第2話 鏡の中の君へ 前編(加賀美朱里編)
2 鏡の中の君へ 前編(加賀美朱里編)
夏ほど悩まない季節はない。
梓馬はカットソーとワイドパンツ姿の自分を、電車の窓に映していた。川を渡る電車の中の冷房は弱く、額に浮いた汗はまだ消えていない。しかし不快感など忘れて、うっすらと反射する左右逆の自分を点検していた。自分の一番のネックは、長い顎。これが全体のバランスを狂わせている。
外には大きな川と点在するバーベキューの村々が映っているが、そこにはピントを合わせない。自分が他人からどう見られているか、車窓の中の像に焦点を合わせている。溜息は窓を曇らせなかったが、心は晴れなかった。
とはいえ、良い物を身に着けていると気分も良くなる。梓馬はまじまじと胸に大きくプリントされた有名ブランドロゴを眺め、ワイドパンツから垂れるアジャスターにもブランドロゴがあることを確認した。どちらも高校生や大学生に人気のアウトドアブランドで、これさえ着ていれば問題ないと言われている。色合わせもダークトーンでまとめているので、文句のつけようもない。
これが他の季節となると身に着けるアイテム数が増えるせいで、色合わせと素材合わせにまとまりを持たせるのが難しくなる。だから夏はコーディネイトに悩まない。
目的の駅につくと、一番端の階段を下りて改札をくぐった。右に行けば比較的若者向けの商業ビルがあり、左に行けば百貨店が並ぶエリアがある。高校生の梓馬は無表情を取り繕って、左へと向かった。
駅を出て横断歩道を渡れば、すぐに三大セレクトショップの看板が目に入る。正面に見えるのは南館で、本館に比べると扱うアイテムの価格が控えめだ。梓馬は横目でちらりと本館の方を見た。水商売の界隈で人気なフランスのブランドが目に入った。途端に湧いてくる反発心、ああいった物を持っている奴はただの馬鹿だと心中で吐き捨てる。周りに聞こえそうなほどの心の声は、それだけ憧れていることの裏返しだ。しかし当の本人はそんなことには気付いていなかった。
信号は赤い。同じように立ち止まる人々の服装を見た。本館に向かいそうな人間は大抵、コーディネイトが黒でまとめられている。アイテムが高額ならば使いまわせる黒が人気になるのは必然で、梓馬はその点でも他人を馬鹿にしていた。自分は黒いアイテムは使わないんだと、頑なになっていた。
「よろしくお願いしまぁす」
ビラ紙が野太い声とともに視界に刺し込まれてきた。人間品評に躍起になっていた梓馬は少しのけ反る。差し出されたビラには、ぐにゃりと笑った高齢の男のバストアップと、与党公認ばんどう元治という文字が書かれていた。苗字がひらがなになっているのは、親しみやすさを演出し、覚えやすくするためだ。
梓馬は無視を決め込んでいたが、チラシは相変わらず自分の進路を塞いでいる。苛立って顔を向けた。少し威圧を込めた目で。
ネイビーのスーツを窮屈に着こなした若い男が、にかりと微笑んでいた。ジャケットの胸にはチーフではなく、鳩(はと)池(いけ)と書かれた名札。シャツは第二ボタンまでが外されており、スラックスの裾からは足首が出ている。スキンフェードの短髪と浅黒い肌が、白い歯を不気味に強調していた。腰を折り曲げてはいるものの、男の堂々とした態度を、梓馬は不快に感じた。
「結構です」
自分の声が思ったよりも小さく、一瞬で気圧されていたことを自覚した。自己嫌悪に飲み込まれる前に、空想で攻撃をしかける。きっとあいつは女の体を使って遊ぶ軽薄な男だ、自分もやろうと思えばできるがやらない、頭もきっと自分のほうがいい、自分ならスーツをあんなふうに着こなしはしない。梓馬は戦っている相手が自分だということに気付いていなかった。
それも日常、横断歩道を渡ると正面に南館の入口が見えてくる。自動ドアを抜けて長くとられたスロープを歩けば、意識は今日の目的である秋服に移っていた。季節はまだ夏だったが、秋になってからでは売れ筋は消えている。梓馬は心の中で、自分のように感度の高い人間は夏に動き出すと呟いて口端を曲げた。
広い玄関ホールを過ぎると立ちどころに並ぶレディースブランド、脇のポップストアはコスメと香水が並べていた。それらを横目にエスカレーターに乗ろうとすると、別方向からきた女性とタイミングが同じで、梓馬が先に足を止めた。
「あっ、すいません」
「いえ、お気になさらず」
その女性は肌が甘白く、長い黒髪が輝いているせいで、ずいぶんまぶしく見えた。見とれてしまった自分を隠しつつ、身を引いて順番を譲る。凝視したことに気付かれただろうかと冷や汗をかいた。
「ありがとうございます」
その女性は譲る気配を見せることないまま、スイッチが入ったかのような会釈をすると、当然とばかりにエスカレーターに足をかけた。振り返る気配がないことで、梓馬は自分が男として安く見積もられたと感じつつ、四段は空けて後に続いた。
前に立つ女性の後ろ姿を視線でなぞっていく。赤いカーディガンは薄手だが体の線があまり目立っておらず、たゆたうドレープの波間に光沢がある。肩部分には縫製の跡がなく、詰まっているリブが華奢な体を一層と細く見せていた。
次に梓馬の視線は尻をなぞり始める。インナーのワンピースは光沢のあるアイボリーで、特徴的なモノグラムが、ヒップラインで歪んでいた。それほど煽情的な尻というわけでもないが、どこかアカデミックな小ぶりさは、乱暴に扱いたくなる。だが白い腕を隠すようにつけられたブレスレットやバングルと、足元の鋭利なハイヒールが、扱いづらい女性性を感じさせていた。そう思わせられるのは、高級品を肩ひじ張らずに身に着けていることと、段差による位置関係もある。
どんな男にならセックスをさせるんだろう――
改めて後ろ姿を凝視する。尻は、もう少し大きいほうがいい。胸はおそらく小さいだろうが、甘白い肌から乳頭はピンクだろうという仮説を立てる。髪は相当な手入れがされているのか、後頭部の形がわかるほど柔らかく、口に含めばトウモロコシの味がしそうだった。
目的のフロアに到着すると名残惜しさもあったが、自分に関心がない女を高級品のように感じているのも嫌で、意識を切り替えて目的のセレクトショップの方へ向かうことにした。数歩も歩けば、意識から先ほどの女性は消えて、股間のかすかな熱も引いていく。そして導線を塞いでいる大学生カップルを見つけたころには、苛立ちだけが心を支配していた。
