第16話 ふたりになるということ(五十嵐沙月編)その2
「俺はそうは思いませんね」
梓馬は毅然とした態度で、真正面から沙月を支持した。
奈津美はゆっくりとした動作で腕を組む。敵対意志を見せることで、更なるストレスをかけるためだ。
「あなた大学はどこ?」
「行ってません」
梓馬は高校生なので当然だ。しかしここで、高校生ですとも言えなかった。沙月が夜に未成年を、連れまわしていることになってしまうからだ。
「じゃあ普段なにしてるの」
「いえ、特になにも」
「じゃあなんでスーツ着てるの」
「こういう恰好が好きなだけです」
「あんた社会に出たことないんでしょ。そんなに甘くないよ、日本の社会はっ。古着屋やるなんて馬鹿なこと、上手くいくわけがないでしょ」
奈津美は子供の弱点である就労経験を突いてきた。
もちろんその程度では、梓馬には通じない。
「確かに俺は社会に出たことはありませんが、日本の社会が甘いってことは知ってますよ。GDP第三位の経済大国で、治安が良くて、経済格差も少ないほうです。生まれつきの身分が必要な職業はそんなに多くはありません。こんな甘い国、他にないですよ」
「社会に出たことないのに、どうしてそんなことが言えるの」
「社会に出ている大人を、見たことがあるからです。俺より頭の悪い人ばかりでした。でもみんな生活できてるじゃないですか。働けなくなったら生活保護もありますしね」
梓馬も負けじと、主婦の弱点であるデータを使って切り返す。
奈津美は苦手分野を攻められて怯むも、年の功から別の切り口を見出す。
「だったらなに、大学行かずにみんな好きなことやってうまく行くの? よそ様の子供はそれでいいわよ。でもうちの子だけは、安定した生活させてあげたいって思うことのなにが悪いの。古着屋なんて、良い旦那見つけて、子供が落ち着いてからでもいいでしょ」
「子供が落ち着いてからって、そのころ五十嵐は何歳なんですか。二十台で過ごす一年と、五十台で過ごす一年、価値が同じだとは思えませんよ」
五十歳になったことのない梓馬では、説得力が出せない言い分だ。だが時間に価値を持ち込むことで、若者の優位性を表現した。
奈津美はそれに対しても、一般論で攻撃してくる。
「本当にやりたいことなら、何歳になってからでもいいでしょ」
「本当にやりたいことを見つけられたなら、早いうちに始めて経験を積んでおくべきです」
梓馬は迅速かつ、堂々と返答できた。その理由は単純だ。普段から自分の母親に対して、心のなかで思っている言葉ばかりだからだ。これならば百合打ち合っても、言い負ける気がしない。しかし。
「あんたはなに、やりたいことあるの?」
「…………」
梓馬、あっさり沈黙。わかりやすい詭弁だったが、ずっぷりと刺さってしまった。
嘘でもいいから適当に言っておけばいい。スーツ姿であれば、起業することですと言っても説得力がある。しかし図星を突かれた梓馬には、その発想ができなかった。
話の方向性を変えないと――
梓馬は、思いついた策をすぐに口にする。
「五十嵐のお母さんはさっきこう言いましたよね。大きくなったら良い結婚をして楽に生活する。五十嵐がそう決めたから、家族で応援していると」
「行ったけど、それがなによ」
「もし五十嵐の言葉に家族を動かすほどの影響力があるなら、なんでいまの古着屋の夢はだめなんですか。子供のころの戯言と、大人になったいまの言葉なら、後者のほうが重要視されるべきだと思いますが」
これに反論できるわけがない、梓馬はそう確信していた。もし反論してしまえば、沙月の未来をコントロールしたいだけ、という本心が暴かれてしまう。それでは現状の建前である、子供の未来を心配している、という大義が吹き飛ぶことは明白。
梓馬は余裕を持って奈津美の反応を待った。その奥に、自分の母親の面影を探しながら。
「え、なんて?」
おそろしいことに、奈津美はここで聞こえない振りを選択する。わかりやすい遅延行為に入った。
「いや、だから――」
梓馬は自分の言葉を説明することにした。わざわざそんなことはしたくないし、奈津美もそれを許さない。梓馬が話し終わる前に、自分の声を上から無理やり被せる。
「子供のくせに馬鹿なこと言ってないで、ちゃんと勉強して良いことに就職しなさい。あなたの親だって、絶対そう思ってるわよ。とにかく、さっちゃん。大学のこと、お父さんに言うからね」
