家の中に病人がいる所為せいか、弾正のところに来てからはじめて、落ち着いた時間が続いている。普段もこんな穏やかならいいのにと思う反面、春太郎にもあの苦行を味わわせたかったという気持ちもある。

 変な顔をしていれば、また揶揄からかわれそうなので、真面目に黄梅堂のことを考えてみた。

「黄梅堂と狐火は関係なさそうですね。色々ありましたけど、ご隠居さんも成仏していて、たまたま狐火がご隠居さんの屋敷に出没するようになったのかも」

「うむ……鍵を握るのは、あの子のような気がするが……」

 男の子は一日中、布団の上でせっていた。記憶も戻っていない。

 弾正が町医者を呼んで診せたが、悪いところは見当たらないという、心もとない結果だった。精神的な問題かもしれないとのことで、すぐには治りそうにない。

「柚、伊作の話を聞いてどう思った」

「実際に黄梅堂のごたごたを見たわけじゃありませんけど、後を継いだ養子が何だかよくないような……それに……」

 伊作の話によれば、茂介と弥市が組んで、よからぬことを企んでいるような様子らしい。弥市の名前を出すのを躊躇ためらったのは、玉緒の姿がぎったからだ。

 黄梅堂は、あまりよい雰囲気ではなさそうという印象である。

「黄梅堂のごたごたを、誰かに言いふらすつもりか」

「そんなことしませんよ。悪口言ってるみたいじゃないですか」

「例えば、権助がまた黄梅堂の練り切りを持ってきて、黄梅堂の話題になっても、つい伊作に聞いた話を言ったりはしないのか」

「それは……言っちゃうかもです」

 黄梅堂をおとしめようとしてではなく、相手が親しい権助であれば、こんなことを聞いたと軽い気持ちで言ってしまう可能性が大きい。

「人の口に戸は立てられない。たとえ噂をした者に悪意はなくても、悪評として広まってしまうだろう」

 ここで柚は、春太郎が何を言いたいのかがわかった。

「私だったら、他人に自分の店の悪い噂なんて言わない」

 実家の花乃屋にごたごたがあったとして、玉緒に相談することはあっても、他人に吹聴するような愚かな真似はしない。

 家族や奉公人であれば、自分の店に悪評が立つような真似はしないはずである。

 伊作の話を聞いた柚の口から、黄梅堂の悪評がちまたに広まる恐れがあるのだ。

 つまり伊作はよっぽど軽率なのか、それとも……

「あの伊作という奴、話すようにそそのかしたのは俺だが、はじめは口ごもっていたくせに、あとは聞いてもいないことをぺらぺらと話していた」

「だけど、ご隠居さんが盗まれた大事なものについては、わからないって言ってましたね」

「本当にわからないのか、怪しいところだ。……さて、夜になったところで、もう一度あの屋敷に行ってみるとするか」

「行ってらっしゃいませ」

「ふざけてないで、早く来い」

「ぐぬぬ……」

 夜に行くのを怖がっているのは知っているだろうに、相変わらずの主である。

 昨夜は何もなかったが、また狐火が現れて無事でいられるとは限らない。狐火の目的がわからない以上、触らぬ神にたたりなしといきたかったのだが……

「…………」

 二人が再び調査に出かけると、弾正は溜息を吐きたくなるのを必死でこらえていた。

 藩校で教鞭きょうべんを振るっていた弾正の生きがいは、これから藩のいしずえとなる若者たちを育てることにあった。その礎たる若者たちを育てることに誇りも持っていた。だが、もう二度と、教鞭を振るうことは許されない。

 相生村に来てからは、物足りない日々だった。村の者は親切にしてくれるし、畑を耕すのは嫌でもなければ楽しみさえ見出している。けれど、物足りない。

 誰も訪ねてはくれなかった。人望の所為ではない。尋ねたくても尋ねられない者が大半である。

 何も間違ったことはしていない。己の信念を貫いたつもりであった。

 やるせない鬱憤が、孤独が、我慢できなくなって、春太郎に白羽の矢を立てた。彼であれば体面を気にせずに、会いに来てくれる。実際、春太郎は来なかったものの、代わりに来た柚という女中は、想像以上に楽しませてくれる人であった。女であればすぐに逃げ出してしまうと踏んだのだが、意固地いこじなくらいに頑張っている。春太郎が譲ってくれなかったのが残念だ。

