第4話 鏡の中の君へ 前編(加賀美朱里編)その3
付き合い始めたふたりは、これまでと変わらない距離で過ごしていた。一方で、これまでにない険悪なムードに陥ることも多々あった。
それは梓馬が騎士のように振る舞い始めたということだ。電車の中で他の男の視線や妄想から、朱里を体で隠しては視線で威嚇をする。クラスメイトが朱里は前の学校で人を殺したという噂をすれば、すっ飛んでいって睨みを利かせる。
この痛い行動を、朱里は嫌がり注意する。そして梓馬の性格は少しずつ矯正されていく。守ってくれる気持ちは嬉しいが、さすがにやりすぎだと。
困ったことではあったが、こういった日々の積み重ねは、夜寝る前の朱里を微笑ませた。
梓馬が騎士の呪いから解放されたのは、冬を迎えた辺りだった。いい加減にしなさいと怒られてから、初めてのキスをしたからだ。そこから梓馬はやたらに手をつなぎたがり、朱里の体の一部分を凝視することが多くなった。朱里を守るとは言ったが、貞操まで守るという約束はしていない。
セックスをしたがっていた梓馬だったが、それを切り出すことはできなかった。
朱里が人間の性に関するジョークを、極端に嫌がるからだ。そして、いまだに敬語が混じっている。
距離が縮まったかと思えば、そこに壁があることに気付かされる。特に梓馬を不安にさせたのは、日曜日は家族で過ごすから会えないという話だ。
踏み込もうとするたびに、これらのごまかしにも思える言い訳が、アクロバティックな疑心暗鬼を生んでいく。
その一方で、朱里が人の気持ちを踏みにじるようなことは、絶対にしないだろうとも信じられた。デートの最中であろうと、映画の上映時刻を過ぎようと、困っている人を見つけると、例外なく助けにいく姿を何度も見た。その姿勢を見るたびに、聖人のような印象を受けた。しかしキスの際に舌を入れようとして帰られた際には、果たして本当にそうだろうかとも思う。
梓馬の疑心暗鬼は夜寝る前に、本領を発揮していく。
今夜のテーマは、自分とのデートが退屈だったのでは、というものだ。朱里は迷子の子供をインフォメーションセンターに連れて行かずに、わざわざ親を見つけるまで手を引いて探した。確かにその瞬間、朱里は子供とだけ手をつないでいた。
俺のことが好きなら、子供と俺の両方と手をつなげばよかったはずだ――
こういった小さな出来事に、梓馬は大きな理由を捏造する癖があった。それはどんどんひどくなっていき、直接、朱里に自分のことを本当に好きなのかと問うことがたびたびあった。
そうすると朱里は朱里で、顎を指で摘まんで引っ張る動作をする。顎をからかわれると梓馬は途端に自信がなくなってしまい、クールぶって笑っては余裕を見せていた。
これが加賀美家のクリスマスパーティーで、父親と対決する遠因となる。
ある日もふたりは喧嘩になり、とうとう梓馬が愛情を形で見せてくれと言った。すると朱里は両親に紹介すると言い、梓馬は加賀美家のクリスマスパーティーに参加することになった。
ラフな格好でいい。そう言われた梓馬はそれを真に受け、アメリカのスポーツブランドのロゴがでかでかとついた黒いダウンジャケットを着て、足元だけはコインローファーを履いていった。
このコインローファーは朱里からのプレゼントで、私にはなにもあげられるものがないから、という言葉とともに贈られた。そして自分にプレゼントは絶対に返さないでほしいとも。こうして梓馬は加賀美宅に手土産なしで向かった。
ラフな格好でいい、気を遣わないで。これらの言葉は招待する側が、作法として言っているだけに過ぎない。ラフな恰好でいいということは、すなわちその場所がラフではないということを意味する。
スポーツブランドの梓馬の姿を見て、駅まで迎えに来ていた朱里の表情が固まったのは言うまでもない。
「うちのクリスマスパーティーは運動会ほど激しくないわよ」
「ああ、だから黒で統一してきた」
黒がフォーマルカラーだという知識は、それ単独では手痛い事態を引き起こす。
「そう、気を遣ってくれたんですね」
「もちろんだ。なにせその、両親に挨拶……だからな」
