第22話 一粒に確定する優先順位(鳩池久吾編)その2

 駅構内を歩いている女性は防寒対策に敏感なようで、しかしアウターなどは早い段階から薄くなる。調節に使われる薄手のストールやスカーフは明るい色で、ジーンズもちらほらと目立ち始めてきていた。

 一方で男性はいまだ気候をカナダのように感じているのか、首元にファーのついたアウターをカットソーと合わせている。それはこれらの男性の心の鏡が、等身大サイズでしかないからだ。誰と歩くか、いつどこを歩くかではなく、鏡に映る自分しか見ていない。だから周囲とのずれに気付けない。

 梓馬はコーチジャケットをジップアップして、テーパードの効いたパンツにスニーカーを合わせていた。本人は沙月に合わせたつもりだったが、並んでみるとちぐはぐな感じがする。

 今日は古着屋の出店予定地を歩く算段だった。実際の店舗がカバーしていないジャンルとトレンドのバランス、それらを重点的に見るということだったが、梓馬はこれほど空虚なこともないと思っていた。

 歩いている間中、沙月は色々と真面目に説明をしながら、体はほぼすべて梓馬の腕に巻き付いている状態だった。

 梓馬は腕に当たる沙月の肉体にもう所有権がないような気がしていて、自分の体をずっと逃がそうとしていた。その攻防は、お互いに言葉にすることはなかった。

 一通り歩いたあとで、沙月が食べたいと言ったのは韓国料理屋の石焼ビビンバだ。表に出ていた看板には八五〇円と書かれており、土地と出先という状況が感覚を狂わせていた。

「千円でお釣りくるよ、ここにしようよ」

 言われるがまま手を引っ張られる梓馬は、看板に書かれている石焼ビビンバ以外のメニューを目で探していた。

 店内は席同士の間隔が近く、若い女性の二人組が中心で、カップルも目につく。カップルの男側はみんな背を丸めて座っていた。壁に貼られている手書きのポップには、ハットグのテイクアウトが勧められており、大きく五百円と書いてある。

 店員は見た目では国籍がわからなかったが、なんとなくアジア人に思えた。韓国料理店なので全員が韓国人かと思うと、飛び交う言葉の「だ」の発音に特徴があり、中国人の存在も確認できる。

 梓馬は注文を決めてはいたが、なんとなくメニューを手に取った。広告の基本どおり、写真と値段が大きく書かれている。どれもセットメニューの写真ばかりで、石焼ビビンバ単品は右下のほうに字と値段でしか書かれていなかった。

 この状況で、石焼ビビンバ単品だけを頼める人間はそうそういない。セットを頼むのが当然だと、メニューが暗に言っているからだ。

 さらに注文の際に店員に、お飲み物はどれになさいますかと訊かれるだろう。とても千円ですむような店ではない。

 沙月は注文を取りに来た店員に告げる。

「三番のセットで」

 チョレギとユッケジャンスープがついたセットで、価格は千二百円。もちろんこれは、メニューを作成したキム・ジョヨン氏の狙い通りだ。

 沙月が選んだ三番のセットの値段は、セットメニューの中では中央に位置する。高いものでは、サムギョプサルとサラダとスープのセットで千七百円だ。上位のメニューは一食にかけるには高すぎる値段で、かといって単品の石焼ビビンバは他と比べて安すぎて気が引ける。そのために選ばれるのが三番セット、この店で最も注文されているメニューだ。

 この日本人の世間体を気にする心理をついたメニュー構成に、梓馬は早い段階で気が付いていた。最初に違和感を持ったのが看板だ。外を歩く人間に与える情報量が少なすぎる。かといって中でメニューを見れば、シンプルを売りにしている店ではない。なにか狙いがあると考えるのが当然だ。

 梓馬がこの事態に目が向いたのは、騙されるということが劣っていると思い込んでいるからだ。そのために普段から人の裏を読もうとしており、自尊心を守ろうとしている。

「じゃあ俺も三番のセットで」

 梓馬はメニューに目を落としたまま答えた。そして内心で、商売の勉強にきたのだから、その代金を払おうじゃないかと自分に言っていた。

 これは実に典型的な防衛本能だが、原因は殺意を再確認した日にある。みんながやっているから、という理由で物事を選択した歪が、さっそく顔を出していた。

 もちろん本人はこのことに気付かず、これから先の人生でも少しずつ影響を受け続け、判断の仕方が変わっていく。それを人は成長と呼ぶかもしれないが、本人に自覚がないなら人生の重荷になる。