 しかし春太郎が来てからというもの、二人は怪異の調査とやらでいなくなってしまうことが多い。だから溜息を吐きそうになるのだ。

「ん…………」

「起きたか。どうだ、飯は食べられそうか?」

 謎の男の子は、一向に回復しない。記憶もないとなれば、不憫ふびん極まりなかった。

 男の子はじっと、弾正の隣に置かれている箱を見つめる。

「病人に食べさせてよいか疑問だが、何も食べないよりはましだろう。食べてみるか?」

 その箱は、春太郎が手土産に持ってきたものである。

 箱の中を開けると、男の子の目に生気が宿った。

「それ、食べたことがある」

「本当か!お主は棗藩の子かもしれん。とにかく、食べてみるとよい」

 手土産は、黄梅堂の練り切りであった。

 練り切りであれば、黄梅堂でなくても他の店で売っている代物である。しかし、男の子は箱を見ただけで、中に食べ物が入っていると確信していた。黄梅堂の練り切りを知っていたということは、棗藩の在である可能性が高いということだ。

 食べれば何かを思い出すかもしれないと、弾正は箱からお菓子を取る。

 それまで寝たきりだった男の子は、むくりと起き上がって、弾正から手渡された練り切りを手に取った。

 丸々とした白い椿は、本物よりは小さい。子どもの手のひらの上で握りしめられるほどである。

 男の子は食べるのを躊躇っていた。

 白椿の色合いは単純でも、精巧に作られた、子どもの目にもわかる美しさに、食べることが恐れ多いのだ。

 男の子はまるで禁忌を犯すような表情を一瞬してから、一口頬張った。

 噛みしめるごとに広がる甘みの美味しさに、先ほどの背徳はどこへやら、たちまちに笑顔になった。

――美味しい!これを作った人は、すごいね。

 頭の中に響いた声は、今まさに言おうとした言葉だった。

 もやが晴れて、在りし日の姿が浮かび上がる。

 隣には、おじいさんがいた。そして、自分のことのように喜びながら言った。

――お菓子を作る人が一番忘れちゃいけないのは、食べてくれる人の笑顔なんだよ。そうか、思い出してくれたか。

 菓子に笑みを落としたおじいさんは泣きそうなのに、心の底から穏やかそうな顔をしている。

――……に、あれを渡してもよさそうだね。

 今日は用事があるから行けないけど、明日にでもすぐに渡しに行こうと、うれしそうに独りちていたのを覚えている。盗人に入られたのは、その日のことだった。

「あれを渡さないと……!」

 飲まず食わずの身体のどこに気力があったのか、男の子は勢いよく布団から飛び出した。

「待て……!」


 月は雲に隠れて姿を現さない。人をつけるにはうってつけの夜であった。

 弥市は提灯ちょうちんを携えて、どこかに歩いてゆく。気づかれないように後をつけているのは、玉緒である。

 提灯のお陰で弥市の姿は闇夜にあってもわかりやすいが、提灯などなくても、夜目がきく玉緒には難がなかった。しかも猫の姿であれば、足音も出ないし、見つかりにくい。

 しかし玉緒は、好きで弥市をつけているわけではなかった。

 春太郎に命令された玉緒は、黄梅堂を探っていたのだが、主の茂介があれをもらっていないと狼狽うろたえているのを見た。あれとは、先代の信兵衛が盗まれた大切な物ではないかとしばらく様子をうかがっていると、弥市がどうにかすると言って、店を後にして今に至るわけである。

