第6話 鏡の中の君へ 前編(加賀美朱里編)その5

 今度また朱里にアルコールを飲ませよう、そう誓った梓馬は幹彦のほうを向く。思えば今日はずっと芝居がかっていたのだから、それに付き合ってやろうという気にもなった。酒は飲まなかったが、空気には飲まれていた。

「えっと、お父さん」

「誰がお父さんだ」

「幹彦さん、俺が朱里さんの結婚相手にふさわしくないということですが、それは朱里さんの結婚自体に反対しているわけではないということですよね?」

 梓馬は説明責任を負わせることで、言質を集めていくことにした。基本の攻め方だ。

「そのとおりだ。朱里を幸せにできる相手との結婚なら認める」

「その幸せというのは、具体的にどんなものですか?」

 ゴールの設定を相手に投げる。幹彦にそれを掲示させてしまえば、あとは自分がそれに当てはまると証明すればいい。しかし幹彦は……。

「そんなもん知るか」

 それほど単純な相手ではない。

「ええ……」

 幹彦は、梓馬がなにを狙っているかを察知していた。曖昧な言葉で話を進めていくのは、大人の嗜みの一つだ。慣れている。

「ではなにを持って、俺が朱里さんを幸せにできないとお考えですか?」

 梓馬の次の狙いは消去法だ。駄目な条件を相手に並べさせ、自分にはそれが当てはまらないと証明すればいい。

「これまでの長年にわたる経営者としての勘と、成功に裏打ちされた人を見る目だ」

 やはり具体性のない返答、幹彦の防御は攻撃に等しい。

「そうですか……」

 梓馬は攻め方を変えたつもりだったが、幹彦からすれば同じ攻め方に過ぎない。正直なところ、つまらない奴だという感想を持った。

 これは経験の差から、どうしようもないことだ。梓馬は基本的な攻め方は知っているが、それは交渉や議論を戦いだと認識しているからだ。例えば、お互いの妥協点を探るような手法の有用性などは、微塵も知らない。その無知さ故、さらに攻撃を苛烈にしなければと思ってしまう。

 梓馬は無理やり小さい笑いを口元に添えると、一息で言うことにした。

「では長年の勘と裏打ちされた目で、そのラメのスーツを選んだんですか?」

「……ダウンジャケットよりは、この場に適していると思うがね」

 幹彦は髪をかき上げながら言った。セットされた前髪は崩れてはいないというのに。効いている証拠だった。

 幹彦の風貌はかなり反社会的。特にその雰囲気を作っているのが、後天的要素である髪型だ。つまり、他人を威圧することに強い関心を持っている。それにはいくつかの理由が考えられるが、最もポピュラーなものは、他人に攻撃されたくないという防衛本能だ。

 攻撃するしか能のない梓馬だったが、それが運よく功を奏した。人格批判は敗北宣言にも等しいが、ここでは相手の急所を露わにしている。停滞が敗北と同意のこの状況では、まずまずといった成果だ。

 とりあえずと、梓馬は攻められた部分をカバーする。

「はい、確かにダウンジャケットは空気を読めていませんでした。だから教えてほしいんですよ。そのラメのスーツは冠婚葬祭だとどれに使えるんですか」

 自分の不似合いの服装を認めた上で、相手に教えを乞う姿勢。しかし形成されたのは対立だ。先ほどの前提、ラメスーツの是非が皮肉の属性を発揮している。

「葬式以外……、だろうな」

「へえ、意外です。てっきり俺は、葬式だけでしか使えないと思ってました」

 宗派にもよるが、本人が生前に希望していれば、お気に入りの服装で棺桶に入れてもらうことができる。芸能人などに稀に見られるケースだ。この皮肉ももちろん、幹彦に通じた。

「ならお前のラメのスーツもすぐに用意してやらないとな」

「死ぬときぐらいTPOを弁えた服装がいいんですけど」

 レベルの低い皮肉の応酬だが、幹彦の身振りに感情が混じり始めていた。

特に容姿風貌に関するセンスに言及すると、著しく興奮することが読み取れる。これは成功者にありがちな発想を刺激されるからだ。身に着けるアイテムが個性的だったり、トロフィー価値のある妻を選びたがるのは、自分の価値を周囲に認めさせたいからだ。

