忙しくて今年はもう会いに行くことができない。少し時間ができそうな日があるので、悪いが来てくれないかと左近寺に誘われ、春太郎は急遽きゅうきょ、左近寺宅を訪ねることになった。

 きっと左近寺は面白い怪異の話を聞いて、せわしない日常を紛らわせたいのだろう。しかし、妖怪と暮らしているとはいえ、最近は目立った怪異とは縁遠い。そこで春太郎は、怪異の代わりに、柚の面白い話をして和ませた。

 左近寺は愉快そうにしてくれたが、当の柚がいないことが、少し不満だったらしい。今度会うときまでには、何かしらの怪異に出会っておけという無茶ぶりを最後に言われて、春太郎は左近寺宅を後にした。

 その後は地本問屋におもむいて、好みの書物を探したり、外に出たのを機に諸々の用を済ませてから帰路に就いた。一刻は外出していたので、てっきり柚の方が先に帰っていると思ったのだが……

(まだ兄上のところか……)

 馬が合って、話し込んでいるという可能性もあるが、いつもなら柚が夕餉ゆうげを作り始めている刻限でもある。基本は真面目な柚が、話し込んで遅れるだろうかと、考えてしまった。

「月尾」

 春太郎の元に姿を現した彼は、眠たそうな顔をしている。今まで誰もいなかった場所に、足音もなく、瞬時に現れるこの光景を、春太郎は見慣れていて驚くことはない。柚もすっかり慣れた現象ともいえるが、その柚が一度帰ってこなかったかと尋ねてみると、

「まだ帰ってきてねぇよ。そういや遅ぇな」

 という返事だった。

「……どこかで油を売っているだけならいいが、念のためだ。月尾、柚の実家に立ち寄っていないか見に行ってくれ。花乃屋にいなかったら兄上のところにも。俺はその辺を見てくる」

「わかった」

 月尾は再び姿を消した。人の目には見えなくても、主の焦燥しょうそうをくみ取って、一目散に花乃屋を目指す。

 本当に、何もなければよい。早足になってしまうのは、嫌な胸騒ぎのせいだった。

 柚の立ち寄りそうな場所を思い浮かべてみる。真っ先に浮かんだのは実家で、柚の目的地である兄の居所とともに、月尾に命じた。他に柚が立ち寄りそうな場所は、買い物くらいなものだが、どの店に立ち寄るのか、行きつけの場所までは知らない。なので店が立ち並んでいる通りに来てみるも、どこも店じまいを始めている。

 しばらくうろうろとしてみたが、陽も沈みかけていた。

 すれ違って柚が帰っているかもしれないと家に戻ろうとしたとき、声をかけられた。

「伊佐三か。興行はうまくいっているのか」

「へい。お蔭さんで」

 伊佐三が営むお化け屋敷では、人が切りつけられる事件があり、一時期は人足が絶えてしまっていた。無事に犯人が見つかったことで、持ち直したようだ。

「そうだ、柚を見なかったか?」

「さっきでもないが、会ったぜ。秋吉町の方に歩いて行ったなあ」

「秋吉町……何でそんなところに」

 春太郎は伊佐三に礼を言って、小走りに秋吉町へと向かった。


 柚は部屋の隅で、身体を小さくしてうずくまっていた。手足、それに口は縛られていて、動くこともままならない。

 このような状態になるのは、一瞬だった。

 真先家の門をのぞいて、声が聞こえたかと思えば、あっという間に縛り上げられてしまった。誰が、どうやって、自分を捕らえたのかはわからない。相手の顔も、姿も見えなかった。けれど、これだけはわかる。

(また妖怪がでた……!)

 人間にはできない芸当、すなわち、柚にはお馴染みの存在による仕業であった。

 陽の光も失せて、部屋の中は暗闇に包まれようとしている。しかもこの家には、人の気配がまるでない。家人も、使用人も、誰もいなかった。

 なぜ自分がこんな目に合っているのか。まるで招かれたように開いていた門は、誘いこむためだったのか。妖怪のすることに理由はないのかもしれないが、いま置かれている状況は、怖くてたまらない。だけど、

(玉緒たちが助けに来てくれる)

 と、確信していた。

 一方、玉緒は、柚が危険だという勘に襲われて、弥市の家を飛び出していた。

 闇雲に走ったわけではなく、玉緒には柚のいる場所がわかったのだ。妖怪の中で、玉緒の能力は高いものではない。なにせ妖怪になったばかり。人を驚かせるのが精一杯なところだ。だけど、柚の居場所と彼女の危機を察知する力が芽生えた。

 今日だけの、神様が気まぐれに与えた、特別な力かもしれない。

 とにもかくにも、柚の姿を確かめたかった。

 玉緒がたどり着いたのは、とある武家屋敷。不用心にも、門は開いたままだった。

――柚は、この中にいる……!