 信兵衛の大切な物を、猫であった玉緒は覚えていない。でも、黄梅堂にある不穏な雰囲気にかかわる重要な何かに違いないと思っている。

 玉緒にとっては怪異よりも、黄梅堂のことが気になっていた。信兵衛が残した店を、守ってあげたいという気持ちが強いのだ。

 大切な物の存在を知っているのであろう弥市は、これからどこに向かうのか。

 でも、好きな男の後をつけるという行為は、罪悪感が募るばかり……

(あの先って……)

 弥市は城下町を抜けて、脇道に入ろうとする。その脇道は、相生村に続く一本道であった。

 もしかしたら、信兵衛の屋敷に行くつもりなのかもしれない。しかし、大切な物は盗まれてしまったはずだ。

 弥市が住居の角を曲がったので、見失わないように、といっても、先には一本道しかないのだが、急いで追いかけた。

(…………?)

 目の前に広がる暗い一本道の中に、弥市の姿はなかった。

 走って行ってしまったのか。いや、提灯を持っている彼が見えないはずがない。

 重厚な雲が晴れて、半月の光が地上を照らす。道の先も、地面の雑草も鮮明に浮かび上がるほどの輝きを放っている。けれど、弥市はどこにもいない。

 吹き抜けるような風の音が聞こえた。

 おかしい。木々は騒めき立っていない。では、この音はどこから……気づいて振り返ったときには、火を噴く狐が襲いかかってくる。

 狐火は眼前に迫っていた。

 瞬間、動けなかった身体がふわりと浮かんだ。

「まったく……世話を焼かせやがって」

「にゃ……!」

 すんでのところで玉緒を助けたのは、いつの間に現れたのか月尾だった。

 玉緒の背中を軽々とつかんで、余裕な感じである。

 玉緒は軽やかに人の姿へと変じて、月尾の後ろに隠れた。

「いいところにきた!やっちゃえ、月尾!」

「ほんとにやっちゃっていいのかよ。あとで後悔することになるぜ」

「この前も今日も、私のこと襲ってきた悪い妖怪なのよ!少しくらい、痛い目を見てもらわないと」

「お前、まだあいつの正体がわかんねぇのか」

 月尾はあきれたように肩をすくめた。次いで、狐火に視線を向けた。

「俺たちは怪しいもんじゃねぇよ。って、妖怪が言うのも変か」

「なぜ黄梅堂を探っている」

 狐火がはじめて声を発した。涼しいが威厳のある男の声だった。玉緒はどこかでこの声を聞いたような気がした……が、ぴんとこなかった。

 狐火は強力な犬神を前にして、敵意は消えているが、警戒はしている。

「黄梅堂っていうより、怪異、つまりお前さんを調べてるんだよ。それが俺の主の仕事だからな。棗藩には、ちょいと変わった仕事があるんだ。俺たちは、お前さんの敵でも味方でもない」

「…………」

 狐火は考え込んで、黙っている。その隙に玉緒がこそりと、月尾に耳打ちした。

「ねぇ、なんであけすけに話しちゃうのよ」

「間抜けなお前に教えてやるが、あいつは黄梅堂にあるお稲荷さんの狐だ」

「お稲荷さん?」

「ったく、毎日通ってたくせに、お稲荷さんがあったのもわからなかったとは、つくづく阿呆あほうだな」

 とうとう我慢できなくなって、玉緒は目を怒らせながら月尾の背中をばしばしと叩く。月尾はものともせずに言った。

「お稲荷さんってことは、これまで黄梅堂を守ってきた妖怪だ。玉緒を襲ったのは、敵だと思っていたからだろうな」

「てことは、いい妖怪なの?」

「妖怪にいいも悪いもあるか。ま、お前がいいってんなら、いいんじゃねぇか……誰か来る」

 人の気配を感じて、妖怪三人は瞬時に草むらに姿を隠した。

「あの人……」

 相生村への一本道を歩いてゆくのは、茂介だった。


「玉緒、遅いですね。何かあったんじゃ……」

「どうせ好きな男に夢中になってるんだろ」

 黄梅堂を調べに行っている玉緒は、まだ帰ってこない。

 狐火の出現する屋敷に行くのに、玉緒もいればもっと心強かったというものだ。本当は春太郎の着物をつかんで歩きたいところだが、そうもできない。玉緒が来てから屋敷に行こうという提案は、即刻却下されていた……