梓馬が皮肉に気付かなかったのは、朱里の様相が普段と異なっているからだ。髪がアップにセットされていて、それを見るだけで心と股間が躍る。アウターはボリュームのある毛皮で、そこから伸びているのは高デニールのタイツ。柔らかい太ももの肉が、締め上げられていた。
「そうね。じゃあ友達を紹介します」
朱里はそう言うと、こちらに背を向けて立っていた女性に手のひらを向けた。
「あの子が五十嵐沙月です。ちょっと変わってるけど仲良くして」
「市原梓馬です。五十嵐さん、よろしく」
と、梓馬は背中に声をかけた。
沙月はこちらに振り向くことすらなく、片手を挙げるだけだった。
「ね、ちょっと変わってるでしょ」
ずいぶんだろ――
そうは言わずに、へらへら笑う。
「そうだな」
「じゃあ、行きましょうか」
朱里の合図で三人は歩き出した。
沙月はすでに加賀美宅の場所を知っているらしく、とことこと先に歩いていく。沙月の後頭部、金と白の中間のようなボブヘアーから、確かに変わっているんだろうなと読み取れた。
沙月はずいぶんと小柄だった。狭い肩幅にジャストサイズのダブルのライダースで、タイトなスラックスは大きな尻でぱつぱつになっている。
その尻が躍るのをなんとなく眺めていると、五十嵐沙月という人間がなぜか自分に対して怒っているのではと思えた。左右に激しく揺れている尻が、現状に納得がいっていないと抗議しているようだったからだ。実際には船をこぐような肩の動きが、怒りを表現している。
駅の北側を出ると、高さの違う道が頭上で行き合っていた。別の路線の駅が左手側に見え、そこを通り越して行くと、狭い路地にコンビニやカフェやスーパーが肩を並べている。駅の南側は飲み屋街らしく、暗くなり始めた空に赤い提灯が似合っていた。
その一帯を抜けると、様相は住宅街に早変わりする。線路沿いには古いアパートなどもあったが、少し北上するとあっというまに街並みがモダンになる。思わず街路樹にブランドロゴを探してしまうほどに。
加賀美宅は思った以上に近かった。周囲の家と比べて特段大きいというわけではないが、白い平屋を二つ重ねたようなデザインは、この街の長閑な雰囲気と合っている。
沙月はまるで我が家のように遠慮なく門を通過すると、玄関のドアに手を伸ばした。するとちょうど内側から誰かが出てくるタイミングだったようで、猫のように慌てて手を引っ込める。
「ああ、これは失礼をしましたね」
厚手のダウンコートを着た、六十代の婦人がそう言った。外国の血が入っているようで、横顔が立体的だった。
梓馬の位置から見える左目周りには、火傷の痕がある。濃いブラウンの髪がそれを覆っているが、その奥の窪んだ眼光は鋭かった。
「あ、すいません」
沙月はそう言うと、背中を丸めて深々と頭を下げた。
梓馬はそれを見て、沙月には意外と常識がありそうだと思う。それだけに自分に背中を向け続けているのは、疑いようもなく敵意があるんだろうとも。
「来てくださったんですか。すみません、こんな大事な日に」
朱里が顔を輝かせて言った。よほど嬉しいのか手を仕切りに動かしている。
婦人はそれを眺めて頷いた。
「……いいえシュリー、私はちょうど帰るところですよ」
同じように、仕切りに手を動かしている。
「ああ、そうですよね。すみません、わざわざありがとうございます」
「いえいえ、幹彦くんともご無沙汰でしたからね。それに今日ほど祝福されるべき日が他にないと知っていますから」
婦人はそう言うと、にやりと笑って梓馬を一瞥した。
遠慮のない視線、梓馬は自分の情報が抜かれている気がして恐ろしいと感じた。というのも、先ほどの朱里に合わせて手を動かしていたのを、ミラーリングではないかと読んでいたからだ。好意を得たいときに、相手の動作を真似る手法。実際に使っている人間を見たのは初めてだった。
婦人は顎を引っ張る動作をすると、「彼がこれの?」と意味ありげに訊ねた。
朱里は顔を嬉しそうにくしゃりとさせる。
「そうなんです、すごいでしょう」
普段よりも幼さを感じさせる仕草だった。
その婦人とのやりとりは、明らかに梓馬の顎について共通見解を持っていることを示していた。
朱里の両親も顎を引っ張りだすんじゃないだろうな――
「それでは私はこれで」
