第21話 一粒に確定する優先順位(鳩池久吾編)
6 一粒に確定する優先順位(鳩池久吾編)
ベッドに寝転んで天井を眺めると、妙なことが起きていた。天井が部屋の面積よりも広い。試しにと想像のなかで、天井にベッドをぶら下げてみる。続いて机、本棚にクローゼットと天井に配置していく。天井は梓馬を睨み返してきてた。許された自由は想像ほど広くなかった。
梓馬は胸に圧迫を感じて、目を背けた。空気を入れ替えるための窓の隙間からは、収束した日光が差し込んできている。半開きのクローゼットから覗くジャケット、机の上で伏している写真立て、そのどれもが目にするたびに貴重なものに思えてしまう。つまり当たり前の大切さとは、相対的にしか感じられないのだと。
先ほどまで、殺人罪の懲役がどれくらいかを調べていた。スマートフォンが枕の傍らでまだ画面を光らせており、そこには初犯で懲役十年が相場と書かれている。
逮捕、取り調べ、起訴、裁判、収監、単純にいまの年齢に十年を足せばいいというものではない。
「出所するのは二十九歳くらいか。いや、計画的かつ拷問までやろうっていうんだ。三十歳は過ぎてるだろうな」
呟くと、ますます日常が輝き始めた。それはとうとう目に見えない時間までも。
なにもしない時間、人として当たり前の人生を歩く権利。それらは日本人の七割が所持していて、そしてありがたみを実感していない。
頭のなかのサーキットでは、このまま明るい未来を追えばいいのでは、という声が走っていた。二十代という貴重な時間は、十代が憧れて、三十代が嫉妬する。それをまるごと失うということが、人生そのものを失うように感じられていた。
サーキットの外側を、沙月と話した未来が走り始める。あまり良くないルートとして考えた経営の失敗、閉店セールにすら誰も来ないという映像。それはそれで幸せだと、いまなら思える。どんな失敗があろうと、沙月とふたりで生きていけば不幸とラベリングされない。
梓馬の目から涙がこぼれる。なにもない天井へと視線を戻した。まるで脳内を映すスクリーンのように。
日常の価値と未来の価値、それらを噛みしめるたび、朱里がそれらを失っているという事実が浮き彫りになる。
「あいつの友達と仲良くセックスして、一緒に生きていく相談をしてるんだ。それはすべて、朱里が俺とすることだったんだろうが」
スクリーンは時間を巻き戻した。様々な仮想が梓馬の目に映る。朱里の白い肌、見ることのなかった性器と乳輪と乳首。手に入らないと意識するほど、どうしようもなく舐めたくなってしまう。でも生き返ってくれるなら、それらさえもいらないと誓える。ただ朱里が笑って毎日を過ごしてくれることだけを祈れる。
「あいつはまだ俺の彼女なんだ。死んだって俺の彼女だ。俺だけぬくぬくと生きていていいわけがない」
心のなかで何度も、殺してやるとくり返した。それは次々と湧いてくる暫定真実の声を聞こえなくするためだ。
梓馬は理性的な部分では、朱里はノーマンズクラブと関係していると考えていた。それは松本花と大橋久美のリアクションの差から思いついたことだ。
久美の話を聞いただけでは、朱里もまた別室で輪姦されたのだろうと考えられる。だがそれでは松本花とその家族が、あれほど朱里を憎む理由にはならない。朱里の名前を出した際のあの警戒ぶりは、明らかに加害者に対するものだった。もちろん梓馬は、これだけのことで決めつけているわけではない。
沙月に頼んだアポ取りでも、この考えを裏付けるものがあった。朱里が過去に親しかった人間のほとんどが、こちらが被害者の会と名乗ったことに、疑問を持たなかったということだ。そして大橋久美を除く全員が面会を拒否している。これで朱里が加害者側ではないと言い切るのは、かなり厳しいものがある。
それでも梓馬にあるのは、証拠がない、という薄い可能性への信頼だった。生来の思考の癖から、「確定しない限りは断定しない」という心がけが悪く働いてしまっていた。そして人間は心の拠り所を守るためならば、認知など簡単に歪めてしまう。それはきっと誰もが、医者と言われれば男性しか想像しないように。
疑念がふつふつと泡立ったまま、梓馬は感情を行動で上書きすることにした。習慣化の応用、あるいは予言の自己成就。枕元に手を伸ばしてスマートフォンを掴むと、検索エンジンでノーマンズクラブという単語を検索した。
ずらりと表示されたのは、コーマンズクラブという少し惜しい単語や、ゴルフや土地に関する記事ばかりだった。ページをスクロールしていくと、大手掲示板へのリンクが表示されており、ノーマンズクラブという単語が太字で強調されていた。
