返魂香ノ怪
一
年が明けるまでは、緊張した日々が続いていた。
またいつ、邪魅が襲ってくるかもしれない。伊佐三に大怪我を負わせ、加減がわからず柚を殺しかけた妖怪だ。そして邪魅は、月尾を狙っている。
再び、邪魅が現れるのは間違いない。
絶対に一人になるなという春太郎の忠告を守って、常に玉緒か月尾と行動を共にした。しかし一向に、邪魅が襲ってくる気配はなかった。気がつけば年が明けて、
油断はしないように、けれど緊張感も薄まっていった。
(今日も菜の花のお浸しと
相生村に住む弾正の屋敷周辺には、春になって菜の花が群生した。観賞するだけでも可愛らしい花だが、好きなだけ取ってよいと言われて、しばらくはお浸しの献立が続いている。
古椿の霊は弾正に葉太と名付けられ、人間の生活を満喫しているようだ。二人で山に入って取ってきたという筍を、たくさんもらっている。煮物に炒め物、汁物と豊富な料理にできる筍だが、中でも主のお気に入りは、炊き込みご飯だ。普段と比べてお代わりをする回数も多いし、少し表情も和んでいる。今まで美味しいの一言も言われたことはなかったが、その主の様子からは、作り
弾正たちからもらってばかりでは申し訳ないので、柚は浦野家の畑で作った青菜を分けていた。目下、丹精を込めて作っている野菜である。
その日も柚は、畑をいじっていた。
ちょうど、作業が終わりかけたところで、訪問者の声が聞こえた。
「おっかさんだ」
母の声が聞こえて、急いで玄関先に回る。
主が寛容で、藪入りの日ではなくても、気軽に母に会える環境にあった。といっても、毎日会いに行くほど
いつも柚から尋ねていたのを何の用であろうか。しかも、苦手な定次までいる。
「あんた、そんな泥だらけの顔で!他の人が来たら、どうするんだい」
「おっかさんだってわかったから、この顔で来たのよ」
慣れた小言を受け流すと、小松もこれ以上、怒る気はないようであった。
「浦野様に話があって来たんだ。柚も一緒に聞いてほしいんだけど」
いませんと嘘を言ってしまいそうになったのは、なにも定次に尋ねられたからだけではない。
春太郎だけではなく、自分にも聞いてほしいこと。それでぴんときたのが、自分を辞めさせようとしているのではないかということだ。
そもそも二人は、奉公に行くことに反対であった。二人を押し切って女中になってからは、辞めなさいとは言われなかったので、もう大丈夫だと思っていたが、今になって動き出したのかもしれないと
「何の話……?」
「悪い話じゃないよ」
意外にも、小松は笑顔で答えた。意地悪で言っているというわけではなさそうである。
柚は二人を、家の中に招き入れ春太郎と対面した。
小松はお願いがあって来たと、口を開いた。
「一日だけ、柚にお休みをくれませんかね?」
「構わないが……」
即答した春太郎も、当の柚も、どうしてという視線を小松に向ける。
「実はですね、うちの人が柚のお見合い話をもってきたんですよ」
「ええ……!!急にお見合いだなんて、困るわよ」
声を大きくして言った柚に、小松はやんわりと制した。
「何言ってんだい。お前だってもう、子どもがいたっておかしくない年頃なんだから」
「年頃かどうかはともかく、急すぎるのよ」
「お見合いなんて急なのが当たり前じゃない。まったくもう、いつまで経っても落ち着きがないのねぇ」
「落ち着きないから、お見合いなんてできないわよ」
「あんたったら……」
「ちょっと、二人とも……」
止まらない二人を制したのは、定次である。柚がはじめて浦野家に来た日も、このような光景があった。
「相手は?」
場をとりなすように、春太郎が尋ねた。
「うちのお得意さんに
どうしてこの人は、自分の嫌がることばかりするのだろうと、柚は愛想よく答えた定次を
「うちは一人娘ですから、いずれ婿を取ってくれなきゃ困りますし。行き遅れになったら、柚が可哀想ですから」
つまり、柚が婿を取って女中を辞めてもいいかと、小松は暗に言っていた。
そもそもこのお見合い話だって、柚を家に戻したいがための策略であることを、柚は見抜いている。
「私は、一向に構いませんが」
春太郎は興味なさそうに、
柚が声を荒げたのは、小松と定次が帰ってからのことである。
「何で反対してくれなかったんですか!私、お見合いなんて行きたくなかったのに……それに、もし私が辞めたら、他に女中なんて見つかりませんよ」
浦野家にはお化けが出る。そんな噂が立って、誰も奉公人になろうとはしなかった。たまたま家にいたくなかった柚が女中になったものの、柚がいなければ、今だって女中が見つかっていたかわからない。
再び
「玉緒はもう
「他の妖怪が現れるかも……」
「……この家の事情に気を遣わせて、行き遅れになってしまったら困る」
