第31話 鏡の中の君へ 後編(加賀美朱里編)

 7 鏡の中の君へ 後編(加賀美朱里編)


 池袋に向かう電車のなか、梓馬はスマートフォンで動画を見ていた。周囲に覗かれないかと顔を振る。誰も見ていない。沙月もこちらを見ていなかった。

 白いコートからは、飛び出た沙月の後頭部が見えていた。体ごとそっぽ向かれれば、話しかける気にもなれない。鳩池を拉致したあの夜から二週間、今日まで事務的なこと以外ではまともに会話をしていなかった。

 沙月の様子が違うのは態度だけではない。これまで黒を基調としたコーディネイトだったが、今日は打って変わって白でまとめられている。

 白い薄手のコートは艶のある素材で、襟と袖と裾に金の刺繍が入っていた。あまり普段使いできるタイプのものではない。

 インナーのハイネックカットソーは唯一の黒で、金の南京錠モチーフのネックレスがかろうじて沙月らしかった。しかしワイドパンツと、先端に筋が入ったブーツはともに白く、まるで別人のように見えた。

 一方で梓馬は、最近気に入っているコーチジャケットに中学生時代のジーンズを合わせ、足元は朱里にもらったコインローファーを履いていた。今日はどうしてもこの靴を履きたかった。

 こうしてまた二人で行動しているのは、大橋久美に会うためだ。鳩池久吾を殺害できなかったという報告も曖昧で、拉致時の動画を直接見せるということしか決まっていない。

 動画をデータとして送ることもできたが内容のこともあり、できるだけ拡散の可能性を減らしておきたかった。現にいまも動画データが入っているスマートフォンは、無料のネット回線に繋がらないように設定してある。

 大橋久美と待ち合わせした場所は、東武東上線の改札近くにあるカフェだ。特に密会に向いているというわけでもなく、久美のアルバイト先が池袋だというのが決め手だった。

 松本花にも、なにかしらの事実を伝えるべきか。そっとしておいたほうがいいのか。決めきれないまま、梓馬は早歩きの沙月の後ろをとぼとぼついていく。

 ロングコートで尻の形が隠れていることを残念に思いながら、これは遠回しに距離感を演出しているのだろうかと思った。自分に近づくんじゃない、と言っているように見える。

 梓馬はその根拠を、今日のこれまでに探そうかと思った。だがすぐにやめることにした。自分の考えは大抵的外れで、下手な行動力が現状を混乱させると反省したばかりだからだ。

 待ち合わせ場所は確かにカフェだったが、正確にはカフェアンドバーだった。ガラス張りの店内には、確かにバーカウンターが見えている。しかし特に入りにくい店というわけでもなく、入口のメニューには手頃な価格のランチメニューが掲げられていた。

 パスタセットとドリアセットに、それぞれA、B、Cと種類が振られている。梓馬はそのなかの一つ、四種のチーズドリアを見て、これだけは久美が注文していないようにと願った。

 大橋久美は、奥の四人掛けのテーブルに一人で座っていた。

 引きこもるのをやめて、アルバイトを始めたと聞いている。街なので身なりが整っているというのもあるが、オイルでニュアンスを出したシースルーバングが、久美の爬虫類のような美貌を際立たせていた。性的な意味で、どきりとしてしまう。そして同時に、この綺麗な女性がレイプ被害者だということも思い出す。朱里がそうさせた。

「久しぶり」

 沙月のその声のあと、梓馬は声を出せず、会釈だけで挨拶をすませた。

「久しぶりね、座って」

 大橋久美の手元には、半分ほどになったドリアがあった。チーズが白い。

 最悪のパターンだな、これは――

 梓馬は久美の対面に座り、沙月は久美の横に座った。意図的な席順に、久美は一瞬だけ目を見開いてから、にやりと笑う。なにかしらを読み取ったらしい。

 もちろん梓馬はその様子に気付き、しかし完全に読まれたわけではない、と高を括る。なにせ自分でも、自分たちの関係性を説明できないのだから。

 ウェイトレスが注文を聞いて去っていくまでの間、会話は一つもなかった。動画を見せるという予定がそうさせているのかもしれないし、梓馬と沙月の空気が悪いことがすべてかもしれない。

「じゃあ見てみようかしら。ちょっと怖いわね」

 声の調子はいつも通りだったが、さすがに手が震えているようだった。当然だ、自分をレイプした男の顔をこれから見ることになる。

 梓馬はしかし、心配しなくともいいと予想していた。

 久美はあれから鳩池のSNSを監視していたらしく、階段から落ちた怪我でイベントの出席をキャンセルした、という投稿を見た。そこから梓馬と沙月の関与を看破して、沙月に連絡を入れる。その際に動画の存在を伝えて、今日会うことになった。