 玉緒が帰ってこないまま、二人は屋敷に着いた。

「ひえ……!」

 柚は無意識に、春太郎の背中をつかんでいた。

 屋敷の中にはぼんやりと、明かりが灯っている。火の玉か、それとも狐火がまた出たのか。どちらにせよ怪異であることには間違いない。

 やっぱり怖い。怪異はそっとしておくのが一番だ。

 いくら震えたところで、この主に思いは通じまい。そんなことを考えていると、はじめて聞くかもしれない春太郎の穏やかな声が落ちてきた。

「柚、あれは幽霊でも妖怪でもない。人間だ」

「…………?」

 恐る恐る春太郎の背中から顔を出して、屋敷を見てみる。

 まだ明かりは灯っていた。

「どこに隠しやがった!」

「本当に、私は持ってないんだ!」

 怒鳴り合う、二人の男の声が聞こえた。よくよく見ると、明かりが映し出す二人分の影が見える。狐ではなく、人間の姿だ。明かりは提灯のようである。

 何やら揉めているようなので、様子をうかがっていると、片方の男が刃物のようなものを取り出して、襲いかかろうとする影が映った。もう一人の男が逃げようとした表紙に、明かりが落ちて、火が消える。男の悲鳴とともに、何も映らなくなった。

 柚と春太郎が、同時に駆け出す。二人が障子戸を開けるのと、男が刃物を振りかざしたのが同時だった。

 とても間に合わない。あっ……と柚が目をつむろうとすると、二体の獣が背後から飛び出した。

 狐が刃物を持った男を突き飛ばし、猫は腕に噛みついた。

「玉緒!」

 狐火とともに現れたのは、猫の姿の玉緒だった。


「一体、どういうこと……?」

 信兵衛の屋敷で言い争っていたのは、茂介と伊作だった。そして刃物で刺されそうになっていたのは茂介で、刺そうとしていたのが伊作である。

 玉緒に深く腕を嚙まれ、火を吹く狐に突き飛ばされたとあっては、伊作は一瞬で気を失っていた。妖怪たちはその姿を見届けて、すぐに姿を消した。

 怪異には慣れている春太郎と、一度狐火を見ている柚は落ち着いたものだが、茂介にいたってはかなり動揺している。しかも刃物で襲われそうになったばかりだ。

「旦那様!」

 音もなく現れた男が、茂介に駆け寄った。柚はこの男を知らない。だが、茂介がすぐに弥市と叫んで、黄梅堂の手代で玉緒の想い人だと結びついた。

「伊作が俺のことを刺そうとして、それから、狐と猫が伊作に飛びかかって……」

「もう大丈夫です。なぜ旦那様はここに……」

「親父様の霊が出るって聞いたから……聞きたかったんだ。あれがどこにあるのか、親父様は本当は誰に店を継がせたかったのか。てっきり伊作が持っていると思っていたが……」

 狐火は茂介を助けた。黄梅堂と狐火は関係ないと踏んでいたが、その二つには繋がりがあるのかもしれないと、まだ狐火が黄梅堂のお稲荷さんであることを知らない柚は、考えてみる。

 そして信兵衛が盗まれてしまった大切な何かが、この騒動の発端に違いない。

(玉緒はどうして一緒に……)