年齢が上だから自分のほうが正しい。未熟な子供の意見など聞くに値しない。そういった態度が、透けて見える強引さだった。
それにたまらず、沙月が割り込む。
「お母さん、あたしは――」
「お父さんに言いなさい!」
ここで奈津美は、意味不明だが威力のある言葉を使う。沙月の意見さえも、声を被せることで潰した。
こういったやり口は、実に有効だ。親が子供に持つ影響力は絶大で、子供は生活のほぼすべてを親に依存しなければならない立場、逆らえるわけがない。親もそれをわかった上で、自分に疑問を持たない。子供のためという大義が、自分の認知さえ都合よく歪ませている。
このやり口は、被害者である梓馬の逆鱗に触れた。沙月が受けているはずの攻撃を、自分が食らったように感じたからだ。
「あんたらは、子供を使って自分の夢を叶えようとしている」
口調に棘が混じっていることを自覚しつつ、望むのは更なる切れ味だった。
「あら、そんなことしてないわよ」
「してる、ずっと押し付けられてきた。いまもそうだ。俺がなにが得意で、なにが苦手かも知らず、親個人のレースの材料にされてるんだ」
「急になによ」
奈津美は怪訝な顔で言うも、梓馬のあふれ出した感情に止まる気配はない。
「養育は親の義務だ。でも俺たち子供に、服従の義務があるのか。そんなものはない。俺たちは自立するまで我慢すれば、家なんか簡単に飛び出せるんだ。なのになぜ子供が親の言うことを聞き続けると思う?」
「親の言うことのほうが正しいからでしょ」
「違う、認めてもらいたいんだ。自分が幸せになることを、身内から非難されたくないんだ。だからどうにか折り合いをつけようと、ずっと親の言い分に耳を傾けてる。なのに親はいつも、自分たちの時代では正しかっただけの話を、現代にまで持ち込んでくる。古い歌しか歌えない人間は、子守歌だけ歌ってればいいんだ」
子供のころから感じていたことだった。夜寝る前のベッドのなかで、自分がこの家に所属していないのではないかと不安に思っていた。それは友達に仲間外れにされるのとは、まったく違う感覚だ。途方もない宇宙の広さを、二畳もないベッドに感じてしまう。
そんなとき自分の心を整理するために、何度も自由帳に黒鉛の悲鳴をぶつけた。古い歌しか歌えない人間という言葉は、少年期の梓馬が考えたものだ。深夜に思いついた表現は、なるべく人前で口にしないほうがいい。
「へ、古い歌しか歌えない人間?」
奈津美はしばし呆然としたあと、こみ上げてきた笑いをこらえるために口元に手をやった。くつくつと肩を揺らしている。
それを見た梓馬は、一気に顔が熱くなっていく。激しい後悔に囚われ、頭のなかに自己弁護の嵐が吹く。本当は自分の方が正しいと、知能が低い者には理解できないと。
そうやって自分を擁護しても、平静を取り戻すことができなかった。それは梓馬がとうとう親からもらえなかったもの、他者による価値の保証を持っていないからだ。
市原梓馬は、世界で一番身近な人物に評価されないまま成長してしまった。加賀美朱里が存在しないいま、十八年間かけて作られた影を消すには、同じく十八年間の自立が必要だった。
その悲鳴を笑われて、梓馬にスイッチが入る。親に威力が出せる呪いの言葉なら、引き出しのなかにいくらでもしまわれている。
そのなかの一つをいま抜こうとし、自分では気づかず、口端が曲がっていく。
「親には親がいないから、自分を賢いと思うんだ。お前たちの正体を教えてや――」
「梓馬、やめてよ」
沙月に止められて、梓馬は正気に戻った。
俺はいまなにを言おうと――
自身が抱えている問題に振り回されて、後先を考えていなかった。ここは市原家ではなく、五十嵐家であり、攻撃する大義名分はいまの梓馬にはない。
梓馬は奈津美から目が離せなかった。それは沙月の顔を見るのが怖かったからだ。
一般的に、子供は親の悪口を言われることを好まない。それは梓馬自身でさえもそうだ。親の悪口を言っていいのは自分だけ。そのルールを持つことが、唯一の甘え方だとも言える。
自分でさえこれならば、沙月はどうだろうか。そんなものは考えなくともわかる。
「だろうな」
