第34話 鏡の中の君へ 後編(加賀美朱里編)その4

 二人が病院を出ると、眼下に見える屋根の並びが赤く染まっていくところだった。坂の向こうに感情的な夕焼けが見える。世界で一番高い場所にいるような錯覚が、沙月を可憐に見せていた。

 この環境でただ一人の無表情として、一輪の白い花が歩いていく。来たときよりもずっと奥に、帰りのバス停があった。

 沙月の白いコートの袖からは、小さな手がはみ出ている。これまで何度も握ってきた。シルエットの下にある体を、自由に触ってきた。一度たりとも拒否されたことはなかった。いま離れていく後ろ姿に、名前を呼んでくれと言いたかった。しかしその声は届かないとわかっている。

 バス停には小さな屋根がついていた。隣の電柱は立ち尽くしているだけで、禿げたベンチが寄り添っている。そこに並んで座れば、自然と二人は同じ方向を見ることになっていた。

 梓馬は手に持つパンフレットを、沙月にも見えるように傾けた。

「この婦人、間違いなく朱里のクリスマスパーティーで見た顔だ。左目の火傷を覚えている」

「それで?」

 沙月はスマートフォンを見ながらそう言った。ずいぶん忙しそうに指を動かしている。

「わからないのか? あの職員は確実に、俺たちをパンフレットへと誘導していた。そしてそこには、クリスマスパーティーで見た婦人が映っていた。これには多分なにか意味があるんだ」

「だろうね」

「このパンフレットの裏面を見ろ。募集されているのはセミナーへの参加だけじゃない。主催の社会福祉法人が運営している孤児院のボランティアもだ」

「うん」

 沙月は見ろと言われて、本当に見るだけだった。

「土曜と日曜、朝七時から夜二十時ごろまで。なんで始まる時間はきっちりしてるのに、終わる時間は曖昧にしてあるんだろうな」

 梓馬は空気を変えたくて口調を楽しげにしたが、沙月は肩をすくめるだけだった。

 やりにくいな――

 梓馬は諦めて、考えたプランを言おうとした。だがそのとき、脳裏にルートではなく、直感的な答えが横切る。気付けば検証もなく口に出していた。

「朱里と……、日曜に遊んだことあるか?」

「ない、日曜は病院に経過報告に行ってたからだよ」

「そうか……」

 梓馬は相槌を打ちながらも、思考内では答えを補強していた。

 朱里は日曜に会えない理由を、家族と過ごすからと言っていた。だが家族と知り合いの沙月には、病院だと言っている。

 もしかして家族も病院も、嘘だったんじゃないか――

 クリスマスに見た婦人の存在から、朱里がここの孤児院と関係がある可能性は高い。そしてこのパンフレットに遠坂職員が意図的に導いたという事実は、梓馬に根拠のない確信を芽生えさせていた。ここに行けば、なにか重要なことに辿りつくと。

「沙月はセミナーに普通に参加してくれ。もしかしたら朱里を知っている人間がいるかもしれない。俺はまた横山司になって、ボランティア側に潜入して、そこで個人情報をどうにか盗み出す。今回は二正面作戦で行く」

 一気呵成にまくしたてたが、沙月はその熱をそよ風のように受け流した。

「あたしは行かないよ」

「そうか……、残念だ」

 バス停のベンチに並ぶ二人は、同じ方向を見ているはずだった。しかし梓馬はこれ以上の催促をするつもりがなかった。

 事態が進展しているという言い訳が、街並みに沈んでいく。いまここで起きようとしている問題が、顔を出していた。

 沙月は誰もいない正面を見ながら言った。

「もう、あたしは必要ないでしょ……?」

「ああ、そうだな」

 梓馬は正面を凝視しながら答えた。

「たくさん役に立ったよね?」

「よくやってくれた」

 心からそう言った。沙月がいなければここまで来れなかった。

「朱里を選んだこと後悔してない?」

「もちろんだ」

 正面を凝視しながら、言った。

「朱里のこと、忘れられないんだよね?」

「そうだ……」

 犬を連れた人間が通り過ぎていく。犬と電信柱が睨みつけてくる。

「あたし二番目でもいいよ?」

「だめに決まってる」

 隣の表情が見たかった。きっと泣いていると予感した。

「何番目でもいいよ」

「だめだと言った」

「セミナーに行ったらさ、ずっと苦しむことになるよ」

「なぜそう思う?」

「友達だったから……。あたしはいまも朱里を信じてるんだよ」

「説明になってない。セミナーになにかあるのか?」

 その質問に、沙月はゆっくりと首を振った。おそらく本当になにを知っているわけでもない。ただ友達だったから、それだけだ。

 梓馬は、では恋人の自分はどうかと自問すると、朱里を微塵も信じることができなかった。鳩池が語った朱里の真相は、間違いなく事実だ。残念ながら、加賀美朱里は最悪の人間だった。

