第24話 一粒に確定する優先順位(鳩池久吾編)その4

 カーテンは、月明りを遮っていなかった。朱里を二人同時に存在させないためだ。

 梓馬はベッドの上で、背を丸めて座っていた。部屋を覆う暗闇には徐々に質量が生まれている。脳裏に意図的に流しているポルノは、朱里と鳩池のハードなセックスだ。

 鳩池のセックステクニックは、梓馬よりも数段上という設定。神聖なはずの朱里の肉体を、他の女の肉体と同じように扱っている。朱里は生理機能から、何度も絶頂を迎えていた。そして恍惚とした表情で、鳩池のペニスを口に頬張っている。

 腹に熱いものを感じた。これは怒りによるものか、あるいは勃起現象によるものか。

 突如、アラーム音が響く。梓馬はベッドから立ち上がると、軽量タイプの黒のダウンジャケットに袖を通し、フードを深く被った。ジョギングという名目の下見の時間だった。

 今日の予定も、監視カメラの位置割り出しだった。自分でもどうかと思う方法だったが、それ以外に思い浮かばず、地道に試していくことになっていた。

 梓馬の家から鳩池のマンションまでは、歩けば約五十分。流す程度の速度で走って三十五分ほどかかる。深夜のため、市営地下鉄は使えない。ポケットにアダルトグッズを忍ばせて、冬が支配する空間に体温を持ち込んだ。

 前回は生ゴミを捨てたが、あっという間にカラスたちが攫ってしまった。これではカラスが、ゴミを持ってきたように見えてしまう。

 そのために今回は、女性器の形をリアルに再現したゴム製のオナニーホールと、怒りを具現化したような男性器型マッサージ機を選択する。これをマンションの植木に捨てれば、さすがにカラスも啄むこともない。また、見る物に衝撃を与えることができるだろう。インパクトが大きいほど、マンションの管理側のリアクションも期待できる。

 駅前の急斜面を登り切り、線路にかかった橋を渡る。右手に見える図書館には、かつての思い出を見た。制服を着たまま、朱里と児童書コーナーで議論を戦わせた。百万回の人生など現実にはない。

 梓馬はいつも、周囲との断絶を感じていた。それがたった一人の人間によって解決され、くつろぐという感触を初めて味わった。

 なにを取り戻そうというわけでもない。論理的な顔で、抑止力を語ろうというわけでもない。なにに代弁させることもなく、ただ鳩池に憎しみをぶつけたいだけだった。

 しばらく走れば住宅街に入る。斜面を下って少しすれば国道で、ここが地元と認識している最終ラインだ。

 今日は帰ってこれる。でもいつか片道になる日がくる――

 国道の信号を渡ると、すぐに住宅街に入る。別方向から合流してきた川は、例のベンチへと続いている。もう息は上がっているのに、もっと速度をあげたくなった。

遊歩道に入り込む。遠くに見えるマンションの灯りを見つめながら走った。しばらくしてフットサル場を通過すると、もうベンチは目と鼻の先だ。息を整えるためにも、梓馬はゆっくりと歩き出した。

 無造作に並ぶ小ぶりの木々は、いつもどおりだ。しかしわずかな時間でも変化はあるもので、アパートの敷地内の雑草はすべて刈られており、部屋のいくつかに灯りが点いていた。隣の大きな屋敷は相変わらずで、塀には蔦が絡まっており、その上から木々がはみ出したままだ。そして門や塀に並んだ花壇も、同様に放置されているようで、花の首がぼとりと落ちていた。

 花壇だけは、手入れされていたはずだが――

 そんな疑問は、冬の風が運んでしまった。それに煽られて、例のベンチを目にしてしまう。よせばいいのにと思いながらも、そこに物言わぬ朱里の姿を想像した。幻想はあっという間に現れる。その朱里は、こちらを見て首を傾けた。そしてにこりと笑うと、指が顎にかかった。

 梓馬はそれに背を向けると、観覧車の見える商業施設を目指して走り出した。

 この辺りはここ二十年で開発が進んだ地区で、東京ほど監視カメラがあるとは思えない。しかし油断をすることもできない。梓馬は十字路に差し掛かる前に大通りを渡って、駅周辺には東からやってきたように演出した。

