第7話 雲覆う谷間の影には (松本花編)
3 雲覆う谷間の影には(松本花編)
梓馬は過去を話し終えると、足元に向けていた視線を川の彼岸に投げた。朱里の思い出話をしたことで高揚していたが、即座に突き付けられるのは死んだという事実。胸の中にあった優しい球体が弾けてしまった。また靴を見なければならない。一滴の水が地面を打つ音が聞こえそうだった。
「お前じゃないなら、朱里の子の父親は誰なのよ……」
沙月の漏らした言葉は、至極当然のものだった。梓馬は混乱と喪失にばかり囚われていたが、朱里を妊娠させた人間が確実に存在することは間違いない。
顔の知らない誰かが、全裸の朱里をいいように扱っている映像がちらつく。腸が焦げそうな怒りと、胃が裏返りそうな吐き気が体を震わせた。
「殺してやる……」
言うと、不思議と涙だけは止まった。
「殺してやる、殺してやる」
唱えるたびに悲しみが薄れていく。梓馬はそれを心地よく思った。悲哀よりも憎悪のほうがまだ耐えられる。それを明確に理解すると、意図的に殺意を心に塗り始めていた。
「五十嵐、前の学校で朱里と親しかった人間を教えてくれ」
「そのなかにいるの?」
「わからない。でも知り合わないと、妊娠もできないだろ。部活でもなんでもいい、しらみつぶしにいく。できれば朱里のお父さんより先に見つけたい」
「おじさん、探さないって言ってたよ。あんたじゃなかったら、もう探さないって」
「なんでだ」
「あたしもそう言ったら、大人の都合だよって言われた」
その言葉が、隠すように置いてあった小さな棺桶を思い出させた。
娘が妊娠していたこと、会社の評判、従業員を守る、そんな簡単なワードが脳裏に並ぶ。しかし理解も共感もまったくできなかった。
「なんだそれは……。すごい男だと思ってたのに……」
「あたしもおじさんにはがっかりした」
「俺が全部やる。やるだけやって、影でいい気になってる奴を殺してやる」
「殺すの?」
「いまそう誓った」
「そっか……」
沙月は探していたなにかを見つけたように言った。泣き顔だった表情に、緊張感が生まれていく。
「親しい人間をリストアップしてくれるだけでいい」
「いや、あたしも行くよ」
沙月の譲らない瞳が燃えていた。
その熱さに、梓馬は断る気概を奪われそうになる。だが沙月の殺意の有無など結果になんの影響もなく、そして切り札は多いほうがいい。やろうとしていることが大きいほど、手段を選べないときがくるだろうと。
「よろしく頼む」
梓馬が言うと、沙月は小さく頷いた。
夜さえ焦がすような決意。それでも梓馬は、最後の一線を越えられるのは自分だけだろうと思っていた。
沙月からリストが来たのは三日後だった。その間、梓馬は自身の学校のなかに、妊娠させた男がいないか調査していた。誰も彼もが受験前で、まともに相手をされなかった。しかし朱里の転校してからの期間を考えると、特別親しくなった人間がいるとは思えない。なにせ、学校では常に行動を共にしていた。やはり過去のどこかに相手がいるとしか思えない。
これまで考えた内容を、新たにメモに書き加えるため、スマートフォンにパスコードを打つ。その数字が意味するものは、あるはずだった未来を象徴していた。
その未来が輝かしいほど、梓馬の心に影が落ちていく。
梓馬はその作業を終えると無為にベッドで寝転んでは、起きているか寝ているかわからない状態に陥っていた。
ときおり窓ガラスに朱里の亡霊を見た気がして、なにか言ってくれと問いかけた。にっこり笑って、顎をからかってくるだけだった。
ふいの振動音で現実に引き戻され、スマートフォンをチェックする。沙月からだった。
件名 リスト
上原香苗 東村美沙 加藤真紀 花房楓 大橋久美 橋本ニーナ 松本花 相沢美紀 浅田めぐみ 奥橋美和 山崎クレア 竹内智子 後藤恵子 沢田美佐 町田桃子 佐藤愛理 長谷川知恵 白瀬美樹
梓馬は一人ずつ名前を頭のなかで読んだあと、男の名前であっても不思議なものがないか考えた。何人かが該当するが、ピンとくるものはない。そうしていると、沙月から追撃のメールが着信した。