そのまま避けるつもりだった梓馬だが、そのカップルが二人ともファストファッションブランドのジーンズを履いていることに気付くと、わざと強めの咳払いをする。たっぷりと邪魔だという感情を垂れ流して道を譲らせた。本人は優越感を得ているが、劣等感が燃料になっていることに気付ていない。
目的のセレクトショップはカジュアル寄りの傾向を持つが、向かって右側にはフォーマルアイテムも揃えられている。梓馬は左側から入ってカジュアルラインの平台を眺めたあと、中央部の渡りから右側のエリアに入った。
足音を響かせる床、ウッドラックに並ぶニット、吊るされたセットアップ、引き出しに丸く収まったネクタイ群。高校生の梓馬には食指の向かないものばかりだったが、入口の一角には高額なダウンで有名なフランスのブランドがあった。
部位ごとに一グラム単位で計算されて作られることから、高品質であり、なおかつ大量生産ができない。そうなると当然、価格は大卒初任給を超えてくる。タウンユースには過剰なフィルパワーだが、腕部のワッペンは街で目立つ。そんなものを高校生の自分が、なんでもない顔で着ることに憧れていた。
梓馬はハンガーにかかっているダウンベストを三歩分の距離を空けて横目で見た。値段は知っている、約十三万円。もし人に訊かれたら十五万くらいだと答えようと決めていた。並ぶ隙間から最もワッペンのサイズが大きいものを探す。正直なところサイズはどうでもいい。タイトだろうとオーバーサイズだろうと、パンツでシルエットを調整してしまえばどうとでもなる。カラーは使いまわしを考えて黒、先ほどの自分の考えは忘れていた。
梓馬はこれだというものを決めると、店員に目を合わせた。
「袖とおしていいですか」
梓馬がそう言うとスタッフは満面の笑みで近づいてきた。胸についた名札に中村(なかむら)と書いてある。
中村は「はい、鏡はこちらです」と言うと、手でスタンドミラーの方へと促す。梓馬からベストを受け取ると、ファスナーを開いて中に風を入れた。
梓馬はベストを着せてもらいながら、中村を観察していた。髪は前下がりのミディアムで、オイルでタイトにまとめられている。髭とメガネのアパレル店員セットも完璧だ。コーディネイトは、モスグリーンのセットアップをクルーネックとスニーカーで着崩しており、足元まで見たところで嫌だなと思った。
「こちらはAWの新作で、去年からあるモデルと――」
中村はアイテムのスペックを語り始める。土地柄もあってスペックから入ったのだろうが、高校生はコーディネイトを重視している場合が多い。
「これって着回しききますか」
梓馬は高校生らしく、コーディネイトの質問をした。
「そうですね、ブラックはやはり定番カラーなのでどんなコーデにも合いますよ。今日のコーデの上からそのままでも、すごくお似合いになると思いますよ」
「なるほど」
梓馬は曖昧な返事をしながら、スタンドミラーに様々な角度の自分を映していた。前が開くアウター類は、正面からでは問題なくとも、横から見ると裾が広がって不格好だったりする。しかしさすがに値段もあって、シルエットに問題はなかった。
「オーバーサイズで着たいんですけど、これの5番ってありますか?」
梓馬がいま着ているベストのサイズは2で、おおよそMサイズということになる。日本ではMサイズが最も売れるサイズで、いま在庫を訊いた5はXL相当で在庫が少数、またはない可能性が他のものより高い。
「ああ、ちょっと在庫のほう確認してまいりますね」
中村はそう言うとバックヤードへと向かった。
梓馬はそれを見送ってから、ベストを脱がずにその場を後にした。そしてなに食わぬ顔でエレベーターへと向かう。全力で走りたかったが、それはあまりに目立ちすぎる。
この瞬間はいつも、跳ねる心臓と足の回転のリズムが合わない。蹴った床からの反作用で体が浮いてしまいそうな不安がある。
緊張が自覚を上回っており、あらゆるコントロールがおろそかになっている。そのせいか、エスカレーターで下のフロアに降りるときに躓いてしまった。態勢が大きく崩れ、持ち直そうとしたところで、右肩をつかまれた。それがどういう意味か瞬時にわかると、心臓が腹に落ちたような衝撃を味わう。梓馬は窃盗の興奮と躓いたときの過集中で、中村の走る音が聞こえていなかった。
「ふざけてんじゃねえぞ」
中村は語気荒く、そのまま梓馬のカットソーを強く引っ張って転倒させ覆いかぶさった。梓馬はなんとか逃れようと体をねじるが、逃がすまいとする中村も同じように体をねじる。二つの雑巾が戦っているようだった。
この騒ぎに周囲は何事かと遠巻きに視線を向けてきていた。近づいてくる人影もいくつかあり、そのなかにいた小柄な女性スタッフが的確な質問をする。
「万引きですか」
「そう、どうすりゃいいんだろ」
「警備員さん呼びますか?」
「そうして」
女性スタッフは頷くと小走りでいなくなり、すぐに戦闘力の低そうな警備員を連れてきた。濃紺の制服は軍服のようないかつさがあったが、帽子からは白髪がはみ出ており、体格もやせ型だった。
梓馬は二対一という構図に心を折られ、中村と警備員に立たされる。連行された先はスタッフオンリーというプレートがかかった部屋で、室内には長椅子とロッカーがところ狭しと並んでいた。休憩中だった他のスタッフたちが、菓子パンを片手に口をあんぐりと開けて梓馬を見ている。
「座れ」
中村は周囲の視線を無視したまま梓馬を突き飛ばした。
梓馬は顔を青くしながら、座る以外の選択肢を取れなかった。
「ごめん、こいつ万引き犯なんだ。いまからここ使うからちょっと席外してくれる? ごめんね」
中村の言葉に、休憩を取っていたスタッフたちはやや色めき立ち、梓馬を興味深げに見ながら次々と出ていった。室外に出た途端、こぞって万引きの話を大声で始めるだろう。
「自分ちょっと店長呼んでくるんで、こいつ見てもらってていいすか」
「はい、はい」
年老いた警備員、胸に古田(ふるた)という名札をつけた初老の男は、中村を見送ると梓馬のほうへと顔を向ける。
「なんで万引きなんかしたのぉ」
