第15話 ふたりになるということ(五十嵐沙月編)
5 ふたりになるということ(五十嵐沙月編)
線香の匂いがした。その出所を探して視線を振ると、低い石塀の向こうに小さな団欒が見えた。この時間に家族が顔を合わせているならば、夕飯だと想像するのは簡単だ。薄くかかったカーテンで表情は見えないが、仲の良い家族だとわかる。
「すまん」
いつの間にか足を止めてしまっていた梓馬は、隣で立ち尽くしている沙月に謝った。すると沙月は返事もせずに、とぼとぼと歩き始める。ねじの緩んだ人形のような足取りから、本当に自分の家に向かっているのかと怪しかった。
大橋久美の話を聞いてから、沙月は調子を狂わせていた。梓馬はそれを見かねて、家まで連れていくと申し出た。とはいえ、これでもずいぶんましになったといえる。
電車のなかでの沙月は、放心と発狂をくり返しており、おかげでずいぶんと人目を引くことになった。露骨な笑い声や、向けられるカメラに背を向けて、梓馬はなにも知らないくせにと心の中で憤った。そうして好奇の目に晒されていると、なにも知らないからこそ興味を持つのだろうとわかる。三軒茶屋に着くころには、梓馬はいくらかの耐性を得ていた。
沙月の牛歩と梓馬の忍耐が実り、やがて商店街に辿りつくと、八百屋五十嵐という看板を目に入る。
「ここが五十嵐の家か?」
「うん……」
ようやく喋った沙月は、しかし動こうとはしなかった。
「じゃあ俺は帰る」
梓馬はそう言うが、すぐに立ち去ることができなかった。どうしてか自分がこの場から去ることに、許可が必要に思えたからだ。
沙月の返事は却下だった。
「ご飯食べていきなよ」
「いやさすがに遠慮する。五十嵐のご両親も困るだろうからな」
「この時間ならもう寝てるよ」
沙月は首を傾けて、気だるそうに言った。その様子から嘘かと思ったが、八百屋ならばこの時間に寝ていても不思議ではない。だがそんなことは関係ない。
「なおさら遠慮する」
梓馬はそう言って踵を返そうとして、すぐにコートの裾を掴まれてしまった。沙月はこちらを見てはいないが、離そうとしない意志が指先に込められている。
勘弁してくれと怒鳴りたくなった。心臓の弁が、火をつけようと打ち合っている。自分の推測に飲み込まれて、いつ感情が爆発するかわからない。早く一人になりたかった。
大橋久美の話はおそらく正確だろうが、結論には主観が入りすぎている。梓馬は話を聞いている間、ずっと妙だと思っていた。あの内容では、松本家があれほど朱里を警戒する理由にならない。本当に起きていたことは、もっと別の話のはずだった。
その気付きを得たときから、梓馬の頭のなかで点と線が繋がり始めていた。いくら考えまいとしても、一度立ったアンテナは関連する情報を探し続ける。そしてなんでもなかったことに、新たな解釈を付与していく。
「頼むよ、あたしはもう一人は耐えられそうにない。ご飯、食べてよ」
懇願する沙月の目元は、前髪が垂れて見えなくなっていた。そのせいか、唇の動きが強調され、生々しく感じられた。
「わかった……」
不満をにじませた口調は、最後の抵抗だった。
八百屋の裏手は普通の家の顔で、脇に積まれたダンボールが生活感を出していた。車庫のシャッターは開いたままで、軽トラックとセダンが並んでいる。
沙月はポケットから鍵を出して、手早くドアを開ける。その瞬間、濃厚な青臭さが鼻を突く。闇に乗じて、いく匹かのコバエが外に飛び出してきた。
「あたしの部屋まで口で呼吸しててよ」
沙月は振り返ってそう言う。その申し訳なさそうな笑顔から、これまで何度も同じ言葉を使ってきたんだろうとわかった。
玄関には靴箱がなく、結構な数の履物が出しっぱなしになっており、靴のほとんどは踵がつぶれていた。おそらく、もう履かれていないものも混じっている。
沙月はガラスレザーのローファーを脱ぐと手に持って、目の前の階段を登っていった。梓馬もそれに倣い、コインローファーを手に持って追従した。
二階の奥の部屋が、沙月の部屋だった。入った途端に、沙月の甘い体臭を濃くした空気に迎え入れられる。壁三面すべてに羽織物がかかっており、ライダースやスタジャンが何種類もある。五段の木製ラックには最上段にパンツ類が並んでおり、中段にはトップス類が、そして最下段にはサイドゴア、コンバット、ラバーソールが並びつつ、ジャーマントレーナーやワッフルトレーナーなどのスニーカーもある。そこに沙月はローファーを戻し、梓馬もコインローファーを隣に並べた。
「ささっと作ってくるから、その辺で座っててよ」
「わかった」
梓馬はそう言うと、その場でしゃがんだ。テーブルも机もない部屋で、あるのはベッドとラック、そして二つのクッション。その横には本の山が二つあり、見える範囲では店舗経営のものと、不動産の仕組みのものがあった。
てっきり灰皿があると思っていたが――