 昨夜はここで、狐火にうなっていた玉緒が、ともに茂介を助けていた。肝心の玉緒はどこかに隠れている。

「誰か来る」

 はじめにその足音に気づいたのは春太郎だった。草をかき分けて走る足音が、屋敷に向かっている。

「あ!」

 何かを抱えて走ってくるのは、弾正の屋敷で療養しているはずの、男の子だった。

 もう動いても大丈夫かという問いを与える隙もなく、男の子は茂介の元まで一目散に駆け寄った。

「それは……!どうして君が持ってるんだ」

 男の子が持っているのは、落雁らくがんを作るときの型だった。正方形の大人の手のひらに収まるくらいのそれには、梅の形が施されている。

「この人が屋敷を漁っていて……」

 と言って、男の子は気絶している伊作を指さす。

「型を探してたみたいだったから、見つかる前に隠したんだ。おじいさんに返すつもりだったけど、忘れてて……」

 男の子は記憶がなかった。型を隠してすぐに記憶をなくしてしまったとすれば、型が行方不明のままだったのもうなずける。

 この型こそが、信兵衛の大事にしていたものだ。

「……型は見つかったけど、私がもらっていいものではない」

「何を言っているのですか。旦那様以外に、この型を受け継ぐか方はおりません。この子も言っていたでしょう。伊作さんは型を盗もうとしていたのです。そんな方に、型を受け継ぐいわれはありません」

「あの……その型って、とても大事なものなんですか?」

 よく事情を呑み込めない柚が、おずおずと尋ねた。

「黄梅堂の主に代々受け継がれてきた型なんです。先代はこの型をたくす前に亡くなられ、行方不明のままだったのですが……」

 茂介が店を継いでも、信兵衛は茂介に型を渡さなかった。店は継げても、黄梅堂の主人として認められていないとあせった茂介は、様々に試行して菓子を作って店を切り盛りしていたが、信兵衛は一向に型を渡してくれる気配がない。我慢できなくなって、信兵衛に型のことを尋ねても、型は店を受け継ぐのに相応ふさわしい人に渡すの一点張りであった。焦っていた茂介は、口論の末に信兵衛を店から追い出してしまう。そのとき型は、信兵衛の手中にあったままだった。と、茂介と弥市が説明する。

「旦那様に型が渡っていないのをいいことに、伊作さんは型を見つけ出して自分がもらったと言い切るつもりだったのでしょう。黄梅堂は必ずしも、血の繋がりや養子が継ぐとは決まっておりません」

「伊作は腕もいいから、私が主になるのが納得できなかったんだろう」

 信兵衛のいない今、型を誰に託そうとしていたのかはわからないまま。茂介はすっかり自信をなくしている様子で、型を受け取ろうとはしない。

「おじいさんは、茂介さんに渡そうとしてた」

「嘘だ!私のことはずっと認めてくれなかった……伊作に渡すつもりがなかったとしても、私ではない他の誰かに渡すつもりだったのに違いない」

「茂介さんに渡してもいいって、おじいさんが言ってた。おじいさんと黄梅堂のお菓子を食べたとき、ちゃんと聞いたよ」

「でも親父様は、この屋敷に住み始めてから、一度も店には来なかった……」

「勝手ながら私が、旦那様の作ったお菓子を先代に渡しました」

「弥市……それじゃあ……」

――茂介に、あれを渡してもよさそうだね。

 男の子は確かに、隣でその言葉を聞いていたのだ。

「店を継がれてから、利益や菓子のできばかりを気にするようになった旦那様が気づくのを、先代は待っていたんですよ」

「……親父様を追い出した後で、私には何が足りないのか、もう一度よく考えてみたんだ。はじめは誰かに美味しいって言われるだけで、うれしかった。それが一番大切なことだって、ひとときでも人を幸せにすることが大切だって教えてくれたのは、親父様だったな……」

 誰かが笑顔になってくれますように。ただそれだけのことを忘れてしまっていたが、やっと思い出した。

 茂介は男の子から型を受け取って、大事そうに抱きしめる。親父様……そうつぶやいた声には、後悔と、懺悔ざんげと、慈愛にあふれているように感じられた。

(よかった……怪異もいい話を呼ぶのね。それに、弥市さんが悪い人じゃなくてほっとした……)

 柚がじんわり温かい気持ちになっていると、茂介が尋ねた。

「ところで、あなた方は……?」

(しまった……!私たち、怪異の調査をしているだけで、まったくの部外者……しかも勝手に信兵衛さんの屋敷に来てるし……)