 観覧車のある商業施設の脇を過ぎて、駅ロータリーに入る。そこを通り過ぎて階段を降りれば、もう鳩池のマンションは目の前だった。

 階段を降りる途中、フードを引っ張ってさらに目深にした。次いでスニーカーのマジックテープを張りなおした。歩くのと変わらない速度で、目的のマンション前に到達する。

 いまごろ鳩池久吾は寝ているだろう、そう思うと胸の裏で黒が広がっていく。だがいまはそのときではない。背の高いマンションに見下されながら、梓馬はマンション脇の植木花壇へと入っていった。

 両方のポケットに手を入れて、二種のアダルトグッズを確認する。どちらもそれなりの値段だった。オナホールだけ使用するか迷ったが、そんな馬鹿なことで身元を特定されるわけにはいかない。

 周囲を見渡して、問題ないと正面を向いたとき、全身が凍り付いた。

 夜の闇だと思っていたものが、急に動き出したからだ。また朱里の亡霊かと思ったが違う。壁にもたれていたそれは人影で、目出し帽の目が爛々と光っていた。

 全身黒ずくめという犯罪者特有の姿。手には液体が入ったペットボトルとライターを持っており、はっきりとこちらを睨んでいた。

 梓馬も驚いたが、目出し帽の相手もこちらを見て硬直していた。お互いに相手を犯罪者だと、確信しているようだった。

 目出し帽の相手は警戒しながら、ゆっくりとした動作でペットボトルとライターを上着のポケットにしまった。そしてごそごそとしている。

 吐き気に似た恐怖が、梓馬の鼻過呼吸を荒くする。目出し帽の相手が次にポケットから手を出すとき、その手にはナイフが握られていると直感したからだ。

 応戦するために梓馬は、自分の獲物をポケットから抜いた。素手で刃物を捌こうなどと、そんな甘い考えは持ち合わせていない。ゴム製のオナニーホールを盾にして、バイブレーターを剣とすると、はっきりと構えた。

 いきなりアダルトグッズを両手に構えた梓馬に、目出し帽の相手は一歩ほど距離を取った。恐怖を感じていることは明白だった。

 目出し帽の相手は、女の声で言った。

「お前、変質者か……?」

「お前にだけは言われたくないな」

 梓馬は性別差からくる腕力の違いに安心する。そしてゆっくりとオナニーホールを顎下に配置し、本命のバイブレーターを相手に突き出した。

 これはまったくの見当違いだ。もし目出し帽の女がナイフを出した場合、梓馬が想定している戦法は通用しない。

 オナニーホールで刃物を捌いて、目か喉をバイブレーターで突くというつもりだが、ナイフを受け止めた時点でオナニーホールは切り裂かれる。そして左手に裂傷を負い、怯んだところに追撃をもらうことになる。

 仮に上手くナイフを捌くことができたとしても、バイブレーターで致命傷を与えるには、予備動作から命中時までかなり正確なフォームが要求される。この点が一番の差だ。刃物は腕力や技術がなくとも、致命傷を与えられる。いくらも攻撃を浴びないうちに、誰もが戦意喪失し命乞いを始める。あとは首にでも突き立てれば終わりだ。

 目出し帽の女はポケットから手を出した。出てきたのは先ほどのペットボトルで、さっとキャップを外すと、マンションの植木花壇に中身を撒いた。

 梓馬は相手の意図が読めず、ただただ直視しているだけだった。そうしていると目出し帽の女は、ライターで引火しようとした。自分の手に火が燃え移るのが怖いのか、上手く着火できずにいる。そして梓馬と植え込みを交互に見ては、「どうしよ……」と困っていた。さすがにこれだけ声を聞けば、目出し帽の奥にある顔が誰の物か、簡単に想像がつく。