 久美のこの行動力は、正しさの鎖が立ち上がることを強制していたからだ。それでももし、少しでも辛そうな様子が見えたら、すぐに動画を止めようと梓馬は決めていた。

 むしろ心配なのは、ドリアの方だ――

 梓馬はそう思いながら、久美に話しかける。

「顔はあまり映っていない。見ても判別できるかわからない。身分証は映してある」

「へえ、面白そうね……」

 やはり久美は手だけを震わせながら、ピンク色のバッグへと手を伸ばした。その口にはタオルがかけられていて、中身が見えないようにされている。ごそごそと動いてから出てきた手には、イヤホンが握られていた。そして勝手に無線接続する。

 自分のイヤホンを貸そうと思っていた梓馬は、配慮が欠けていたなと思う。そしていまできる配慮を口にする。

「そのドリア、先に食べきった方がいいんじゃないか」

「大丈夫よ、休憩時間にグロ動画とかよく見てるの」

「そうか、なら安心だ」

 撮影した動画は、一部しか見せないよう編集してある。朱里がノーマンズクラブの共犯者だったことを隠すためだ。梓馬はスマートフォンで動画の用意をして、あとはタップするだけにして久美に渡した。




 スマートフォンの画面には、鳩池久吾の免許証がアップになっている。裏表が順番に十秒ずつ撮影されており、その後カメラが引いていく。

 広い応接間の中央に、毛布を頭からかぶせられた鳩池が映る。毛布の隙間から懐中電灯とともにカメラが侵入し、鳩池本人の顔を映す。アイマスクが取られた顔はぼこぼこに腫れており、鼻から口にかけて血まみれになっていた。本人と身分証が同一だと証明しようとするシーンだが、非常にわかりづらいシーンだった。

 ここで編集が入り、次のシーンでは、いきなり全裸の男が畳の上で正座しているシーンから始まる。ぶるぶると震えるこの男は、再度アイマスクをされた鳩池だ。両手に嵌められた手錠の存在感が光っていた。

「名前を言ったあと、自分が犯した罪を告白しろ」

 声色を懸命に変えた梓馬の声がする。

 久美はちらりと目の前の梓馬を見て、しかし顔色を変えずにまた画面に目を落とした。

「鳩池久吾。集団強姦、集団暴行、管理売春です」

「そうだ、お前は俺に無理やり言わされているか?」

「いいえ、すべて私がやったことです」

 ここでアングルが少し動いたあと、低い位置で固定される。これは撮影者である梓馬がカメラを置いて、いくつかの道具を取りに行ったからだ。

 このしばらくの沈黙の時間に、久美は無表情で、梓馬と沙月の顔を一瞥した。現実離れしたこの映像から、二人の頭のなかを読み取ろうとしている。

 唐突にアングルが変わる。編集が入ったことが、わかる切り替えだ。これは梓馬が意図的に隠している部分をカットしたということだが、久美相手には逆にヒントになる。

 このあと動画内では、鳩池がマスターベーションを強要される。しかしこんな状態で勃起することは無理だと鳩池は主張し、仕方なく梓馬が手伝うという流れがノーカットで流れた。

 撮影者は沙月に変更されていた。

 鳩池を無理やり勃起させるために、梓馬が肛門にバイブレーターを当てている。その際の梓馬の気持ちは、久美にも読むことができなかった。

「無理です、勃たないですって」

 無理と連呼する鳩池。このとき梓馬は無理だったら、自分が勃起するべきかと考えている。しかし根気よく肛門とペニスにバイブレーターを当てていくと、次第に鳩池のペニスは反り返り始めた。ここで鳩池は泣き出してしまい、今度は横隔膜の痙攣もばっちり確認できた。

「ち〇こをこすれ」

「……」

「やれ、小指から千切ってやろうか」

「わかりました……」

 暗闇のなか、手錠の金属音とバイブレーターの振動音が、一定間隔でリズムを奏で始めた。

 鳩池が両手でペニスをこすっている間も、梓馬はバイブレーターで肛門を責め続けていた。時折聞こえる「ぐっぐっ」という泣き声には、芸術的表現が感じられた。

 最終的に射精された精液は、パックの白米で受け止められる。カメラの外から、沙月のえずく声が聞こえた。

 梓馬は透明のビニール袋からスプーンを取り出すと、精液のかかった白米を耕し始めた。ふんわりと、栗の花の臭いが立つ。また沙月のえずく声が聞こえた。

 レンジアップをしていないために硬いままの白米だったが、どうにか調理は完成した。

「食事の時間だ、食え」

 梓馬はスプーンですくった白米を、鳩池の口元に運ぶ。

 鳩池はなんの反応もせず、硬直しているだけだった。

「鳩池久吾、これを食え」

 再度そう言って、スプーンですくった白米を口に押し付ける。

 鳩池は小さく「いただきます」と言うと、口を開いた。そして意外なことに、ぱくぱくと食べ始める。口に入れた瞬間に、臭いで気付くだろうと思っていた。鼻と口が血まみれの鳩池は、異臭に気付けなかったということだ。