確信に近い感情を指先に灯して、そのページを開いてみる。そこはアウトローについての雑談をするスレッドで、ざっと目を通したところではノーマンズクラブという単語は見つからない。主に話題になっていたのは準暴力団とされているグループについてで、梓馬でも知っているような名前が出てきていた。
その板の最初から読んでいた梓馬は、大きな収穫があるとは予想していなかった。ノーマンズクラブは坊ちゃん私立の非公式のサークルでしかなく、本格的に犯罪行為をする団体だと思っていなかったからだ。だがその認識はすぐに崩れた。それは掲示板の流れが、新宿のスカウトグループの縄張りについて移行し始めた辺りからだ。
スカウトグループの会社名が周知の事実として語られる状況で、ノーマンズクラブの名前も挙がっていた。そしてノーマンズクラブは会社ではないという指摘が飛び、話題はすぐに他へと移っていった。
これが梓馬には悪いニュースだった。会社であることを否定する指摘は、ノーマンズクラブの役割がスカウトグループと同意だからこそ出る。それは想像していたルートを補強していた。
他の情報も拾えないかと、ぺージをスクロールしていく。だがそれきり名前は出てこず、とうとうレス番も一〇〇一に到達してしまった。改めて書き込みの日付を見ると、ずいぶん古いということがわかる。そして梓馬は窓から夕陽が差し込むまで、過去から現在へと掲示板を追い続けていた。
光量が落ちたことにも気付かず、電源ケーブルを繋げたままにして、ただひたすら自分とは関係のない世界の話題をスクロールしていく。すると時期にして四年前、スレッドの伸び具合が落ち着いていた辺りで、再びノーマンズクラブの話題が出た。それは朱里と沙月が通っていた高校での女子生徒飛び降り事件に関連しているもので、たった一行程度の文章から火が付いた。
自殺ではなく、コーマンズクラブによる他殺。
ただこれだけのことだった。名称が少し違っているが、掲示板の性質をなんとなく掴んでいた梓馬は、コーマンがなにを意味するか、それがノーマンズクラブとどう関係するかを素早く理解し、先ほどの自分の見落としも把握した。
掲示板の性質上、意味のないような書き込みや連投が散見されるのは日常で、スレッドの住人も基本的にはそれに取り合わない。だがこの他殺説を思わせる書き込みに対して、強烈な罵倒がいくつかついた。内容は主に、他殺説を唱える思考を幼稚だと揶揄するもので、中二病や迷探偵という単語が並んでいる。自分が言われているわけではないのに、梓馬は少し悶えた。
罵倒を書き込んだと思われる人物はその後、周囲に同調を求めるような書き込みを続けている。それに対してある一人が、火消しじゃないのか、と書き込んでいた。
火消しというのはある話題の張本人や関係者、それに連なる人物が話題の変更、あるいは印象の操作などを行うことで、今回は印象の操作が疑われていた。
指摘と反論が罵倒に乗って交差し始め、その過程でいくつかの情報がこぼれていた。
要約すると、ノーマンズクラブは直接の背後にいるのが暴力団ではなく、貿易系企業の組合だということ。
この組合は関西系の団体で、野党の一つと距離が近く、また関西系の暴力団とも付き合いがあるということ。
ノーマンズクラブ自体は準暴力団ですらなく、女衒に近い集団で業界でも白い目で見られており、そのためにコーマンズ(女性器の隠語とノーマンズを絡めた造語)と通称されていること。
梓馬はそのページを残したまま別のブラウザを開き、コーマンズクラブという単語で検索をかけた。出てきたのはやはり大手掲示板のスレッドだったが、カテゴリーが先ほどとは違っている。アウトロー板ではなく、性風俗を語るピンク板が中心だった。
ピンク板で語られているノーマンズクラブはアウトロー板とは違い、実在するかわからないものとされている。スレッドの書き込みは大半が、ノーマンズクラブとのパイプがない人間を馬鹿にするもので、その次に多いのが素人のJD(女子大生という意味の隠語)との性行為がいかに良いものかと自慢する内容だった。
梓馬は自分の知っているノーマンズクラブと、ここで語られているノーマンズクラブが別物ではないかと疑った。だが利用者による書き込みのなかに、性交相手の女性が夏でも長袖を着ていたことや、脱がすとリストカットが無数にあったことなどが見られる。それは松本花を思い出させ、やはり自分の知っているノーマンズクラブと同一だと判断した。