沙月や朱里が年上だということ、梓馬は自分がそれを知っていると、どこかのタイミングで告げたかった。灰皿があれば、それを口火にできると思っていた。
部屋で一人きりになると、頭でくすぶっていた疑問がまた蘇ってくる。ルートの再検証をしようとする思考を、まったく別のことを考えて塗り替えた。本当に小さな勘違いの話だ。
デートのときの思い出だ。朱里がペットボトルのキャップを落とした際に、一気に情緒不安定になっていたこと。その後も落ちるという言葉を、選ばないようにしていたこと。
梓馬はこれを、受験時によくある話だと思っていた。周囲が本人以上にナーバスになっているだけだと。しかしいまはそう思っていない。梓馬はあのとき、沙月の勘違いの話が滑っていたと口にしている。そのときに朱里は、普通に返答してきていたからだ。
他にも見落としていることがあるんじゃないか――
長谷川知恵の自殺には、朱里が関わっているのではないかと思った。もちろん久美の言うように、自殺に見せかけて殺したとまでは思わない。そんな陰謀論めいたものよりも、もっと妥当な考えがあった。そしてそれは松本家の反応とも合致する。結局、梓馬は本題を考えまいとして別のことを考え、本題を補強するような事実をまた一つ手に入れてしまった。
大筋は間違っていないはずだ。おそらく朱里は――
ノブが動く音で、梓馬はぴんと姿勢を伸ばした。ドアが開くと、沙月が片手でお盆を持っており、そこに二つの丼が乗っている。
「親子丼か」
遅れて漂ってきた匂いで、梓馬が言った。
「豚の他人丼」
沙月は悲しそうに言った。
梓馬はなぜかフォローしなければと焦る。
「親子丼だって他人だ。血縁関係のある鶏肉と卵を同時に食うなんて、考えたくもない」
「確かにそうだね」
沙月はそう言うと、スプーンを丼に刺し込んで食べ始めた。梓馬も「いただきます」と言ってから食べ始めた。
口に運ぶと、豚の臭みとつゆの匂いが混ざらずに独立しており、添えられた三つ葉が強烈な個性を発揮していた。卵にはずいぶん念入りに火を通してあるようで、賞味期限をどれくらい過ぎているのか想像させてくる感触だ。
梓馬はそれらに特に不満もなく、もくもくと食べていた。沙月の熱心な視線に気付いてはいたが、それに気付かない振りをしていた。
見つけたくなかった、自分への好意を。
沙月の態度が、少しずつ変わっていることには気付いていた。だから先ほど勢いで言われた「下の名前で呼ぶな」を、いまも律儀に守っている。
沙月に信頼されるのは良いが、いささか過剰に感じられる。実力以上の信頼が自分に向けられていると思っていた。
「ごちそうさま。じゃあ俺はそろそろ帰ることにする」
梓馬は早口でそう言った。やや強引ではあるが、帰りたい理由が多すぎる。
「どうだった……?」
沙月は丼を凝視したまま言った。どういう答えを待っているか簡単にわかる。梓馬はその期待を裏切ることにした。
「朱里ならもっと上手く作っただろうな」
「うん、あたしもそう思う。朱里はなんでもできたから」
梓馬は朱里の名前を出すことで、沙月を牽制したつもりだった。だが当の本人は、楽しい話題だという雰囲気だ。
実際のところ、朱里は料理をあまりしなかっただろうと梓馬は思っている。急に手首を切り出すような人間に、刃物は持たせられない。
もちろんそんなことは言わず、立ち上がってラックから自分のローファーを取った。今度こそ帰るという意志表示だったが、部屋の外に人の気配を感じて、体が硬直してしまった。
「さっちゃん、帰ってるの?」
「お母さん、起きてたの」
頭にカーラーを巻いた中年女性が、部屋に入ってきた。
「その男の子、誰?」
沙月の母、奈津美(なつみ)は口をあんぐりと開けていた。
「友達。ご飯食べてたんだよ」
沙月は先ほどとは打って変わって、不貞腐れた態度で答える。
二人の関係が良好かどうか計れないまま、梓馬は頭を下げた。
「あ、どうもお邪魔してます。市原梓馬です」
「どうも」
奈津美は言いながら、梓馬を足から順に値踏みする。それがあまりに露骨で、沙月は恥ずかしさと嫌悪を同時に抱いた。
「いま話してるんだから、もうどっか行ってよ」
そう言って手で払う仕草をするが、奈津美はまったく意に介していない。
「あんたねえ、大学行ってないんだって」
奈津美は自分の娘に言っているが、目線は梓馬を捉えていた。要するに、この男のせいじゃないのかという疑いを持っている。そしてそれは当たっているだけに、梓馬はこのタイミングで来てしまった運のなさを呪った。
「いまそれ関係ないよ」
「あんたねえ、誰が学費払ってると思ってんのよ」
「今度聞くからいまはどっか行ってよ」
「今度ってあんた、いっつも遅くまで遊んで家に帰ってこないくせして。そんなんで単位大丈夫なの?」
「大丈夫だから早くどっか行ってよ」
