここまできて、彼の存在を疑ったりはしない。彼は紛れもなく妖怪で、自らを邪魅と名乗った。

「まさか見破られるとは思っていなかったよ」

 そう言ってはいても、驚いたような表情はしていない。

「あなたの目的は……?」

 どこか氷のように冷たい笑みを張り付けた男は、意外にもしぶらずに教えてくれるようだ。

「君が捕まれば、妖怪が助けに来るだろう?私はね、私のように強い妖怪が仲間に欲しいんだ」

(もしかして、月尾のことじゃ……)

 邪魅は、柚の近くには妖怪がいることを知っている。そして強い妖怪とは、月尾のことを指しているに違いない。

「昼間は人間に化けて、あるいは姿を隠して、夜になれば当たり前のように町を跋扈ばっこしていたのに、寂しいものだ。今では数すら減っている」

「な、何の話を……」

「君の大好きな妖怪の話だよ」

(玉緒たちのことは好きだけど、妖怪とか怪異が好きなのは旦那様の方だし……)

「猫又に古椿の霊……私の力に触れても、低級な妖怪が生まれるばかり」

 相生村で生まれた二人の妖怪は、邪魅の力に触れたことで、妖怪と化していた。二人が同時期に誕生したことを月尾は気にかけていたが、ただの偶然ではなかったということだ。

「本来の力を行使できないのは、この世界がとても住みにくくなったからだ。きっとあと少しで、妖怪たちが過去の遺物、いや、忘れ去られてしまう日が来る。そうなる前に、人間たちにわからせないと」

「わからせるって……」

「妖怪は恐ろしい存在だ。その恐ろしさは背中合わせにあって、忘れさせてはくれない。人間に畏怖いふされてこそ、妖怪という存在は成り立つ。そうだね、もう一度、何百年も前のように、妖怪が妖怪でいられるような世界にしたいんだ。今の世では私の力は弱まってしまっている。だから、彼の力を借りたいんだ」

 柚には理解できなかった。

 妖怪の価値観も、今を生きる柚に昔の価値観もわかったものではない。

 どのような手段で邪魅は理想を叶えようとしているのか、恐ろしくて聞けなかった。

「私は怖い……今だって、おしっこ漏らしそうなくらい怖い。それじゃあだめなの?」

「ならどうして、妖怪と一緒に住んでいるんだ。恐ろしい存在たちと寝起きをともにするなんて、できたものではないだろう」

「玉緒と月尾は特別だから。……月尾は、あんたの仲間になんかならないよ。月尾には大事な主がいるから」

「ふふっ……」

 邪魅が浮かべたのは、ぞくっと身の毛もよだつ酷薄こくはくな笑みだった。

「なぜ月尾が彼に従っているのか、経緯いきさつはわからないけど、彼は犬神の主たる器ではない」

 月尾の主も、自分の主も同じ。主をけなされて、反駁はんばくする気になった。

「自分が誰の主になるのかなんて、力は関係ないじゃない」

「……妖怪と人間は違う。気まぐれに弱い人間のしもべになんか、なりはしないんだ。わからずやには思い知らせるしかないな」

 今度は不敵な笑みを浮かべた。しかし、目は笑っていない。

(私にはお守りがある……)

 邪魅の手が、柚に迫った。

 大丈夫、大丈夫……と、声にすら出していないのに、心の中の声が途切れそうになる。

 殺されてしまうのではないかという戦慄せんりつが、身体中に走った。

 寸前に邪魅の手が迫ったところで、柚は固く目を閉じた。

「……!」

 ぶんと、重い空気を切り裂く音が響く。

 邪魅が後ろに飛び退いて、柚との間に一定の距離ができる。切り裂き、柚の前に現れたのは……

「伊佐三さん!」

 恐る恐る目を開けて見えたのは、獣の姿で鋭利な刃をきらめかせる、鎌鼬の姿だった。

「こんなときはちゃんと名前を呼ぶんだな」

 どうやら、伊佐三が助けてくれたようだ。

「お前の主があわててたから、こりゃあ何かあったと気まぐれに来てみてよかった。これで、あのときの借りが返せた」

 伊佐三が営むお化け屋敷で起こった事件の犯人を捕まえたのは、柚たちである。当の柚には、恩を感じてくれるほど、何もしていないと思っているが、律儀にも伊佐三は忘れていなかったようだ。それは、伊佐三の意外な一面だった。