 結局、梓馬と沙月のふたりは、お腹いっぱいにならなかったからという理由でハットグ二本をテイクアウトした。三番セットが配膳される際に、ハットグ一五〇円引きのクーポンをもらったことが引き金になっている。完全にキム・ジョヨン氏に嵌められた格好だった。

「まあ勉強代だな」

 外に出た梓馬は、ハットグを齧りながら言った。これはセットメニューを頼んでしまったことを、自分のなかだけで処理できなかったための言い訳だった。

「なになに」

 沙月はなにも考えず、ハットグを頬張りながら説明を求めた。棒状のものを頬張るのが良く似合っている。

「俺はすぐに気付いていたんだが」

 梓馬は自分はあえて騙されたというニュアンスで、自分たちが先ほどどういう状況にあったのかを説明した。

 沙月の表情が冷えていくのが見えた。

「あたしはそうやって、自分の頭が良いって思ってる人間をたくさん知ってるよ」

「悔しいのはわかるが、今回のことを学んで自分たちに活かすべきだ。あの店には人を操るテクニックが溢れていた」

「あたしの店はそういうことをやらないんだよ」

 言葉に怒りは含まれていない。あるとすれば諦観、どうにもならない愚かさを遠くから見ている。

「上手くやれるならそれでもいい。でもアパレルの接客がなにをやってるかはお前も知ってるだろ」

 よく使われるものとして、最後の一点と知らせる方法がある。これはもう買えないかも、という不安を煽る限定商法だ。さらに店員は残り一点ということから、多くの人間が支持しているアイテムだと告げる。ごく少数しか発注しておらず、販売実績がなかったとしてもだ。

 他にも購入の是非を迷っている客に、似たようなアイテムを勧めるという手段で強制的に二択にする手段がある。どちらかを選ぶという思考パターンを植え付けるためだ。

 これらは実にありふれた話で、なにもアパレル業界だけの話ではない。保険営業や飲食の販促、新聞勧誘や実演販売などでは、もっと凶悪なテクニックが使われている。

 それに比べれば梓馬の言っていることは良心的であり、一般的だと言える。責められるような類ではない。しかしそれは相対的に見た場合のみだ。赤信号を全員で渡ったとしても、信号無視であることには変わりない。

「梓馬、あたしはそれをやらない店をやるんだよ。無理やり買わせるんじゃなくて、お金と交換してもらうんだ」

 特に苛烈な言葉でもなかったが、意外にも梓馬に刺さった。

 沙月は攻撃の意志を持って放ったわけではない。これは八百屋を営む父親がずいぶん前に沙月に言った言葉だ。それがずっと心に残っていた。

 実際は資本力を武器に安く野菜を売る大型スーパーに対する負け惜しみで、非難めいた表現が刃に塗られている。梓馬はその毒に敏感に反応したということだ。

「無理やりじゃない、いいか、誘導だ。最終的な選択肢は向こうに残してある。客が自分で買うと勝手に言ってるんだ」

「それは夏に暖房をつけるようなやり方だよ」

 沙月の間髪入れない返答は、確かな切れ味があった。これもまた父親が大型スーパーに対して言った呪詛だ。

「それのなにがいけないんだ。物を売るという手段を効率化させているだけだ」

「違う、物を売るのは結果なんだよ。あたしは自分と同じような子たちに、あたしの世界を見てもらいたいんだよ」

 これは沙月の本心からの言葉で、実に隙が多い。梓馬は本能的に切り口を商業的見地ではなく、相手の立場に切り替えて仕掛ける。

「じゃあお前の世界に自力で辿りつけない奴は見捨てるのか。こういう世界がありますよっていう工夫は、相手に取っても必要なはずだ」

 言葉のやり取りとして、梓馬は確かに手応えを感じていた。例え相手が大橋久美であっても、やり込めるだけの攻撃だという自信がある。つまりこれくらいの攻防が、梓馬の限界だった。

「そうやって連れてこられた人は、人間じゃなくなるのがわからない?」

 沙月の口調と動作には、一切の攻撃の意図がない。ただ二つの濡れた目があるだけだった。

 この言葉の意味を、梓馬はすぐに飲み込めなかった。ルールが哲学だったのを、無理やり攻防に変えたつけだ。なんにでも勝ち負けをつけようとするから、正しい判断ができない。

