第17話 ふたりになるということ(五十嵐沙月編)その3


『すぐに行く……』

 梓馬はそう言って通話を切ると、「なんてことだ」と独り言ちた。 

 来た道を戻ると、ラブホテルの前に沙月が一人で立っていた。近づくまでの間、お互いの視線が外れることは一度もなかった。ただ自分の脈拍だけが、耳の裏にへばりついていた。

 気まずい再会は無言だった。言葉を探してはいたが、沙月にまた手を引かれると、もう無理に探すのはやめた。

 自動ドアの重低音、他の客にまで聞こえてしまう入店ベル。梓馬の視線がワイパーのように動いていく。だが頭のなかに、地図を作製することができない。大きく育った観葉植物が、スクリーンとして妨害していた。

 沙月が行く先には、明るく灯ったパネルがあった。いくつもの部屋の写真が並んでおり、その下部には二つのスイッチがある。片方がステイ、もう片方が宿泊という不揃いの日本語だ。時間帯もあって、ステイのランプはすべて消灯。宿泊のランプが消えている部屋は、すでに埋まっているということだ。

 沙月は宿泊八八〇〇円のスイッチを押して、すぐに受付へと足を向ける。受付は色付きガラスで覆われており、小さく開いている小窓にトレイが置いてあるだけだった。そこに一万円札を置くと、小窓からしわしわの手が出てきて札を回収する。そして三〇三と印刷されたスティック状のキーホルダーをすっと差し出して、続けてお釣りを出してきた。

 沙月の一連の動きによどみがなかったことについて、梓馬は寛容であろうとした。あいつにだってプライベートがある。そもそも年上なんだ、こういうところに来たことは何度だってあるだろうと。

「エレベーターどこだろ」

 沙月の小さな声。なぜか久しぶりに聞いた気がした。

「ま、こういうところならあっちだろうな」

 梓馬はラブホテルに入ったのは初めてのくせに、すでに何度か来たと取れるような発言をした。相手の経験の有無に心を乱されるわりに、自分のこととなると途端にセックス無双を装う。これは男女の違いでもあるが、梓馬が未熟だからだ。

 こうして二人が向かった先では、トイレが待っていた。

 梓馬はすました顔で言い訳する。

「ちょっとトイレに行きたかったんだ」

「ここスタッフオンリーって書いてるよ」

「あ、ここはそういうタイプなのか」

 その後も梓馬は一人で「へえ」と「ふぅん」をくり返す。一方で沙月はエレベーターを確実に見つけ出すと、キーホルダーに印刷された部屋番号から三階のボタンを選択。無事に無様な梓馬を、三〇三号室まで連れて行った。

 エレベーターから出ると、踏みつぶされた絨毯が足音を消した。梓馬はそれを悟ると即座に呼吸の仕方を変える。なるべく音が立たないようにしたかったからだ。

 三〇三号室前に着くと、沙月は「ここ」と言ってから鍵を刺し込もうとして目を見開いた。「なにこれ、なにもついてない」

「これは……」

 梓馬はキーホルダーを見た。鍵がついていない。

 沙月はキーホルダーを目線まで上げて小首を傾げた。

「鍵つけ忘れたのかな」

「いや、キーホルダーと鍵を別々にする理由がない。鍵だけをどこかに落とした、と考えるほうが自然だ。絨毯に音が吸われて気付か買ったんじゃないか」

「うーん」

 沙月はそう言って、とりあえずドアに手をかけてみた。すっと開いてしまう。

「鍵かかってなかったよ。もしかして最初から鍵ついてなかったのかな」

「へえ、こういうタイプもあるのか」

 こうして二人は初めてラブホテルを利用した。

 室内は灯りが点いていなかったが、入口横の壁にあるスイッチを押すと、うっすらと内装が浮かび上がった。

 沙月は小走りで室内に入り、まずは風呂場の様子を見に行った。

 一方で梓馬は慣れている振りをしながら、ベッドに四つん這いになり、枕元にある照明のつまみを動かしていた。さらに明るくすることも、暗くすることもできる。ついふざけて明滅させてしまう。

「すごいね、そんなことできるんだ」

 探検を終えた沙月が戻ってきていた。

「本来の使い方じゃないだろうがな」

 子供のような遊び方だと思われた気がして、梓馬はつまみから慌てて指を離した。照明は薄暗い調整で止まっている。

「なんでもわかるんだね」

「そんなことはない。口にしないだけで、いつも見当外れなことばかり考えてる」

「あたしはそうは思わないよ」

 後方でベッドが沈む気配を感じた。その傾斜に心が流れていきそうになる。その重力の中心にいるのは、朱里の親友だ。

「いや、俺は本当に取るに足らないんだ。自分より賢い奴や人気のある奴をたくさん見てきた。運動でも面白さでも優しさでも、人に勝ったことは一度もない」

 梓馬は自虐を楽しそうに言った。自動的に笑顔を作ってしまう。これが本音だからだ。急所であればあるほど、防衛本能がそれを隠そうとする。言葉と表情がちぐはぐで、混乱していることが傍目からよくわかる。