 柚に感じ入る隙を与えないように、伊佐三が叫ぶ。

「早く逃げ……」

 言い切る前に、伊佐三は弾き飛ばされた。柚の目には、鮮やかな鮮血が飛んでいる。

「鎌鼬が私に歯向かうとは……身の程をわきまえろ」

 低い声でささやく邪魅には容赦がない。

 激しい力で伊佐三は床に叩きつけられた。腹部からはどくどくと流血している。

 自分を助けるために、伊佐三は大怪我を負った。邪魅に捕まらなければ、こんなことにはならなかった。早く、助けないと……

 様々な思いを交錯こうさくさせ、柚は伊佐三に駆け寄る。

(ばか……)

 伊佐三は春太郎と別れた後、どうにも引っかかるものを感じて、彼の後をひそかにつけていた。そして柚が真先家に捕らわれていることと、結界が邪魔をしていることを知る。

 春太郎たちとは別の場所で様子をうかがっていると、なんと結界が徐々に脆くなってゆく。もしや月尾が結界を壊そうとしているのかと察して、伊佐三でも壊せるくらいに結界の効力が弱まったときに、鎌を振った。伊佐三が通れるくらいの穴が開いて、屋敷の中に侵入する。

 いち早く柚を見つけたのは、伊佐三だった。

 柚を捕えているのは、足がすくむような恐ろしい妖怪だ。力の差は歴然としていて、柚を助けに行ったところで、己がやられてしまうか、悪くて共倒れか。

 だが、と伊佐三は考えてみる。

 ここで見捨てれば、寝覚めが悪くて仕方ない。思えば柚は、不思議な人間だ。今まで人間を助けようなんて、一度も思わなかったのに……

 間もなく、春太郎たちも駆けつけてくる。うまく逃げられるかもしれない。

 だから、柚には一目散に、逃げてほしかった。

 邪魅にえぐられた腹部が痛くて、声を出すことはできない。逃げずに自分に駆け寄ってくる柚を、怒りたかった。

(大丈夫……)