これらが朱里と親交があった人間のリストで、そのうちの一人、松本花からアポが取れていると書いてあった。こんな時期によく時間を取ってくれたと思ったが、すぐにその考えが間違っていたと思い出す。
埼玉県か。うちのクラスには一人もいないな――
すぐに会う日程を調整してもらい、次の日曜日に埼玉にまで行くことになった。ずいぶん遠いなと思ったが、有名私立大学の付属校ともなれば、方々から通っているのも珍しくないだろうと。この推測は妥当だが、松本花に関しては別の理由があることを、梓馬は知らない。
当日、沙月との待ち合わせは、田園都市線の最後尾の車両だった。用賀を越えると、途端に乗り込んでくる大学生たちの服装がモードになる。
俺もああなる予定だったんだ――
目に映るカップルの一組を、自分と朱里に見立ててみた。いつものささやかな生活を想像する。しかし電車が軽い振動を梓馬に伝えた。ダウナー系の幸福に浸れたのは一瞬で、すぐに自分が一人だと気付かされた。いままさに目的を持って埼玉に向かっているのに、本能が選んだ選択肢は逃避だということだ。
沙月は三軒茶屋から、古着の匂いとともに乗り込んできた。シングルライダースのインナーに同色厚手のニットとネックレス。ここまでは問題ない。下半身はレザーのショートパンツから、網タイツの太ももが伸びている。ひざから下はロングブーツが隠していたが、逆にそれが太ももだけに視線を集中させる。黒で統一されているのに、フォーマルどころか退廃的な性感が出ていた。本人は上下をタイトにして、Iシルエットを作っているつもりだったが、丸く実った胸の主張が強く、ややYシルエットになっている。
一方で梓馬はブランドロゴのついた服ではなく、ファストファッションのロングコートとスラックスをネイビーの同色で繋いで、インナーのニットと足元のテニスシューズは白で抜くという目立たない服装をしていた。この趣向の変化は朱里からの影響が大きく、また自身の経済力に見合った揃え方でもある。
梓馬は沙月に近づいた。少しタバコの匂いがする。それと同時に、うっすらと女の匂いもした。
沙月は距離を取ろうとしたが、車内ということもあって半歩にとどまった。
梓馬は表情を事務的に固めて、挨拶もなしに訊ねた。
「松本花と、朱里はどんな感じだったんだ」
「朱里が中等部のときに仲が良かった子。高等部ではあたしと同じクラスだったんだよ。結構真面目な子だったんだけど、途中から学校こなくなった」
沙月の口調は安定していない。朱里を介さなくなって、自分たちの距離感がまだ出来上がっていないことに気付いたばかりだった。
「なんて言って会う約束をしたんだ」
「久しぶりに会おうよって電話したんだよ。結構しぶってた」
沙月はなにか文句があるのかと、挑戦的な顔を向けてきた。
「俺がいるって説明はしてあるのか?」
「してない」
「会ったときに俺のことはなんて言うんだ?」
「友達でいいでしょ」
「いいわけがない。おかしいだろ、なんで他校の友達が、いきなり顔を出すんだ」
「そんなこといちいち考えるわけないよ」
沙月は面倒臭そうに答えるが、そういう問題ではない。
「そうだろうな、ほとんどの人間はスルーしそうだ。でも考えるタイプの人間だったらどうする」
「逆に訊くけど、どうだっていうのよ」
梓馬はすぐに意見を言おうとして、しかし電車のなかということもあって躊躇った。そして仕方なく、「俺が考えておく」と言ったが、沙月はどうやら自分が勝ったと勘違いしたようだった。
梓馬は今回の件において、自分が警察に逮捕されることを、覚悟するべきだと考えている。しかし可能ならば避けたい、というのもまた本音。実際に殺人を犯した際に、被害者の周囲を嗅ぎまわっていた人物がいるとわかると、自分に捜査の手が伸びてしまう。だからなるべく自然な理由で話をして、ごく自然な流れでそのまま別れたい。可能な限り印象に残りたくないので、悪目立ちはしたくなかった。
五十嵐沙月は外を見ていた。車窓の向こうでは、渋谷に近づくにつれて建物の背がどんどん高くなっていく。毛量の多いまつ毛の下にある目は、悲しみに腫れていた。
夜に一人で泣く沙月を想像して、同士の情のようなものを感じるが、すぐに自分とは違うだろうと思う。
