【完結】鏡の中の君へ

むれい南極

第1話 断定された行方(市原梓馬編)











 この小説を、年を取れなかった渡見樹里に捧げる。






                    二〇二三年 四月二十五日  牟礼南極







1 断定された行方市原(いちはら)梓馬(あずま)編)


 母親は誰に命令されたのだろう。

 梓馬は同じ市原という苗字を持つ女を見ていた。節分に豆をまくのは一般的な家庭ならば不思議ではない。しかし心に隙間風吹くこの家では、あまりにうすら寒い儀式だった。

「鬼は外……」

 母親が真面目な顔で、キッチンの窓から豆を捨てた。父親も疲れた顔でリビングの窓から庭に豆を捨てる。梓馬も仕方なくそれに続いた。参加しなければ、母親と余計な会話をすることになる。小言どころか、溜息すら聞きたくなかった。

「福は内」

 豆がぱらぱらと、フローリングに乾いた音を立てる。そしてその豆を、母親は真面目な顔で拾い集め、口のなかに入れていく。目線が上を向いているのは、頭のなかで年齢と豆の数を合わせているからだ。白目を剥いているようで不気味だった。

 夕食は当然、イワシのつみれ汁と恵方巻が用意されている。加えて生野菜の切りっぱなしが、大きな皿に盛られていた。栄養バランスを考えているようで、実際は繕われている。

 家族全員で南南東を向く。食べ終わるまで無言、恵方巻は口から一度も離さない。奥歯の裏にたまっていく米粒は、溢れそうな本音とともに喉を詰まらせた。

 つみれ汁で一気に喉奥を流したいが、母親に話しかけられる隙を与えたくない。指摘される前に生野菜を箸で掴み、作業とばかりに口径接種していく。歯と頬の内側を使って緑黄色野菜をすり潰す。溢れてきた汁と水道水が、舌の上で無関心に広がった。ドレッシングは感情があるので使わない。

「あっくん、ちゃんとサラダも食べないとだめよ」

 母親は眉をひそめて言った。

 野菜を頬張っている梓馬は、咀嚼する口を止めてしまった。喉に熱い圧迫を感じるが、我慢して野菜もろとも飲み込む。なにを言っても無駄なことを、この十八年間で学んでいた。

「わかってる」

 かろうじてそう言うと、横目に映る父親が生野菜に箸を向けたのが見えた。

 だろうな――

 夕飯を終えて二階にある自室へ戻った。机には行かず、ベッドに大の字になる。伸びた喉が気道を確保すると、先ほど腹に収めた怒りが逆流してきた。それは口から出ていくと悲しみに戻った。

 もし自分が死ねば、と考える。きっと母親は号泣するだろう。しかしそれは息子が死んだとき、理想の母親は泣くべきだからだ。そして理想の母親は栄養面で注意することを怠らないし、遊ぶ友達も選別してくれる。性に関心を持つのはまだ早くて、しかし小遣いは周りよりも少し多くて、父親とも上手く連携し、井戸端では夫をATMとあだ名して愚痴り合う。

 誰かが書いた日本人という脚本は、おそらく中流家庭にだけ配られた。ほとんどの人間は、その中の一部を偏見として身に着ける。母親はそれが人より多かっただけに過ぎない。

 それゆえに梓馬は、母親に育てられはしたが、義務によるものだと思っていた。子供が自分でなくともよかっただろうし、科学で証明されれば、肌の色が違う子供だったとしても変わらぬ愛情を注ぐだろうと。

 梓馬は意識的に起き上がると机に向かった。立てかけてある写真を見る。そこに映るふたりは恋人で、顔を強張らせた自分と、クラスメイトの加賀美(かがみ)朱里(しゅり)が笑っていた。観覧車に乗ったあと、スタッフに記念撮影を勧められたときのものだ。ふたりとも食い気味に、お願いしますと声をそろえたのを思い出すと、自然と口角が上がっていく。

 そして心のなかに、観覧車での暖かいメロディーが流れた。その温もりは血管を通り、また心へと循環していく。こんな単純なことで胸から幸せが零れた。人間は一度に二つの感情を持つことができない。梓馬の意識が未来方向へと流れていく。おそらく数年内に、自分は同棲するという楽しみの方角。

 ここのところ朱里は不動産屋の前を通るとき、目線をよく変える。窓ガラスに並ぶ物件の詳細を見ているのが明白だった。梓馬はそれに気付かない振りをして、自分もまたどんな部屋がいいかと考えていた。