 今日は何度、その言葉をつぶやいたのだろう。

 春太郎がくれた札を持っている限り、妖怪の攻撃は効かないと、信じている。

 だが、本気になれば伊佐三でも壊せる札を、邪魅がどうにもできないわけがなかった。

 伊佐三に放ったのと同じ衝撃が、柚を襲う。お守り袋はあっけなく壊れて、柚は鎌鼬の上に倒れこんだ。

「しまった……人間は弱いから、加減が難しい」

 月尾を仲間にするには、柚をおどすことが効果的だと考えて、殺すつもりはなかった。しかし、彼女はぴくりとも動かない。

 屋敷を駆け巡る、複数の足音が迫ってきた。

「柚!」

 春太郎たちが飛び込んできたときには、終わった後だった。

 横たわる柚と伊佐三、二人を見下ろす邪魅の姿がある。

「もう少し早く来てくれれば、彼女を殺さなくて済んだのに」

 柚はうつ伏せに、血を流して倒れている。誰がそうしたのかは、一目瞭然りょうぜんであった。

 玉緒は目がくらくらした。

 大好きな柚が……信じられない光景である。絶対に、許せない……

 誰もが柚と伊佐三を見て、固まっていた。邪魅は己の失態に、気を抜いている。

 重くどよんとした空気に溶け込むように、静かに玉緒は猫の姿に変化した。玉緒が俊敏しゅんびんに邪魅に飛びかかるまでは一瞬の出来事だった。

 邪魅は避けたが、玉緒の爪は、油断していた邪魅のほおを深く引っかいた。

「…………」

 おびただしい血が出ているが、邪魅は無表情に頬に触れる。再び襲いかかろうとする玉緒を仕留めようと、一撃を繰り出した。だが、狐火の姿になった弥市がそれを弾く。

 玉緒と弥市は、邪魅に敵意をむき出して立ちはだかった。

「主、やめろ!」

 春太郎もまた、敵意を向けていた。とても禍々まがまがしく、よどんだ敵意である。

 月尾は主のしようとしていることがわかった。

 彼は、邪魅を呪い殺そうとしている。

 風史編纂係を務める者は、身を守る札をつくることができる。しかし、その能力は守るだけのものではない。表が守る力であるとすれば、裏は呪う能力だった。

 誰かを呪うことは、浦野家のおきてで固く禁じられている。春太郎は禁を犯そうとするほどに、邪魅が許せなかった。

「止めるな……」

「俺一人で、充分だ」

 きれいな黒い毛並みだった。月尾が変じた姿は、柴犬なんて、可愛いものではない。おおかみのように大きな体躯たいくで、牙をむき出しにしている。

 柚が怖がるだろうと思って、見せられなかった姿だ。

「つまらなくなったから、今日は帰るよ」

 月尾が襲いかかると、邪魅はその言葉とともに姿を消した。


 身体が、痛い。起き上がることができない意識は、自分は死んでしまったのかと覚悟させられる。

(伊佐三さん、ごめんね……あの世でちゃんと謝るから……)

 果たして死後の世界に、妖怪はいるのだろうか。ぼんやりと、そんなことを考える。

「……け」

 かすかな声が聞こえた。伊佐三の声のように聞こえる。

(怒ってるかな……)

 たとえ謝っても、伊佐三は許してくれないかもしれない。だって、自分を助けてくれた所為せいで、こんな事態になってしまったのだ。

「どけ……!」

「うわっ!」

 柚は反射的に起き上がった。

 身体は重く感じるが、痛みは消えていた。

「いつまでものしかかりやがって。傷が悪化して死んだら、どうしてくれる」

 目の前には、不思議にも血が止まっている伊佐三がいる。

「やっぱり怒ってる……」

 死後の世界で会えたのか。でも伊佐三は、死んだらと言っていた……

「柚!」

 後ろを振り向くと、呼びかけた玉緒たちが勢ぞろいしている。邪魅の姿はなかった。

 玉緒は目に涙を浮かべながら、柚に抱きついた。

「よかった……死んじゃったかと思ったよ……」

 わんわん泣き出した玉緒に、柚は状況が理解できた。

 てっきり自分は死んでしまったかと思ったが、生きていたらしい。伊佐三も大怪我はしているが、無事のようだ。

 きっと玉緒たちが、邪魅を追い払ってくれたのだろう。

「玉緒、皆も助けに来てくれてありがとう」

 誰しもがほっと一息を吐いた。

 伊佐三は多少弱っているが、話すことが億劫おっくうではない様子で、柚は怪我一つ負っていないとわかって、春太郎は軽口を叩いた。

「幽霊になっていれば、研究のし甲斐がいがあったんだがな」

 これも、安堵あんどのなせる業である。

「何をされるかわかりませんので、幽霊になっても旦那様のところには現れません」

「……無事で、よかった」

 こちらは本音のようだった。

(旦那様も心配してくれたんだ……)