沙月が朱里のことをどれだけ好きだったかは、痛いほど知っている。初対面のときから惜しみなく向けてきた敵意が、それを物語っている。だがただ友達を失っただけだ。寝取られたわけじゃない。自分と比べて明らかに傷が軽いのだと決めつけて、梓馬は軽い苛立ちを覚えた。
その視線に気付いた沙月は、一度はっきりと梓馬と目を合わせると、気付かなかったようにまた外を見た。
渋谷から山手線で池袋へ、さらにそこから東武東上線に乗り換える。川越につくと、どうやって駅を出ればいいのかわからなかった。無知ゆえに田舎の駅だと思い込み、出口も一つしかないようなところと想像していたからだ。だが実際は梓馬の地元よりも数段栄えており、歩く若者の服装はストリート寄りで、なにもかもが予想外だった。
指定された待ち合わせ場所は、徒歩数分の商業施設内にあるチェーンのカフェだった。向かう途中に見た三割うまいという餃子の看板に、残りの七割はなんだと考えて、答えが出る前に目的のカフェに到着する。
自動ドアをくぐると、茶色い制服に白いエプロンをつけた店員に出迎えられた。あとでもう一人くることを伝える。そして四人がけの席に案内され、梓馬が席に着くと、沙月は右斜め前の対面に座った。
梓馬は呆れつつ質問をする。
「なあ、松本花が現れたらどっちの隣に座るか想像がつくか?」
「お前の隣に座る可能性があるの?」
「そう思うんだったら、俺の隣に座ってくれ。お前が中心になって会話をするんだからな」
さっそく連携の先行きに影が差したところで、店員が注文を取りにきた。梓馬はブレンドを、沙月はバナナオレを頼んだ。
注文を終えると、沙月はライダースを綺麗に畳み、椅子の横にあるカゴに入れた。首元には船の錨をモチーフにしたネックレスが光る。乳房の持ち上がりでチェーンがたわんでいた。おそらく朱里から贈られたんだろう。朱里もまた同じモチーフのブレスレットを持っていた。
沙月が席から立ち上がり、テーブルの影に隠れていた網タイツの太ももが目に入る。そして無表情で梓馬の隣に座ると、前を見たまま言った。
「コート脱がないの」
ニットに包まれた大きな胸、より一層強くなった女の匂い。梓馬は気まずさから態度を硬くした。
「……大丈夫だ」
「あっそう」
緊張は沙月にも伝染し、ぶっきらぼうな返事が飛んできた。
もちろん梓馬は、沙月との関係を良好にするべきだと思っている。しかしいま沙月のすらりとした首や、たわわな丸い乳房を見てしまうと、態度以外のものまで硬くななってしまう。朱里に不義理であるのは言うまでもない。
梓馬はちらりと窓ガラスや、メニューのラミネートに朱里の亡霊を探す。見つからず、ほっとした。
やがて提供されたブレンドは、表記こそないがアメリカンかと思う薄さで、梓馬には好みの味だった。一口飲むたびに、胃の中の汚れを煮沸するような飲み心地がいい。コーヒーの濃度が高いと、逆に喉奥が煤けるような不快さがある。
「さすがに熱いな、おまけに不自然か」
梓馬はそう言うと、コートを脱ぐことにした。着たままでいようとした理由は、同じカゴに自分のコートを入れると、沙月に嫌がられるのではないかと思ったからだ。カゴはもう一つあるが、松本花のためにとっておかなければならない。
「暖房止めてもらえば」
「いや、足にかけておく」
小さく畳んでから太ももに乗せて、収まりの良い位置を探す。そうしていると痛い視線を感じた。
「古着と一緒のカゴに入れるのが嫌なの?」
丸々とした乳房を見るのが嫌で、梓馬は前を見たまま答える。
「そうじゃない」
「言っておくけど、クリーニングには出してるよ」
ここで梓馬はようやく沙月を見た。不機嫌そうな声と、大きく丸い目がこちらを見つめていた。そのギャップに、つい思ったことを口にしてしまう。
「誰かに臭いって言われたことがあるのか?」
「別に。一般的に古着は汚いって、みんな思ってるでしょ。だから一緒のカゴに入れるの嫌なのかなって思っただけだよ」
「そうか、俺は気にしないが。コートをカゴに入れなかったのは、一緒のカゴだとお前が嫌がるんじゃないかと思っただけだ。娘は父親の洗濯物を嫌がると聞いたことがあるからな」
「あれ、じゃあそのコートも古着なの?」
