第25話 一粒に確定する優先順位(鳩池久吾編)その5
数日後、梓馬と沙月は通話をしていた。
『おそらく俺たちが犯人だと特定できていないな』
『カメラはなかったってことなのかな』
『わからん。だが監視カメラがあったとしても、顔を隠していれば問題ないということがわかった。これなら拉致は簡単にできそうだ』
実際のところ監視カメラはあった。この手の事件が公にならないのは、二者の考え方の特徴が一致した際に起きる。
マンションや学校は自分たちのブランド力や、管理能力を守るために事件性を嫌う傾向があり、警察はそのときの抱えている仕事量と管轄の体質が大きく影響する。特にこの県の警察は不祥事で有名だ。
火が建物本体、あるいは人体にまで届いていれば、確実に捜査は行われていた。だが植木が少々燃えた程度では、スルーされることもままある。ふたりはあのあと誰が消化作業をしたか知らない。半狂乱だった里見敦子二十八歳に感謝しなければならないが、その事実を知る日はこない。
『なるほど、梓馬には拉致する良い案があるんだね。あたしは具体的なことが、なにも決められてなかったんだよ。準備できているのは車と監禁場所だけ』
沙月のすらすらとした返答に、梓馬は流れのようなもの、あるいは大きな風を感じた。朱里と付き合い始めたときにも感じたことがある。人生が動き出そうとしている気配だ。
『だいたいの計画はもう立ててある。逮捕されないようにするつもりだ。俺のほうの問題は、まさにその車と場所だったんだ。助かる』
沙月は二番目に聞きたかった言葉を聞けて上機嫌になった。だが心の底にある尖った氷は溶けない。
『お父さんは仕事用の車ばかり使うから、家用のはあたしがたまに乗るくらいで誰も使わないんだよ。監禁場所は築地の近くに倉庫があるんだけど、市場が豊洲に移っちゃったせいでまったく使ってない。人一人くらい余裕で監禁できるし、用がある人なんて他に誰もいないよ』
『そうか、そこを使わせてもらえるならありがたい。詳しい地図を頼む』
『え、一人で行くの? 一緒に行こうよ』
『もしもということがある。できる限りお前を巻き込みたくないんだ。だから一人で行く』
『だめだよ。あたしも一緒じゃないと、車も倉庫も貸せないよ。だいたい、車の免許持ってないでしょ?』
メモには書いてなかったが、実際の運転に関しても梓馬は困っていた。沙月が運転するというのなら確かにありがたいが、もちろんそういうわけにはいかない。
『免許はないがチンパンジーでも運転はしている。教えてくれればいい』
アメリカで起きた珍事件だとニュースで見た。
『そのチンパンジーは公道を走ったことあるの?』
沙月も見ていた。
『車も場所も借りて俺が捕まれば、お前は必ず巻き込まれる。その際に一緒に下見していたことがばれたら、お前は車と倉庫の鍵を盗まれたと言えないだろ。前回の放火のこともあるし、できるだけ一人でやりたいんだ』
『あたしのことなら気にしないでよ』
沙月は、からっぽの声でそう言った。だが梓馬はその声の調子に気付けず、自分の本心にいくらかのフィルターをかけた。自分に惚れているから、言うことを聞くだろうと自惚れて。
『気にするに決まってるだろ。放火のことだって知ってれば俺一人でやってた。いいか、これ以上危ないことはするな。お前は自分の夢を叶えることだけ考えてればいい。危ないことは全部俺がやる』
『俺たちの夢って言わないんだね』
『ああ、確かに俺たちの夢だった。その夢を守ろうって言ってるんだ。俺はお前が好きなんだ。男が女のために体を張るのは当然だろ』
今度こそという梓馬の気持ちに対して、沙月の声の調子はまるで変わる様子がなかった。
『あたしのために鳩池を殺すの?』
『なにを言ってるんだ』
梓馬は上手く返すことができず、とりあえずの待ったをかけた。次の返答が来るまでに上手い答えを用意しなければと考える一方で、沙月が自分の本心を知っているのではというルートが見え隠れしていた。
『とにかく梓馬がどんな喋り方をしても、どれだけあたしのためだって言っても、あたしは自分が参加させてもらえないなら、車も場所も絶対に貸さない』
沙月の言っていることは非常に強力な手法で、梓馬のような相手には特に有効だ。話さえできれば操ることができると思っている人間、つまり戦略的ではなく戦術的に交渉をしてくる人間にとって、交渉しないという態度ほど厄介なものはない。
梓馬は見えないやりにくさを確かに感じ取っていたが、同時に交渉においては沙月を格下だと侮っていた。そのせいで力業のコントロールを続けてしまう。
『よく聞いてくれ。もっと未来のことまで視野を広げて考えるんだ。俺の言っていることは確かに自分勝手に聞こえるかもしれない。だが総合的に見た場合――』