 天啓てんけいが、頭に響いた。

 玉緒は一度も足を止めずに、門の中へと入った。

「待って、玉緒さん!」

 ただならぬ玉緒の様子に、弥市は心配になって後を追っていた。しかし弥市の声は、すんでのところで届かなかった。

「にゃっ……!」

 門を抜け、屋敷の入り口の手前で、玉緒は何かに思いっきりぶつかってしまった。

 転んで地面にぶつけてしまったわけでも、庭石にでもない。

 見えない何かが、屋敷に侵入するのをはばんでいる。

 顔を痛そうに抑えている玉緒に、弥市はつかさず駆け寄った。その弥市も、阻む何かを目にとらえることはできなかったが、嫌な気配を感じてはいた。

「これは……」

 弥市はそっと、阻むものに触れてみる。弥市の妖力をもってしても、それは壊せそうになかった。


 秋吉町は、武家屋敷の並ぶ町だ。左近寺の家は秋吉町にないので、他に武家の知り合いもいないであろうに、柚はなぜここに来たのか。考えられるとすれば、武家に奉公する使用人と知り合いで、用事があったのではないかということだ。

 つい長話をしてしまった。そうであってほしい。

「主」

 月尾が戻ってきたようだ。姿は現さずに、語りかける。

「どうだった?」

「実家にも戻ってねぇし、兄さんのところにもいなかった。中尾獄にはあいつの匂いがあったから、寄ったのは間違いない。匂いをたどって来てみたんだが、どうにも嫌な匂いが混じってやがる」

 焦燥が、また一段と駆り立てた。

「柚の匂いはどこに……」

「その先を曲がったところだ」

 月尾の気配を頼りに、春太郎は柚の元へと急いだ。

 そしてたどり着いたのは、真先家の門前である。開いている門の先には、玉緒と弥市がいた。

「あーもう、痛い!」

 すでに夜の刻限になっていた。玉緒は周りに春太郎以外の人間がいないのをいいことに、猫耳をつけた人の姿になっている。

 月尾もまた、他の人の目に触れられないように丁寧に門を閉め、溜息を吐きながら姿を現した。

「またドジをやってらぁ」

「違うわよ!何か変なのがあって、中に入れないの」

 玉緒が見えない壁についてを月尾に訴えている間に、弥市が尋ねた。

「やはりここに、柚さんが」

「月尾の鼻は正確だから間違いない。狐火も鼻が利くのか?」

「いいえ、私は玉緒さんについてきただけです。彼女には柚さんの居場所がわかるようですよ」

 妖怪になったばかりの玉緒には、特別な能力は備わっていない。だが、柚が危険な目に合っているという勘と、彼女の居場所を突き止めたのは、柚という人間に対する特別な感情があるからなのか。

「興味深い話だが、まずは柚を探さなければな」

 玉緒の行動は、風史編纂係を務める春太郎には今すぐ調べたいと言っても過言ではないが、ますます柚の状況が不穏になっている今、一刻も早く柚を見つけなくてはならない。

「たしか真先家の長一郎殿は、兄上の友人だったはず。もしや、兄上に用でも頼まれたのか」

「でもこの家には、柚さん以外の人間は誰もいないようです」

 真先家の人間はいないのに、柚は屋敷の中にいる。

「人間でなければ、いるのか?」

「……とても恐ろしい妖気を感じます。正直、怖気づいてしまうような存在が中にいるのは間違いありません」

 柚は、妖怪に捕らわれている可能性が大きい。しかし問題は、謎の結界だ。

 春太郎は迷いなく、結界に触れてみる。その手は、結界をすり抜けた。

「どうやら、人間には無効のようだ」

 妖怪が触れれば感じられる結界は、人間の肉体であればすり抜けることができる。

「妖怪が来ることがわかっていた……」

 結界は、妖怪の侵入を備えている。つまり、妖怪が来ることがわかっていて、講じたということだ。

「だめ、びくともしない……」

 必死に結界を叩いていた玉緒が、力なくつぶやいた。

「主……!」

 結界の向こう側へとずんずん進んでゆく春太郎を、月尾が呼び止めた。

「結界を越えられるのは俺だけだ」

 月尾も、玉緒も、弥市も、みな妖怪たちである。

 屋敷の中が危険であることは間違いない。月尾たちがいてくれれば心強いことこの上ないが、妖怪は結界を越えられないのが現状だ。

 柚を助けに行けるのは、春太郎だけである。


 真っ暗な部屋の中は、しんと静まり返っている。夜になっても、家人たちは帰ってこなかった。自分を捕らえた妖怪も、姿を現さない。

 玉緒たちが助けてくれると踏んでいたが、真先家に行くことは誰にも告げていなかった。清之進から居場所を聞いて探しに来てくれるにしても、すぐというわけにもいかないだろう。