 そういった特性の幹彦は、やはり自分が勝っているという点で攻めてくる。

「お前レベルだと知らんだろうが、上級になれば派手なスーツや奇抜なドレスなんて当たり前だ。お前はあれだろ、パリのコレクションを見て誰が着るんだと疑問を持つタイプだろ?」

 コレクションはショーであり芸術表現だ。そのままリアルクローズで使用できるようなものではないが、ではハイブランドに理解できない服がないかというとそれも違う。

 当然、知識が足りない梓馬は、これに関して返すことはできない。だが幹彦が攻撃に転じたというのは、大きな意味を持つ。一般論で餌を撒けば、幹彦は意気揚々と攻めを苛烈にしていくだろう。そこにはカウンターを置ける可能性がある。

「確かに俺はハイファッションを理解できませんが、じゃあお金を持ってれば理解できるものだとも思えません。上級かどうかなんて関係ないんじゃないですか、すべての人間は平等なはずです」

 これに幹彦は薄笑いを浮かべる。成功者は、一般論に反論することに目がない。

「少し歴史の話をしようか。ホモ・サピエンスがなぜこうまで繁栄したか、底辺私立では教えてくれないのか? それとも平等とはなにか、それを話したほうがいいかもしれんな」

 授業のように、人類の起源と発展が語られていく。鉄の発見からルネッサンス期まではとびとびだったが、そこから近世に入ると幹彦の口調は授業という体から、大演説へと変貌していく。その身振り手振り、声の抑揚、まるで一人オーケストラのようだ。

「いいか、仮に人間が平等であることを証明できたとしても、それを全員が順守しなければ機能しない。(中略)無能な人間はシステムを批判し、有能な人間はシステムを利用するんだよ」

 幹彦は真面目な顔で、階級の必要性を説明した。階級社会に住んでいる人間に向かって、延々と話した。

 梓馬がそれでわかったのは、幹彦がエリート意識に劣等感を持っているということだ。そしてわからなかったのは、すでにかなりの資産を持っているのにも関わらず、その劣等感を抱え続けているということだ。

 これは単に、アッパー系の幸福には際限がないということと、積み上げた座布団から転げ落ちるのを恐れているという二点によるものだ。しかし上昇経験のない梓馬にはまだわからないことで、そのためにダウナー系の幸福論で返すこともできない。つまるところ、攻撃の手を指すしかなかった。

「どうしてそんなに階級にこだわるんですか?」

 この質問に幹彦は面食らった。

「人間として上を目指すのは当然のことだ。それを否定するのは、負けたと言いたくないだけの負け犬だよ」

 これには梓馬も同意見だった。日々変化していく世界において、現状維持というのは相対的衰退だ。その認識があるから犯罪に手を染めてでも、自分を変化させようとしてきた。しかし一方で、認めつつもこれを否定しなければならないという予感が働いていた。それは自身の嗅覚によるものではない。

 隣にいる朱里が俯いている、ただそれだけ。しかしそれだけのことで、炉のなかにだって手をくべられる。

「俺はそうは思いません」

 梓馬はそう言うと、自分のポジションを対立だと宣言した。しかし次の言葉がまるで浮かんでこない。

「なぜかな」

 幹彦の短い言葉が、ずいぶん重く感じられた。

「階級が人を幸福にするなら、こうはなってませんよ」

 梓馬は目線を逸らしながら言った。

 苦しい展開だが、もしここで幹彦から具体的な反論を引き出すことができれば、それに対してピンポイントで反論を狙える。それをくり返して土台を作ることができれば、攻めのルートを増やすことができる。そのうちのどれか一つが、相手に致命傷を負わせられればいい。そう考えていた。しかし返ってきたのは反論ではなく、さらなる催促だった。

