第33話 鏡の中の君へ 後編(加賀美朱里編)その3

「こちらが、加賀美朱里様が使っていた部屋です」

 遠坂職員は言いながら、カードキーでロックを解除して扉を解放した。センサー感知で電灯が点くと、見えるのはどこかの家庭を切り取ったかのようなリビングだった。

 沙月が土足で入っていくのに驚き、梓馬は遠坂職員の方を見る。笑顔が張り付いたままなのを確認してから、違和感を持ちつつ自分も土足で踏み入った。

遠坂職員は外で待機するようだった。沙月は慣れた様子でソファーに腰掛け、室内を懐かしそうに見まわした。

 いきなりこの部屋に入れられて、なにをすればいいのかわからない梓馬は、同じくソファーに座ってみる。カフェでのこともあり、あえて対角線上に座って視線を躱しながら、もし朱里がいたらどこに座っていたんだろうと思った。

「じゃあ、好きにしてよ」

 沙月がぼそっと言ったのは、室内探索のことだ。梓馬はそのことに数秒遅れで気付く。そして同時に、そう言われては座っていることもできないと気付いた。

 立ち上がって最初に目についたのはキッチンだった。ここで料理をしていたのか、それとも病院食を普通に食べていたのか。想像し始めると、やせこけた朱里が紅茶を淹れている絵が浮かぶ。

 長谷川知恵の自殺によって、ここに入院していたという朱里。どんな気持ちで快適に過ごしていただろうか。考えても梓馬にはわからない。室内の設備は掃除が行き届いており、朱里の痕跡はなに一つなかった。

 また、朱里は入院中に自殺未遂を起こしたとも聞いている。罪悪感があったのは間違いないが、ならばなぜもう一度鳩池久吾と接触したのかという疑問も出てきた。人が死んだということにショックを受けただけで、改心するまでは至らなかったのかもしれない。

 現に刑務所を出所した人間の約半数が、また同じ過ちを犯して服役する。逮捕されていない者、犯罪が露呈していない者、その辺りを考えれば再犯率は過半数を超えているかもしれない。

 心に帳が降りてくる。朱里の本質が悪だという条件が増えるたび、騙された、好かれていなかったという妄想が輪郭を持ち始める。

 自分が少しでも好意を持たれていた証拠を探すのを、もう諦めてしまえばいい。そう思うも梓馬は、ベッドルームでは眠れない朱里を想像し、トイレで用を足す朱里、バスルームで泣く朱里、そして手首を切る朱里を映像にしていく。どの朱里も、顎をからかってくることはなかった。

 一通り見終わった梓馬がソファーに戻ると、沙月は最初と同じ姿勢で待っていた。しかし目が赤くなっていることから、なにかを思い出していただろうことはわかる。遠慮がちに声をかけた。

「もう見るものはない」

「うん」

 沙月はそう言うと、視線を合わせないまま立ち上がった。とことこと部屋を出て、遠坂職員にお礼を言っている。

 そのやり取りはここから立ち去る合図で、梓馬は慌てて口を挟んだ。

「すみません。ここでの朱里の様子とか、その、書類みたなものとかは見られないんですか」

 遠坂職員は咄嗟に笑顔を消すと、毅然とした姿勢を作る。

「申し訳ありません。カルテなどの個人情報に関するものは……、守秘義務がありますからお見せすることはないでしょうね」

「ですよね」

 梓馬は自分の立場がどういったものかわからず、幹彦は本当に施設の立ち入りしかお願いしなかったのかと混乱していた。だから気付けなかった。遠坂職員の表情に陰りがあることに、口調が途中から変化したことに。

 梓馬はこの建物の外観を見たときから気圧されていて、色んなものを見逃している。色んな質問をできないでいる。ここまで駆け引きで辿りついておきながら、やはり根底のところで身分の差に弱い。相手が運営する側の人間という意識だけで、遠坂職員にまで階級負けしていると思い込んでいる。

 この遠坂職員は入院していた朱里の担当であり、幹彦の伝手でここでの案内役に指名されていた。梓馬が朱里の彼氏だったということも把握しており、同情しているからこそ室内には立ち入らないという配慮を見せていた。当然、普通はこの申し入れ自体を受けることがなく、さらには室内探索を監視しないということは考えられない。

