第32話 鏡の中の君へ 後編(加賀美朱里編)その2

 カフェを出ると、後ろを歩いていた沙月が前に出た。これから向かうのは渋谷区にある精神科で、朱里が入院していた病院だ。沙月は面会で訪れたことが何度もあるらしく、そのときの交流が二人を親友にした。

 これが沙月の嘘だ。朱里の過去を当たる梓馬に、精神科のことを隠していた。それは生前の朱里との約束で、精神科に入院していたことを梓馬に言わないでくれと頼まれていたからだ。

 沙月は大橋久美と対峙した際に、この件に触れられ動揺した。だが当の梓馬は打開策を練るのに必死で、それを見逃してしまっている。そしてこの事実は、鳩池によって明かされた。

 案内人の沙月のブーツが、アスファルトを擦る。その音が他人行儀で、梓馬は知人という距離で後ろを歩いていた。

 もしいま、後ろから抱きしめたらどうなるだろう。ラブホテルに行こうと言えば、ついてくるだろうか。自分のために未来を犠牲にしようとした女だったが、どうしても断られる気がしてならなかった。

 沙月のあれほどの覚悟を見ていまそう思えるのは、自身もまたあの異常な空気を知っているからだ。あの夜はきっと、誰も正常ではなかった。沙月はきっと日常に戻って、冷静になったんだろうと。

 俺は一番じゃなくなったのかもしれないな――

 メモ帳を見られた事実はそれほど大きい。罵詈雑言よりも、よほど傷つけることができただろう。だが梓馬はショックを受けながらも、それを受け入れていた。鳩池拉致事件のあとにした決意が、あらゆる痛みを和らげてくれている。

 山手線の改札を抜けて、内回りのホームへ。階段を走る風が沙月の白いコートを翻すも、感情は隠されたモノトーンのままだ。一分も待たずに電車は到着する。降りてくる人間は、全員が初めて見る顔ばかりだった。

 沙月は空いていた座席に座った。持っていたハンドバッグは膝の上で、隣には人間二人分のスペースがある。だが梓馬はドア付近の手すりに、肩甲骨をもたれさせた。

車窓の外に並ぶ建物には、大勢の人間の気配がある。全員に人生が用意されており、傷つければ血を流す動物だ。だから支え合って生きている。

 世界中に自分を一番だと言う人間が、どこを探してもいない。総人口分の一の価値しかない人間だ。存在を保証するものは、朱里にもらったコインローファーが鳴らす足音だけだった。

 なぜ朱里は俺と付き合ったんだろう――

 これはいままで、何度も考えた疑問だ。自分が好かれていたルートを走ろうとしても、すぐに袋小路に行き当たってしまう。唯一、完走することができたのは、幹彦との対決というルートだ。

 朱里という人間の二面性を知ったいま、加賀美家のあの和気あいあいとした空気は、コントロールされていた可能性がある。現に朱里が自殺を仄めかして、要求を突きつけるというシーンを目撃している。そう考えたとき、例えば結婚や受験という幹彦との対立は、予め用意されていた展開ではと思えた。

 朱里の死と着信拒否によって、幹彦との繋がりは途絶えた。だがもしあのまま話が進んでいけば、例えば会社経営権の争いや、同業他社としてシェアを奪い合うような展開が用意されていたかもしれない。つまり朱里は、自分を復讐の道具として見ていたのではないかと。

 そしてそれは朱里が不動産に興味を持っていたこと、それと関係しているようにも思える。経済には自由が付属しており、それを自立と呼んでいたのだから。

 このルートは実にありそうな話だった。結婚という餌だけで父親に喧嘩を売るような人間だ、確かに利用しやすかっただろうと。

 そこまで考えると、自分の顎をからかってくるあの笑顔は、いったいなんだったのかとも思う。利用する相手の身体的特徴を揶揄することが、有効だとはどうしても思えない。

 芝居だったということ、好意があったということ。この二つは両立させることができる。朱里がどれだけの人間を地獄に落としてきたか知ったあとでも、こうして過去の痕跡を探している。それは僅かでも、自分への好意を見つけたいという渇望からだった。

 梓馬は車窓を見た。

 好きだと言ってくれ――

 亡霊はなにも言わない。

 電車は渋谷に到着した。沙月に先導され、モアイ像の前を通ってバスロータリーへ向かう。

 梓馬は渋谷からバスに乗るのが初めてだった。こうしてみると電車の路線以外にも、多くのルートが存在していると思い知らされる。このうちのいくつかは、同じ場所に向かうことができる。池袋に戻ることも、自宅に帰ることも、複数のルートから選ぶことができる。

 各々が選ぶルートは、習慣化という固定観念だ。ルートを絞ることで期待と諦めを一本にまとめている。

 未知のルートは目的地すらわからず、不安を隣に座らせていることしかできない。そんなときは目的地を持った乗客が、羨ましく見えるだろう。自分だけが停滞している錯覚に囚われるだろう。