一番以外は意味がない、という極端な発想と自己否定の傾向。これは家庭環境が作り上げたものだ。過干渉の母親と無関心の父親、それに対して幼かった梓馬は本能で抵抗した。破壊された資質は最小限で済んだが、その代償として自身を計る物差しを世間に求めるようになり、自分を評価できない人間として育った。

 それでも梓馬は、思考力にだけは自信を持っている。かといって結果があるわけではないが、得意なことだと信じ込まなければ、アイデンティティを保てなかった。これが視野の狭さの原因になっている。

「あたしはそうは思わない。今日だってあたしとお母さんの間に立ってくれた。あたしの言いたい気持ち、全部言葉にしてくれたよ」

「あのときもしかしたら俺は、お前のためだけに立ったわけじゃなかったのかもしれない」

「どういうこと?」

「沙月の母親に、自分の母親を重ねていたんだろうな」

「うん……」

 心当たりがあった沙月は、自分の肉体を梓馬の横へと運んだ。体温が空気を介して伝わってくる距離だ。他人が存在しない領域内に、男と女の体があった。

 二人分の体重でベッドの中央が沈む。重力に時間が引っ張られ、時の流れの感覚が曖昧になる。梓馬は自分がなにを言おうとしているのか、わからなくなっていた。すぐ近くにある女の肉体が、理性を狂わせていた。

「最初におかしいと思ったのは、野菜を食べている最中に野菜を食べろって言われたときだ。その次はなんだったかな。勉強しているときに、勉強しろと言われたときかもしれない。それか洗面所で服を脱いでいるときに、風呂に入れと言われたときだな。本当に俺を気にかけているなら、どれも言わない言葉だろ。母親っぽいことを言いたいだけなんだよ」

「うん……」

 沙月は悲しそうな顔で頷くと、梓馬の手に自分の手を重ねた。

 手が抱きしめられている。その感覚に気付いていない振りをしながら、梓馬は過去の声を沙月に聞かせた。

「そこからだよ。近所のおばさんたちとの会話で、自分が俺にどんな世話をしているか話してるのを聞いた。ああ、これを言うためだけに、俺にあれこれ言ってるんだなってわかった。父親も俺より自分のほうが大事で、基本的には母親の言動を見て見ぬ振りだ。そんな父親が唯一の抗議をしたのは、自分の小遣いが減らされるときだったよ」

 まだ吐露できることはある。梓馬は言い足りないという心境のまま、これ以上は言えないとも思っていた。鼻の奥にあるつんとした気配が、喉を塞ごうとしている。涙は感情の証拠でしかない。

「あたしのお母さんもそんな感じだよ。自分の理想を押し付けてくるんだよ」

「でもお前のお母さんは、少なくともお前を見てしゃべってた。お母さんを理由に家を出るのはやめたほうがいい。俺が言うのも変だが」

「うん……。お父さん起きてたら、お母さんのこと怒ってたかも。今日はなんか、色んなことが上手くいかない日だったんだよ」

 親子喧嘩が起きたのは、第三者である梓馬のせいではある。しかし沙月が古着屋を夢としているならば、いつか必ず起きていた衝突だった。

「そうだな。本当に今日はついてない日なんだろうな」

「そうだよ……、きっと」

「俺は子供のころ勘違いしてたんだ。信号があること、電車が時間どおりにくること、すれ違う大人が殴りかかってこないこと。それらすべてを、世の中が保証してると思ってたんだ。でも実際は違った。悪意まみれだ。上手くいく日を生きるには、自分で世界をコントロールしなければならない。それはお前の夢にも言えることだ」 

 沙月にあれほど具体的な夢があるとわかれば、この先の復讐に付き合わせるという気になれない。部屋に積まれた本の山を見たとき、それを崩したくないと思った。

 同志という共感関係には致命的な感情だ。だが梓馬は、それでいい、そうしたいと思っている。だから手を握り返した。

 いつの間にか生まれていた気持ち。守りたいという心を手のひらで隠して。

「梓馬には夢、ないの?」

「わからん。子供のころから、なりたいものなんてなかった。でも……」

 言いかけて梓馬は止まった。心の底にずっとあった夢に、輪郭が生まれてしまったからだ。朱里を知って、失った。その経験が心に深い傷と溝を作り、夢の形を表現してしまった。

 沙月はその変化に気付いて、そっと促す。

「あたしに教えて」

 梓馬はこのとき、夢を口にするのが怖いと知った。ありったけの裸の心だからだ。だから言い訳を考えようとする。しかしどうしてか、また期待したいと思った。それはその夢がどんな恐れよりも、手に入れたいという気持ちのほうが強かったからだ。

「俺はもしかしたら……、誰かの一番になりたいのかもしれない」

 言うと、沙月の顔が優しく崩れた。

「できるよ、梓馬ならできる」

 沙月はいくつかの本音を飲み込んでそう答えた。

「無理のある話だな。誰かの一番になるためには、容姿と中身のどちらも揃っていないといけない、あと肩書もだな。容姿は整形でどうにかなるし、肩書も日本なら頑張ればどうにかできる。でも中身がな……」

