第35話 鏡の中の君へ 後編(加賀美朱里編)その5

 社会福祉法人・聖光愛育学園・虹の丘は一九七五年、母体とする西洋系宗教の呼びかけで、神奈川県議会と複数の企業などの出資を受けて、神奈川県虹の丘市に創設された。孤児院と呼ばれていたのは過去の話で、いくつかの改正後、現在では総じて児童福祉施設と呼ばれることが多い。

 二歳から十八歳までを保護するこの施設は、親がいない児童が在籍しているイメージが一般的だろう。だが実際には、両親が存在しているケースもままある。環境上保護が必要と判断される原因は様々で、それは時代の多様性と表現されることもあるが、ここ最近に始まった問題ではない。

 梓馬はパンフレットで見たとおり、虹の丘駅で降りてからはバスに乗るつもりだった。だが早朝にあった連絡で、職員が車で駅まで迎えに来てくれることになっていた。

「シュリーのご友人だとか。あの子は本当によくやっていました」

 運転しながら話しているのはやせ型の中年女性で、テレジアと名乗ったが見た目はスーパーにいそうな主婦だ。運転も大橋久美の母親に比べると大人しく、また口調も温和だった。

「そうなんですか」

「園に来たばかりのシュリーは、大丈夫かなという感じでしたね。でも有馬くんというしゃべるのが苦手な男の子と打ち解けてからは、人が変わったように明るくなりました。子供は明るい人間を好みます。そこからシュリーが人気者になるまで、そう時間はかかりませんでしたね」

 テレジアが語る朱里の様子は、なじみ深いものだった。優しく賢く、人を惹きつける人柄だ。

 梓馬は相槌を打ちながら、朱里が園に来た当初のことを訊いてみたかった。だが立花マキナと話す前に手札を切らないほうがいい気がして、そのままにしておいた。

 朱里が子供に好かれていたというのは、聞いていて楽しい話だったということもある。しかしその陽気さに長く浸るほど、次第に影が濃くもなっていく。

 輪姦された女の子と少し前に会ってきたところです――

 少なくとも一人は確実に、シュリーのせいで自殺していますよ――

 頭のなかでそう言った。空気もろともぶち壊してやりたかった。

 朱里を完全に悪魔だと証明できたらいい。自分はひどい目にあったと、死んで当然の人間だと。そう信じられれば良かった。

 しばらくすると、いつの間にか街並みには空の割合が増えていた。点在する家々も古い様子で、平成が似合っていない。窓を貫通してくる日差しは暖かすぎるくらいで、時間の進みがゆっくりとしている。野心のない街並みだ。

 車が進む先には、人間の視線を邪魔する建築物もない。一望する先に、灰色の四角い建物が見えてくる。そこにはフェンスを越える桜の木々が並んでいて、無味乾燥の寂しさがあった。

 そして車は園に到着した。駐車場には砂利が敷き詰められていて、窮屈な小石たちが身を寄せ合っている。他に音もない敷地内には、他人と自分の足音だけが石の呻き声のように鳴っていた。梓馬にはそれが心地よかった。より深くつま先に体重をかけながら、心には弾む気持ちがある。

 今日は負けても構わない――

 自分が壊れれば救われるという奇妙な妄想が、どうしようもなく現実的に思えていた。朱里の価値か自分の価値、どちらかを失えば楽になれる。それゆえに身は軽く、捨て身に覚悟は必要なかった。

 園の敷地内を囲むフェンスは、緑色のコーティングがあちこち剥がれて、なかの錆びた鉄が剥き出しになっていた。そこに覆いかぶさる桜は、死に化粧のように映えている。梓馬はコーチジャケットの内ポケットに手を当てた。

 つきだしのポーチは二本の柱で支えられており、玄関ホールにはひしゃげた灰色の靴箱が並ぶ。そこには小さな靴が差し込まれていて、むわっとした靴の臭いが、つい数か月前の日常を思い出させる。どんな風通しのよさがあっても、思い出を心から吹き飛ばすことはできない。

 踏み板の上でローファーを脱ぎ、小さな靴の隣に入れる。続く廊下にはすでに来客用のスリッパが用意されていた。それは茶色の合皮製のもので、甲の部分には金文字で来客用とプリントされている。足を刺し込むと、誰かの足の指の感触が残っている気がした。

 テレジアの案内で、玄関の突き当りを右手側に折れる。遠くに子供の声を聞きながら、さらに進んでいくと右脇に階段があった。そして正面には図書室と書かれたプレートがある。

 ここで立花マキナと会うのかと思ったが、テレジアはそこをさらに左に折れた。渡り廊下に入ると、左手に小さな池のある中庭が見える。そこには自分より少し年上の大学生風のボランティアの男と、背丈がばらばらな子供たちが見えた。

 そのグループは小池のほとりでなにやらしている様子で、梓馬はあの男も朱里とセックスをしたのだろうかと考えた。見るものすべてに、憎しみの可能性が漂っている。

 渡り廊下を進んでいくとまた別の校舎に入った。テレジアはどっちにも折れず、そのまま校舎を真っすぐ突き抜け、その先にはグラウンドが広がっている。遠くに仮設のようなプレハブが見え、そこへは渡り廊下もなく、玄関ホールでも見た踏み板を並べただけの道が続いていた。背景にあるのは桜と、空と、フェンスだけだった。