「俺はセミナーに行く。お前になんと言われても、それを変える気はない」

「どうして?」

「さっき、友達だったからと言ったな」

「うん……」

「同じだ。俺はいまもあいつの彼氏だ」

 隣の顔がこちらを向く気配があった。それでも梓馬は正面を凝視し続けていた。目と鼻の先に、心の果てが広がっている。

「死んだ人とはもうセックスできないよ。結婚だってできないし、子供も産めない」

「そうだな」

「毎日、泣いてるんでしょ。諦めが悪いって傷付かないってことじゃないよ」

「知ってる」

「誰がその傷、埋めるの……」

 梓馬は沙月の言葉すべてに対して、だからどうした、としか思わない。元よりこの世界にはなんの保証もない。基本的人権、生存権、幸福追求権、これらはすべてあるとされているだけのものだ。梓馬が鳩池を殺さなかった理由には、どれも該当しない。

「俺は苦しいまま、生きていくことにしたんだ」

「あたしが助けるよ。いまも朱里のことが好きなんだったら、あたしが朱里になる。あたしのこと、朱里って呼んでよ」

「ふざけるなっ」

 梓馬は沙月を見た。泣きながら言っていると思っていた。しかし向けられている眼差しは、揺るぎない人間の強さが映し出されていた。

 だからいつもと違ったのか――

 梓馬が朱里にもらったコインローファーを選んできたように、沙月もまた朱里にもらった装いで今日に挑んでいた。現実を変えることができないなら自分を変える、それは実に効果的なアプローチだ。

「髪伸ばす、色も黒に戻すよ。服もこれからモードにしていく。言葉遣いも直す。朱里のこと一番知ってるの、あたしなんだよ」

 人間は協調性の生き物だ。その順応性の高さと時間が、健康で文化的な最低限度の生活という幻想を作り上げた。その作られた世界は、人権を持つ者たちが共有できるところまで成長した。だが社会形態を優先して失われたのが個人だ。

「お前がいなくなるだろうが……」

 梓馬は言うと、沙月の頬に手を伸ばした。

 沙月は黙ったまま、その手の意味を感じ取ろうとしていた。

「俺はお前も大事なんだ。今日も何度も抱きしめたいと思った。お前の態度がおかしくて、もう好かれていないと思って落ち込んだりもした」

「うん……」

「朱里になるなんて言うな。そしたら今度はお前を失うことになる。俺はまた傷付くぞ。そのときに殺すと誓う対象は……、俺自身だ」

 抱きよせたい気持ちを必死で抑えた。手の届くところに幸せが輪郭を持っている。それでも本当に欲しいものは、心の果てにいる女にしか用意できない。

 ほんの小さな「好き」という言葉、ただそれだけだった。

「俺は沙月も大好きだ」

「そんなの、ずっと知ってたよ……」

 沙月が感じ取れたのは、梓馬の手の暖かさだけだった。




 沙月がバス停のベンチでスマートフォンを操作していたのは、タクシーを呼び出すアプリを入れていたからだった。

 表れたタクシーに乗り込んでいく姿に、梓馬はすがすがしい思いを感じていた。二度と会えないとしても、生きていてくれるならと。

 梓馬は一人でバスに乗り、渋谷駅に着くと、田園都市線のホームへと歩いた。すれ違う人々の顔を見て、朱里かそれ以外かを確認していく。そうしていると人間と何度も目が合うことに気付いた。なんか泣いてる人いるよ、という笑い声が聞こえて慌てて正気の振りをした。

 ホームに着くと、ちょうど電車がきたところだった。超過率を恐れていた梓馬だったが、急行でなければまだ体が浮くほどではない。車内には学生が多く、周囲を気にせずに声をあげる高校生たちや、モラトリアムを前面に打ち出したファッションの大学生たちが目につく。立場的にそのどちらでもない梓馬は、自分がひどく劣っているように感じた。浪人することが決まっているのに、勉強もせずになにをしてるんだと。おまけに今度は土曜と日曜を丸ごと、受験とは関係ないボランティアに使おうとしている。