声と胸を弾ませて沙月が訊いた。その表情が明るいほど、梓馬の心は暗くなる。沙月のライダースに染み付いているのは、匂いではなく思い込みだ。ヴィンテージ化した偏見が、自分を劣っていると錯覚させている。
梓馬は色々とかけたい言葉を飲み込んだ。
「このコートは古着じゃない。俺の話ちゃんと聞いてたか?」
沙月は首を捻ってしばらくしてから、小首を傾げた。自分の迂闊さに気付いたようだ。咳払いをしてから、バナナオレを吸って唇を舐める。
「これ薄すぎない? わざと伸ばしてる?」
そう言ってわざとらしく喉を鳴らした。
見てられないな――
梓馬はそう思って、太ももの上に乗せていたコートを沙月に渡す。
「雑に扱ってくれていい」
「あ、うん……」
こうして梓馬と沙月のアウターは、同じカゴで重なった。
このチェーン店は、ドリンクを薄めて利益を稼ごうとはしていない。万人に愛されるには、百点を狙うのではなく七十点を狙うのが正解だからだ。むしろこのチェーンはコストパフォーマンスを売りにしており、それはフードメニューに顕著にでている。
周囲を見渡せば、ボリュームのあるサンド類やシチューセットが、どのテーブルにもある。コーヒーの三九〇円という低価格に対して年齢層が高めなのは、ドリンクのみで来店する人間が少ないからだ。
いまもちょうど日曜だというのに、疲れた様子のサラリーマンが入ってきた。よほどの疲労があるのか、まるで斜面を登るような足取りだ。重そうなカバンは、底が地面にこすられている。しかし眼光は警戒色を灯しており、社会の厳しさを体現していた。
そのサラリーマンは窓際のカウンター席に案内されたが、カバンを持ち上げて見せてから、四人がけの席を希望した。そして店員の返事も待たず、自ら梓馬と沙月の後ろの四人がけの席に座る。
少しも困った顔をしなかった店員に、梓馬はただただ感心した。自分なら態度に出てしまいそうだと。ここにもまた、社会の厳しさが体現されていた。
そしてそこから数分ほどすると、娘とその母親と思われる二人組が入店してきた。沙月は筋張った首を動かしてはアングルを変えて、「あれ、なんで」と漏らしている。
入店してきた松本花はその様子に気付くと、こちらに向かって歩き始めた。背後に女性を伴いながら。
「五十嵐さん久しぶり」
「こちらこそ久しぶり。松本さん元気だった?」
松本花は答えながら、ふわふわした雲のようなマフラーに手をかけた。だが梓馬を見て目を見開くと、マフラーにかけていた手を止める。やがて発生された声は、少し詰まっていた。
「ん、まあまあ元気かな」
座っていた梓馬も同様に、松本花の後ろに立つ松本母を見て、喉を詰まらせていた。
すぐに虚偽の説明をするつもりだった。自分は沙月の彼氏です、と。それができなかったのは、異様な展開に飲み込まれて硬直していたからだ。そして同時に、沙月を自分の隣に座らせておいて本当に良かったと思う。もう少しで、自分の隣に松本母が座るところだった。
「そちらの方は松本さんのお母さん?」
沙月が質問すると、その女性はぬっと前に出てくる。
「花の母です。ごめんね、おばちゃんまでついてきちゃって」
ぬらりと笑顔を見せた松本母に、梓馬は得体のしれないものを感じた。
「いえいえ、あたしも変なの連れてきちゃってますから」
沙月も笑顔を引きつらせながら応じた。
「五十嵐沙月の彼氏です。市原梓馬です、よろしく」
梓馬も顔を引きつらせながら笑顔を作り、真っ赤な嘘を述べた。隣でがたりと鳴るテーブルの音と、こちらを凝視する気配が怖い。それでも梓馬はそれらを無視して、軽薄かつ陽気な笑顔を維持する。
これほど表情が不揃いの席もないだろう。久しぶりの会合に、招かざる供をお互いに連れてきた二人の女。これからいったいなにが始まるのか、予測することができなかった。
「ほんと懐かしいね。松本さんは確か文芸部だったっけ」
「うん、そうだよ」
多少強引であっても口火を切れば、会話の主導権は握れる。朱里を妊娠させた男は未来や現在よりも、過去の話に出てくる可能性が高い。
「文芸部では誰と仲良かったの?」
「米ちゃんとか、美月ちゃんかなあ」
朱里との親交リストにある名前は一つもなかった。
梓馬はその動機と、自分がなぜここにいるかを誤認させるために発言をする。