別に気を遣ってなんか……という言葉を、柚は飲み込んだ。
お見合い話を喜んではいないが、心底嫌だというわけではない。乗り気ではないといった
上手いことお見合い話が進んでしまえば、浦野家にはいられなくなる。あれだけ怖い思いをしても、今の生活が終わるのが寂しかった。
(まだそうと決まったわけではない)
会うだけ会ってみて、話は断ろうか。しかし相手に失礼な気もして、どうしようか迷った柚は、清之進に相談した。
「もしかしたらその人が、柚ちゃんにとって素敵な人かもしれない。断ってもいい話なら会ってみたら?」
清之進には背中を押された形になった。
「そうですね……」
「柚ちゃんが嫌なら行かなくていいと思うけど……」
「嫌というか……上手くいかないかもしれないですけど、上手くいってしまったら、清之進様にも、旦那様にも会えなくなってしまうから、寂しくて……」
春太郎には言えなかった本音を
「柚ちゃん……」
玉緒もお見合いには賛成のようだった。だけど玉緒は、柚が婿を取っても、今まで通りだと思っている。
妖怪の彼女は、人間の世界のあれやこれやを理解していない。一緒にいたいから一緒にいる。単純だけど、それが彼女の世界だ。
だからそんな玉緒に、もし婿を取ったらどうなるかとは言えなかった。
出会ってから一年も経っていないが、普通なら経験できないことをたくさんして、忘れがたい存在である。
「お滝さんみたいに、おばあちゃんになってもずっといれたらなぁって、そんなことも思ったり……」
何十年も経って、自分は変わってしまっても、玉緒も月尾も変わらない姿でいてくれる。ついそんな風景を想像してしまうこともあった。
「でも私一人っ子だから、いつかは家に帰らないとなんですよね」
「そんなことないさ。俺にみたいに家族に迷惑をかけたらだめだけど、かけないなら自由に生きていいんだ」
かけられたのは、斬新な答えだった。それは、清之進の願いのようにも感じられる。
「まだ先のことは考えてませんけど、清之進様に話して気が楽になりました」
「よかった」
柔らかい笑みを向ける清之進が、家族に反抗していた姿が想像できない。よほど継母という存在が許せなかったのだろう。
「春太郎は何て言ってるの?」
「特に何も……興味がない様子です。それに、春になってからぼけぼけしてるんですよ。柱に
邪魅との一件も終わり、春の陽気も相まって気が緩んでいるのか。おかしな主の様子を伝えると、清之進は面白そうに笑った。
それから数日後には、お見合いの段取りがついていた。
「では行って参ります」
「うむ」
春太郎は不愛想に答えて、柚を見送った。
こじんまりした料亭で顔合わせをするようだ。お見合いだからと小松にめかしこまれ、少し緊張した面持ちで柚は浦野家を後にした。
月尾も玉緒も家に入るが、何だか物足りないような気分である。
自分には関係ないというのに、そわそわしてしまう。
落ち着くことができたのは、権助とおもんが尋ねてきてくれたからだった。
「柚おねえちゃん、お嫁に行っちゃうの?」
遊びに来たおもんは、柚が不在であることに不満気で、お見合いをしていると言えば、今度は寂しそうな顔をした。
「お嫁に行くんじゃなくて、婿を取るんだ」
権助は興味津々な様子である。
「で、相手は誰なんですか?」
「権助たちと同じ元ノ井町に住む楊枝屋の次男で、たしか名前は……」
「寅二」
春太郎が言い切る前に、権助が言った。
「知っていたのか……」
同じ町に住んでいる権助は、楊枝屋と聞いてすぐにわかったようだ。寅二はどんな男なのかと聞きたかったが、
「あいつは、やめておいたほうがいいですぜ」
冗談で言っている様子ではなかった。
権助はおもんに猫と遊んでおいでと言って、その場から離れさせる。
「俺も人のことは言えませんけど、あいつと一緒になっても苦労するだけだ。あいつはこれが大好きなんですよ」
壺振りの真似をしてみせる権助に、春太郎は察した。
「うちの近所に住んでいて、小さい頃から見知った仲ですが、今じゃ付き合いもないし……こう見えて俺は
度合いでいえば、寅二の方がしていることは悪いと言い張った。
勝手に借金をして、親は尻ぬぐいで大変だ。でも寅二にも兄がいて、兄は真面目で商いにも熱心だから負い目もあると、これは同情的である。権助もまた、まともな兄と比べられているので、感じるところがあるらしい。
「柚の両親は、うまいこと寅二の両親に丸め込まれたんでしょうね。万が一、今日のお見合いで柚が寅二を気に入っちまったら、釘を刺しといた方がいいですぜ」
「…………」
浦野家に権助たちが尋ねているちょうどその頃、柚はお見合いの最中であった。否、これはお見合いと呼べるのか怪しい。
柚の隣には小松と定次がいて、向かい側には寅二の両親がいる。しかし、寅二の姿はなかった。