いままで梓馬は、親や友達に期待したことがある。誰かが自分を、一番にしてくれるのではないかと。そんなことは、ただの一度もなかった。朱里でさえ、他の男の子供を妊娠していた。傷つくたび、もう何度も「だろうな」と言ってきた。「だろうな、だろうな、俺には価値がないからな」と。そうすることで、期待する心を手放せたらと。
「ねえ、梓馬……」
沙月の呼ぶ声が聞こえる。それでも梓馬は、返事をすることも、目を向けることもなかった。恐ろしくてたまらなかった。向けられている好意を避けようとして、その実では、沙月という存在に支えられ続けてきたからだ。
いつまでも顔を背けていると、肩に小さな手が乗る感触がした。そこに最後通告の気配を感じた。
また失うのか――
「梓馬、あたしのために悪者になるの、もうやめてよ」
「え……」
梓馬はそれを聞くと恐怖を忘れて、沙月の顔を見た。
沙月は口元を両手で覆って、目を溺れさせていた。
「俺は別に、悪者になろうとなんて……」
沙月は首を振ると、目に雨を降らせながらも、口調は力強かった。
「ずっと見てたよ。アイスティーを両手に持ったときの、困った顔。窓を見るときの、悲しそうな顔。ひどいこと言うときの、その苦しそうな顔」
梓馬の脳裏に、そのときどきの感情が蘇ってくる。まるで鏡に映したように、自分の姿が現れてくる。使いたくない言葉を口にするとき、自分をごまかすように笑っていた。
苦しそうに、見えていたか――
沙月の手が、梓馬の頬に伸びてくる。優しく包むようで、涙が体温を奪っていく。
「それと、あたしの古着を臭くないって言ってくれたときの、あの横顔……。ずっと見てたんだよ」
沙月は言い終わると、奈津美の前に踏み込んだ。そして口のなかで小さく、「あとはあたしがやる」と言った。
正面から対峙する同性の親子。沙月の華奢な体が、いま親に立ち向かっている。
奈津美の巻かれた髪の毛の間からは、角が生えんばかりだった。
「さっちゃんね。そんな男といるから、古着屋やるとかおかしなこと言い出しちゃうんだよ。お別れしなさい」
奈津美はこの期に及んでも、やはり自分の要求だけを押し付けていた。失敗するとわかっているやり方にしがみつき、親という立場を振りかざすことで交渉している気になっている。誰の心も汲むことができない者が、どんな救いを手に入れられるというのか。
「お母さんは二つのうち、どっちかしか選べない。あたしに押し付けるか、受け入れるか。選んでよ」
沙月は完全な二択を迫った。もちろんこれ以外にも選択肢はある。妥協をいくつかくり返せば、少なくとも形だけの穏便さを手に入れることができる。だがそんな気はなかった。
「さっちゃん、冷静になって考えなさい」
「お母さんは二つのうち、どっちかしか選べない」
沙月はあえて同じ言葉を次ぐ。二者択一であることを強調している。
「さっちゃん、お母さんはさっちゃんのために言ってるんだよ」
「二つのうち、どっちかしか選べない」
「さっちゃん、同じことばっかり言わないで。自分のことなんだからちゃんとしなさい」
奈津美は子供の話に付き合う気がなかった。
「わかったよ……」
沙月は肩を落とした。自分の親の限界を見たような気分を、体が支えることができなかったからだ。
その心情がわかるだけに、梓馬は自然と沙月の手を取った。
奈津美はまだ同じ言葉を吐いていた。内容はどれも沙月のためだというもので、つまり自分の命令に従えということだ。同じ言葉をくり返せば、いつか違う答えが聞けると思っている。そんな壊れたラジオのような様子を見て、沙月は覚悟を決めた。
「梓馬、この家から出よう」
もちろん梓馬は、ずいぶん前からそうしたかった。沙月が付随することで問題はややこしいままだが、それでもこの場にいるよりはいい。もうここは誰の家でもない。今後の過ごし方について、気遣う必要はなくなった。
沙月はライダースを羽織って、一番お気に入りのブーツを手に持つと、奈津美を押しのけて部屋から出ていった。梓馬も慌ててコインローファーを取ると、それに続く。すれ違うときの奈津美の抗議の目は、なるべく見ないようにしながら。そうして間隔のわからない階段に、足を下ろしていった。
玄関から出ると冬の冷たい空気はそのままで、いまが一時間前の続きだということを思い出した。すると記憶が連鎖し、今日起きた色々なことがまた思い起こされる。朱里の亡霊の視線を感じつつ、それでも梓馬は沙月の手を引いて駅へと向かった。