『交渉はしないよ』
沙月は遮って、自分の要求だけを告げていく。
『車と場所を貸す条件は、あたしが参加すること。これ以外の話し合いはしない』
『待て、まずは俺の話を聞いてくれ。それでお前がどうしてもというなら、俺のほうでも考え――』
『交渉はしないって言ってるんだよっ』
沙月のその声の次に聞こえたのは、ツーツーという音だった。
「厄介なことになった……」
一人で呟いた梓馬は数秒待って、状況が好転しないことを確信した。すぐにメモ帳を開き、沙月を言いくるめるには、というタイトルを打ち込んでから、手詰まりであることを痛感する。方法はあるにはあるが、自分にはできそうにない。
それは主にホストなどが女性に使う手法で、サンクコストの法則と呼ばれている。時間と資金を自分に投資させ、セックスと甘言で完全に依存させる。そこで態度を冷たくすると、女性は投入したコスト(この場合は資金と時間)を回収したい、という強い心理の働きに囚われる。
女性はホストに振り向いてもらうためならば、なんでもするようになる。これで資本主義の奴隷が完成するというわけだ。
結局、梓馬は条件を飲むことにした。沙月にそれを使うことはない。手段を用いて資本を奪う際、人間は常に心を代価として払わなければならないと学んだばかりだからだ。
いまの梓馬は、人をコントロールする代償をよくわかっている。この世にいる大勢の人間が一人の他人となり、いずれ自分も消えていくことこそ貧困だと。
坂東元治の秘書、平橋美憂は滋賀県出身の二十五歳独身女性で、大学入学の際に上京してきた。トレンディドラマで見た東京の暮らしに憧れており、住居も両親に無理を言って恵比寿のワンルームを借りてもらった。
美憂の両親にはそれを支えるだけの裕福さがあったし、地元でも評判の美人であり語学の素養とファッション感度の高さを併せ持つ娘は、絶対に東京に行くべきだと応援を惜しまなかった。
美憂が通う私立大学は偏差値こそまずまずだが、名前だけは駅伝で有名ということもあり、地元でもいくらか評判になっていた。これが若い美憂に、過度な上昇志向を生んでしまう。
元来の憧れは、都内のOLという漠然としたものだった。それがいつからか周囲の影響で、丸の内よりも麻布や六本木などに意識が向くようになっていく。だから当然、サークルは有名大学とのインカレサークルを選んだ。そのサークルは女子アナウンサーを輩出した実績があり、男女比率も半々といったところで、ホームページを見ると温泉やスキー合宿などを盛んに行っている写真がある。東京の大学生の華やかな生活、それに目がくらんだ。
田舎の友達たちに自慢したい。そう意気込んだ美憂は、新入生歓迎コンパに自慢のハイブランドのバッグで挑んだ。その結果、男性経験のなかった美憂はその日のうちに経験人数が六人になってしまう。他の女子はそれぞれ一人の男を相手にしただけだったが、優れた容姿を持つ美憂に、誰もがとりあえず一発と思ったからだった。
全員の射精が終わった後、泣きながらも果敢に告発すると言った美憂だったが、同じ目にあっていた同サークルの女子に、女子アナになるなら誰もが通る道だよと言われる。
そして鳩池という男が、新歓コンパでやった男の人数で女子アナウンサーの才能が測れると同調した。話によると、同校出身の現役有名女子アナは初回で八人の男を相手にしたらしく、三人以上を相手にすれば才能があるとのことだった。
この出来事の後、美憂は鳩池に紹介されたテレビマンや、職業を言えない人間相手に営業を始めていく。
実際に在学中に、いくつかのローカル番組に水着で出演する機会を与えられた。フリップボードを持つだけという仕事だったが、収録現場ではディレクターのカキタレ(セックス用のタレント)ということで丁重に扱われた。美憂はそれを自分の力と勘違いをして、増長してしまう。このことが後に、女子アナウンサーに採用されなかった原因だと、鳩池の口から語られた。スタッフに嫌われたら終わりだと。
このころに美憂はダンスレッスン、ボイストレーニング、演技指導、えら削りなどで借金を作っており、その返済のために鳩池からラウンジを紹介され勤め始めた。
職場はタレントを目指している女性がほとんどで、美憂と同じくトレーニングや整形で借金を負っていた。苛烈なライバル視が飛び交う場所に価値観を歪められ、タレントになればこれまでつぎ込んだものを取り返せると思っていた。
テレビ局関係者が来ればなんでもした。中絶も二度した。それでもなにかに抜擢されるようなことはなく、大学卒業時には田舎に帰ろうかとも思った。そんな折、鳩池に紹介された男が坂東元治だった。