 梓馬は腰を曲げながら近づいた。

「放火する気か?」

「うん……」

 沙月はライターをじっと見つめながら答えた。

「これを使え、おそらく簡単に燃える」

 梓馬はそう言うと、オナニーホールを差し出した。だが受け取る気配がない。

「こんなの触りたくないよ……」

「安心しろ、これは未使用品だ。それよりお前、俺が誰だかわかってないのか?」

 そう言われてフードの奥を覗き込んだ沙月は「うわっ」と言うと、両手をあげて尻もちをついた。

 それを見て梓馬は、ずいぶん大げさな驚き方だなと笑った。

「えっ梓馬? もしかして梓馬もあたしと同じように、監視カメラの位置の割り出しにきたの?」

 大きな目がまばたきする音が、ぱちぱちぱちと聞こえてきそうだった。 

「信じられんが、そういうことだ。フードは取らん。お前もそのまま顔を晒すな。あとお互いに名前を呼ぶのはよそう。そのライターとペットボトルを貸せ、俺がやる」

 受け取ったペットボトルの液体を、オナニーホールの疑似膣口に注ぐ。とっとっとっという音が、やけに耳に残った。梓馬はそのまま疑似膣口に左手の軍手をつっこみ、さらにそこにもペットボトルの液体をかけた。それを植木の根本に置き、ライターの火を近づけると、ぼうっと色素の薄い火が灯る。

 暗闇に汚い花が咲いた。

「きれい……」

「こんなメッセージ性のある放火は見たことがないな」

 そう言うと梓馬は、植え込みの土の部分にバイブレーターを突き立てた。こうしてみると不思議なことに、土から栄養を吸って生えてきたように見える。

「えっ……、ははっ、はははっ、あはははっ」

 沙月は焼け残ったあとに佇むアダルトグッズを見て、住民がどんなメッセージを受け取るのか想像すると、火がついたように笑い始めた。犯罪行為時にかかるストレスが、極度の興奮状態を作り出していたからだ。

 沙月が異様なテンションで笑い始めたのを見て、梓馬もなぜかこれがとても面白いことのように思えてしまう。同じく普通の状態ではなくなっていた。

「くっ、お前……、笑いごとじゃないぞこれはっ」

 確かに笑っている場合ではない。沙月が用意した液体とは、ジッポライターに使う詰め替え用のオイルだ。放っておけば、手が付けられない状態になってしまう。

 火を見ながら沙月は、ポケットにペットボトルとライターを戻した。そのとき手がごそごそと動いていたことから、別の物もポケットに入っていると想像できる。

 ナイフだろうな――

 状況的に考えれば、消火用のなにかだというほうが自然だ。しかし梓馬は遭遇時の発想に引っ張られていた。

「おい、そろそろ火を消して逃げよう。このままじゃここの住人が全員焼け死んでしまう」

 梓馬がそう半笑いで言うと、沙月は途端に固まった。

「え、火を消して……?」

「まさか、消すことを考えてなかったのか」

「え、うん……どうしよう」

 冗談だろ、梓馬はそう思って沙月の顔をまじまじと見た。目出し帽の奥に綺麗なアーモンド形の目が光っている。

「ぐっ、お前……全部燃えたら……、監視カメラまで燃えちまうだろうがぁ……」

 梓馬が笑いを殺しながら言うと、沙月もまた笑いがぶり返してきてしまった。

「あはーっ」

 お互いがお互いの笑い方を見て、笑い合っていた。




 時間は午前四時になるころだった。溝ノ口のクラブを上がったあと、馴染みの太客とアフターを終えてき里見敦子(さとみあつこ)二十八歳が、タクシーから降りてきた。二十五歳を過ぎてから指名が劇的に減ってしまったことで、自分も独立して店を構えようと日々奮闘している頑張り屋さんだ。

 早くシャワーで体の汚れを流したいと思っての矢先、エントランスに入ろうとしたところで、脇のほうから妙な笑い声が聞こえた。よくあることね、と思う。マンションの脇の通路に、近所のマイルドヤンキーがたむろしていることはよくあることだったからだ。だがちらちらと揺れる灯りが漏れていることから、嫌な予感が働いた。

 里見敦子二十八歳はこっそりと近づいてみると、生涯忘れることのない光景を目にしてしまう。

 ふたりの顔を隠した黒ずくめの人間が、火を前にしながら笑い声をあげていた。炎の灯りのなかには、形の崩れたピンク色のなにかがあり、その隣には極太のバイブレーターが刺さっている。放火魔なのか、芸術家なのか、わからなかった。

 里見敦子二十八歳は、悲鳴をあげた。きゃああと叫んでいる自分の声を、他人の声のように感じていた。

 そのふたりの人間は悲鳴の主に気付くと、やはり大笑いしながら、信じられない速度で逃げ出していった。

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