「売り上げが立つなら、相手が人間かどうかなんて関係ないだろ」

「あるよ、だから梓馬はあたしを好きになったんだよ」

「俺がお前を買ったって言いたいのか?」

 ことさらの真顔でそう言った梓馬に、沙月は少し笑ってしまった。

「そうじゃないよ。買わなかったから、あたしを好きになれたのがわからない?」

「いや、俺はお前を買っている。お前みたいに生きたいと本心から思っている」

「じゃあ梓馬はあたしの値段、誰かにお金を払ったの」

 小賢しい沙月の言い回しで、梓馬も趣旨に見当がつき始めた。そして同時に、自分が間違っているということも。

「いや、誰にも払っちゃいない」

「でしょ、人間だから人間に出会える。そして人間しか物を買わないんだよ。動物はお金のやり取りはしない、殺し合うの。わかるよね?」

「まあ、わからんでもない。それに動物は金を払わずに服を持って行くこともあるからな」

 梓馬が言えば感慨深い。

 沙月はとうとうと語る。

「人を操ればその人から個性がなくなって、もうわかりあえなくなるんだよ。そしたら周りはただの劣化コピー人間だらけになっちゃって、自分は独りぼっちになる。もしそう生きてたら朱里と……、梓馬ともあたしは出会えてなかった」

 薄氷を踏むように出した朱里の名前は、いくらかの緊張感を生んだ。たどたどしく述べた沙月の想いは、生前の朱里が戒めとして自分に言った言葉だった。それがいまようやく梓馬の元に辿りつき、致命的だった人生観を少しだけ修正する。

 他者との関わりの欠如は、梓馬にとって克服しなければならない問題の一つだ。他人の考えを読もうとする思考の癖が、足を引っ張っている。

 社会的な立ち位置を手に入れて承認されようと必死になりながら、しかし現実がそうならなかったのは、梓馬が周囲をコントロールしようとしていたからだ。誘導とは成否に関係なく、周囲に対等な人間関係を作らない。人間をコントロールする代償は、人生が払うことになる。

 確かに俺は、もう本当の大橋久美に出会えないだろうな――

「ん、おい待て。沙月……、最初に会ったときに俺を陥れようとしてたよな。俺が朱里と別れるように誘導してたはずだ」

 梓馬も応えるように、朱里の名前を出した。

 沙月はぎくりとすると、居心地悪そうに肩を丸めて目を逸らす。

「そうだっけ。あたしよく覚えてないよ……」

 梓馬はようやく手痛い一撃を加えられた余裕で、沙月に手を差し出した。すぐに暖かく柔らかい感触に包まれる。

「いままでの俺は、金で金を買おうとしてたんだろうな」

「自由とは買うものではありませんよ。お金に付属してついてくるものです」

 沙月が朱里の口調を真似て言った。

「多くの人がそれを自立と呼びます」

 梓馬もまた物真似をしてみた。

 知らず、涙が流れた。それは沙月も同様で、ふたりして静かに空気に体を触れさせる。ずっとあったのに、いま初めて触れたように。

 ふたりの涙は、朱里の不在へと捧げられたものだ。しかしどうしてか、沙月の胸にはダウナー系の幸福があった。いなくて悲しい、会えなくて寂しい、そういった哀切の外側を優しさが包んでいる。

 加賀美朱里がこの世に残していったものは、きっと数知れない。この先もことあるごとに言葉が蘇っては、沙月の人生を照らしていくだろう。例えどれほどの雨が降ろうと。 

 そしてその後、石焼ビビンバの店を、この場所で見ることは二度となかった。誘導による商売の弊害で、リピート率が悪くなるからだ。単品の石焼ビビンバの値段に釣られる層の客が、もう一度行こうと思うはずがない。

 このことは梓馬にとって新しい視点となり、道は遠くとも、搾取的な思想を改めるきっかけとなった。だがキム・ジョヨン氏の手腕はもう一枚上手であり、この店はこのあと一人焼肉の店になる。カルビセットを六五〇円で提供するというのが売りだ。経営陣はそのままで、内装もほとんど同じ。何度も看板を付け替えることで、いまも新たな獲物を待ち構えている。

 そうした商売の渦巻く土地で、ふたりは色んな店を回りながら、自分たちはどのような店にするかと話し合った。険悪なムードが消えたとはいえ、やはり梓馬には遠くの話をしている寂しさがある。心は灰色の檻にあったからだ。

 父親と朱里の心を継いでいる沙月は、きらきらと笑顔を見せている。奇抜なファッションの下では、寛容な心が手を広げていた。

 連続する一瞬毎に、沙月を初めてみるような愛おしさがあった。ずっと笑っていてほしかった。ずっと幸せを見せていたかった。そうしたら自分は、人間になれていただろうと。

 ふいに抱き寄せたくなる。そうしたら喜ばせられると知っている。ずっとそばに置いておきたい。そんな衝動を持つたび、この愛らしい生き物の幸せを願おうと、梓馬は自分に言い聞かせた。別れの日はそう遠くない。

 なあ、人を殺せば劣化コピー人間すら生まれないよな――

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