「……聞こうか」

 幹彦は神妙な顔のまま腕を組み、足を組んだ。

 梓馬は雰囲気の変化を感じながらも、とにかく口に出せることを探す。

「なぜならいま俺は幸福だからです」

 これはただ結論を言っただけに過ぎない。なぜそうなるのかという過程を説明できなければ、なんの説得力もない。

 幹彦は変わらず無言、梓馬はその圧力に負けて言葉を続けていく。

「仲の良さそうな家庭で驚きました。もっと悪いだろうと思ってたんで」

 この家に着いたとき、あるいは呼ばれたときから、ずっとあった違和感だった。サロンで加害者の責任を親に求めたとき、朱里は確かに同意していた。あれがあったから家庭環境は良くないのだろうと思っていた。しかし実際に訪れてみれば、誰もが朱里を中心に据えており、結婚すると言い出しただけでこの騒ぎだ。虐待や無関心の類が朱里を傷つけていたわけではない。

 ならば過保護、過干渉のどちらだろうか。梓馬はそう考えて、すぐに否定する。もしそうだったなら朱里はもっとわがままで、自分ではなにも決めらない人間だったはずだからだ。

 考えられる可能性は、一つしかない――

「幹彦さんの話は正直、俺も正しいと思います。頑張れば上に行ける社会で、文句を言う奴は馬鹿だと思ってます。それをもっと早く知ってればって、後悔したこともありますよ。でも今日実際それを目の前で言われて、俺は恐ろしいって思いました。幹彦さん、あなたはシステムを利用するのが有能だって、朱里に言ったことがあるんじゃないですか?」

 幹彦はイエスともノーとも言わなかった。ただ真剣な眼差しを揺らさないでいるだけ。

 急所を突いたというその手応えを持ったとき、ふいに梓馬の心の中に幼い朱里が浮かんだ。

 泣いてるのか――

 そしてそれを見つめている自分もまた、子供の姿をしているということに、梓馬は気付かなかった。

「俺は大人って、子供だった時間がないのかなって疑ったことがあります。もしあったら子供の前で、できない奴は無能だなんて言えませんからね」

「無能だとは言ってない。上手く立ち回りなさいと言ったんだ」

 幹彦の表情は声ほどに勇ましくなかった。

「その期待に上手く応えられなかったら、子供は自分を無能だと思うでしょうが。子供がどう思うかを考えてしゃべってくださいよ」

「だったらお前は大人になったことがあるのか、親になったことがあるのか」

「ないってわかってることを、いちいち言わないでくださいよ。あなたたちは社会の中心にいるんだから、家庭くらい子供の中心にするべきでしょうが」

「それを大人はダメだとわかってるんだよ。だから向かう方角を教えてやるんだ。知ってる者が導く、それを否定するのか」

 梓馬と幹彦はともに感情的になっていた。どちらにも似た背景があり、その重なる部分の名が劣等感だったからだ。

「受け継がれていくこと、それを否定することはできません」

「そうだ、ホモ・サピエンスはこれまで伝統を――」

 幹彦が歴史を根拠に、話をまとめに入ろうとした。伝統という単語は、属性自体が強力で、積み重ねられた正論と同じ効果がある。だが梓馬はそれを、現在という結果で遮る。

「失敗ってわかってる手段に、いつまでもしがみつかないでくださいよ」

「…………いまの朱里を、失敗だと言うのか?」

 幹彦が即座に返答できなかったのは、正面から返しようがなかったからだ。それゆえの詭弁。手段の話をしているのに、朱里という人間の話にすり替える。

 別の解釈を提案することで、梓馬の言葉も再解釈にかけようという狙いだ。

その大人の狙いをわかりつつ、梓馬は皮肉に正面から向き合っていく。

「朱里は失敗でしょうが」

 その返答は紀子や沙月だけでなく、朱里さえも驚かせた。

 幹彦は想像外からの衝撃に耐えながら、声を低く発する。

「それだけのことを口にしたんだ、説明はしてもらうぞ」

 梓馬は、もちろんと頷いた。

「助けてを言えない子になるのが、正解だって言うんですか」

「朱里は問題を自分で処理できる子だ」

 幹彦が言うと、周囲も同意とばかりに頷いた。

 その態度が梓馬を怒らせた。

「あんたらはこれだけ揃って、誰一人気付かなかっただけでしょうが。初めて会ったときからずっと……、朱里は助けてを言っていたんだ。その声を、俺だけが聴いた……」

「…………」

 幹彦は言い返すことができなかった。紀子は肩から力を落とすようで、沙月は目を細めるだけだった。なにもできなかったという負い目が、彼らから正当性を奪っていた。

 朱里を苦しめていたのは期待だった。

 幹彦は自身が四十年かけて作り上げた人生の立ち回りを、幼い朱里に話して聞かせていた。理性のコントロールが未熟な子供にとって、それはずいぶん難しいことだっただろう。だが朱里は親に褒められたいという、子供ならば誰もが持っている気持ちで努力し続けた。