「このあとどうするんだ」
空気の読めない発言だが、早急に決める必要のある問題でもある。誰かの家に泊めてもらう、という返答を期待した。しかし。
「わからないよ……」
沙月は地面を見ながら、とぼとぼ歩くままだった。思考は別の場所にあるのかもしれない。
梓馬は具体的な案を持たないまま、とにかく駅へと向かった。なにか思いつくかもしれない、という考えとも呼べない考え。実際のところは、少しでも明るい場所に行きたいという心理だった。
そして駅に着くと、当然なんの希望もなかった。絶望が人間の足を止める。噴水の前でそれぞれの目的地に向かう人々を見ながら、行く当ても思いつかなければ、繋いだ手を離すタイミングもわからなかった。
俺の家なのか、それしかないのか――
梓馬がそんな葛藤を抱えていたとき、手を離すタイミングが訪れた。
「ああ、わかった」
沙月がそう言って、ぽんと柏手を打つ。いくらかぶりに笑顔を見たような気がして、その明るさに梓馬も照らされた。
「なにがわかったんだ」
「子供のときに、あれなあにって聞いたら、お母さん答えなかったんだよ。あっちにラブホテルがあるの。今日はそこに泊まるよ、部屋が空いてればだけど」
「そ、そうか」
「こっち」
沙月はそう言うと、まったく遠慮なさそうに、ごく自然だというように梓馬の手を引いた。
脈拍と歩く速度のリズムが重なり始める。まるでこれから行く場所に、なんの後ろめたさもないようだった。
引き返すように商店街に戻り、八百屋五十嵐の前を通り過ぎていく。建物の様子がどんどん変わり、大きな道に出ると、沙月はまた強く手を引いて左折した。
やがて着いた先には、レンガ造りのように見える西洋風の城が、夜に煌々とライトアップされていた。
この窓の数だけ、セックスをやってる奴らがいるのか――
梓馬は妙な感慨を持ちつつ、しかし窓に人影のようなものが見えた気がして、慌てて視線を振った。
沙月は躊躇うことなく、ラブホテルに入ろうとしていた。
さすがに梓馬はここで声をかける。手はまだ繋がれている。
「空室のランプがついていた。俺はここで帰る」
そう言うと、沙月の小さな後頭部が振り返った。表情は驚くほど普通で、なにも読み取ることができない。
「今日は色々とごめんね」
そして、繋がれていた手が離れた。
「いや気にするな。また連絡する」
梓馬は自分の手の位置をどこにすればいいかわからないまま、すぐに踵を返した。背中のほうで「わかった」と聞こえたが無視した。
一人で通りに立つと、伸びている道が妙に長く感じた。アスファルト、電柱、街灯、一つ一つ当たり前にあるものに、妙な存在感が宿っている。これらはすべて、梓馬の胸に沸いた孤独感が原因だ。
妙なことになって、今後に影響が出たら困る――
梓馬はそんな浅い考えをくり返しながら、駅に向かった。だが数歩もすれば、すぐに脳内に沙月が浮かんでくる。人格に似合っていないサイズの乳房、細さが強調された腰つき、首元に浮く鎖骨。そのどれにも肉の香りがなまめかしく、あのまま部屋に入っていたら、どうなっていただろうと思わずにいられない。そんな想像に思考を乗っ取られ、所属不明の後悔が足を速める。頑なった股間が、足のスムーズな運動を邪魔していた。
「うっ……」
ポケットに入れていたスマートフォンが突如、梓馬の太ももを愛撫した。一度で終わると思ったバイブレーションは、止まる気配がない。
射精するまで止まらないのではないか、と思ったがもちろんそんなわけがない。
スマートフォンの画面には、五十嵐沙月と出ていた。
『どうした』
『ごめん、なんか一人じゃだめって言われて』
すべてのラブホテルがそうではない。沙月が泊まろうとしたラブホテルは、男女のペアのみの利用を想定しており、他には同性同士や、三人以上の利用はお断りしているだけだ。
『そんなルールがあったのか。知らなかったな』
隠されているルールの手がかりがなかっただけに、高校生の梓馬は衝撃を受けつつも妙な納得があった。なぜ存在するのか、なぜ明記されていないのか、いくつかの仮説が生まれていく。
『受付だけ、一緒に済ませてほしい』
『すぐに行く……』
梓馬はそう言って通話を切ると、「なんてことだ」と独り言ちた。
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