 もしかしたら心配してくれないと思っていたとは、失礼で言えない。

 春太郎の顔を見ていたら、彼に変じていた邪魅に抱きつかれたことを思い出してしまった。

「…………」

「何を怒っている?」

「お、怒ってないです!」

 あれは夢だった。夢なら、早く忘れようと、自分に言い聞かせる。

「なるほど……兄上が助けてくれたのか」

「え?」

 春太郎は柚の背中から、あるものをがした。

「あ、硯さんたち!」

 甲冑かっちゅうを身にまとった九体の小さい妖怪は、清之進の牢獄で見た、硯の魂である。

「それって、旦那様からいただいたお札ですか?」

 お札を入れたお守り袋は、木端微塵こっぱみじんになってしまったはずだった。

「兄上が書いたものだ。硯の魂に持たせていたのだろう」

 清之進は硯の魂に、柚の様子を見るように命じていたが、その際に、自身で書いた札を持たせていたのである。

「…………」

 春太郎は複雑だった。

 自分の札は壊れても、兄の札は無事だった。柚を守ったのは、清之進の作った札である。

「伊佐三さんも、無茶をしますね」

「いつからいたんだ?」

 弥市と月尾が、彼をいたわりながら聞いた。

「柚がおしっこ漏らしたって、言ったときかなぁ」

「漏らしてないし!漏らしそうって言ったの!」

 傷口をつついてやりたくなったが、可哀そうなのでやめた。

 それよりも柚が気になるのは……

「月尾……」

 玉緒だけは柚に抱き着くために人の姿に戻っていたが、月尾は獣の姿のままだった。

 ずっとなってくれなかった獣の姿を、柚は初めて拝めたのである。

(しまった……!)

 すぐに人の姿になろうとするが、柚にじっと見つめられて、動けない。悲鳴も上げなければ、怖がる表情もせず、月尾の予想とは違った。

「かっこいい……!」

 柚は動物をかわいがるのと同じ感覚で、月尾に抱きついた。柔らかい毛並みが心地よい。

「怖くねぇのか……?」

「ちっとも。こんなにかっこいいなら、早く見せてくれればよかったのに」

 予想外の反応だが、褒められていい気分になる。

 柚に愛でられている月尾に嫉妬しっとして、玉緒はうなっていた。


(いろいろと、想定外だった……)

 柚を攫い、月尾を仲間にする計画は、うまくいくはずだった。

 失敗したのは、邪魅という存在におくすることなく歯向かった、妖怪たちがいたからだ。

 たった一人の弱い人間のために、命も惜しまない妖怪たちは、長年の時を生きる邪魅にとって、稀有けうな存在である。

(だが、やはり利用し甲斐がある)

 稀有なのは、柚もだ。妖怪たちを動かせる柚は、利用価値のあると踏んだ。

(それに、もう一人……)

 犬神の主としては分不相応ぶんふそうおうだと思っていたが、彼は禁じ手を犯そうとした。

 誰かを呪おうとする心は、簡単に芽生えるものではない。そして、実行できる者も限られている。

(彼を利用した方が、面白いかも……)


(風史編纂係の仕事は己に合わないと言い聞かせていたつもりだが、本当に合わないとはな……)

 浦野家の血を引く兄こそが、浦野家を継ぐべき存在だと頑なに信じて、自らは余計な意思を持たないようにしていた。

 柚を殺されたと勘違いした春太郎は、邪魅を呪おうとした。それは浦野家において、決してしてはならないことである。

 あとになって春太郎は、自分がしようとしたことに打ちのめされてしまった。

 自分は、浦野家に相応ふさわしくない。

 兄を思えば致し方ないと考えるべきだが、正直にがっかりしている。

――風史編纂係って旦那様の天職みたいなものなのに、何だかもったいないですね。

 柚はそう言っていたが……

(俺も、そうだと慢心まんしんしていたよ)


 一件落着してから、柚は再び清之進に会いに行った。

「柚ちゃん、ごめんね」

 清之進には精一杯、申し訳なさそうにされた。

「悪いのは邪魅っていう妖怪で、清之進様は悪くないです。きっと、私が真先家に行くことを読んだんですよ」

 あの日、真先家の家人たちは親戚の家に行っていたようだ。奉公人たちは各々どこかに行っていたようだが、なぜ真先家を一人残さず出てしまったかは、記憶にないという。

 誰の仕業かは、言わずもがなだった。

「あの後、長一郎様にもお会いできて、本も渡しました」

「柚ちゃんはいい子だね」

 清之進に頭をでられれば、一層に恥ずかしい。

 子どもに思われているのではと柚は思ったが、清之進は妹のように可愛がっているのだ。

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