その板では大半が意味のない煽りばかりであり、有益な情報は得られなかった。そのために梓馬は、貿易系企業の組合を検索する。これでヒットするのは公式と思われるホームページや関連企業の一覧、またそれに関するニュース記事が中心だった。
開いた記事のなかでは、坂東元治(ばんどうもとはる)という議員が、一昨年の台風被害で決壊した橋の修繕を査察したというものだった。添付されている写真では、坂東元治が工事の請負元の作業員たちと肩を並べている。
作業員たちはその多くが外国人のようで、一様の笑顔を並べていた。中心にいる坂東元治もまた笑顔を浮かべているが、一人だけ作業服が汚れていないのが目立つ。安全第一と願われたヘルメットだけが真実だった。
梓馬はそのページも消さずにおいて、さらに別のリンクをタッチする。
今度の記事の内容は老人ホームでのボランティアで、坂東議員が床に膝をついて車椅子に座った老人に話しかけている写真が添えられていた。ここにも特にめぼしいものがないと、ページを移動しようと指をかけた。だが自分の人差し指の真横に映る男を見て、ページがずれた位置で止まる。
目を止めた男は、以前に見たことのある人物だった。初めて朱里と会った日に、駅でチラシを配っていたギラギラとした姿が脳裏によみがえる。
意外なところで見た顔は、ただ見たことがあるというだけのはずだった。しかし梓馬の指が止まったのは、あのときには普通に思えたことが、いま思うと普通ではなかったとわかったからだ。
朱里は基本的に、人をあしらうことはない。現に梓馬とデートで池袋の水族館に行ったときも、人工地震からみんなを救おうとしている人の話を最後まで聞いていた。その後、更生させようとして大騒ぎになったが。
そうだ、あのとき朱里は――
それだけ人の話を聞く朱里が、選挙活動をしているスーツ姿の男に近づかれたとき、手を出すだけで拒否をしていた。それはもう取り付く島もないという感じで、実に気分が良くなったのを覚えている。
梓馬はそのページをスクリーンショットで保存すると、次々とニュースのリンクを渡り始めた。基本的に出てくるのは坂東元治ばかりで、ドーバンという愛称を持っていることがわかった。地域の小さな声に耳を傾けるのが彼の持ち味で、映っている写真はどれにも脂ぎった笑顔がしつこい。
写真には小さなコメントがついていることがあり、誰と撮ったものか、どんな状況のものか等々、様々なことが書いてある。梓馬はそのなかから、このギラギラした男の名前を見つけたかった、というより確認したかった。
予想している名前は鳩池久吾。まず間違いないと思っている。だがこれは結論ありきのもので、あまり良い方法ではない。今回はたまたま直感が的中していたので名前を探し続けることにロスはないが、これは致命的な病気の元となる。
それは、自分の直感は当たると思い込むための材料が増えること。それによって、持ち味である断定しないという部分が弱くなるということが考えられる。どちらも梓馬の実力を支えているものだ。
梓馬が写真の男が鳩池だと確認できたのは、とうとうニュースリンクを読みつくし、その後に坂東元治の事務所ホームページに移動したときだった。
鳩池久吾は大学はやはり沙月と同じで、法学部を卒業していた。元政治家の富田正嗣(とみたまさつぐ)の孫で、他界した祖父の意志を継ぐために、自身も政治家を目指しているとプロフィールに書いてある。
鳩池は現在、祖父の後輩である坂東元治の秘書をしていた。同事務所が掲げる地域活性化に精力的に取り組む傍ら、少年の非行や犯罪に対するセーフティーネットの強化や、最近流行している特殊詐欺に関して、地域住民と警察の連携強化などを唱えている。
梓馬はその簡単な説明文を見ただけで、鳩池が特殊詐欺を少年にやらせているのだろうと思った。
嫌なニュースしかなかった。しかし探していたものは見つけた。
スマートフォンでメモ帳を開き、やるべきことを整理していく。殺人という現実離れした行為が、着々と輪郭を持ち始めていた。
人を殺せるのか、問題はその一点に収束する。最悪の場合、自分が逮捕されることを前提にすれば、成功だけは収められる。鳩池はSNSアカウントを持っており、今後の活動予定などを自ら宣伝している。だったら人前であろうと、近づいて包丁で刺してしまえばいい。
梓馬は胸をまさぐり、殺意を探した。いつのまにか頑なっていた乳首の裏に、どくどくと胎動する憎悪を感じ取る。
「外国じゃ子供だって人を殺してる。だったら俺にもできるはずだ」
みんながやっているから、そんな日本の常識で梓馬は自分を奮い立たせた。
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