「文芸部って男子とかもいたんですか?」
「いたけど」
花は態度を硬変させ、ぶっきらぼうに答えた。
「へえ、男子で文芸部って珍しいな」
「そうかな……」
テーブルを覆う空気に少しの変化があったことを、梓馬はしっかりと気付いた。特に重要なのは、「いたけど」の「けど」の部分だ。なにかを隠しているのは言うまでもないが、松本母の顔色が変わったのも見逃せない。
梓馬はそれらの要素から、松本家は男関係に厳しいのかもしれない、と予測する。それならば自分の存在が、松本母を呼び寄せた可能性が高い。だが次の瞬間には、違うと気付く。
沙月は自分に連れがいることを、ここで告げた。変なのを連れてきたと謝っていた。だったら女同士で会うとしか思っていなかったはずだ。ならばなぜ、母親がここにいるのか。
「男子ってちゃんと本とか読めるの?」
沙月がどういう偏見を持っているかはともかく、目的どおりに男関係に話を進めていく。
「読むよ。アニメの小説とかが多かったかな」
「ああ、郷田が読んでそうなやつとか?」
「郷田くんも文芸部だよ」
二人は少し笑った。どうやら郷田くんには、不当な評価がされているようだった。
「松本さんは郷田と話してたりしてた?」
「女子と男子は、まったく口利いてなかったね」
松本花の返答は、まるで自分が含まれていないかのようだった。自身と郷田のことを訊かれて、女子と男子に主語をすり替えている。
違和感を持った梓馬は、直感で松本母を見た。なにか情報が取れるかもと思ったからだ。
松本母はちょうどブレンドに口をつけているところだったが、マグカップで口元が見えない。
多分、いま心の中でしゃべってるな――
そう読んで眺めていると、カップの縁越しに松本母と目が合った。眼球の動作がゆっくりで、ぎくりとする。慌てて目線を逸らした。
視界に映るのは松本花。なにか、普通の人とは違う雰囲気を持つ女性だった。
黒い髪は一本いっぽんが細く、まるで一枚の布のように見える。化粧はしていない。肌は青白く整っているが、目の縁が茶色くくすんでいる。
雲のようなマフラーの前面についたタグは、いわゆるプチプラと呼ばれるブランドのものだ。毛羽立っていることから、ずいぶん使い込んでいることがわかり、女の匂いが染み付いていそうだった。
着たままのダッフルコートはネイビーで、肩が小さい作りになっている。昨今の流行はドロップショルダーなので、ずいぶん前に買ったものか、あるいは学校指定のものかもしれない。ネイビーという色からも、学校指定の線は強いように思えた。
以上のことから、松本花は自身の外見を気にしていない可能性が高い、と梓馬は結論付けた。文芸部を選んでいたという点と合わせて、自分だけの世界に引きこもるのが好きそうに見える。だが沙月とのやり取りを見る限りでは、コミュニケーションが苦手というわけでもない。
ここまで考えて梓馬は、松本母がこの場にいるのは、沙月のせいではないかと思った。ちらりと横を向けば、その奇抜さがしんしんと感じられる。ロックとパンクの違いがわからない大人から見れば、沙月という存在は、いかにも娘を悪い道に引っ張りそうな見た目をしていた。おまけに重そうな胸と煽情的な腰のくびれは、とても反社会的だ。
梓馬はまた少し態度以外を硬くしつつ、松本母は沙月という存在を、どの程度知っていたのだろうかと考えた。沙月は先ほど、松本さんのお母さんかと訊いていた。面識があったということはないはずだ。
「でも裏でこっそり男子と仲良くしてた子とかいたかもね」
沙月は、でも、から始めて、かもで締める。この言いようは、自分はこの話がしたくてしょうがないですと告白しているようなものだ。
「男子と? ないよ。現実の男なんてみんな興味ないもん」
「へ、へえ……」
苦しい相槌。郷田くんのアニメ小説を馬鹿にしたあとで、文芸部の女子も実は大差ないものを読んでいたことが明らかになれば、沙月もさすがに笑顔が引きつる。
ここで梓馬は、大まかに文芸部がどういうところだったかを掴む。想像していたよりも、ずっとライトな集まりだったのではないかと。ならばここに、朱里を妊娠させた相手の手がかりがある可能性は低い。