 空想で朱里と暮らす部屋はいつもボロアパートで、幸せを置くスペースがないほど狭い。でもそれでいい。どんな広い部屋だったとしても、人間ふたりが肩を並べられるスペースがあればいい。

 妄想を泳ぐ、体が熱を帯びていた。机に戻る気力が湧いてくる。受験を上手くやりさえすれば、残りの人生すべてが保証される。ベッドから立ち上がり椅子に座り、開かれた参考書のページから三十分前の自分がなにを考えていたかを思い出していく。すると蘇ってくるのは現実感で、途端に自分がなにも成せない人間に思えてきた。だがこれがいつもどおりだ。折れたままの心で今日まで歩いてきた。

 梓馬は世界史の文化史ノートに手を伸ばしたところで振動音を察知、スマートフォンに通知が着ていることに気付いた。五十嵐(いがらし)沙月(さつき)からの着信が五十八件とメッセージが一件。嫌な予感は働かず、薄い疑問を持っただけだ。

 沙月は朱里の友人でしかなく、普段から連絡を取り合うという関係性でもない。なんだと思ってみても意図は読めず、ともかくと、スマートフォンに恥ずかしいパスコードを打ってロックを外した。


 件名なし

 朱里が車に轢かれた

 総合病院にいる早くきて


 それだけだった。梓馬はしばらく食い入るように文面を見ていた。人間が車に轢かれるとどうなるのか、上手くイメージができない。頭の中に嫌な予感が無数に浮かんでいく。

 そのなかから後遺症という単語をフォーカスしたとき、たまらずに沙月に電話をかけた。しばらくかけ続けたが出る気配はない。なぜ出ないのかという怒りで、スマートフォンの画面を睨みつける。そこで梓馬はようやく電話に意味がないことに気付いた。沙月が電話に出たところで、朱里の容態にどんな変化も起きない。

 着の身着のままで財布だけを持って飛び出す。車庫から自転車を引っ張りだして、駅の方向へと走り出した。沙月の電話と同様、自分が病院に行っても朱里の容態が変わらないことに気付かぬまま、住宅街を駆け抜けていく。

 ペダルを強く踏むごとに前髪と景色が流れる。駅でタクシーに乗る算段だったが、夕方のこの時間にすぐに乗れるのかわからなかった。サラリーマンの帰宅時間を考えれば、駅に人間が多い時間ではある。だが雨が降っているわけではない。大丈夫だろうと思いながらも、梓馬はそこで思考を止めなかった。どんな些細なことも断定しない。

 タクシー乗り場に人が並んでいれば、恋人が事故にあったと大声で叫ぶ。人々が驚いている間にタクシーに乗り込んでしまえばいい。

 わざわざ文句を言いに来る人間もいないはずだ――

 梓馬はそう決めると、いつもは自転車を押して登る坂道に、体全体で立ち向かっていった。中腹まで立ちこぎでなんとか辿り着くと、蕎麦屋とカフェの前に、ハザードを焚いている一台のタクシーが見えた。即座に近づいて自転車を乗り捨てる。開いたドアの隙間から流れ出る加齢臭、乗客が支払いの途中だった。

「恋人が事故にあいました。総合病院まで」

 自分の声を聞いて、どこか芝居のように思えてしまう。

乗客の男は腰を曲げながら、手刀を切りつつ急いで降車してくれた。入れ替わるように梓馬が乗り込むと運転手は、白い手袋をつけた手で帽子を深く被りなおしながら言った。

「急ぎます、シートベルトを」

 アクセルの加速は急で、背中が座席に沈んでいく。そのせいで梓馬はシートベルトを上手くつけることができなかった。陸の嵐の中、ただ己の腕力で掴む命綱。かちりという音が聞こえると、梓馬の手は自然と胸の前で組まれていた。いくつか浮かぶ最悪の事態、せめてそれらよりも良い状態でありますようにと。

 タクシーは飛ばしていた。車窓の外では、他の車が後方へと流れていく。すれ違う対向車の質量は鉄の車体を振動させ、こんな物体がこの速度で朱里の細い体にぶち当たったと思うと、人間の体がどうなってしまうのか想像がつかなかった。