 俺はもしかして頭がおかしいのか――

 急に自分が不安になる。本当はこの車両のなかで、下から数えた方が早いほど馬鹿なんじゃないかと。

 スマートフォンを横向きに持っている高校生、周囲を気にせずに足を組んでいる大学生、脇を広げてつり革を持つサラリーマン。梓馬は次々に心のなかで、乗客たちに難癖をつけていた。そして悪口が尽きるころには、地元の駅に着いていた。

 若干の気の緩みもあって、小型スクランブル交差点の向こうに満月を見たとき、こんな自分が人から愛されるわけがないと腑に落ちた。その可能性を持つもう一人の自分がいたとしても、そいつはどこまでいっても別の自分だ。鏡の中へは入れない。

 ロータリーでバスの列に並ぼうとしたとき、自室で電話するのが嫌に感じて、歩きながら帰ることにした。

 駅前のドラッグストア、中華料理店、愛想の悪いコンビニ。いつもはバスの窓から眺めていた場所を、今日は徒歩で進んでいる。しばらく歩いて商店街を抜けたあたりで、登録してあった番号をタップするが繋がらない。諦めて電話を切り、団地の坂を上り切ったところでもう一度かけると、今度はすんなりと繋がった。

『はい、社会福祉法人・聖光愛育学園・虹の丘です』

 落ち着いた女性の声。梓馬は立花マキナの顔を想像しながら、決めてあった言葉を吐いた。

『あ、すみません。ボランティアの募集を見たんですけど』

『なにでうちを知りましたか』

『病院にあったパンフレットを見ました』

 ここでなぜか間が空く。すぐに返事は聞こえず、溜息が聞こえた気がした。

『なるほど、そっちで来ましたか』

『え……』

 まるでこちらの手の内を知っているかのような言葉に、梓馬は思わず言葉を飲む。そして下手に動けないと悟ると、相手の出方を待つことにした。

『いえね、あの子が言っていたんですよ。あなたならば、必ずここに辿りつくと。私はてっきり、あなたはセミナーに来るものだと思っていましたよ。これはいったい、ねえ、梓馬。あなたはもしや、本当にボランティアをする気なのですか?』

『あ、すいません』

 自分でもなにに謝ったのかわからず、梓馬は返球だけを済ませた。マキナの言葉の端々に、朱里の口調に似たものを感じる。それは確実な手応えと、得たいの知れない恐怖をもたらした。

『来週の木曜日、十五時半にあなた、市原梓馬を招きましょう。都合はつきますか?』

『はい、つきます。それと……、すみません、あなたは立花マキナさんですよね』

 電話口の向こうから、くぐもった笑い声が聞こえた。

『そのとおりです。しかし、このタイミングで私の名前を出すとは。これはどうやら、シュリーの言うとおりの男の子だったようですね』

 シュリーという名前は、すぐに朱里と繋がった。クリスマスのあの日、マキナは加賀美宅の玄関前で、確かに朱里のことをそう呼んでいた。手を忙しそうに動かしながら、最後には顎をからかわれた。

 梓馬は言うべき社交辞令を差し置いて、いまある疑問を口にする。

『朱里は俺をどういう人間だと言ってたんですか』

『あなたならば、私にも勝てると』

 愉快と言わんばかりの弾んだ声だった。しかし梓馬はとてもそんな気にはなれない。朱里が自分を、また誰かと戦わせようとしていると感じたからだ。

『俺はそんな好戦的な人間じゃありません』

『そうかしら。ではなぜセミナーではなく、ボランティアなのです。その選択は攻撃的な思考が生んだものでしょう。いつも心のなかで、他人の悪口を言っているのでは?』

 どきりと心臓が跳ねる。たったこれだけのやり取りで、先ほどの電車の自分を見られた気がした。肯定することもできない梓馬は、迂遠な返答を使う。

『来週の木曜日十五時半でしたよね。そのときに答えますよ』

 この心理も読まれているようで、そのまま通話を切った。そして声を出さないスマートフォンを、まじまじと見つめている自分に気付く。

 朱里……。今度も勝てば、好きだと言ってくれるか――

 沙月が去って胸に空いた穴を、冷え切った闘争心が埋め始めていた。

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