美憂は、秘書としての面接の際にいきなり自分の口の技術を披露し、その場で採用をもぎとる。そしてそれなりに下積みをすれば、美人すぎる市議としての道くらいなら用意してやると言われ、坂東が紹介する男とも寝るようになった。変わらない吸引力とあだ名されるほど高い評価を得て、重要な会談の際には必ず同伴するようになった。
こうして美憂は着実に、自身の立場を固めつつあった。しかしある時期、鳩池が連れてきた自分よりも若い女に脅威を感じる。その女は佇まいに品があり、身に着けている物も高価なものばかりだとわかった。見せつけるように手に装着されたブレスレットやバングルは、美憂が見れば一目でハイブランドのヴィンテージ品だとわかる。特にゴールドのブレスレットは純金のもので、車が一台買えるほどの値段で取引されているものだったはずだと。
ラウンジで働いていたとき、ごく稀にハイブランドに狂った女を見かけた。自分への投資として始めたはずが、いつの間にか、ハイブランドが人生の主役になってしまっている。
美憂は鳩池が連れてきた女を、その類だろうと予測した。だがよくよく考えると、それも違う。美憂が最終的に出した結論は、この女は自分をハイブランドと同等かそれ以上の存在だと思っている、ということだ。鳩池にへつらうでもなく、坂東にすら媚びを売らないその態度が根拠だった。
「私が以前所持していたものを、もう一度この手に戻したいと考えています」
「名義変更はできないが、六本木に使ってないマンションがあるよ」
坂東は隠しきれないほど上機嫌な声を出していた。
美憂は信じられないと思った。これまで坂東にアクセサリーやバッグを買ってもらったことはあるが、不動産をもらったことなど一度もない。それもその不動産は六本木のものだと言う。
「ゴムはつけなくていいですよ。どうせ同じですから」
女はサービスのつもりでそう言ったのだろうが、これもまた美憂の癪に障った。避妊をしないなど、当たり前のことだからだ。それをなにを偉そうに。
坂東はその日、事務所に帰ってこなかった。
美憂はこの出来事を目の当たりにし、またも目の前の道が閉ざされていくように感じた。そしてようやく、他人ではなく自分の力でなんとかしようと考え始める。それはこの事務所に勤め始めてから、それなりの評価を得てきたことが、今回の自信を持つきっかけとして作用していた。
SNSで個人的なボランティア活動の情報や、女性の立場向上などの意見を発信し始める。すると美憂の優れた容姿もあって、政治に興味のなさそうな層からも応援されるようになった。やりてぇという誰かのネットの独り言を見つけると、それがどんな男であっても寝てあげたいと思った。そして、とあるイベントに出席した際では、女子高生から憧れていると言われる。美憂はこのとき、本気の涙を流した。
同性からの支持を得る快感に痺れ、もっと勉強をしようと決意した矢先、坂東がまた体を求めてきた。
しばらく自分がすることはない、そう予想していただけに驚く。結局こないだの女は、たった一度でほしいものを手に入れたのかと。
そう思うと腹が立ったが、それを言っても意味がない。戻ってきた坂東をしっかり確保することこそ肝要だ。坂東のセックスは力任せで痛みを伴うが、それでも美憂は戻ってきたチャンスに喜んだ。
行為の際に高校の制服を着るように言われ、もう処分したと伝えると向こうから用意してきた。誰かを演じさせようとしているのが明白で、そしてあの女にもう二度と会えなくなったのだと思った。
誰かの身代わりで体をしゃぶられることに気持ち悪さを感じたが、イベントで憧れていると言ってくれた女子高生を思い出すと、どんなことでもしようと思えた。
あと何年かすれば、鳩池が政界に進出する。それが成功すれば、次は自分の番。美憂は開いていく自分の人生に、充実を感じていた。だからこそ今日も手を抜かない。
鳩池と別れると駅の改札を抜けて、新横浜方面の地下鉄に乗り込んだ。全席が優先席なので、誰が座っていなくとも立ち続ける。
つり革を掴んでいる手とは逆の手で、皺の入った革の手帳を開いてスケジュールを確認する。相手は最近勢力を拡大しているスーパーマーケットの会長の息子で、アナルセックスに目がない。
準備として食事は昨日からとっておらず、しかし水は大量に摂取している。事が終わっても、目の前で過度な食欲を見せるわけにはいかない。次にご飯を食べられるのはずいぶん先だなと、首の骨を鳴らした。
いつもなら鳩池久吾と夕食の時間だった。
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