 タクシーの急速な進路変更のたびに、何度も体が外側に倒れる。同じように心も振り回され、内臓だけが渋滞する。そうして病院が丘の上に見えたとき、沙月から着信があった。

『ねえ……』

 泣いているのがわかる声だった。これまでの沙月の印象からは想像もできない声の色が、最悪の事態の輪郭を色濃くしていく。 

『もうすぐ着く。朱里は大丈夫なのか』

 そう問うて、返事を待つが聞こえない。緊張が耳に集まっていく。あまりの答えのなさに、梓馬は自分の耳がおかしいのかとも思った。

『なにか言ってくれ』

 梓馬は恐怖心から責めるような声になっていた。そのとき、これまで考えもしなかった事態が脳裏に浮かんだ。それは暗い穴だ、とても深い。

『頼むからなにか言ってくれよ』

 梓馬の怒りは混乱に変化し、誰もいない座席に拳を落とす。そしてようやく聞こえてきたのは、荒れた泣き声と収まりそうもない嗚咽だった。それもまた梓馬を苛立たせた。

『おい、どっちなんだよ』

 いつの間にか、身体機能の欠損、あるいは死亡のどちらかが朱里に起こったということが確信に変わっていた。すると不思議なことに、ほんの数分前は後遺症ですら最悪の事態だったというのに、いまでは朱里の身体の欠損を望んでいる。

 なくなるものは視力でも味覚でも、歩行でも言語でも構わない。例え子供が作れなくなったとしてもまったく問題ない。

『ただ命だけ、それだけ残してくれれば……』

 願いが口から漏れると、通話が切られた音がした。

 運転手は声が聞こえたのか、タクシーはさらにスピードを上げる。景色が流れ、残像がヘッドライトを伸ばしていく。梓馬はなぜか、バックミラーに移る自分の顔から目が離せなかった。初めて見る他人のような自分の顔。尖った顎がいつもより鋭利に見えていた。

 総合病院の来客用の駐車場に入るもタクシーはそこで止まらずに、わざわざ病院の入口に着けた。入口に座り込んでいる人影は特徴的な白に近い金髪で、五十嵐沙月だということがすぐにわかる。

 梓馬は一万円札を渡してタクシーから飛び出すと、こちらに顔を上げない沙月に声をかけた。

「どうなってるか教えてくれ」

 沙月は電話よりも落ち着いているのか、たどたどしく話し始めた。

「いま……親族だけって」

 どうとでも取れる内容だった。

 もどかしくなった梓馬は沙月に顔を近づけ、言い含めるように訊ねる。

「おい、朱里は大丈夫なのか?」

「……し、し、し」

 沙月はそう言いかけると、また嗚咽に支配されて喋れなくなってしまう。朱里と言おうとしているのか、状態を言おうとしているのか。梓馬は拗音の気配がなかったことで質問の方向性を決めた。

「視力を失ったか?」

 沙月は首を横に振る。

「植物状態になったのか?」

 沙月は首を横に振る。

「じゃあ……」

 梓馬は次に心肺停止という言葉を思いついて、重い躊躇いを感じた。その重量に耐えきれず首が傾く。そのせいで頬に熱い軌跡を感じ、自分が泣いていることに気付いた。一度そう自覚すると、両足が震えていることにも気付く。膝が折れてぺたりと座り込むと、梓馬はようやく最後の質問をした。

「朱里は生きてるのか?」

 沙月は首を左右に振った。




 加賀美朱里は事故死だった。宮前平駅と高津駅の間、坂の多い住宅街付近で、運送中のトラックに轢かれ、緊急搬送されるも心肺停止。死亡が確認された。

 梓馬と沙月は亡骸と対面し泣き崩れた。加賀美朱里の両親も同様で、医者と看護士たちは申し訳なさそうな顔ながらも、てきぱきと仕事をこなした。

 梓馬と沙月は、朱里の父親に帰るように促され、しばらく抵抗したのちにタクシーでそれぞれ帰宅する。

 梓馬は自室に入ると、写真立てを抱きしめて泣きはらし、涙腺が枯れたかと思うとまた溢れて酸素で溺れた。嗚咽に急かされると、もう朱里に会えないという事実で空の腹が熱くなる。朱里を殺した人間のことを考えると、いますぐにでも殺し返そうという決意が生まれる。そして朱里が車に轢かれる瞬間を想像する。いったいどれほどの恐怖を感じたかと思うと、歯と胸が軋んで歪んでは、ただ存在している自分の形が崩れそうになっていた。