 そして二度の失敗はあったものの、有名私立大学の付属に、中学校から入ることができた。

 ここだけを見れば、誰が朱里を期待に応えらなかった子と思うだろう。しかし。

すべての分野で高水準を維持しながらも、吐露できない願いがずっと心を掘っていた。朱里の才能はすべて、そこから湧きだしたものだ。

 親が毎日のように無能だという人間は、朱里と同じ特徴を持っている。

 朱里はもう壊れていた。

 梓馬の言葉はこの部屋全体に突き刺さっていた。

 これが戦って勝つということの結果だ。全員が気まずい思いをしている。それはこの状況を作った、梓馬本人でさえも。

唾をのむ音すら盗聴される静けさ。暴かれた罪を前にして、手を付けることができない。ただ一人、元被害者である朱里が、通りの良いため息をついた。

「お父さん、お金ならこの家にあるじゃない」

 その口調には、もう戦う気配がない。

「ああ、確かにそうだ。正直なところ、そこのそいつが働かなかったところで、お前たちふたりは生きていける。でもな、気に入らんのは、そいつが死に物狂いでなんとかしようとしていないところだ」

「彼は彼なりに必死にやっています」

「確かにそうなのかもしれん。でもそれじゃ足りないと言ってるんだ。例えばお前は、せっかく受かった学校を捨てた。明城に行けないと自殺する、そう俺たちを脅した。こいつのためなんだろ?」

「さて、どうでしょう……」

「構わんさ、朱里がそれで幸せになるなら。で、こいつのほうはどうだ? へらへらしてるだけで、朱里に言われてやっと骨を見せるかと思いきや、今度はうちの子育ての批判だ。その前に言うことがあったんじゃないか?」

 幹彦の言葉には棘があるが、しかし同時に大人の余裕も含まれていた。状況の説明がなされたからだ。

 朱里が転校してきたこと、妙に自分に構ってくれたこと、すべて幸運だと思っていた。あるいは運命なんだと。だが違った。すべて誰かにお膳立てされていた。

 自分の容姿や家族に対して不満たらたらの子供が、どれだけ恵まれた環境にいるかを思い知らされた。しかし最初にするのはやはり自己弁護で、梓馬は朱里の行動が水面下だったと考える。知らなかったから、仕方ないじゃないかと。知っていたら、もっと別の行動を取っていたと。

 そこまで考えれば、なにが原因かなど自明だった。

 知らないことを、俺は知ってたじゃないか――

 視野の狭さは物事を隠す。しかし見えているものがすべてでないと思えたなら、少なくとも暗闇に手を伸ばすことはできる。慎重であるということは、臆病ということではない。

 家族に紹介されたということ。すべての前提を含めば、家族の一人を奪いにきたということになる。それはつまり、説明責任があるということだ。

「すみませんでした……」

 梓馬はゆっくりと頭を下げた。自分がどういう失敗をしたのか、心底理解したからだ。

 幹彦は咳払いで、少しだけ残っていた威厳を吹き飛ばした。

「生きてれば、それで良いと言うがね、それは野生のルールだ。好きな女の両親に会うなら、服装よりも手土産よりも、もっと重要なものがあるだろう。幸せにするという保証だ」

「ごもっともです」

「もちろん結果が伴わないこともある、御覧の通りだ。だがいま私がこうして朱里と一緒にいられるのは、これまで愛情を持って育ててきたからだ。過程があるから、この家庭が存続している。結果だけが何かを生むわけじゃない。だから市原、くん。君がどういう人間か行動で見せてくれ」