 聞いていた話と違うな。そう思いながら遠坂職員は、エレベーターホールには向かわないという選択をする。違う方向へと案内しだしたことで、沙月の空気が変わったのを背中で感じつつ、二人を談話室へと導いた。

 建物の角にあたるここは、広い空間にテーブルのセットが間隔をあけて配置されている。背の低い観葉植物が、スクリーンとして機能していた。プライバシーへの配慮だ。

 左手には場違いを否めない自動販売機があり、その脇には各種セミナーなどのパンフレットがラックに並んでいた。奥には給湯室も用意されている。

 眉に皺を寄せて突っ立っている沙月と梓馬に、遠坂職員は案内地を告げた。

「ここが談話室でございます」

 死んだ彼女を想う彼氏とその親友の少女に対し、最大限の譲歩を言葉に込めた。

「はあ」

 沙月は興味なさげな返事を打つ。

「ずいぶん立派な談話室ですね」

 梓馬に至っては、謎の社交性をこの時点で出す始末。

 遠坂職員は二種類の違和感を持ちながらも、馬鹿げた説明を始める。

「朱里様はよくここをご利用しておられました」

「あたしがきたとき、よくここでお茶を飲みました」

「そうですね。沙月さんがいないときも、朱里様はよく一人でここにおられましたよ。特にあのイスを好んでおられたように、私には見受けられました」

「朱里は自室で本をずっと読んでるって言ってましたけど」

「あら、そうでしたっけ」

 遠坂職員の目が少し泳ぐ。

 梓馬はそれに気付かなかった。自分を保証することで精一杯だったからだ。

「へえ、あのイスですか。ずいぶん座り心地がよさそうですね」

「試してみたらどうですか」

「いや、俺たちはそろそろお暇しようと」

「試してみるべき、でしょうね」

 遠坂職員のゴリ押し、しかし梓馬はまだ気付かない。職員が知らせたいものは談話室でもイスの座り心地でもない。ラックにあるセミナーのパンフレット、これが最後の鍵だ。

 言われて仕方なく席に着く二人、本当にイスの座り心地を確かめ始めている。沙月は無表情だが何度も背もたれに体重をかけており、梓馬に本当にひどいことに「ふうん」「へえ」を小声でくり返してしまっている。

 業を煮やした遠坂職員は、とうとう一線を越えることにした。

「せっかくですから、お茶を淹れましょうか。それまでこれでも読んでいてください」

 そう言って強引にパンフレットを一部、テーブルの中央に置いた。表紙ではなく、裏表紙を見えるように。

 そこにはセミナー参加者の集合写真が写っている。そしてその枠の外には、主催者の写真の切り抜きが貼ってあった。右下に立花(たちばな)マキナという名前と簡素な略歴が並んでいるが、そこは重要ではない。

 写真に写る主催者、立花マキナは六十代くらいの女性で、西洋の宗教ローブを身にまとっていた。左目には火傷の痕が見える。濃いブラウンの髪がそれを覆っていた。

 給湯室で遠坂職員は、日本茶のティーバッグが、湯を色づけていくのを見つめていた。これでだめだったらどうしようと、不安になっている。

 いますでに出過ぎた真似をしている。幹彦との約束も破っている。自分の行動がどういう結果を呼ぶのか、想像すらできなかった。それでも胸にあるのは、朱里がもうこの世にいないという事実。正しいと感じたことだけを、やっていくしかない。そうして気付けば、湯飲みに深い緑が滞っていた。溜息を吐いてから給湯室を出る。

 お盆のバランスに意識は向けず、すぐにテーブルにいる二人に目をやった。

 沙月がパンフレットを睨みつけている様子が目に入る。遠坂職員はそれを見て安心した。やはり知っている顔だったかと、自分は間違っていなかったと、これで朱里に恩を返せたと。

 そしてもう一人の男の子はどうだろうと、視線を横に滑らせた。そのとき途端に、皮下組織に恐怖が走り、後頭部が大げさに泡立つのを感じた。

 それは人間を物のように見ている目だった。市原梓馬はパンフレットを見ずに、こちらを分析するように覗き込んできていた。

 ここでようやく遠坂職員は、幹彦から聞いていたとおりの男の子だと納得した。

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