老人らしいゆっくりとした口調で、古田はそう問うた。やせ型の体形に似合った優しそうな声と、哀れみを示す八の字になった眉毛。良い人間だということが痛いほど伝わってくる。
梓馬は質問には答えず、古田の体格をじっと眺めていた。簡単な話で、さっきまでは二対一だったが、いまなら自分より弱そうな初老の男と一対一だということだ。
梓馬は想像する。目の前の老人を殴り倒し、顔を踏んづけてから逃走するという手段を。逃げるならばいまが最大の機会で、これを逃せば状況はますます悪くなる。問題は罪悪感だけだった。
「警備員という仕事を自分で選んだんだから、覚悟はできてるんだよな」
梓馬はそう独り言ちると、椅子からゆっくりと立ち上がった。
古田は「ん?」と首をかしげると、膝を曲げて威圧感を消す。子供を安心させる姿勢、その疑うことを知らない様子は、膝蹴りの射程に自分から入ってしまったことなど考えもしない。
それが梓馬の気勢を削いでしまう。膝で蹴れば古田の鼻がひしゃげる様子が、容易に想像できてしまう。
膝を上げるだけだ、実行したほうがいい――
目の前の古田は相変わらず「ん?」と言っている。いまは見下ろされていること、梓馬の方が体格が良いということの意味をまるでわかっていない。
梓馬は深く息を吸う。次に吐きだしたとき、古田の顔面に膝を入れるつもりだった。だが突然ドアをノックする音が聞こえ、張り詰めていたせいか「うわあっ」と叫んでしまった。その声に古田も「うわっ」と驚いて、カエルのようにひっくり返り、寸前だった梓馬の膝が空を切った。
ノックの主はドアを開けた。
「失礼します」
赤いカーディガンに、モノグラム柄ワンピースの女性が頭を深々と入ってきた。先ほどエスカレーターでぶつかりそうになった女性だ。
ここで働いていたのか、と梓馬は顔をしかめる。二対一という状況に戻ってしまった。
「休憩かい? 悪いんだけどこの部屋いまから使うんだよ。この男の子が万引きしちゃってね」
古田が体を起こしながら、状況説明を兼ねて女性に言った。
「やはり万引きですか……」
「最近の若い子はねぇ」
「近年、少年犯罪は減少傾向にありますよ」
女性はそう言うと、何事か考え込むように腕を組んだ。
今度はノックなくドアが開く。キャップをかぶったラフな男は店長の伊藤(いとう)で、隣に中村もいる。これで状況は四対一、小さな躊躇の連続が時間の浪費に繋がった。最善よりも最速が功を奏すシーンは多い。
「ふざけんなよお前さあ」
伊藤は開口一番そう言い、机を拳の底で強く叩いた。
「うわっ、お前なんでまだベスト着てんだよ」
中村も手を振り上げていたが、そこに梓馬がベストを脱いで差し出すとそのまま受け取った。
「すいません……」
梓馬は頭を下げたが、伊藤はそれを無視。即座に自分の要求だけを口にする。
「家の電話番号は? それと学校も」
「親だけは勘弁してください、学校もすいません。なんでもするんで、本当にすいません」
「ふざけんな、言わねえと帰さねえぞ。スマホだせよ」
伊藤は手近にあった椅子を強く蹴っ飛ばした。狙ったわけではないが、許さないという硬い意志が上手く表現されていた。
梓馬はスマートフォンを渡し、パスコードを訊かれた際にも自分の誕生日と西暦の組み合わせを正直に答えた。
伊藤は電話帳を開きながら、口も開く。
「学校どこよ」
「明条(めいじょう)です……」
「本当かよ……」
不信感を隠さず伊藤は梓馬のスマートフォンを操作し続け、目的の番号を見つけた。
「この自宅ってのがお前ん家?」
そうだと答えれば即座に発信されると感じた梓馬は、跳ねるように土下座した。
「勘弁してください、本当にすいませんでした」
「いや、そういうのいいから、意味ないから」
伊藤が面倒くさそうに言い放ち、梓馬の自宅に電話を発信しようとした。
そのとき、赤いカーディガンの女性が咳払いでそれを止めた。
室内の視線すべてが白い肌に集まっていく。女性は見られることに慣れているのか、物おじない態度で腰に手を当てている。
「お支払いをすれば済むでしょうか」
難しい文法のない言葉だったが、誰もが理解しかねていた。伊藤が単純な疑問を口に出す。
「誰?」
「私は加賀美朱里です。通りすがりの者です」
「ええ、関係者じゃないの」
古田がすっとんきょうな声をあげる。ここに部外者を入れないことも仕事の一つだったからだ。
「そうなんです、ごめんなさい」
朱里はそう言うと、手にかけていた籐のバッグから財布を取り出して、滑らせるようにクレジットカードを出した。
伊藤は黙ったまま、朱里とカードを交互に見つめる。中村がそうだったように、こういった状況に慣れてもいなければ、万引きに対する哲学というものもない。本社勤務やバイヤーになるという夢を諦めきれない、ただの販売員だ。
室内の誰もが言葉を失っていた。こういった特殊な申し出があったとき、どう振る舞えばいいのか習うことがなかったからだ。
朱里はさらにクレジットカードを押し付ける。ここで伊藤はカードのグレードに意識が向いた。そして袖から覗く過剰な量のブレスレットやリングもまた、ワンピースと同じ高額なアイテムだということにも。
朱里は最後の一押しとして、手元をごそごそと動かしていた。バッグからなにかを取り出したが、梓馬からは死角で見えなかった。
朱里は取り出したものを伊藤に見せながら、
「私は面倒くさいですよ」
と少し笑う。
伊藤は取り出されたものとカードを交互に見たあと、大きくため息を吐いた。
「このカードは本当に使える?」
「試せばわかることです」
「じゃあ処理してくるから」
「ありがとうございます」
腰が折れそうなほど頭を下げた朱里に対して、梓馬はただ椅子に座っているだけだった。
伊藤と中村は出ていき、室内には梓馬、朱里、古田という三人のみ。梓馬は意味がわからず、しかし朱里に問いかけることもできなかった。もちろんどんな事情で助けてくれたのか、気にならないわけではない。ただ、そのことを古田のいる前で訊きたくなかった。
しばらくすると、中村がMサイズのショップバッグを携えて現れた。一瞬、どちらに渡せばいいのか迷ったようだが朱里に渡す。
「あ、ここにサインお願いします」
どういったテンションで言えばいいかわからない。そんな中村の声は、やや丁寧だったが、一通りの工程が終わると最後には、「またお越しくださいませ」と言ってしまっていた。