 幹彦は照れくさそうに、初めて苗字で呼んだ。

 それは一種の承認のようで、梓馬も鼻の下をかいてしまう。頬が熱くなっていくのと同時に、胸にいままでにない暖かさが湧いてくる。これは家族の灯だ、とすぐにわかった。

 脳裏に未来が浮かぶ。沙月と幹彦のような関係に、自分が混ざる日がくるという予感。幹彦をお父さんと呼んでみようと思った。

「全力で頑張ります、おとう――」

「そうか、全力か。よしじゃあ俺と同じ大学くらいは余裕だな。結果が出せなかったら結婚はなしだぞ」

 幹彦は飄々としていた。

 してやられたと思った梓馬は、すぐに同じ武器を使う。

「過程が重要なんじゃなかったんですか」

「失敗とわかってることに、いつまでもしがみつかないことにしたんだよ」

 言われた梓馬は顔を真っ赤にした。

 それを見て幹彦は、こいつはやはり大したことないな、と思った。



 年末から、梓馬は受験勉強を開始した。明確な目標を持つことで、自分がこうまで没頭できることが嬉しかった。頑張れないという性格にも、劣等感を持っていたからだ。

 簡単な問題集に手を付けて、少しの手応えを得ていく。知識が広がるにつれて、一つの科目の全体像が見えてくる。一端その感覚を持つと、膨大に思えた世界が実は体系的に整理されていて、思っていたより狭かったことに気付く。その発見は、暗記と応用を効率化させていった。

 夕飯の間も頭のなかで、今後の予定を立てていた。明日は七草がゆを食べることになるとわかっていても、以前ほど母親に負の感情を持つこともなかった。

 偏見に囚われた母、抵抗することを諦めた父。この二人の存在は、梓馬の心の底に鉛を沈めていた。恨みも辛みもまだ消えてはいない。なにか指図されると未だに殺意は顔を出す。しかし自分の気分が軽いときには、鉛もいささか浮き始める。

 湯舟のなかで疲れを呼吸にのせて吐き出すと、不思議だなと天井を見上げる。体の隅々に循環していた怒りや愛は、どこで作られているんだろうと。

 思考の内であることで、梓馬は大胆にも、自分の精神性が両親を大きく超えたような気になっていた。未成年にありがちな万能感は、耐性がないだけに酔いがまわるのも早い。

「争いは同レベル同士じゃなくて、低レベル同士で起こるんだろうな」

 誰が見ているわけでもないのに、悲しげな目を作って独り言ちた。湯に浸りながら世界を俯瞰して、それに哀れみを持つ自分に浸っている。決して誰にも見せることはできない、ちょっとした精神的オナニーだ。適度にやるならば体に良い。

 排水溝にこびりついた精液と思考を片付けてから、梓馬は風呂を上がって自室に戻った。すぐに机に向かうことになんの抵抗もない。しかし、朱里からメールが着ていたことに気付くとベッドに寝転んだ。

 夕飯前にふと思いついたことの返事だった。幹彦はどこの大学だったのかという質問を朱里にメールしていた。

 うきうきと開かれた画面に、梓馬は目が点になった。難関と名高い私立の名前が、軽い口調を思わせるニュアンスで書かれていたからだ。

「いまから間に合うのか……」

 結局のところ人間は、どんな事実よりも、わずかな想像によって足を止めてしまう。科学が発展した世界で文明人ですという顔をしているが、行動のすべては感情に制御されている。

 弱気になった梓馬は、朱里に前々から考えていることをメールしてみた。実は幹彦はこちらの覚悟が見たいだけで、努力さえ見せれば結婚を認めてくれるのではないかと。

 朱里からの返答はメールではなく電話だった。

『お父さんはそういう人じゃないわ』

 機嫌の悪い声だった。

『朱里のお父さんは、現役で合格しろとは言わなかったよな』

 半分は冗談のつもりだった。だが口にしてみると、確かにそうだなとも思う。

『どうしていつも正攻法を選ばないのよ』

 いらぬ表現が混じったせいで、空気はさらに悪くなっていく。

『なんでもかんでも正面からできる奴の物差しで考えないでくれ』

『そんなことを言っても仕方ないでしょ。やる以外の選択肢はないの』

『やっても無理だから別の方向を探そうとしてるんだよ』

『なんで無理だって思うのよ』

『これまでの経験からだよ』

 幹彦のやり方を真似てみる。

 もちろんその娘は、即座に切り返してくる。

『これまで以上に頑張りなさい。どうしてそう情けないの』

『お前は自分にできることは、他人にもできると思い込んでる。お前は俺にできることができるのか』

 信じられないことだが、このふたりが話し合っているのは自分たちの結婚についてだ。ともに暮らすためにという話が、次第にお互いの人格否定へと進んでいく。健やかなるときも、病めるときにも、支え合うのは当然だ。だが対立するときはどうだろう。

『わかってる。誰にだって得手不得手はあるわ。あなたが将来、屁理屈を仕事にしてもまったく構わない。でもね、これはあなたが私を娶ろうという話なの。そんなときくらい、恰好良いところを見たいって思うのよ』

『恰好いいところが見たい、か。俺に任せとけ。お前を絶対に娶ってみせる』

 夫婦とは、いついかなるときも支え合う。

『そう、あなたはそうしているのが一番似合ってる』

『しかし現実問題、やる気だけですべてが上手くいくわけじゃない。そうなった場合、どうする……?』

 梓馬は言外に、駆け落ちの選択肢を匂わせた。しかしそれはまったく届かなかった。

『大丈夫……、私がいます。絶対に合格させてみせます』

 朱里は言葉に強い気持ちを込めて言った。



 朱里がいなければここまで勉強を頑張れなかった、と梓馬は思っている。だが実際には幹彦が原因だ。

 恋と逆境で判断力を失っていたために起きた齟齬は、たやすく崩れる。一日も立てば、梓馬はすぐに合格は無理だと愚痴った。

 これに朱里は怒りではなく、涙を見せた。

 それをきっかけに梓馬は毎日だった朱里との電話も、勉強という単語で押し切って拒否することが増えていった。落胆されることに疲れたからだ。喧嘩にでもなればまだいいほうで、電話越しに鼻をすする音を聞かされると通話を切りたくなる。

 土曜日のデートは、お互いに楽しめていなかった。なにをしていても、この瞬間にもライバルたちと差が開いていると思うと、愛想笑いさえままならない。

 電車に乗って代々木公園へ向かう間、ずっと手をつないだまま無言だった。手のひらからお互いに不安と疑心が伝わり、心にだけ距離が生まれていく。

 公園内をしばし散策し、そろそろ昼食にしようという話になる。朱里は芝生に座りたがったが、梓馬はスラックスが汚れるのを嫌った。

「せっかくだ、ベンチに腰を下ろして食べよう」

「それだけは絶対にいや……」

 梓馬はここで下手に朱里と対立するのが怖く、それならばスラックスなどと芝生に腰を下ろす。ひんやりとした気温のなか、尻にだけある土の暖かさが気持ち悪かった。

 朱里が作ってきた弁当をふたりで食べる。長閑な人々を見て、自分とは世界が違うと梓馬は思った。誰も彼も幸せそうだ。あまり食欲がわかない。それは隣の朱里も同様のようだった。

 朱里はよく沙月の話をした。一番大事な親友だそうだ。梓馬はクリスマスパーティーで悪い印象しか持たなかったので、あまりいい気分ではなかった。だが質問をたくさんして朱里に喋らせた。自分には話題などなかったからだ。

 お互いに無為に感じながらも、楽しいデートを演出する。どちらの胸中にも、不穏な影を映しながら。

 言葉に詰まるとペットボトルを口にあてる。そうすれば数秒だけ、無言に対する言い訳ができる気がする。

 朱里は今日二本目のお茶に手を伸ばした。キャップを捻ろうとした際に、手が滑ってペットボトルを芝生に転がしてしまう。

「ごめんなさい……」

 些細なことだったはずなのに、ぽろぽろと涙も落ちていた。そして拾おうと手を伸ばしたのは、まるで見当違いの場所。芝以外のなにかを指が掴もうとしていた。

 梓馬は立ち上がってペットボトルを拾うと、朱里に差し向けて訊ねた。

「そこになにかあるのか」

 冗談めかして言うと、泣き顔だった朱里は目を見開き、愕然と口を開ける。そして首を小さくふって、自嘲気味に笑った。

「ごめんなさい、ペットボトルを拾おうとしたら、涙も落ち……たから、先にそっちを拾おうって。どうかしてるわね」

 少しの溜めから、なにを気にしているかわかった。そんなものを本気で気にしている人間を見るのは初めてだった。

「なにが落ちても、俺が受験で落ちる原因にはならない」

 梓馬は受験生に対する禁句を、あっさりと口にする。まったく気にしていないと伝えるために。

 朱里はその瞬間にも、落ちるという単語に反応する素振りを見せ、口の中で何度か「ごめんなさい」と言っていた。

 梓馬はさらに禁句を並べることにする。

「ついでに言うと、さっきの五十嵐の勘違いの話は、まあまあ滑ってた」

「その場にいたら絶対笑ってたと思うわ」

 意外にも朱里は、悔しそうに顔を歪めて歯を見せてきた。もう伝わったかという驚きもあったが、笑っているならそれでいいと納得した。

 そのとき、小学校低学年くらいの男の子が、おそるおそると近づいてくるのがわかった。梓馬はそれを視界の端に認めながら、しかしぎりぎりまで気付かないふりをする。すぐに無駄な抵抗だとわかった。

「すいません、ここにだれかいませんでしたか」

 イントネーションから、他人としゃべり慣れていないのがわかる。そしてなにが起きたのかも。

「ずいぶん前からここにいたけど、誰もいなかったよ」

 梓馬はあえてなにがあったかを訊かず、壁を感じさせる言葉を選ぶ。とても他人に構っていられる状況ではない。

「ありがとうございました」

 低学年の男の子はそう言うと、立ち去ろうとした。それを朱里が、立ち上がるという動作で遮った。そして男の子の前でしゃがんで、頭の位置を低くして笑顔を見せた。背丈を小さく見せることで、相手の警戒心を消そうとしていた。

「似たようなベンチが多いからね。お名前は?」

「みきひこ」

 男の子はぽつりと言った。梓馬はそれで吹き出しそうになった。

「なにをしていたら迷子になったの?」

 朱里はすでに、いくらかの想定を頭の中で作り上げているようだった。

 梓馬はそんな状況か、という視線を送ったが無視をされる。

「帽子どっかに落としちゃって」

「帽子をなくしたのね」

「なくしたら怒られると思ったから……」

「なにも言わずに探しに行ったのね。わかる、お姉ちゃんもそうだよ」

 朱里はそこから、覚えている物や、どんな入口から公園に入ったか、帽子を探していた時間などを訊ねていく。必ず両親に会えるという態度を、一度も崩そうとはしなかった。

 梓馬はその姿を見ていて、心にシャボン玉が浮くのを感じた。いままでのデートでも、朱里は困っている人を見捨てなかった。予約していたレストランに遅れることになろうとも、最後まで手を差し伸べ続けた。

 勉強の合間、よく未来のことを考える。学歴を誇れる大学生になった自分、驚くクラスの奴らと教師たちを想像して悦に入る。そして大学生だということで、朱里ととうとうセックスをすることを想像して、マスターベーションをする。想像するのはきわどい下着で女性器がちら見えしている朱里の姿だ。しかし射精したあとに想像するのは、自分の子供とそれに優しく接する朱里の姿。その瞬間は、人生の主人公が自分でなくともいいと思える。

 朱里は見事に両親を探し当てて、みきひこくんを笑顔にした。そして手を振ってお別れをして、その姿が見えなくなると、途端に表情を曇らせる。それを見て梓馬は先ほどの小さな違和感の正体を知った。

 落とした帽子を、なくしたと言い換えてたな――

 梓馬は息を吸い込むと、心にあったシャボン玉を吐き出した。それが例え、数秒後に破裂するとしても。

「本当に安心していい。俺はなにがあってもお前と結婚する。それだけじゃない。その先もずっと、お前と子供のために生きていく。いままで俺は確かに頼りなかったな。でもいま誓った。必ずお前と幸せになるから。だから信じて待っていてくれ」

 朱里は少しぽかんとした表情を見せると、にこりと笑ってから顔を赤くした。

 梓馬もさすがに照れてしまい、自分の顎をさする。すると朱里も嬉しそうに、自分の顎を人差し指と親指でつまんで下方向へと滑らせた。

「からかう元気が出たなら結構だ」

 梓馬はそう言うと、朱里の手を引いてからキスをした。

 このしばらく後、加賀美朱里は死亡する。


















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