 梓馬は空想の中の朱里を助けようと、何度も天井に手を伸ばした。トラックのライトが視界いっぱいの中、轢かれる寸前に朱里の白く細い手を引く。何度もくり返すと、現実に朱里を助けたという気になっていく。疲労はしているが神経が立っているせいで、意識が安定していない。そのために叫びや泣き声をあげてしまう。もしここに一つの救いがあるとすれば、それは理想の母親がなにも言ってこないということだ。

 人が死ぬことはどうにもならないこと。なにをどうすれば改善されるというわけでもなく、梓馬は夜が明けてから昼になるまで混乱と苦悶をひたすら味わい続け、気付くと意識が飛んでいた。本人も気付かない間に何度か寝てしまっており、現実と悲しみの区別がつかない状態だった。そしてはっきりと意識を取り戻したのは、西日が夕焼けていたときだった。灯りない部屋の中、寝ていたときと変わらない姿勢で泣き続けた。寝て覚めたことで、現実の続きをやらなければならないことに絶望する。あと何回泣けば世界が変わってくれるのか、本気で考えていた。

 そのとき部屋の外で、軽い音がこすれた。ドアのほうに小さな質量の気配を感じる、異物の侵入だった。目を向けると隙間から白い紙が一枚、母親からの手紙だった。

 梓馬は全身に虚脱感を覚えながら起き上がると、それを手に取る。内容は通夜の時間と場所、開始よりも一時間早く来てほしいこと、高校の制服を着用すること、などが書いてあった。そして、泣いてばかりだと死んだ彼女も悲しむよ、という意味のないメッセージも。

 朱里はもう悲しむことすらできない。そう思った瞬間に、感情に暗い質量を感じた。心の床が沈むほど重い質量に、自我が飲み込まれていく。

 殺してやろうか――

 脳内に他人のような声が響く。その死を意味する単語で、梓馬はまたもや朱里に会えないことを感じてしまい、ドアの前で腰から崩れた。

 しかし外部からの刺激は、梓馬に時の流れを思い出させた。上半身を持ち上げ、神経に命令して制服のブレザーに袖を通させる。ネクタイの色は赤く、しめないほうがいいか判断しきれずポケットに押し込んだ。

 部屋から出てリビングに行くと、母親が心配そうな顔で近づいてきた。パーソナルスペースに侵入されることが耐えがたく、足を引いて距離を取る。母親は真面目な表情で、香典袋を差し出してきた。

「中身はもう入ってるから」

「……わかった」

 しばらく発声していなかったので喉が詰まる。受け取ってから無言で家を出た。

 車庫に自転車はない。そういえばと思って足を進め、シャッターの開閉スイッチを押す。夕方がまぶしく見えた。冷たい空気が他人事だった。朱里はもうこれを見ることも感じることもないと思って、また涙が頬を流れた。

 電車に乗っている間に、景色や匂いから、朱里との思い出がいくつも蘇っていく。人目も気にせずに座り込んで泣いた。乗客の誰もが、梓馬を存在しないかのように振る舞っている。しかし意識だけは、好奇心と共に向けていた。

 駅に電車が着くと、梓馬はよろよろと立ち上がり降車する。ふと気になって振り返ると、大勢の視線がこちらに向いていた。いくつかはバツが悪そうに逸らされたが、無遠慮に凝視してくる視線もあった。梓馬はそのまま改札に向かったが、心の中では先ほどの恥知らずたちに対して殺人を行っていた。

 通夜の会場は医大の近くのメモリアルホールで、これまで縁のなかった建物だった。自動ドアを抜けると喪服姿で腕章をつけたスタッフが深々と頭を下げる。その顔は実に哀愁を感じさせるが、どこか日常的でもあった。

 メモリアルホールは広く、建物内のどこで通夜が行われるのかわからない。梓馬は顔をあげたスタッフに訊ねようとしたところで、相手方からどちらの弔問かと訊かれる。

「加賀美……」

 それ以上を言うことが、本当にできなかった。

 スタッフは「こちらでございます」と言うと、左手に見えるカーブした階段に進んだ。梓馬はそのあとをついていく。二階について最も手前の部屋の前で、スタッフは振り向いてまた頭を下げた。

 目に入ったのはたくさんの花だった。今日初めて色を見たような感覚、本当に死んだんだという実感、そして朱里のはにかんだ遺影。口を塞ごうとした手は、目を覆っていた。

「市原くん……」

 呼ぶ声は顔を見ずとも、朱里の父親、加賀美幹彦(かがみみきひこ)の声だとわかった。

 指の隙間から涙が漏れ出ていく。梓馬は幹彦に訊きたいことが山ほどあったが、なに一つ言葉にならなかった。

 幹彦もまたなにも言わず、しかし堂々とした様子でもあった。

一代で乳製品の輸入会社を大きくした男は、娘を失ったときでも我を失わないほど剛健なのだろうか。梓馬はそう思ったが、目の縁に充血の痕跡を見つけると、そんなわけないとすぐにわかった。