「じゃ、行きましょうか」
朱里は明確に、梓馬を見て言った。
「はい……」
梓馬はそう言うと、突き出されたショップバッグを無様に受け取った。
朱里はとことこと進み、エスカレーターに乗った。梓馬もそれに付き従うがしばらく歩いたところで、もしかして先ほどの「行きましょうか」は、この部屋から出ようというだけの意味だったのではと思い始めた。
梓馬は下りのエスカレーターに乗り込みながら、朱里の後ろ姿に声をかけた。
「あの、ありがとうございます」
とりあえずのお礼だが、遅すぎるくらいだ。
朱里は振り返り、覗き込んでくる。
「お茶をしましょう」
悪意など知らないような顔だった。
綺麗な口臭を顔に浴びながら、恐ろしいと梓馬は思う。万引き犯であり、ともすれば老人の顔面を全力で殴ろうとしていた人間を前にして、ここまで屈託なく笑えるのは異常というほかない。まだ自分は危機から脱出できていないのかもしれない、そう心を引き締めた。
朱里はデパートから出ると、駅とは反対側を目指して歩いた。ついていくままの梓馬は、半歩遅れで隣を歩く。すれ違う男のほとんどが朱里の顔を見て、胸を見て、足を見る。梓馬はそれが実に気分が良かった。こんな高級品の女性と、俺はセックスをしているのさと叫びたくなった。していないが。
しばらく歩いて喫煙スペースを横切ったとき、そこから出てきた男とかっちり目が合った。先ほどのビラを配っていた男だ。ネイビーの窮屈そうなスーツからは、自信がはみ出している。鳩池と書いてある名札がきらりと光った。
梓馬は先ほどのように肩を縮こまらせない。なにせ誰もが性欲剥き出しの目で見る女性と歩いているのだから、と。
驚く顔が見たかった梓馬だったが、男は朱里を見るとにっこり笑った。ナンパの気配だ。それに対して朱里は視線すら合わせず、一方的に手のひらだけを向けて拒否の態度を見せると、つかつかと歩いていった。
梓馬はそれを意外に思った。こんな冷たい対応をするように見えなかったからだ。しかしその過剰ともいえる拒絶の態度は、実に気分が良かった。横目で固まっている男を見ると、実際に口角が上がってしまった。
本館の脇を抜けて商店街を右に折れるとカフェやバー、多国籍料理店などがひしめく一角に入る。昼時のためにどこも混んでおり、車の排気ガスを浴びられるテラス席も埋まっていた。
朱里がようやく足を止めた場所は、ベージュの外壁と木目調の踏み板のサロンだった。木枠の窓は紅色のスモークで、店内の様子を伺うことができない。朱里は躊躇いなくドアに手をかけた。
店内はペンキを雑に塗った白い壁が部屋を割っており、見通しが悪い。これは意図的な半個室の設計で、どこか秘密の集会所のような雰囲気がある。奥にはジレを着た精悍な男性が、サイフォンの前で難しい顔をしている。背後の棚には多様な缶や洋酒が並んでいた。
梓馬はとても居心地悪い思いをしていた。自分の格が店に追いついていないと自覚していたからだ。
慣れた様子で朱里は席に着く。
「どうぞ、なんでもありますよ。私はもう決めてますので」
朱里はそう言うと、にっこりと笑ってテーブルに置かれたメニューに手のひらを向けた。カーディガンの袖が吊り上がり、両手の大量のバングルとブレスレットが強調される。外見に似合っていないアクセサリーの迫力に意識を取られつつ、緊張していないふりをしてメニューすら見ずに言った。
「じゃあ、コーラにします」
その言葉に朱里は小さく眉毛を撥ねさせると、「コーラはあったかしら」と慌ててメニューに目を落とした。
「コーヒーで、アイスコーヒーで」
慌ててメニューを開き、豆の種類しか書いてない中から一番安いのを選ぼうとして、度肝を抜かれた。最も安いブレンドが一一五〇円だったからだ。梓馬はこれまで、千円札一枚より高いコーヒーなど知らなかった。
しばらくすると笑顔を張り付けた若い女性店員が現れ、注文を聞いて去っていった。梓馬は配られたお冷に口をつけ、いまさらながら初めて朱里と正面から対峙していることに気付く。
目が合うと、朱里はにっこりと笑った。なにかが普通とは違う、と梓馬は感じる。
全てのパーツが整った顔立ちには、整形を連想させる不自然さがあった。切れ長の目は横面積が異様に広く、鼻筋が長いせいで狐のような印象を受ける。だが目の前の女性の異質さはその鋭利な美しさではなく、状況と表情の不一致が原因だ。
「あの、いまさらですが、本当に助かりました。ありがとうございました」
「いえいえ」
「それで、そのっ」
梓馬は助けてくれた動機を訊ねようと思っていた。しかしそれよりも、先に口にしなければいけない問題があることに途中で気付いた。足元のカゴに入っているショップバッグを手に取り言う。
「これ、どうすればいいですか」
支払いをしたのは朱里だが、これが欲しかったわけではないのは明白。そして自分は見ず知らずの他人に物を買ってもらう道理もない。盗む道理もないが。
「ああ、どうしましょう」
「とても言いにくいんですが、俺はこれを買う金なんて持ってません」
「ということは……、スリルを求めているタイプではないんですね」
「えっ、はい」
梓馬は言葉を詰まらせた。朱里の返答がずれていたことと、言動と常識の不一致に面食らったからだ。
朱里は眉間に皺を寄せながら、なおも質問を続ける。
「ほしいけどお金がないから盗んだ……ということですか?」
「多分、そういう感じです」
「なるほど、やはり貧困が犯罪を生むんですね」
「え……」
梓馬は素直に肯定することができなかった。金がないから盗んだというのは事実だが、どうにも腑に落ちない。なにかがずれている気がした。
そうしている間に、女性店員がワゴンを押して空のカップとソーサー、そしてアイスコーヒーとミルクとシロップをテーブルに置いた。
手慣れた様子で注がれる紅茶。立っている湯気の向こうで、朱里は嬉しそうな顔をしていた。
「それは差し上げますよ。私の趣味ではありませんから」
「じゃあ買わせてください。すぐには無理ですけど、絶対お金払いますんで」
朱里はカップから口を離すと、眉毛を片方だけ上げる。
「私にお金を払うために、また悪いことをするんですか?」