 おろおろしている柚を助けたのは、意外にも弥市だった。

「私のお知り合いの、そのまたお知り合いの方たちです」

 弥市が言ったからか、茂介は警戒していないようだ。

 しかし、柚たちは弥市と面識がない。今日はじめて会ったばかりだ。

 知り合い、とは言わずに、知り合いの知り合いと表現しているのは、まさか玉緒の飼い主だとでも思っているのだろうか。

「あっ……!伊作さんがいなくなってます!」

 はたと柚が気づいて、声を上げる。隙を見て逃げてしまったのかもしれない。

「伊作は俺のしもべが番屋に連れて行っている。井口千蔵という同心にあたってみるとよい」

 ということは、月尾が井口の元に連れて行ったのだ。

(いつの間に……根回しのよい主で……)

 茂介と弥市はそのまま教えられた番屋へ、柚たちは弾正の元へと帰路に就いた。

「元気になってよかったね。えっと……」

 今回の鍵を握っていた男の子は、記憶を取り戻したようだ。

 しかし男の子には、

「名前はないよ」

 と返されてしまう。

 十歳にもなるであろう子どもが、名前がないはずがない。もしかして、名前はまだ思い出せないのか。だが、男の子はないと言い切っている。

「住んでいるところは?」

「この村かな」

(でも、この村でいなくなった子どもはいないって……)

 ますます混乱する回答が返ってきた。

「よく伊作さんに気づかれないで型を隠せたね。すごいわ」

「それならこうやって……」

 男の子は軽く手を挙げた。

 みるみるうちに、男の子の手に葉っぱやしなやかな枝が絡みつく。どこかの葉が絡みついたのではない。新しく形成された葉や枝が、腕の一部となっている。枝は伸びて、地面に垂れ下がり、遠くのものをいとも簡単にとらえることができた。

「え……えぇぇぇっ!!」

 柚が目を大きくして驚くのを、男の子は意外そうな反応をした。

「おねえちゃん妖怪の匂いがしたから、てっきりおいらの正体を知っていると思ったんだけど……」

「ま、まさかあなたは……」

「古椿の霊か。椿が妖怪に変じたものだ」

 この期に及んでも驚かずに、男の子の正体を説明する春太郎である。

 どこもかしこも妖怪だらけだと、柚の驚きは消えない。

 だからどこにも行方不明になっている子どもがいなかったのだ。と納得していると、急に古椿の霊がばたりと倒れた。

「どうしたの!大丈夫……?」

 古椿の霊は、はじめに見つけたときのように意識を失っていた。しかも身体が消えかかっている。

(このまま消えちゃうの……?)

 完全に消えてしまえば、古椿の霊の存在がなくなってしまうような気がした。人間でいうところの死である。

 もともと医学の心得はないけれど、人間の知識では救えないはずだ。

 何とか助けてあげたい。その願いが通じたように、折よく月尾が戻ってきていた。

「疲れた……」

 のんきに背伸びをする妖怪は、古椿の霊に気づいて視線を落とした。

「月尾、どうにかできないだろうか」

「主の頼みとあれば、断る理由はねぇけど……」

 月尾はちらと、柚を見た。今にも泣きそうな顔をしている。

 春太郎と長い付き合いの彼には、ただ弱っている妖怪を助けてあげたいという気持ちだけではないことをさとった。

「仕方ない。俺様の力を分けてやるんだ。ありがたく思えよ」

 月尾はやおら横たわっている古椿の霊のひたいに、手をかざす。力を込めると、ふわりと古椿の霊を囲むように、やわらかい風が吹いた。

 次第に、半透明だった古椿の霊の身体は、元の姿に戻った。

「助かったの……?」

「目が覚めたら、ぴんぴんするだろうよ。記憶がなくなっちまったりしたのも、妖怪になってから日が浅くて、よっぽど弱ってたんだな。はぁ……力を使ったら眠くなっちまった」