 腹が減っていたのか、食いづらそうにしながらも、運ばれる白米を飲み込んでいく。沙月はその光景を撮影しながら、何度もえずいていた。

「おい鳩池、お前がいま食っているものは、お前の精液がかかったご飯だ」

 告げると鳩池の口が止まり、数拍遅れて噴き出した。それがもろに梓馬の顔面にかかってしまう。同時に沙月の笑い声が聞こえた。

 梓馬は顔を拭いながら、カメラに向かって手のひらを見せる。これは沙月に包丁を要求しているということだ。沙月は「だめ、約束したよ」と言った。

 その後、鳩池はペンチで脅されて完食させられる。最後にご馳走様でしたと無理やり言わされると、画面の右下にfinという文字が浮かんで動画は終了した。




 暴力的な拷問を行わなかったのは、現場での沙月との協議の結果だった。抱き合って泣いたあとで、どうしてか不思議と二人でこの決断をした。それは沙月の自己犠牲の精神の影響もあっただろう。とはいえ、このまま鳩池を解放するということもできない。それでこの動画が撮影されることになった。

「政治家としては致命的なはずだ。これで口封じになると思うが……、どうだった?」

 梓馬が自分から訊いたのは、久美がすぐ感想を言わなかったからだ。この程度の仕打ちでは生温い、そう言われるのではと危惧していた。

 久美は一度、ドリアに目を落としてから言う。

「あなたきっとアーティストになれるわ、お大事に」

 皮肉たっぷりだが、必ず殺すという約束を破ったことには言及されていない。これでよかったのか、梓馬は確認したかったが、自分から言い出すこともできない。

 結局、妙な空気に耐えられず、どうでもいいことを質問する。

「アルバイトは楽しいか?」

「労働を楽しいって思う人いるのかしら。働けばわかると思うけど、苦痛か充実か、そのどちらかよ」

 その言葉に梓馬はにっこり笑った。

「確かに、同感だ」

「そんなに長くやるつもりはないのよね。すぐに就職先を見つけるか、来年から大学に行くお金貯めるかで迷ってるの」

 久美は言外に、どう思うかと訊ねてきているようだった。

「ゆっくり考えればいいんじゃないか」

「来月にでも家を出て、一人暮らししようと思ってるの。だから未来を見越した物件を選びたいんだけど。就職と大学、どっちにしようかしら」

 そう言われて梓馬は、即座に答えた。

「大学を選んだ方がいい」

「どうして……?」

「俺と、同級生になれる」

 梓馬が言うと、久美は目をぎょろりと動かした。

「素敵なアイディアね、ぞっとしたわ」

 梓馬と久美は二人同時に笑った。白いコートを着たままの沙月は、明後日の方向を見つめたままだった。

「さて、俺たちはこのあとも行かないといけない場所がある。そろそろ失礼させてもらう」

 そう言って椅子を立ち上がろうとしたとき、久美はスプーンで皿を鳴らした。

「待って。知恵のこと、なにか言ってなかった?」

「ああ、それは……」

 訊きもしなかった、とは言えなかった。嘘をつけば、久美には見抜かれるかもしれない。その不安もあったが、それとは別の感情もある。

 朱里の被害者に、少しでも救われるような言葉をかけたかった。そして自分が仕掛けた正しさの鎖を、少しでも緩めておきたかった。

「あの男ははっきりと、自分が殺したようなものだと言っていた」

「そう……、動画はないのよね?」

「ああ、さっき見せたもの以外は念のため、すべて削除した」

 ばれるとわかっている嘘を吐く。

「わかったわ、仕方ないわね」

 久美は眉毛を八の字にして笑った。

 それを見て、梓馬は見抜かれただろうと直感する。

 まあ、お互い様か――

 久美が一人暮らしをしながら、大学に行くという選択肢を持っていること。その資金を用意するのに、長くはかからないと言えること。千葉に住んでいる久美が、わざわざ池袋で働いていること。

 梓馬はどんなアルバイトをしているのかと、あえて訊かなかった。被害にあったあと、そういう道を取る人間がいるということを知っていたからだ。

 部屋の外に出ることにした久美は、その生来の力もあって活き活きとしている。前向きに人生を生きようとする姿勢は、この先もっとも必要な資質だろう。緩んだ鎖は正しさの強制ギプスとなって、きっとそれを支えていく。

「さて、そろそろ行くわね。同級生になるために稼がないといけないから」

 久美は親指を立ててサムズアップしてみせる。ペニスを握っているように見えた。

「ああ、楽しみに待っている。久美さんならきっとやれるはずだ」

「当然よ」

 久美はそう言うと、バッグに手をかけて立ち上がる。そしてドリアを半分残したまま、外の世界へと飛び出していった。

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