「もうっ、あんたは嘘ばっかり。このままじゃ卒業危ないって大学から手紙きてたわよ」
奈津美はそう言うと、どこからか封筒を出した。そこには確かに大学名が印刷されていた。
内部進学したのか――
梓馬は沙月を見る。隠し事がばれた、というような素振りはない。年齢に関して、どうでもいいと思っているのかもしれない。
沙月は後ろめたさからか、奈津美を見ないで告げた。
「いいよもう、大学やめるから」
「ふざっけんじゃないわよっ」
沙月の母は封筒を沙月に放り投げた。だが梓馬に当たる。
「あたしは大学やめて古着屋やるんだから、もう放っといてよ」
「なんのために高い学費払って私立行かせたと思ってんのよ。いままで塾からなにから、いくらかかったと思ってんのよ」
「…………」
金の話をされれば、さすがに沙月も黙るしかない。
「誰のおかげで、大学受験せずにすんだと思ってんの。あんたの未来を考えて行かせてんのよ」
「あたし、そんなこと頼んでないよ……」
「さっちゃんが行くって行ったよっ! 大きくなったら良い大学行って、良い会社に入って、そこで良い人見つけて結婚して幸せに暮らすって。だからお父さんとお母さん、一生懸命働いて無理して良い私立に入れたんでしょ」
「それは……」
確かに沙月は子供のころ、金持ちと結婚して楽に暮らすと、母親に言ったことがある。だが子供だった沙月に、発言のすべての責任を負わせるというのも妙な話だ。
これに梓馬は憤りを感じた。
どうせ奈津美が、良い人生とはこういうものだと吹き込んだんだろうと。親を疑わない子供だった沙月が、それに合わせただけ。いわば洗脳のようなものだろうと。それをさも、自身の発案に家族が付き合ったという形にするのは、卑劣なやり口だ。
梓馬は奈津美に、自分の母親の面影を見始めていた。そして世界中の親すべてが、このような思考であると思い込む。だがやはり他人の家庭ということもあって、黙って見ているしかなかった。
奈津美は怒っていた。
「いっつもお母さんのこと、うるさいうるさいって話聞かないけど、今日はもう我慢の限界だからね。だからいま約束して。ちゃんと大学行って、良いとこに就職して、良い人見つけるって」
沙月は返事をしなかった。
無言の抗議を反抗だと受け取った奈津美は、口調をさらに強くしていく。
「さっちゃんには、お母さんみたいになってほしくないの。学歴ないから冴えない八百屋の息子と結婚して、ずっと働きっぱなしの生活だよ。ちっとも楽にならない。あともうちょっとなんだよ。大学卒業して就職したら、さっちゃんなら良い人見つけられるから」
この場合の楽になるというのは生活ではなく、責められる状況からの解放というのが正しい。奈津美は自分の娘にストレスを与えることで、思い通りにコントロールしようとしている。梓馬がそれを見逃すわけがなかった。
奈津美がコントロールを狙っていると確信した理由は、少し前の言葉のなかにあった。いつも沙月が自分の話を聞かない、という部分だ。つまり奈津美は、いまなら話ができると思っている。だから大学の封筒を、わざわざ持ってきた。
親子の言い合いが始まったとき、梓馬は自分を不運だと思ったがそうではない。奈津美は第三者がいると知った上で、この話題を選んでいる。このタイミングならば、自分の娘が話し合いに参加せざるを得ないと。
第三者の理論は通常では、不利側が使うことが望ましい。一対一で巻き返せないとき、第三者の審判を呼び込むことで、論戦の持って行き方に変化がつけられる。詭弁を使った印象操作で審判を味方につけられれば、一対一が二対一になるからだ。
今回のケースでは、第三者である梓馬は、月側の人間だ。もちろん奈津美はそれをわかっている。ではなにが狙いなのか。
奈津美は第三者がいる状況を利用して、梓馬を審判ではなく人質として利用しようとしていた。
これは第三者の理論の変則的な使用例だ。さすがに沙月も険悪なムードになった実家に、梓馬を残したまま去ることはできない。仮に梓馬も同時に退去を告げたところで、奈津美がこの問題の責任を無理やり押し付けてくるのは目に見えている。そうすれば話は、さらにこじれるはずだ。沙月は梓馬を庇うだろうし、そうなれば最悪、寝ているだろう父親が出てくる可能性がある。
「ね、あなたもそう思うでしょ」
奈津美は強欲なことに、人質である梓馬に、審判として自分を支持するよう求めてきた。ここでそれを拒否すれば、この部屋の空気はさらに悪くなる。
ならば奈津美を支持しつつ、同時に沙月を説得したほうがいい。決着は後日とすれば、次回は人質なしという状況に戻る。そうすれば沙月は、これまでのように話し合いに応じなければいいだけだ。しかし。
「俺はそうは思いませんね」
梓馬は毅然とした態度で、真正面から沙月を支持した。
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