「市原くん、奥へ」

 幹彦は抑えた声でそう言うと、祭壇とは逆にある一番奥のドアのほうへと歩いて行った。

 奥の部屋は和室になっており、畳の上には三列の長いテーブルが置かれていた。さらにその奥には古い木模様のドアがあり、幹彦はノブをひねると何も言わずに中に入った。

 梓馬は一瞬、自分が入っていいものかわからなかったが、「こっちへ」という言葉を聞くと足を踏み入れた。

 先ほどの部屋よりもうす暗い照明の下に、うなだれている女性がいた。反社会的な髪色のショートヘアは五十嵐沙月だった。

 沙月は梓馬が現れたことに気付くと、姿勢を変えず、鋭い視線だけを投げてきた。

 室内には座布団が規則的に並んでおり、棺を一晩安置する台が奥にある。まだ棺は置かれていないが、台の隣にはすでに小さな棺が一つ置かれていた。朱里がいくら華奢とはいえ、とても入りそうにない。なんだろうと目を向けると、中には花が敷き詰められているだけで、なにも入っていなかった。なにか空恐ろしいものを感じた。この小さな棺に入れるのは、赤ん坊くらいしかいないとわかったからだ。

 沙月の奥には朱里の母の紀子(のりこ)が正座しており、背筋を伸ばしたままじっと梓馬の顔を見入っている。疲れ切った顔に生気はなかったが、得体のしれない生の感情が視線とともに送られてきていた。

 幹彦は並んだ座布団に座ると、梓馬にも座るように指をさした。

「単刀直入に言う。朱里のお腹の子の父親は君か?」

「えっ」

 聞いて、梓馬は視界がぐるりと動く。咄嗟に体を支えた手の感触から、自分の上半身が倒れかけていたということがわかった。

「朱里が妊娠していたのを知らなかったのか?」

 幹彦の声には疑いの色が混じっていた。しかし梓馬はそんなことに気が回らず、なにかの言い回しなのかと考えていた。

 硬直している梓馬に、幹彦は告げる。

「朱里はこっそり産婦人科に通っていた。事故にあった日も、診察の予約が入っていた。その途中で事故にあったんだ」

 その話に梓馬は妙に納得がいってしまった。宮前平と高津の間で事故と聞いて、なんでそんな場所で思っていたからだ。

「それは……、産婦人科に行ってるから妊娠しているだろうというような」

「いや、朱里は確実に妊娠していた。父親は君だろ?」

 幹彦のその言葉には、そうであってほしいという気持ちがあった。だが梓馬はその期待に応えられず、妊娠という突然降ってわいた事実に、表情が悲鳴をあげていくだけだった。

「俺は朱里と……、してません……」

 否定しつつ、性交以外で妊娠することがあるかを真剣に検討した。

幹彦の目はより険しく尖り、姿勢が前のめりになっていく。

「市原くん、君とは確かに色々あった。だがいまは頼む、正直に言ってくれ」

「本当ですよ、俺じゃないですよ、なんなんですか、昨日からわけのわからないことばっかりだ」

 幹彦は目に疑念を浮かべながら、腕を組んでなにごとかを考えているようだった。思考が口から漏れだしているのか、ぶつぶつ何事かを言うと、畳に拳を打ち付けた。

 それを合図のように、紀子のすすり泣く声があがる。やがて部屋にいる全員が同じように、それぞれの心を鳴かせ始めた。

 通夜が始まっても梓馬は、朱里が妊娠していた事実に襲われているばかりだった。誰かのペニスが避妊具をつけないまま、朱里の女性器の中に侵入したのだと。

 翌日の葬式の間もずっと相手のことを考えていた。朱里を車で轢いたドライバーよりも、妊娠させた相手に対してより強い殺意を持っていた。

 葬式の場では、もしかしたらこの中に妊娠させた相手がいるかもと目を光らせていた。誰も彼もが自分よりも、異性に好まれる存在に思えてくる。しかしそれ以上に、朱里が浮気などするわけがないという信頼が、幻想に逃げ込みかけている梓馬を現実に繋ぎとめていた。