そう言った婦人を見送ってから、沙月が今度こそドアを開ける。玄関は家の外観からできる想像よりも、ずっと広い。梓馬は靴も靴棚もないことから、おそらく左手のドアの奥にウォークインがあるんだろうと考えた。
天井は吹き抜けになっており、途中にある二階の木の手すりから、玄関を見下ろせる形になっている。テレビでしか見たことがないなと眺めていると、そこに煌びやかなラメのスーツを着た中年男性が出てきた。精悍な顔つきとツーブロックの横分けが攻撃的な雰囲気を出している。
「いらっしゃい」
その男は、沙月にだけにこりと笑った。梓馬の存在が見えていないようだった。
「お父さん、この人が梓馬くん」
朱里が二階に声を投げた。
「へえ」
朱里の父、幹彦はそう言うと二階の奥へと消えていった。きっとすぐに戻ってきて、「へえ」の続きを話し出すと梓馬は待っていたが、もちろんそんなことはなかった。
「ごめんね、ちょっと変わってるの」
朱里は申し訳なさそうに言うが、これくらいの対応は梓馬も覚悟の上だった。
「気にしていない、大丈夫だ。きっといま忙しかったんだろう」
梓馬が苦笑いでそう言うと、左手のドアから沙月が出てくる。
「お前の恰好に呆れたんだよ」
ブーツを脱いだほかほかの足が露わになっていた。
沙月という人間は、正面から見るとより小顔で、挑戦的な表情だった。
梓馬は沙月の胸元を見て息を呑む。丸い風船のようなものが、二つついていたのも驚きだったが、それはともかくとして、ネクタイが結ばれていたからだ。
ラフな格好でいいって話じゃなかったのか――
梓馬は朱里に抗議の目線を送った。
「お父さんは沙月の恰好にもちょっと驚いていたわ」
朱里はその目線を無視して、沙月にそう投げかけた。
「ええ、ネクタイしてるよ。今日はラフな格好でいいんじゃなかったの」
沙月は泣きそうな顔をした。
ここで梓馬はようやく、自分の状況を正確に把握した。
幹彦と沙月は、結託している可能性が高い。両名の無遠慮な態度について、朱里は少し変わっているからと説明した。梓馬はこれを弁明だととらえていたが、間違っていたと気付く。
変わっているから無遠慮な態度も平気でする人たちですよ、と紹介されていたと。
「思ったよりまずい状況だな」
独り言めいた呟きに、朱里がにっこりと笑う。
「だとしても、あなたなら問題ないでしょう?」
その信頼には即座に答えるべきだっただろう。しかし梓馬は顎に手を当てて、どうしたものかと考え始める。すると朱里の手が伸びてきて、顎に当てている手を、自分の胸元に引き寄せた。
「信頼しています。おそらく、あなたよりもあなた自身を」
「……やってみる」
梓馬がそう答えると、朱里はうんと頷いてからコートをかけに行った。
戻ってきた朱里は肩が出ている濃紺のドレス姿で、白いアームカバーが二の腕付近までを隠していた。
梓馬は脇が気になって仕方なかった。ちろちろと見ていると、朱里に腕を引かれて応接間に通される。家具に彩りなどの共通点はなかったが、光沢のある物で統一されているのがわかった。素材を意識的に選択するだけで、こんなにもまとまりが出るのかと感心する。自分の母親には、絶対にできない発想だと思った。
「あらいらっしゃい」
そう言ったのは、赤い生地にオレンジ色の花がちりばめられたドレスを着ている女性で、カーテンに飾り付けをしている最中だった。
「お母さん、この人が梓馬くん」
声をかけられた女性が、梓馬を見て微笑む。
「朱里の母の紀子です。よろしくね」
「あ、よろしくお願いします」
梓馬はそう言って深々と頭を下げる。挨拶をされただけで感謝してしまい、動きが大げさになりすぎていた。
「梓馬くんは下のお名前はなんていうの?」
「梓馬ですよ。珍しい名前だと言われます」
それを聞いて、紀子の顔が硬直する。
「本当に珍しいわ……。梓馬梓馬くんっていうのね」
「え?」
梓馬も同じように硬直すると、朱里が苦笑する。
「ごめんね、うちのお母さん少し変わってるの」
「お、おう」
少しどころじゃない、まともな人間が一人もいない――
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