 誇ればいい。

 人間は必要だから、全知全能を持たなかった。断定できることなど、なに一つない。多くのルートから選ばれた道は最短ではなかったとしても、きっと最適だったと実感することができる。そうすれば複雑に見えていた路線は、一筆書きの一本道だったということがわかるだろう。

 これまでの時間すべて、体験してきたものすべて。逃げることなく向き合えば、それが個人の実力となる。最短の道を人に教えられて走ってきただけの人間は、その肩書と実力が釣り合わず、承認欲求に殺されてしまう。

 梓馬のここ最近の体験は、先進国では辛い部類に入る。実際のところ、何度も折れそうになっていた。すべてを諦めてセックスと受験勉強をしていれば、いつかは誰かと同じルートに戻れたはずだ。

 外的要因に行方を断定されてきた環境で、梓馬が持っていたのは降りるという選択肢だけだった。それでも最後まで諦めす、いまバスに揺られ最後の鍵を手にしようとしている。一人では決して、ここまで辿りつける実力を持っていなかった。それでも梓馬はここにいる。足掻き続けてきたから、ここにいられる。

 本気で事態を好転させようとしている姿に、幹彦は共感して手を回し、久美は同情して本音をしまい、沙月は好意と身を捧げた。

 有限のパイを奪い合う人間社会で、努力が報われると言うのは詐欺師だけだ。しかしいま梓馬が手にしているものは、人間を幸福にさせるダウナーの気配で溢れている。本人はそうとは知らずに。

 気付いていないということ。ただそれだけで、人間は死ぬことができた。今日は何も起きない日だから、明日に変化がくることはないはずだと。だとしたら連続する毎日に、奇跡の痕跡は見当たらない。停滞は心を殺すだろう。しかし真に動かないものなど、なに一つない。それはいまバスの席に座っているだけの梓馬が、車窓の外を見ることで証明されている。

 バスが停まったのは、渋谷区の端にある住宅街だった。地名に谷が入る起伏の多いこの土地は、その立体構造が閑静な首都高を思わせる。行きかうのは車ではなく人の意志で、多くの視線が沙月と梓馬に向けられては、音もなく優越感を排気していく。

 沙月は堂々と歩いていた。

 朱里が入院していた病院は、下界と断絶するのに、白く厚塗りされた塀を立てていた。しかししばらく歩いて正門に近づけば、それは焦げ茶色の柵に変わる。その隙間からは施設内の様子を覗くことができ、広場になっているところには、数名の人間がベンチに腰掛けて談笑しているのが見えた。またそのすぐ近くでは、職員が押す車椅子で手を振り回してはしゃぐ老婆が見える。

 レンガ造りの施設はとても病院には見えず、どこかアカデミックな趣があった。作為的なものだろうか、と梓馬は思った。それともこの施設の本質が病院ではないからか。

 門は開いていたが、下界の人間を拒むような棘がある。人生の成果を出し終えた人間だけに、開かれているようだった。気圧されて歩むテンポに狂いが出ると、沙月が振り返った。久しぶりに顔を見た気になる。

「怖気づいた?」

 暗い顔だった。

「ここまで来て帰るという選択肢はないな」

 久しぶりに出した声は掠れていたが、梓馬は胸を張ってそう言った。

 沙月は「そう」と小声で言うと、そのまますたすたと進入し、受付に着くまで歩幅を変えることはなかった。

 自動ドアが開く前から、受付カウンターにいる職員はこちらを見ていた。紺色の制服は白いラインの襟がついているが、袖は七分で実践的な造りをしている。

「沙月さん、お久しぶりです」

 名札に遠坂(とおさか)と書いてある職員は、民間企業のような笑顔だった。

「どうも」

「加賀美様から伺っております」

 沙月は遠坂職員の話を最後まで聞く前に、自ら脇にある別カウンターに向かっていた。訪問者用の書類を、これまで何度も書いてきたからだ。

「あ、今日はそちらのほうは大丈夫ですよ。こちらへどうぞ」

 案内されるがまま、広い空間を抜けていく。奥には円形に配置されたエレベータールームがあり、さらにそこを抜けていくと、別のエレベータールームに迎えられた。

 最奥のこのエレベータールームには、西洋の宗教色が溢れていた。蛇を踏む石像の周囲には天使の姿が散見され、球形の天井には絵画の複製が塗られている。

「こちらです」

 遠坂職員はそう言って、エレベーターのドアを開ける。パネルには上下の矢印のボタン以外に、テンキーも備えられていた。なにに使うんだろうと梓馬は思う。

 重力の変動を感じさせないエレベーターは、音さえなく三階へと三人を運んだ。どのような会話も適切ではなく、訪問理由もまた希薄になっていく。

 三階に到着すると、同じ構図のエレベータールームに到着する。そこから出ると別空間が広がっていた。

 赤い絨毯の通路が、左右前方の三方向へと伸びている。薄暗いなかで暖色系の照明が、空間を柔らかく演出していた。窓は一つも存在していない。もしこの先に窓を見ることがあっても、おそらく嵌め殺しだろうと想像した。だから手首を切ったんだろうと。

「こちらが、加賀美朱里様が使っていた部屋です」

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