「…………」
長い間、重い沈黙が流れている。誰しもが目の前の料理には手つかずであった。
寅二の両親は約束の時刻には来たものの、はじめから寅二は来ていなかった。遅れてくると両親が言ったが、一向に来る気配すらない。
お見合いとあっては、寅二がいなくては話が進まないので、仕方なく待ちに待っていたが……
「ここに来る途中で、何かあったんじゃ……」
と定次が心配して、両親が様子を見に行こうと立ち上がると、なんと寅二の兄が尋ねてきた。
「寅二のやつ、お見合いをほっぽって出かけちまったようで……」
兄の報告に
「失礼にも程があるってもんですよ!この話はなかったことにしてくださいね!」
すたすたと柚と定次を連れて、店を後にした。
店を出ても、小松は悪態をついていた。だが柚は、怒りよりも
玉緒たちに相談して、将来を考えたり不安になったり、今日だって緊張して、柚は真剣であった。なのに、すっぽかされたとあっては、あまりにも惨めすぎる。
「柚、ごめんな……」
お見合い話を持ってきた定次は、自分が悪いと言わんばかりに謝った。
「……いつも余計なことばっかりするんだから」
「柚!」
つい本音を出してしまって、小松に軽く
いつもは思っても、口には出さなかった。だけど、柚は言ってしまったことを後悔していない。
惨めな気持ちを、嫌いな定次に当たっているのだ。
「もう帰る」
小松も定次も、柚の惨めな気持ちを理解して、それ以上は何も言わなかったし、無理に引き止めようとはしなかった。
柚はそのまま浦野家に戻る気持ちにはなれず、人気のない空き地にしゃがみ込む。
(夕方までに戻ればいいよね……)
まさかすっぽかされるとは思わなかった。寅二はお見合いが嫌だったのだろうか。理由なんてどうでもよいが、小松の言う通り失礼な奴だ。
(いいじゃない。今のまま女中ができるんだから……)
自分で自分を励ましてみる。しかし、惨めな気持ちは去ってくれない。
純真な気持ちが、傷ついた。
「……柚」
呼ばれて顔を上げる。自身を呼んだのは、主だった。
「な、なんでここにいるんですが!」
柚は立ち上がって、怒鳴った。春太郎は柚の様子に驚いて、歯切れの悪い返事をする。
「ここは近道だから………その、権助から聞いて、心配になって来てみたんだが……」
春太郎の言葉は頭の中に入らない。
一人でいたかったのに、どうしているのという怒りが、柚を占めている。この怒りは、定次に当たったときと同じものだ。
「何か、あったのか?」
「相手にすっぽかされたんです。ずっと待ってたのに、いつまで経っても来なくて。来たくないなら来たくないって、はじめから言ってくれればいいのに」
そんなこと、春太郎に言っても意味がない。
本当は春太郎に当たりたくなんかなかった。だけど、自分の気持ちを制御できない。さすがに春太郎も怒るだろうか。女中が主に当たるなど、無礼討ちにされてもおかしくはなかった。
「……俺も」
怒るわけでも、興味がなさそうな素振りではなく、いつもよりも弱々しい口調であった。
「何度かお見合いをしたことがあるが、全部相手から断られた」
急に何を話し出すのか、柚はきょとんとして主を見る。
「幽霊だの妖怪だの気味が悪いと散々だったが、俺は人に好かれる性格ではない。
独り言のように呟いて、しおらしくなる。
違う。いつもの春太郎ではない。
邪魅が彼に化けたとき、主ではない素振りから化けていることを見破った柚だが、今回は本物の主がいつもの様子ではないのだ。
「旦那様、どうしたんですか……?悪いものでも食べちゃったんですか?」
春太郎が自分を慰めようとしてくれている。信じられない光景に、逆に柚の方が心配になった。
「……少しは落ち着いたか?」
「え、あ、はい。……ごめんなさい、当たってしまって」
「普段の柚に戻ったのなら、それでいい」
そう言う春太郎も、元に戻ったようだ。
自分の失敗談を話して慰めてくれた春太郎のお
気づけば空は茜色に染まっていて、すぐに戻って
炭火で焼いた匂いが、
「気まぐれに、好きなだけ
「ほんとですか!何も食べてないから、すっごくお腹空いてるんです」
お見合いの席では、一口も料理を食べられなかった。気分も上昇した柚は、早く鰻が食べたくて仕方ない。
つやつやした米の上には重をはみ出すほどの鰻が乗っている。どうやら春太郎は、上等な鰻を頼んでくれたようだ。
鰻の身は優しくほぐれて、たれの甘味と炭火の香ばしさが、口の中に広がる。鰻だけではなく、米の甘味も最高に相性がよかった。
箸を動かす手は止まらない。
(なんやかんや、主も優しいのね)
人使いが荒くて、怪異が大好きな主。でも、それだけではなかったようだ。
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