 月尾は欠伸あくびとともに姿を消した。月尾の場合は、眠っているだけである。

「おーい!どこに行きおった!」

 家を飛び出した古椿の霊を追って、彼を見失っていた弾正の声が聞こえた。春太郎が古椿の霊を背負い、二人は弾正の元を目指した。


「弥市さんも妖怪だったんですか!?」

 黄梅堂の一件が落ち着いて、柚と春太郎は浦野家に戻っていた。

 そして事の顛末てんまつを聞かされた柚は、驚きを隠せないでいる。

「狐火は狐火でも、お稲荷さんの狐だ。種類は違えど、権助の家にあった家神のような存在だな」

「だから茂助さんのことを守っていたんですね」

 黄梅堂の稲荷狐の本分は、黄梅堂を守ることにある。悩み迷っていた茂助を助けるために、弥市は人間に化けて、彼を支えていたのだ。

(それで玉緒は帰ってこないのね……)

 すべてが解決したあの夜、玉緒は弥市の正体についてを、月尾から教えられていた。

 好きになった人が実は妖怪だったと知って、喜びよりも羞恥しゅうちが彼女を襲った。

 人間だと思っていたら、毎日会いに行った。膝の上に乗った。甘い声で鳴いた。

 玉緒には人間に化けている妖怪を判別することができない。けれど、弥市はわかっていたはずだ。

 毎日会いに来る変な妖怪とでも思われていたら……そもそも、自分のしてきた行為が恥ずかしくてたまらない……

 玉緒はいたたまれなくなって、一人でどこかに消えてしまった。

 優しいお稲荷さんが、嫌うはずがない。となぐさめてやりたいが、柚ですら玉緒がどこにいるのかわからなかった。

 玉緒のことを気にかけながら、柚は庭に向かう。

 春太郎の許可をもらって、念願の畑作りに精を出そうとしていた。

「ごめんくださいまし」

 物腰柔らかそうな、丁寧な男の声が聞こえた。

 誰だろうと柚が玄関に向かうと……

「弥市さん!」

 風呂敷包みを携えた弥市が、その節はお世話になりましたと、これまた丁寧に頭を下げる。

「そんな、お世話なんか……私たち、野次馬みたいにいただけで……」

「怖い思いもさせてしまいました」

 柚も弥市の狐火の姿を見ている。確かに怖い思いはしたが、危害は加えないとわかれば、今はもう怖くはない。

「大丈夫です。それに、妖怪を見るのは初めてじゃありませんから」

 弥市はにこりと笑むと、持っていた風呂敷包みを解いて柚に見せた。

「よろしければ、どうぞ」

 風呂敷で包んでいたのは箱で、その中には落雁や練り切りが入っていた。

 柚は目を輝かせて見入る。

 落雁は梅の形をしていて、黄梅堂に代々受け継がれている型で作ったものだった。

「すべて旦那様自ら作られたものです」

「うわぁ、かわいい」

 練り切りは、猫と狐の形をしたものがあった。

「猫と狐に助けられたから作ったのだと、旦那様が仰ってましたが、なんだか面映おもはゆいです」

「じゃあ玉緒と弥市さんのことなんですね。玉緒、喜ぶだろうなぁ」

「あの……玉緒さんはいらっしゃいますか?」

「いま出かけていて……」

 弥市にしてきた行為が恥ずかしくて、どこかに消えてしまったとは言えない。

「そうですか……」

 弥市はしゅんとした。

「あれから玉緒さんが来てくれなくて……てっきり玉緒さんは、私の正体を知っているとばかり思っておりましたから、何も言わなかったのですが……それに、玉緒さんのことを敵だと思って、襲ったりもしましたから……ああ、やはり嫌われてしまったようですね」

 狐の姿になると、少し声が変わってしまうと、苦笑交じりに言う。

「そんなことありません!玉緒は、その……恥ずかしがっているだけです。弥市さんの正体を知らなかったから……決して、嫌ったりはしていませんよ」

 ほっと、弥市は安心したように息を吐いた。

「玉緒さんが会いに来てくれるのを、毎日楽しみにしているんです。私たちには黄梅堂の縁がありますから」

 信兵衛の飼い猫と、黄梅堂のお稲荷さん。得てして二人には、妖怪というだけではない繋がりがあった。

(早く帰ってこないかな。脈ありだって、教えてあげたいのに)