「いや、バイトでもなんでもして」
「いまアルバイトはしていますか?」
「してませんが」
「なるほど、それも更生になるのかしら」
朱里は途中から目線を斜め上に外し、なにかを考え始めた。腕を組み、解いてから紅茶をすするローテーション。やがて暖かい飲み物で体温が上がったのか、赤いカーディガンを脱ぎ始めた。
梓馬は最初、露わになった肌に目が行ったが、すぐにカーディガンのタグを見たくなった。あっという間に畳まれてしまったのでちらりとしか見えなかったが、馬車らしきプリントが一瞬だけ見える。
なるほどな――
梓馬は卑屈に口を曲げる。カードをすんなり出したのも、この店で落ち着いているのも、全部そういうことなんだろうと。
「お姉さんはなにをしてる人ですか」
「私は学生ですよ」
「そうだったんですか。てっきり若手の実業家かなにかと」
口調が変わった梓馬を前にして、朱里は眉一つ動かさなかった。
「実年齢より上に見られることは多いですね」
「学生だったらさっき助けてくれたのは、学業のためですか。それとも道楽ですかね」
前者の可能性など微塵もないことをわかりながら、梓馬はあえて訊ねた。
「どちらでもありません。更生という単語から推測したんですか? まあ、ゆくゆくは人を支援する仕事に就きたいと思っています」
「へえ、社会的弱者を助ける仕事ですか」
「なにか……、含みがあるように聞こえますね」
正確には、朱里は梓馬の言葉よりも仕草から棘を感じ取っている。
梓馬は先ほどまでとは違い、へらへらとした態度だったからだ。
「すごいなあ。今日の全身の総額いくらですか、百万円こえてるんじゃないですか」
「おっしゃりたいことがあるなら、はっきりとどうぞ」
とうとう朱里も笑顔を剥がし、暗い目を覗かせる。顎を引いて膝の上で手を組む動作には、どこか歴戦を思わせる雰囲気があった。
「さっき貧困が原因ではとか言ってましたよね。そうですよ、俺はハイブランドなんて買えない庶民です。それを……、こっちはただ服着て歩いてるだけなのに、あんたたちみたいな上級国民が勝手に見下してくるから、だから高い服が欲しいんですよ」
「ではあなたのその胸のブランドロゴは、誰かに対抗するために選んだのですか。違うでしょう?」
梓馬はすぐに言葉を刺し込みたかったが、続く言葉に耳を傾けることにした。
「私はそのブランドをよく知りませんが、デザインだけでなく、歴史や思想に、共感や好感を持ったから着るんでしょう。違いますか?」
「その言い分は嘘ですね、ハイブランド着てる奴がよく言うやつですよ。それでね、お姉さんは次にこう言うんです。私はロゴやマークが入っている服を着ていません。だからブランドを自慢していないんですってね」
朱里は微動だにしていなかった。
梓馬はその様子に手ごたえを感じ、さらに攻撃を続ける。
「余裕がある奴らは、それどこのブランドって訊かれるのを待つことができるんですよ。いつまでたっても訊かれなかったら、自分からカーディガンを脱いでタグを相手に見せればいい。それで言われたいんですよ、外から見てもわからないものに高い金を払うなんてすごいねって」
先に逃げ場を潰したことで、梓馬はアッパー系の幸福を感じていた。自分の立場を忘れている。それも仕方ない。これまで憎しと思ってきた見えない敵の中でも、かなり上位にいるだろう相手に攻撃したからだ。
朱里は先ほどまでの挑むような姿勢を崩し、申し訳なさそうな顔をしていた。きょろきょろと視線を左右に振っては、発声することを躊躇っている。しかし紅茶を一口含んで舌を湿らすと、上目遣いに訊ねた。
「あの、もしかしてそれは自己紹介ですか?」
「えっ……」
梓馬本人は、自分が被害者という意識しかなかった。上級国民たちに見下されているとだけ思っていた。だがその一方で、ファストファッションのアイテムを着ている人間を見つければ見下している。自分も同じように、人を値踏みしているという自覚がまるでなかった。
「私が以前読んだ本では、人は自分の欠点を相手に見つけたとき、とても攻撃的になると読みました。あなたはこれに当てはまりますか?」
「俺は……」
「あなたは人を外見で判断していませんか?」
図星だった梓馬は言い返すことができなかった。とはいえ打つ手がないわけではない。いくらでも攻める箇所はある。見栄と文明はそれだけ発展してきていた。
それでも踏み出せないのは、朱里の余裕ある態度が原因だ。きっとブランド所持に関する強固な言い訳、それを持っているに違いないと。ならば相手の土俵で戦うのは危険。梓馬は逆張りで、規定ルートを迂回することにした。
「人は……外見で判断できる」
相手の常識に対する真っ向からの否定で、感情的な対立意見を引き出すのが狙いだ。だが朱里はそうはならず、「ほう」と笑った。
「聞きましょう」
挑戦的な口調、相手の話を聞くという王道のスタイル。その自信たっぷりの様子に、梓馬は自分が誘導されている可能性を感じた。しかし持論を展開するしかない。
「例えば制服はその人間の身分を表してますよね。学生、警察、軍人、医療関係、スポーツ選手、小売りの店員、どれも一目でわかる。外見が自分を紹介しているんです」
「なるほど。ではその人たちは、プライベートでも制服を着ているんでしょうか」
朱里はとぼけた顔で言ったが、これは半ば相槌のようなものだ。
「例え制服がなかったとしても、新宿にいそうな夜職の人たちや、ミュージシャンやダンサーなんかは一目でわかりますよね。人間は自分が人にどう見られたいかで、服を選んでいるからです」
「そうでしょうか?」
朱里は言いながら、具体的な言葉を要求した。
もちろん梓馬は、これに答えることができる。
「不良は他人に怖がられたいから、眉毛を細くして威圧的な髪型にするし、流行遅れだと思われたくない奴はマッシュやセンターパートにするじゃないですか。逆にこだわりがある奴はだいたいロン毛かパーマで、個性的だと他人に思われたい奴は奇抜なカラーに染めるんですよ」
どうだ、と梓馬は手のひらを相手に向けた。自分はいま、外見で人を判断できると証明したぞと。
これに対する返答としてありがちなのは、例外を用いた反論だ。極端な例だが、元反社会組織の神父や、女装男子などが考えられる。しかし朱里は、反論を選ばなかった。