「そんなことない、あたしはちゃんと見てたよ」

 沙月は発声こそ強かったが、続く言葉はなかった。重要なことほど口にできない。弱点を晒すことになるからだ。

「ああ、もちろん俺は俺が好きだし、日本に生まれただけで、世界でも有数の恵まれた人間だと思ってる。愛情がどうたらなんて言えるのは、明日の飯が食えるからだ。要するに子供なんだな」

 相手の心を無視して、別の解釈だと決めつける。梓馬は自分から弱さを見せておいて、沙月の本音を聞かない選択をした。

 もしいま、優しい言葉をかけられたら俺は――

 朱里からもらいたかったものを、代わりに与えると言われることが怖かった。それを想像するだけで、自分のコントロールを失うと簡単に予測できた。

「そうじゃない、あたしさっき言ったよ。ずっと見てたって」

「ああ、確かに言ったな。松本花さんのときも、大橋久美さんのときも、行き当たりばったりの俺を見せた。なにもスマートにこなせないんだ」

「それってだめなことなの?」

「だめに決まってる。子供のころからずっとだ。なにかを決めたとき、予定どおりに進んだことなんてなかった」

 梓馬は自分の言葉に刺激されて、小学生時代の思い出に頭を叩かれる。人に好かれたくて色々やった。

 沙月は黙っていた。話を待っているのだと気付いて、痛みを口にする。

「夜寝る前、過去の言動に苦しむことはないか? 俺はほぼ毎日だ。小学生のとき、特別な存在だと思われたくて、霊感があると言った」

「ああ、そういう子あたしのクラスにもいたよ」

「授業中になにもいない天井の角を見つめて、震えたりするんだ。俺の視線に気付いた何人かが、なにかあると思って同じ場所を見るだろ。するとあとで訊いてくるんだ、霊が見えるのかってな」

 梓馬はこの経験によって、人の視線の向きの重要性に気付いた。他人を強く意識してしまうことが、いまの実力の基礎となっている。

「梓馬っぽいね」

 沙月は嬉しそうに笑った。

 梓馬はその笑顔を見なかったかのように、続きを話していく。

「霊が見える振りをしてると、いつの間にか本当に見えるような気がしてくるんだ。鏡になにか映った気がして、自分は本当に霊が見えるんじゃないかって信じ始める。他にも誰もいないのに、声が聞こえた気になったりな。でも冷静になれば、気のせいだったんだとわかる。そうしたら同時に気付くことがあった」

「なに?」

「霊が見えるって振りでもしないと、誰も俺を相手にしないって現実だ」

「信じさせるだけすごいよ。あたしのクラスにいた霊感あるって子は、みんなに問い詰められてたよ。それで終わりの会で、僕は偽物ですって言わされてた。見てらんなかった」

 梓馬も聞いてらんなかった。

「お、おう。こういうのは中学生とかにありがちなことなんだ。でもいまの俺は高校生で、いまだに似たようなことをしてる。誰かの一番になりたくて、ずっと恰好つけてて、夜寝る前に頭を抱えるんだ」

「かっこつけてるの……?」

「まあ、なんか自分で言うのもなんだが、その、しゃべり方とか、馬鹿みたいだろ?」

 沙月は心あたりがあったのか、小さく笑った。

「偉そうだよね。たまに倒置法とか使ってる」

「お、おう。もう癖になっちまった」

 自分で言い出しておいて、梓馬は少し傷付いた。

 沙月は口のなかで「もう……」と言った。

「梓馬は自分のかっこいいとこ、そこだと思ってるの」

「他にありそうな言い方だ」

 沙月はまた口のなかで「あるよ」と言った。

「梓馬のかっこいいとこは、諦めないところだよ。どれだけ劣勢になっても足掻いて足掻いて、最後には全部ひっくり返すところがかっこいいんだよ」

「本当はいつも怖くて仕方ない。小心者なんだ、俺は……」

 自分で自分を弱いと言うことは、とても耐えがたい。男がそれをいうときは、戦いに疲れ果ててしまったか、あるいは心を完全に許したときのどちらかだ。

 沙月はそのどちらも、正面から受け包んだ。

「怖くていいよ、小心者でいいよ。なんにも怖くないって人、あたし全然すごいって思わないよ。それよりも怖くて仕方ないのに、ぐっと悲鳴を飲み込んで、それで最後まで足掻く人……。そういう人のほうが、勇気あるんじゃないかな」

「……確かに」

 不思議なことに、梓馬は反論が思い浮かばなかった。それは沙月の言葉に甘えたかったからかもしれない。そして自分では思いつかない発想だったからかもしれない。

 梓馬は嗚咽もなにもなく、ただ一筋の心を流した。

 涙は二人の手が重なる座標に落ちて、熱を伝導させていってしまう。その体温は、いまある心を通じさせた。男として認められたいという気持ちが冷めていく。そうすると残ったのは、傷によって成長を止められた少年の梓馬だった。

「俺はこの十八年間……。短いかもしれないけど、生まれた時間のすべて、ずっと一人だったんだ……」

「いまあたしの世界にいる」

 沙月は梓馬の手を、自分の胸に引いた。後にこのセリフのことで、夜寝る前に頭を抱えることになるとも知らずに。

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