 幻想の縁で梓馬は、妊娠という話自体が嘘ではないかと真剣に考えていた。あげく、朱里は本当は死んでいないのではないかとまで考え始め、しかし棺に入っていた遺体はまぎれもなく自分の恋人だったことを反芻すると、現実の彼岸が近くなる。そこにあるのは、女性がどうすれば妊娠するかということだった。

 梓馬は短時間で受けた極限のストレスで、思考能力をすり減らしていた。だから目にした数字にも対して意味も見いだせずにいた。

 葬式が終わるとクラスメイトたちは輪になって、表向きは神妙そうな顔をしていた。しかし話している内容は、この後どこで飯を食べるかというものだった。梓馬に気を遣って聞こえないようにしているようだが、知っている人間が死んだという珍しい体験に浮かれているのは間違いなかった。たった一つの救いは、彼らに朱里の妊娠が隠されているということだ。もし知らされていれば、この集会はより楽しいものになる。

 梓馬はますます判断能力を失っていき、ここにいる全員が朱里の死を心から楽しんでいると、本気で信じ込んでいた。その妄想に煽られて、次にちらりとでも笑顔を見せる奴がいたら、思いっきり顔面を殴ろうと決めていた。

「話したいことがあるんだけど」

 そうした矢先、ふいにかけられた声に顔を向けると、いたのは沙月だった。

「なんだよ」

「あたしはまだお前のこと信用してないよ」

「いい加減にしろよ、俺じゃないって言っただろうが」

 梓馬の声は場違いに大きく、周囲の注目を集めてしまう。

 沙月は表情を潰すと、

「場所変えよ」

 と言って歩き出した。小さな背丈が上下に跳ねて、あっという間に距離が離れていく。梓馬は大股で追いかけたが、距離が縮まるとそれ以上は詰めなかった。

 メモリアルホールから出て医大とは逆側に、小さな神社がある。そこを通り過ぎて左に折れると、仏具屋が一件ぽつんとある一本道に入る。その道に入ったとき、梓馬は沙月がどこを目指しているのか見当がついた。先にある川沿いの細道は人通りが少なく、ベンチが一つだけ用意されている。駅から徒歩にして十五分ほどあるが、祖母との思い出があると、朱里はよくそこのベンチに座りたがった。いまでは朱里との色んな会話の断片が、思い出としてそこに漂っている。

 冬の川沿いのベンチは、夜空を背景に待っていた。

 沙月はベンチの前に立つと、腰を下ろさなかった。丸い大きな目には、街灯の光が収まっている。

「あたしはお前が嘘を吐いてると思ってるよ」

「吐いてない。本当に俺はまだやってないんだ」

 まだ、ではない。梓馬が朱里とセックスすることは永久にない。

「付き合ってたのに? それ証明できるの」

 沙月の言い分にはかなりの無理がある。童貞であることの物理的証拠は提出が難しい。科学捜査なしでは、直接的証明は不可能だといえるだろう。しかし。

「間接的に証明することになるだろうな」

 梓馬は自分で言葉にしてから気付いた。朱里の妊娠を認めたときから、心の中で決めていたことに。

「どうやって?」

 沙月は少し間をおいてから応答した。

「朱里を妊娠させた男を見つける」

 そして殺す、と梓馬は心の中で付け加えた。

「お前のやり口は知ってるよ。探してるって言い続けるんじゃないの」

「……さすがに言葉は選べよ」

 梓馬が一歩詰め寄ると、体格差もあって沙月は少し怯んだ。その様子はどこか性的で、ボブヘアーの裾から見えている細い首をしめたくなる。

「なにかやれない理由でもあったの?」

 沙月は強がりながら答えた。そして一瞬ちらりと梓馬の股間を見る。インポテンツを疑っているのは明らかだった。もしそうならば間接的にではなく、診断書を用いての直接的証明ができていただろう。

「座れよ」

 梓馬は先にベンチに座ってから言った。尻にあたる感触に冷たさが広がると、体の芯に熱があることが証明される。

 沙月はベンチの一番端に腰を下ろし、梓馬との間にハンドバッグを置いた。あまりにわかりやすい警戒心と、冷たい空気が幾重もの見えない壁を作っている。

「俺と朱里は出会い方が特殊だったからな、すぐに恋人って感じになれなかったんだ。それにあのクリスマスパーティーのとき……」

 そうして梓馬は間接的証明を始めることにした。

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