「面白いです。続きを聞きましょう」
自分の言葉で、性的魅力のある女性が喜んでいる。この事実に迂闊にも、梓馬は興奮してしまった。男は女に物事を教えることが好きだ。
「多くの中からそれを選んだということには、絶対に理由があると思っていいです。あとはアイテムの方向性を考えれば、俺くらいになればどんな奴かはだいたいわかりますね」
梓馬は意気揚々と話した。不穏な空気に気付けていない。
「えっ、どんな人でもわかるんですか?」
朱里の声がより弾んでいる。どんな男も興奮せざるを得ない。
「ネットで見たんですが、外見というのはつまり中身の一番外側だそうです。だから本当は人間に内と外なんてないんですよ」
「なるほど、言われてみれば確かにそうですね。とても面白いです」
朱里は大げさに何度も頷いた。やりすぎなくらいだ。ここに明確なカウンターの気配がある。
「いやまあ、そんなに難しいことじゃないですよ」
梓馬はさらに調子に乗った。
ここで、朱里の眉が片方だけ動く。
梓馬は咄嗟に、自分が罠にかかっていたことに気付いた。状況から相手の言葉を想像する。もし、私はどういう人間ですかと訊ねられたら、負けが確定してしまう。朱里はただ一言、当たっていませんと言うだけでいいからだ。
そして朱里のカウンターは、予想とは違う方面から飛んできた。
「では私に教えてください。胸に大きなブランドロゴをつけていて、パンツからもブランドを識別することが可能で、お金もないのにブランドロゴがついたベストを盗む人はどんな人ですか?」
「それは……」
頭を殴られたような衝撃。自分の説明をしろとは、微塵も予想できていなかった。
「教えていただけますか」
朱里はにっこりと笑うと、さらに念を押してきた。本人は、非行少年の心の扉をノックしているつもりだ。それは先ほどの「更生」という単語からもわかる。だが実際は蹴破っているに等しい。
梓馬の思考は、整合性を維持することにリソース割いていた。カウンターの威力は凄まじく、なにも思いつかないということしか思いつかない。
アイスコーヒーを口に運ぶことで、時間を稼ぐ。目の前にあるのは笑顔だが、ずいぶん高い壁のように思えた。
「その人は……。いや、俺は他人にすごいって思われたいんでしょうね」
「それはどうして?」
朱里はここで口調を、優しいお姉さんのようにする。梓馬が急所を吐露したことで、心を開いてくれたと勘違いしたからだ。
実際は違う。逃げ道がなくなった人間は、前に出るしかなくなる。間違いを自身に説明させるのは、カルトのやり口だ。
梓馬は論理ではなく、感情で殴りかかることにした。
「お姉さんにはわからないでしょうね。家、金持ちでしょう? ほしいもの買ってもらえなかったことないんじゃないですか」
「おねだりを断られたことはないですね」
朱里は否定することを避けた。思いつきで不動産を欲しがれば断られるが、対立の構図を作りたくなかったからだ。
梓馬は手応えを感じられず、切り口を変えることにした。
「じゃあ、駅とかでみすぼらしい服の人とか見てどう思いますか」
いま思いついたような口調を使う。相手の反応を見るよりも、自分の意図が読まれないことを優先した。
「なんとも思いません」
朱里は平然と言った。これは本音でもあったが計算でもある。あえて、かわいそうという表現を避けた。
それは梓馬の狙いに、予想がたったからだ。これまでの小規模な個人間の対立から、富裕層と貧困層という構造的対立へのシフトだろうと。こういうときは動かずに、相手の出方を待つ。それが朱里の定石だった。
状況を読み切れないとき、誰もが得意な方法に頼ってしまう。星の位置を見る者、風の流れを読む者、方位を探る者がそうであるように。
保留は懸命なようで、実に無防備だ。状況を停止させているようで、相手の思考は動き続けている。
梓馬は口のなかで「なんとも思っていないか……」と小さく言ってから、積年の言葉を吐き出した。
「そっちからしたら、俺なんか虫や石と同じってことですね。気にも留めない」
「そういうことではないでしょう」
「じゃあエスカレーターですれ違ったこと、覚えてますか? 覚えてないですよね。それって見下してるのとなにが違うんですか?」
今度は朱里が説明する立場になった。余裕を持って梓馬を好きにしゃべらせた代償が、ここで重くのしかかってくる。だが反論のルートは無数にあった。
「無関心と侮蔑は別物です。なにも思わないものは、風や土など、普段の生活の中に無数にあります。ですがふと意識したとき、それらは心地よいものとして認識されます。人もそうですよ。私たちが今日どこかですれ違っていたとして、そのときはお互いに無関心だったでしょう。でもいまはそうじゃないですよね?」
朱里は微笑んだ。場の均衡を元の位置に戻すためだ。しかしこれは狙い通りにならなかった。男心が式に組み込まれていなかったからだ。
梓馬は傷ついていた。エスカレーターの件を、朱里が本当に覚えていなかったからだ。それは自分という男性に、魅力がないことの証明だった。
「俺はあなたを見たとき、綺麗だなって思いましたよ。こんな女と付き合える男は、いったいどんな奴なんだろうって。俺なんか相手にもされないだろうなって。やっぱりそうだったんですね」
打ち負かすためとはいえ好意を伝えては、さすがに梓馬も顔が赤くなる。だったら最初から言わなければいい。おかげで、朱里にカウンターの機会を与えることになった。
「おや、男女の違いをご存じでない?」
朱里は、おどけた口調だった。降ってわいたチャンスにご機嫌になってしまう。
梓馬は怪訝に思いながら、続きを待った。
「いいですか。あなたがた男性は、異性の評価システムが減点方式です。一方、私たち女性は加点方式を採用しています。一緒に過ごすうち、徐々に好きになっていくのです。だから無関心というのは、仕方のないことですね」
男女の違いだと言われてしまえば、そういうものかと納得するしかない。大人の男はこれに反論せず、逆手に取るものと考える。いつまでも子供のように駄々をこねていては、加点されることはない。
結局、梓馬は敗北者のルートを選んだ。相手の人格否定だ。
「その嬉しそうな顔、鏡で見せたいですね。そしたらわかると思いますよ、無関心がどれだけ無責任かってことが」