 妖怪同士の恋愛を、さまたげるものは何もない。

 もうしばらくは黄梅堂で働くつもりだと言った弥市を見送りながら、柚はお茶をれようと屋敷の中に戻った。

 春太郎の部屋では、めずらしく月尾が起きていて、話していた。

「同じ場所で、しかも同時期に二体の妖怪が生まれている。ただの偶然か、あるいは……」

 いつになく真面目な顔で、月尾は言った。

「月尾が気になるなら、よく調べてみる価値はありそうだな」

 とここで、柚がお茶と弥市からもらった菓子を持ってきた。

「妖怪談義でもしてたんですか?」

 もぐもぐと二人とも、美味しそうにお菓子を食べている。猫と狐の練り切りは、玉緒のために柚が取っておいている。

「主がお前のことを重宝してるって話だよ」

 月尾が揶揄っていることはわかったが、柚は思い出して聞いてみた。

「そういえば旦那様、私を引き止めた理由をまだ聞いていませんでした」

 弾正に柚がほしいと乞われた春太郎は、それを断っている。理由があると言っていたが、聞かずじまいであったのだ。

「ああ、それは、柚が怪異を引き寄せるからだ」

「へ?」

「この短期間で猫又に鎌鼬、狐火に古椿の精たちの妖怪に出くわすなど、そうそう起こることではない。柚が来てくれて、本当に助かっているよ」

「な……!ただの偶然に決まっているじゃありませんか!ここに来るまで、妖怪なんてそもそも信じてなかったし……」

 てっきり女中としての仕事ぶりを評価されて、役に立っていると思い込んでいた柚は、憤慨する。

 玉緒たちに出会えたことはうれしいが、好きで怪異に関わっているわけではない。しかし、特殊な浦野家で働くことを決めたのは、己自身だ。

 怪異が好物な主、そして妖怪たちとの生活は、まだ始まったばかりである。


 月尾に力を分け与えられた古椿の精は、月尾の言っていた通り、ぴんぴんとしていた。

 朝早くに起きて、木刀の素振りや勉学、畑仕事に勤しむ生活でも、元気にしている。

 柚たちが帰った後、古椿の精は弾正と共に生活していた。

 弾正は、古椿の精の正体を知らない。天涯孤独の少年を引き取り、教育しているという認識である。

 正体を隠していることに良心が痛むが、人間との生活は思いのほか楽しくて、しばらくは一緒に生活しようと決めていた。

 ある日、畑に行く準備を整えていると、いきなり声が降ってきた。

「君はすぐに消えてしまうかと思ったけど、元気そうだね」

 こちらに来る気配はなかった。けれどその人物は、目の前に立っている。

 一見、美女と見まがうほどの端正な容姿の男だった。

「…………」

 急に人がいてびっくりした、という理由で声が出ないのではない。鳥肌が立つほどに、身体が恐怖していた。

「あの犬神から力をもらったんだね。……最近は、人間と仲良しごっこをする妖怪が増えているようだ。実におかしい……いいかい、お前は私の力に触れて妖怪になったんだ。忘れるでないぞ」

 決して叶わない相手。それに、同じ妖怪だ……

 どうしよう……一度瞬きをすると、妖怪はいなくなっていた。

「あれ……?誰と話してたんだっけ……」

 全身が汗でびっしょりしている。外は寒いというのに、なぜ……?

 何かを忘れている気がする。はじめは少し気になっていたが、弾正の急かす声が聞こえて、あわてて畑に向かう。次第に引っかかりも忘れてしまった。


「……という感じで、顔を真っ赤にして怒るんです。喜怒哀楽が素直に顔に出てしまうところは、見ていて飽きないですね」

 春太郎は牢の中にいる男に、柚の話をしていた。

 この牢には、棗藩で罪を犯した士分の者が収容されている。春太郎はここに収容されているある人物に、頻繁ひんぱんに会いに行っていた。

「へぇ。浦野家の女中が務まる子……しかも春太郎が気に入る女中なんて気になるなぁ」

 くだけた調子で話すこの男は、

「今度、その子と会わせてよ」

 春太郎の兄、清之進である。

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