「あちらでマキナがお待ちです。ここからは一人にするようにと」

 テレジアには先ほどまでの主婦感はなく、儀礼の雰囲気があった。小声でなにかを言い、胸の前で祈りの所作を行う。それがあまりに堂に入っていて、陽気な主婦の姿こそ偽りだったと思わされた。

 空気に当てられ、梓馬も深々とお辞儀をする。そして一気に体を起こすと、正面だけを見た。

 多分、これで最後になる――

 予感を胸に、躊躇いなく前に踏み出した。

 プレハブの引き戸は開いていた。たたきを目にして、このままスリッパであがっていいのか迷う。しばらく考えていると、奥から声がした。

「構いませんよ、そのままおあがりなさい」

 電話で聞いた声、朱里と似た口調。梓馬は気圧されて、無言のまま進んだ。

 奥へ進むと、スライド式のドアがあった。たてつけが悪いのか、想像よりも強めの力で引く。そこは応接室だった。コの字に配置された革張りのソファーが、テーブルを囲んでいる。

 部屋の左手には、四枚の大きな窓があった。一面の壁のように、屋根を支えている。中央の二枚の窓は開いており、春の風が桜の香りを運び込んできていた。そしてその向こう、大仰なデスクに立花マキナがいた。左目は堂々とこちらを見ている。

 梓馬はぺこりと頭だけを下げた。

「市原梓馬です。本日はよろしくお願いします」

 マキナはその動作を味わっていた。そしてしばらく間を置いてから発言する。

「この部屋は風通しが良いでしょう。上着はまだ脱がないほうがいいですね」

 そう言ってデスクから離れると、マキナはコートスタンドにかけてあったコートに手を伸ばした。この季節に窓を開けておき、わざわざ目の前で羽織る。そして「どうぞ」とソファーに手のひらを向けると、自分もまた腰を下ろした。

 理由のわからないやり辛さが、梓馬の姿勢を前傾させていく。

「本日はお招きありがとうございます」

「こちらこそ、本日はよくいらっしゃいました。私はてっきり、ここに辿りつくのはまだ先だと思っていたのですよ」

 その言葉には、しっかりと仕掛けの気配があった。

 梓馬もそれに乗るという姿勢を見せる。

「まるで俺がここに来ることが、決まっていたみたいな言い方ですね」

「はい、あなたはいずれここに来ることが断定されていました」

「どうしてですか」

「おや、思い当たること一つすらありませんか」

 梓馬はそれに返答せず、記憶を探っていく。

 その様子を見ていたマキナは瞬き一つせず、ともすれば時間から外れているように見えた。しかしその実、思考の速度は梓馬を大きく上回っている。

 その差は経験によるものだ。マキナは検索対象を精査せずとも、持っている条件と合致するものを優先的に上位に配置できる。だからここで先に口を開くのもマキナだった。こめかみに手を当てて、首を振りながら。

「試験を、受けなかったのね……」

「えっ、はい」

 梓馬は先ほどのやり取りのどこに、受験を捨てた情報が入っていたのかわからなかった。

「なるほど、確かにあの子の言うとおりです。梓馬、良い発想を持っているようですね。まさか、試験の手がかりなしにここまで辿りつくとは。それに比べて幹彦くんは本当にもう……」

「説明してもらえますか」

 梓馬がそう言うと、マキナは遠慮なく値踏みする視線を向けてきた。とんとんと膝を叩いて、自信あり気に口端を上げる。

「今回の焦点は、可能性の掲示にあると思っていました。ですがあなたはなにも知らないまま、ここを探して当ててしまった。その分では、シュリーの真意に気付けていないのではないですか?」

 上から目線にしか見えない態度で急所を突かれ、梓馬もさすがに表情を剥がしてしまう。気付けば相手を、下から睨み上げていた。

「まるで俺の真相が、間違ってると言いたいみたいですね」

 自然と拳を握ってしまう。それをマキナの視線に捉えられるが、あえて崩さなかった。

「良いでしょう、梓馬。その上着を預かります。そして少なくとも、いま私がそのポケットに手を入れることはないと約束しましょう。それが結ばれたならば、シュリーからあなた宛ての手紙を見せますよ」

 梓馬はまたも、マキナの慧眼に驚愕した。即座に反発心が湧いてくるが、切り返すための言葉もない。

「わかりました……」

 そう言って、コーチジャケットを渡す。内側のポケットに隠していた切り札を、透視されていたようで恐ろしかった。

 マキナはコーチジャケットを受け取ると、実際の重量よりも重そうに扱い、くつくつと笑いながらスタンドにかけた。そしてデスクに戻り、引き出しが擦れる音を響かせる。

 テーブルに戻ってきたマキナの手には、三通の封筒があった。梓馬にそれを見せると、テーブルに並べる。それぞれの封筒には、各々の宛名があった。

『私の恋人へ』

 封筒の口は閉じられている。梓馬は自分への物だと信じれきれなかった。

『私の親友へ』

 封筒の口は綺麗に開いていた。沙月の顔を思い出す。

『私の中の君へ』

 封筒の口は綺麗に閉じられている。

 朱里の中の君へとなると、一人しか心当たりがなかった。しかし名前も顔も浮かんではこない。これまで誰一人、焦点を当ててこなかったからだ。

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