その根拠は、自分がオタクに負けるわけがないというくだらない思い込みだ。学歴や将来性や家柄のことはまったく考えておらず、自身の偏見のコレクションしか参考にできていない。
梓馬は小さく咳払いをして、耳たぶを摘まむ。会話の方向性を変えろという合図だ。沙月はその合図に気付き、話を左折させた。
「うちのクラスも男子と女子、あんまり仲良くなかったよね」
「ああ、うちはほとんど外部生ばっかりだったからね」
梓馬はこの流れの鮮やかさに、素直に感心した。沙月をもっと馬鹿だと思っていて、下手をすれば耳たぶが千切れるかもと思っていたからだ。そして耳たぶから指を離そうとしたとき、手が止まってしまう。
松本母がこちらの動作を見ていたからだ。
目の前の人間の小さな動作など、普通ならば注目することではない。しかし松本母は、梓馬の指と手が膝に戻ったあとも、耳たぶを凝視していた。ブレンドで口元を隠しながら。
意図が読まれたとまでは思わない。しかし観察されている可能性が高い。輪郭のない恐怖が、匂いとなって立ち込める。あまりにも胡散臭い。
いまこの場には、なにかルールがあるんじゃないのか――
梓馬はこの異様な状況を、日常の範囲内だと認識していた。こちらに目的があることを偽り、演じ切れていると思っていた。だが状況は最初から、それに対してNOを掲示している。一番問題なのは、あちらも目的を隠しているということだ。
この場でなにが起きているのか。梓馬はそれを確かめるべく、自ら主導権を握ることにした。
「なあ、沙月と松本さんには、共通の友達とかいなかったのか?」
意図がなければ、地雷を踏む可能性が高い質問だ。この二人の薄氷のような関係性は、触ることすら躊躇われる。だが、共通の友人がいると知っているからこそ訊く。いまこの場で隠されているものは、リスクを払うだけの価値がある。
沙月は明らかに固まった。松本花も同様だ。
梓馬はそれらを無視して発言していく。
「地蔵が突然しゃべってごめん。沙月と花さんがどんな友達だったのか、俺よく知らなくってさ」
クラスメイトだったということは、先ほどの会話でわかっている。それでも尚、関係を訊ねるのは、朱里の名前を使うという合図だった。しかしさすがに沙月は気付かない。なにが起きているかわからないと、口をぽかんと開けているだけだ。
「クラスが同じだったの」
花がわかりきっていることを答える。共通の友達という質問には答えていない。沙月と朱里が友人関係にあったことを、知らない可能性が出てきた。
主導権を握り続けるため、梓馬はさらに質問を重ねる。
「へえ、沙月ってやっぱりクラスで浮いてた?」
「ど、どうだったかな……」
浮いていたらしい。やはりなと思ったところで、自分が犯したミスに気付いて沙月を見る。緊張した顔を松本花に向けたままだった。ならばと、話を続ける。
「でもクラス外には仲良かった子いたような。あの子、名前なんだっけ」
そう言って、梓馬は沙月に顔を向けた。
沙月も意図を察したのか、一瞬だけ目を暗くする。そして目尻を引き結んで、松本花の顔を覗き込んだ。
「加賀美朱里、だよ」
こちらの肝を見せることになる名前。沙月もその重要性を理解しているだけに、質問者である梓馬に対してではなく、松本花に向かって答えていた。
状況は沈黙。硬直している松本花と、思わず背筋を伸ばした松本母。
朱里の名前を出すことで、想定以上の反応を得た。これは明らかに危うい反応だ。
梓馬は空気を緩和させるために、なにかしらの弁明をしようとした。だがそのとき、視界に影がかかる。自分たちの頭上に、まるで大きな雲がかかったようだった。
違う、これは人の影だ。誰かが自分たちを、見下ろしている。
「君たちは加賀美朱里の友達か? いったいなんの用だ?」
梓馬と沙月の二人は、声の主へと揃って顔を向けた。そこには先ほど、一人で四人がけのテーブルを選んだサラリーマンが立っていた。目に暗い穴が開いている。
梓馬は質問には答えず、サラリーマンから目線を外すと、松本母を見て驚愕する。そこにもまた同様に、暗い穴の目があった。
この目はきっと、底なしの絶望を長時間見続けた後遺症だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます