第5話 鏡の中の君へ 前編(加賀美朱里編)その4
少しどころじゃない、まともな人間が一人もいない――
梓馬はその感想を飲み込んだが、普通の人間などテレビのなかにしかいない。
「でも、いいお母さんだな」
本当に、心からそう思った。先ほどの父親の態度も、娘への愛情が強いからこそだろう。ならば沙月もまた、朱里を取られまいという友情だ。
ここで梓馬は、腑に落ちた。今日ここにいるのは、朱里にとって大事な人間ばかりなのだろうと。ならばいまここにいる自分も、それに含まれていることになると。
「今日は来てよかった」
梓馬はしみじみと言った。
「じゃあ、そろそろタクシー呼ぶ?」
沙月が、手にタバコを持ちながら提案した。実に嬉しそうだ。
その笑顔を見て梓馬は、こいつにはタメ口でいいなと思った。
「お前が帰るのか?」
そう言い返して沙月を硬直させたあと、梓馬は点数稼ぎのために、紀子に飾り付けの手伝いを申し出た。
折り紙を細く切って、鎖状につないだだけの飾りだ。色こそ数種類あるが、紙の幅がバラバラで、まっすぐ切れていない。この部屋に似合っていなかった。
まるで幼稚園児が作ったような出来だったが、紀子が作ったのだと考えれば納得がいく。そして同時に不安になった。朱里以外では唯一の味方である紀子が、あまりにも頼りなく感じたからだ。
手際よく飾り付けを終えると、紀子はキッチンへと向かい、しばしバタバタしたあとに料理を運んできた。
大皿に並んだクラッカーにはチーズが乗っており、トッピングもいくつかの種類があった。紫蘇、キャビア、明太子、黒胡椒や、チョコレートに、色とりどりのジャムなど。他にもクリスマス定番のサンドウィッチやローストビーフ、しかしチキンの類はなく、目についたのは様々な種類のチーズ群だった。
ネクタイを緩めた沙月は、グラスに注いだビールを片手に、クラッカーとチーズを口に往復させていた。幹彦も紀子もそれを咎める様子はまるでなく、朱里までワインを飲んでいた。
立場があまり良くない梓馬は、未成年のくせにと指摘することもできないし、そもそもしたいとも思わなかった。かといって自分が飲むことはない。自分に敵意を持った人間が、この場に二人もいる。どこで難癖をつけられるかわからない。
沙月は加賀美家にずいぶん馴染んでいるようで、きつめのジョークを言っては、幹彦の顔を引きつらせていた。少なくとも、数年の付き合いがあると伺える。
梓馬はそれを眺めて、これから数年先、いつか自分も同じように、あの二人とジョークを言い合うのだろうかと想像した。どこか蚊帳の外のような気分だったが、しかし居心地の悪さを感じずに団欒を楽しんでいた。
その空気が瓦解したのは、宴もたけなわになろうかというところだった。乳製品の輸入会社を一代で成功させた幹彦に、沙月が自身の将来の相談をし始めていた。
沙月はEU古着のバイイングをしたいが、まずその伝手をどうすれば作れるのか想像もつかないと困っていた。それに対し幹彦は、自身の経験を交えながらアドバイスをしていた。
その流れで紀子が、梓馬に夢はあるのかと訊ねた。これに梓馬は困ってしまう。やりたいことなど、いままで考えたこともなかったからだ。
ここを沙月と幹彦は攻め時であると考えて、ねちねちと嫌味を言い始める。
「お前みたいな男じゃこの先が知れてるね」
沙月は喉の奥で、くひひと笑った。
「だめだよ。彼みたいな人間が、日本の経済を一番下から支えてくれてるんだ」
幹彦はそう言ってチーズを手に持つと、「ありがとう」と真面目な顔で言った。
梓馬はそれに対してへらへら笑っていた。今日はなにを言われようと、ずっと我慢しようと決めていたからだ。だがそれを面白くなく思う人物もいる。
「でも彼にしかできないこともあるわ」
目を半開きにした朱里が、静かに言った。
「え、俺ってなにかできたっけ」
梓馬は幼少時から親に褒められたことがなく、自分には価値がないと信じていた。
朱里は大きく頷くと、「私と結婚できます」と言い放った。室内の空気は一気に硬くなり、気まずい沈黙が降りる。それを破ったのは、震えた声だった。
「できないよ?」
幹彦が眉を八の字にしていた。
「どうして?」
朱里もさらに目を細めて応戦する。
「俺が認めないからだ」
「両親の承諾はいらないけど」
「普通の両親ならそうだろうが、あいにくお父さんは普通じゃない。お前たちが思いつかないような方法でもなんでも使って、お前とそこの底辺の結婚を邪魔する」
幹彦の口調には、信じがたいが本気で言っているとしか思えない凄みがあった。
「おじさん、あたしも協力するよ」
沙月も鼻に皺を寄せて、明確に悪意を示した。
各々の決意表明、初対面であるにも関わらず正面からの宣戦布告。どんどん形勢不利に陥る梓馬側に参戦を表明したのは、この部屋で一番頼りにならない人物だった。
「お母さんは、市原? 梓馬くんが朱里と結婚したらいいなって思うけど」
紀子は部屋の空気を読まず、自分の意見を正直に述べた。
梓馬はその姿を不覚にも、頼もしいと感じてしまった。どれだけ馬鹿そうに見えても、彼女は加賀美家の内政担当だ。影響力は申し分ない。
「なんで?」
幹彦は表情だけは穏やかに問うた。
紀子は自分でもわからなかったようで、それをそのまま口から出してしまった。
「わからないわね。でも朱里が自分で選んだんだし、本人の好きにさせてあげましょうよ」
「朱里が好きだからというのは、確かに重要な理由だ、お父さんはちゃんと尊重する。だがそれじゃあ、こいつじゃないといけない理由になってないな」
幹彦は紀子の主張を認めつつ、その上で自分の意見を強調した。
「あら確かにそうね。お母さんは朱里が幸せになってくれればそれでいいわ」
紀子早くも撤退。
「そう、別にこいつじゃなくて構わない。こいつでないといけない理由がない。だからお父さんは反対だ。そうだ、いますぐ別れるってのはどうだ?」
「別れません。彼と結婚できなかった場合、私は自殺します」
朱里は口調を正して、怒っているというアピールをした。
「そんな大げさな」
言いながら梓馬は感動しつつも、中立の発言をした。しかし場の荒れ具合はすぐに想像を上回っていることに気付く。全員が顔を青ざめさせていたからだ。
「そうだ。大げさだ、なにも死ぬことはない」
幹彦が強い語気で言う。しかし目線は下に向いたままだ。
紀子も勢いだけはそれに続いた。
「そんなこと本当に言わないで」
「朱里、そういうのは本当に言っちゃだめだよ」
沙月もどこか不安げな表情だった。
先ほどまでの様相がまるで芝居だったかのように、パーティーの空気が危うさを孕んでいく。
朱里はそれにも怯まず、自分の意見だけを伝えていく。
「私は本気で言っています。彼と結婚できなかった場合、首つり、飛び降り、飛び込み、いずれかの方法で自殺します。手首は切りません、信頼性に欠けますからね」
最後のくだりで、朱里は自分で思わず笑ってしまった。
「やめなさいっ」
幹彦は怒鳴り、直後に我に返る。そしてそれを、咳払いで取り繕った。口元を手で隠したい、という欲求が丸見えの動作だった。
「だったら私の言い分に、少しは耳を傾けてください。お父さんは彼の表面的なことしか見ていません。底辺だ、覇気がない、小物臭がする、ですって? それは自分の傲慢のコレクションを並べているだけに過ぎません。要するに自分は、上級で、覇気があり、大物だと子供相手にマウントを取っている。その行為自体がすでに、底辺かつ覇気なく小物だということに気付いていますか」
朱里の手口は、喫茶店でも見せたカウンターだった。相手の攻め口を、そのまま相手に当てはめる。