 次第に柚は、恐ろしくなった。

 捕らわれているということは、すぐに命を奪うことが目的ではない。しかし、相手の目的がわからない以上、次にどんなことをされるのかを予想することさえできず、ただただ震えることしかできないのだ。

 妖怪に、慣れすぎてしまったのだと思う。

 普段は可愛い玉緒も、はじめて会ったときは恐ろしかった。月尾に恐怖心を抱いたことはなかったが、持ち合わせている力は強いものだそうだ。

 もしも彼らが敵であれば……

 自分に敵意を向ける妖怪がいるとは、想像すらしなかった。

――妖怪を甘く見るな。人を害する妖怪は、ごまんといる。

 かつて春太郎に言われた言葉を、今さら思い出した。

 しかし柚が捕らわれたのは、不可抗力である。真先家に家人がおらず、妖怪が潜んでいるなど知る由もないことだ。

 少しでも春太郎は心配してくれているだろうか。

 それとも、何とも思っていないのだろうか。

 冷酷ではないが、心配されるほどの親しみを、普段の様子からは感じられない。この状況において、春太郎は頼みの綱である。

 心配されていないのであれば寂しい。けれど、なんでもいいから助けに来てほしい。

 柚の望みを聞き届けたかのように、その声は静寂せいじゃくを破った。

「柚!」

 部屋の向こうから聞こえたのは、自分を探す春太郎の声だった。

 声を出そうとしても、口が塞がれていて、くぐもった音しか出ない。でも、春太郎の声はだんだんと近づいてくる。すぐ、そこまで……

 戸が、がらりと開けられた。

 暗くて相手の姿はよく見えないけれど、ぼんやりと見えてきたのは、紛れもない春太郎の姿だった。

「よかった、無事で……」

 春太郎は安堵あんどの息とともに、柚を縛る縄を解いた。

 身体が解放され、息苦しさもなくなった。

 助かった……緊張と恐怖が弛緩しかんして、泣きそうになる。助けてくれたお礼を言いたいのに、しゃべれば涙をこぼしてしまうから、黙って彼を見つめた。

「帰りが遅いから心配した。兄上に聞いて、ここに来たんだ」

 優しく肩に手を置かれる。

 うれしかった。もしかしたら心配してくれないと思っていた春太郎から、はっきりと、伝えられた。玉緒と月尾よりも早く、助けに来てくれた。

 残念なのは、春太郎の表情がよく見えないことだ。心配してくれる主の顔を、見たかった。

 肩に置かれた手が、背中をすべった。そのまま彼は、柚を引き寄せた。

「ちょっと……!どさくさに紛れて、何やってるんですか!」

 涙は引っ込んだが、代わりに羞恥しゅうちが襲う。

 心配してくれたのはうれしい。だけど、殿方に触れられたことのない柚にとって、恥ずかしい行為だった。

 抱きしめてくれなくても、もう怖くない。素直にそういうのははばかられて、どうにか気をらそうとしてみる。

「私、妖怪に捕まったみたいです。門を覗いたら、いきなり引きずり込まれて……」

「それは怖い思いをしたな。早く、ここから出よう」

 柚の思惑通り、春太郎は身体を離してくれた。

 だが、柚の身体は一瞬で緊張が走る。目を見開いて、春太郎を見た。

「どうした?」

 春太郎なら、絶対に言わない言葉だった。

 彼の好物は怪異である。妖怪に捕らわれていたと聞いて、すぐに帰ろうとするはずがない。

 どんな妖怪だったのか、まだここにいるのか、挙句には調べてから帰ろうと言うに決まっている。

「違う……旦那さまじゃない。あなたは、誰……?」

 目の前にいる春太郎そっくりの人物は、果たして人間なのだろうか……?


(さっきのは春太郎が従えている妖怪……)

 姿は見せなかったが、中尾獄に月尾が来たことを、清之進は感じ取っていた。しかも来てすぐに、引き返している。

(柚ちゃんを探しに来た……?)

 帰りの遅い奉公人を春太郎が心配して、月尾をここに来させたのかもしれない。

 柚に寄り道をさせたのは自分だ。道に迷ってしまったのだろうかと、彼もまた、心配になってしまった。

「お願い。真先家に行って、様子を見てきて」

 獄を出ることは叶わないので、こちらも妖怪に頼むしかない。

 硯の魂たちは、列をなして獄を飛び出していった。

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