この言葉に、朱里がまとう空気が一変した。
「無責任と言いますか……」
梓馬は引くことができず、「違いますか?」と正面から返した。
朱里は暗く、嗤った。
「ほう、ではあなたの窃盗はどう責任を取ると言うんです?」
「それは……」
手加減のない一撃。ここまで朱里は、万引きに関して触れないようにしていた。代金を支払ったことも恩に着せなかった。目的が、青少年の更生だったからだ。
いまはもう違う。
「答えなさい、今回だけではないでしょう。商品の代金だけでは済みませんよ。あなたのせいで万引きGメンが雇われ、いらない経費がかかったかもしれない。販促のためのレイアウトが、防犯を意識した造りになったかもしれない。誰かの評価が下がったかもしれませんし、必要な人が手に入れられなかったかもしれない。さっきからまるで被害者のような口ぶりですが、いい加減に気付きなさい。あなたは加害者です」
ここで梓馬を責めたところで、並べられた責任は果たされない。だからこそ朱里は更生というルートを選択していた。しかしいま、人を叱責することで興奮してしまっている。より相手を傷つける言葉を選んでいく。
「さあ、黙っていても責任は消えてなくなりませんよ。あなたはどうやって、自分の罪を清算するというんですか」
行きつく先に答えがないと思いながらも、朱里はなお催促した。
お互いの立場を強調されては、梓馬もこれに返答するしかなかった。
「俺には支払い能力がありません。自分勝手だとはわかってますが、警察に捕まるのも困ります。少しずつお金をためて返していきます」
朱里は紅茶のカップを指で弾いた。
「馬鹿なことを。一度傷つけられた心と狂わされた人生は、お金では解決できません。どんなブランドロゴも、傷跡を隠すことはできないんです」
「少しずつですが、償いをしていきます」
「子供じみたことを言いますね。例えばあなたが将来、多くの人を助けたとして。それでもあなたのせいで、不当に傷ついた人たちにはなんの慰めにもならないんですよ。さあ、この問題をどう解決するんですか。人の無関心を無責任だと言うならば、その責任の取り方を私に教えてくださいよ。できないのなら、警察に突き出しますから」
朱里の幅広の目から、一筋の涙が流れた。鼻は赤く、口元には力が入っている。この遠慮なく睨む視線は、きっと誰も逸らすことができない。
梓馬は結局のところ、なにもわかっていなかった。犯罪者であることを忘れて、異性とのおしゃべりに興奮していたに過ぎない。しかしいま、目の前で涙を流している朱里を観ていると、これまでにない感情を覚えていた。
責任という言葉に、焦点が当たっていく。
それを果たすならば、セレクトショップの店員に対してが筋だ。しかしどうしてか、ここまで手痛く追い詰められておいて、梓馬が自覚した責任の対象は、目の前の泣いている女だった。
もう自分の勝ち負けなど考えもしない。
「多分ですけど……、責任って鎖みたいになっていて、追及するなら人類の起源にまで遡らないといけないんです。だったら責任を取らないといけないという考えが、間違ってると思います」
「そんなわけないでしょ」
目を細めた朱里は、口を尖らせて否定する。
「では言い方を変えます。仮に、仮にですよ。俺が泥棒だったのは、あなたの無関心のせいだとします。じゃああなたが俺に無関心だったのは、誰の責任ですか?」
「私の責任でしょ」
「違います。あなたの親に責任があります。あなたを、取るに足らないものに興味が持てないように育てました」
朱里は少し驚いた顔をしたあと、腕を組んでから、首を捻った。関節の音が会話のテンポに触れた。
「まあ、確かにあの人たちにはいくらかの責任があると思うけど……」
梓馬は別の地雷を踏んだなと思いながらも、気にせずに話を続けていく。
「じゃあその責任を取れって親に言いますか? その責任は、その両親を育てた祖父母にありますよ。そしてその世代までいくと、いまほど社会に自由意志がありませんでした。だから今度は、時代にも責任があることになりますね。ここから責任はさらに無数に分散されていきます」
どうだ、と梓馬は朱里の目を覗く。呆れの色が浮かんでいるのが見えた。
「なるほど、あなたの言いたいことはわかりました。しかしどんな状況であろうと、物事を最後に選ぶのは自分です。少しでも自分に責任があるというのなら、それをなかったことにできません」
誰が選択権を持っているか、確かにそれは常に自分の手のなかだ。だがもし外部から、その手に力を加える存在がいたとしたら。
梓馬はこのルートで行こうと決めると、足の裏で自分の影を踏みつけた。
「じゃあさらに言い方を変えます。すべての加害者は元被害者です。つまり――」
梓馬はここから日本人の弱みにつけこむ算段だった。しかし朱里の顔を見て、言葉を止めてしまっていた。
綺麗な相貌が大きく崩れている。一見すると、表情に出ているのは驚愕に見える。しかし垂れ下がった眉、あんぐりと空いた口、丸くなった目には、まったく別の言葉が浮かんでいた。
「あなたは、いまなんと……」
「加害者はみんな元被害者って言いましたが……」
「だから……、なんだと言うのですか」
朱里の口調は指摘するようで、しかし懇願するようでもあった。
「責任が果たされるべきものなら、太古から続いてきた連鎖を自分の代で断ち切るということだけで十分なお釣りがくるんじゃないかと……」
「エデンの話ではありません。あなたは私を被害者だと言うのですか?」
そんな話はありえない、朱里の目はそう言っていた。
本当は加害者なんですか――
梓馬はその言葉を胸に収めて答える。
「そうです、あなたは被害者です」
端的に響く返答に、朱里は固まった。目だけが何度も、大振りのまばたきをしている。スペースを潰された目の縁から、涙がこぼれていく。
そして、紅茶に沈んだ。
「お願い、説明して」
朱里はそう言うと、胸の前で手を組んだ。
梓馬はこのルートが正解か疑いながらも、その祈りに応えていく。
「例えば容姿端麗で家が金持ちで、生まれつき頭が良くて、両親の性格も素晴らしく、住んでる地域の治安が良い人は、貧困層の人たちと比べて犯罪者になる確率が高いですか?」
「いいえ……」