それを聞いた梓馬は思わず拳を握った。同じ目にあったことがあるだけに、これは効くだろうと、わくわくしながら幹彦の表情を伺った。
幹彦は、まるで動じていなかった。
「お父さんの言葉尻をとらえたところで、それはお父さんに対する悪口でしかない。朱里はまず、彼の良さを紹介するべきじゃないかな。本当に彼に価値があるなら、それを証明できるはずだ。いや、彼自身がそうするべきじゃないのか。なのにこいつときたら、お父さんと沙月ちゃんになに言われても、へらへらしてるだけだ」
朱里の放ったカウンターは、幹彦によって軌道をそらされ、梓馬の顔面に直撃した。
好きでへらへらしていたわけではない。対立したくなかったから、無理やり笑顔を作っていたというのに。
「なるほど、お父さんの言い分にも一理ありますね」
朱里はそう言うと、梓馬の顔をねっとりと見つめてきた。
「飲みすぎじゃないのか」
梓馬は朱里がなにを言い出すかわからず、落ち着かせようとする。アルコールの影響度合いはわからないまま、しかし朱里は挑戦的に口を開いた。
「あなたの良さを紹介することにします。さあ、あなたの実力で、わからず屋のお父さんに私たちの結婚を認めさせてください」
「勘弁してくれ、俺にそんなことはできない」
唯一アルコールが入っていない梓馬は、当たり前のことを言った。だが世間ではどれだけ常識的であっても、この密室ではただの異端者。つまらない奴の典型でしかない。
「これだけ言われて、黙っていることはありません。多少殴ってもいいくらいです。さあ、いますぐ隣人の頬を打ちなさい。父もお許しになるでしょう」
朱里がそう言うと、幹彦はネクタイを解いた。
「いい度胸だくそガキ、やってみろ」
「落ち着いてくださいよ」
梓馬は本当に帰りたいと思った。しかし朱里にがっかりされたくもない。
幹彦が酒臭い息を吹き付けてくる。
「落ち着いてくださいだと? なんだお前は、さっきから余裕ぶりやがって。どんと構えてるつもりか? かかってこいよ、小物野郎」
梓馬はたまらず朱里のほうに顔を向け、援護を要請した。そこには、じっとりとした幅広の目がこちらを射抜こうと待っていた。
「お父さんの言うとおりです。なんなんですか、あなたはさっきからずっとへらへらして。まるで本当の小物みたいに。あなたならば、うちのお父さんに勝つことなど容易なはずです」
朱里まで敵になったかのような発言。しかし。
わからないでもない、と梓馬は思う。彼氏の悪口を言われて、気分が悪いのは当然だった。そこが少し嬉しい。
「勘弁してくれ。言っておくが血のつながってない俺から見ると、朱里のお父さんはめちゃくちゃ怖い見た目に見える」
良く言うと精悍。悪く言うと反社会的で、ラメのスーツが非現実的だ。
「でも、自信があるんでしょう?」
朱里は指をさして、嬉しそうに訊ねる。どこまでも信頼しているということが、容易にわかる確かな声だった。
「いや……」
「相手はこれだけ強く、自分の意見を打ち出してきています。ここで完璧に砕けば、結婚は目の前ですよ。あなたがほしがっている愛情の証明、その最上級が結婚です。私と結婚したくないの?」
「結婚……」
「結婚すれば子供だって作ります。私は少なくとも、三人はほしいと考えています」
「三回も?」
「三人です」
「少なくとも三回か……。ああ、確かに結婚すれば、子供を作るのは当然だな。わかった、やれるだけのことはやってみる」
今度また朱里にアルコールを飲ませよう、そう誓った梓馬は幹彦のほうを向く。思えば今日はずっと芝居がかっていたのだから、それに付き合ってやろうという気にもなった。酒は飲まなかったが、空気には飲まれたということだ。
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