貧困と犯罪の関係は、朱里自身が言及しているだけに否定することはできない。
「いま俺が言ったのは全部、子供がコントロールするのが難しいことばかりです。これって被害者だと言えませんか。環境が加害者を作り上げてるんですよ?」
「だからと言って他人を傷つけていいことには――」
「なりません。ですが、悪い環境に生まれてしまった子供に対して、その環境は責任を取りましたか?」
俺はいま何を言ってるんだ――
梓馬は自分で始めた環境の擬人化に戸惑いながら、しかし真面目な顔を崩すことはなかった。
「ちょっとなにを言っているのか……」
「おそらく俺の読みでは、情状酌量というのは、環境が責任を取ったときの言葉です」
強引な展開だったが、朱里はいささか興味を持ったようだった。反論を飲み込むように喉元が動く。
「まあ、聞きましょう」
「国が認めてるんですよ、環境にも責任はあると。でもおかしいじゃないですか。責任が果たされるべきものなら、生まれたときに果たしてもらわないと。なんで犯罪者になるまで待ってるんですか?」
梓馬は語尾を強調することで、朱里に返答を求めた。
これに答えるには、いくらかの準備か、あるいは似たような発想が必要だ。朱里にはそのどちらもがなかった。
「………………」
沈黙もまた、一つの回答だろう。
「俺は全部を環境のせいにしようって言うんじゃないです。でもこの顎、見てくださいよ、俺の顎。人よりでかいんですよ。これのせいで等身が崩れて、襟のある服が似合わないんです」
梓馬は顎をさすりながら言った。
「いやまあ、そこまで気にするほどのことでは……」
朱里の目は泳いでいた。
「そうですかね。個人的な悩みがどれくらい大きいかは、本人にしかわからないはずです」
「それはそうですが……」
「おそらくあなたの家は裕福ですよね。容姿もかなり良いです。でもみんなが持ってる当たり前のもの、持ってなかったんじゃないですか?」
梓馬の言葉は誰にでも当てはまってしまうもので、詐欺師がよく使う手法だ。もちろん朱里も、これをバーナム効果だと知っている。
「いまとなると……、なにを持ってなかったのかもわかりませんけどね」
知ってはいるが、事実であるが故に表情が歪む。言い終わる際にかろうじて笑って見せたが、皮肉の色を消すことができなかった。
梓馬はその色を分析したかった。そうすれば朱里がこうむった環境被害について、いくつかの予想が立てられる。
両親をあの人たちと呼んだことなのか、上流階級特有の悩みなのか、あるいは実に個人的なことなのか。それを特定できれば、救済の言葉をひねり出すことができるかもしれない。
「さっき、些細な責任も無視できないって言いましたよね。だから俺は自分で申告します。俺の万引きは、顎が長いことによる劣等感が引き起こしたものです。これまで十七年間も苦しめられてきました。おそらく死ぬまで、この顎が短くなることはないです。そうですよね?」
「ええ、まあ、人間は加齢で顔が伸びますから、もしかするとさらに伸びるかもしれません」
「だったら、万引きの罪を減刑してもらわないと。俺はこの顎が短ければ、盗みなんてやりませんでしたから。あと家庭環境もくそなんで、減刑してもらいます。それと中学受験、頑張ったのに失敗しました。これは生まれつき頭が悪いせいで、それらの影響で彼女ができたこともないし、なにかで一番をとったこともないです。あと俺を一番の友達だって言う奴、一人もいませんね」
梓馬はいま、朱里に勝つために言葉を展開しているのではない。自分よりも上の階級である朱里を、守らなければならないと思っている。それが自らの急所を抉っている理由だ。
自分の小さな短所すべてに減刑が相当と証明することで、朱里の心にも自分を許すようにと呼び掛けている。
まるで鏡映しのように。
朱里は、咳払いをした。
「私はその、異性の顎の長さは気にしないタイプですね。そういう人、多いと思いますよ。それに良いこともあるはずですよ。Eラインが綺麗に見えるとか、どうでしょうか」
「良いことですか……。前にペガサスに似てるって言われたことがありますね。気高い感じが出てるのかな、俺。あと人参が嫌いだって言ったら、すごく驚かれましたね。好き嫌いがない奴に見えたのかもしれません。それくらいですかね、良いことって」
朱里は消え入りそうな声で「もうやめてください……」と言った。
梓馬はやめなかった。
「英語のテストのとき、みんな静かだったのに、何人かが急に笑い始めたんですよ。そしたら笑う奴が少しずつ増えてきて……、竹取物語の長文だったんですが……。確かロングロングアゴーって……」
「もうっ、わかりました、わかりましたよ。あなたはその立派な顎だけで、万引きに関しては無実だと私が認めます。認めますから、もうやめてください」
朱里は下を向いて顔を隠し、手を前に出して制止を訴えていた。
「泣いてるんですか?」
犠牲精神が伝わったか、顎に同情してくれたか。梓馬は、朱里が自分のために涙を流してくれていると思っていた。肩が小さく震えているのを見つけるまでは。
「え、笑ってるんですか?」
「………………いえっ」
朱里は顔をあげた。澄ました表情が見えたのは一瞬だけで、またすぐに下を向いた。揺れている肩は徐々に止まっていき、短かった呼吸の連続音も正常に戻りつつあった。
梓馬はその様子を見て、自分の顎も役に立つもんだと思った。
ようやく落ち着いた朱里は、落ち着きを完璧にしようとティーカップに手を伸ばした。
「先ほどのあなたの意見、独特だと褒めておきましょう」
「お褒めにあずかり光栄です」
梓馬はわざと恭しく言ってみた。
その態度に朱里は眉を八の字にして答える。
「まったく……、なんでもかんでも環境のせいにして減刑をくり返し、とうとう無罪にまで持ち込みましたね。もう少し男らしい方法はなかったんですか?」
朱里はティーカップを傾けた。その紅茶が口に運ばれる最中、なにか言い訳はないのかと、梓馬に目線をやった。
梓馬は待ってましたとばかりに言う。
「おや、ご存じない? 我々男性は減点方式を採用しているんですよ」
朱里は紅茶を噴出した。
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