第9話 雲覆う谷間の影には(松本花編)その3
埼玉から家に着いた梓馬は、行事のような夕飯を終えると、すぐに風呂に入った。今日起きたことを考える前に、やるべきことをすべてやり終えていたかったからだ。とはいえ帰路の間も、咀嚼の間も、湯舟に浸かっている間も、いつでも梓馬の頭のなかにあるのは、朱里と知らない男がセックスをしている映像だ。
勃起したままバスタオルで体を拭き、パンツだけを履いて自室に戻る。部屋着に着替えてベッドに寝転がると、これまでに何度も見たAVのように、自然に映像の続きが脳内で再生できる。
想像のなかの朱里はいつも、自分から男を受け入れている。女性器を抵抗なく露出し、男はそれがどれほど奇跡的なことか考えずに、ただただ自分の欲望を満たしている。
まずい、という感覚が梓馬の意識を現実に戻した。このまま想像を続けても事態に進展はなく、ただやり場のない怒りが空回りするだけだ。
いまできることだけを考えるべきだ――
無理やり推論を立てることで、逃避することにした。シングルタスクの頭は、複数のことを同時にはできない。残念なことだが、この場合は功を奏したといえる。
今日起きたことで最も気になる点は、朱里が松本家になにをしたかだ。友情が壊れるというのはよくある話だが、両親の行動を踏まえれば並大抵のことではない。仮説はいくらでも立てられる。一つに絞るには情報が足りていない。
朱里、お前はいったいなにをしたんだ――
行き場のない心が口から出そうになったとき、ふいの着信があった。知らない電話番号からだった。タイミングから考えて、最初に浮かんだのは松本父だ。秘密があれば吐露したいというのが人間の心情、しかしこの電話番号を知っているわけがない。スマートフォンはまだ振動を続けている。合わせるように動悸も激しくなっていく。
沙月が電話番号を教えたのかもしれないしな――
そう思い、通話のボタンをタップした。
『もしもし市原くんか?』
低い男性の声を聞いた途端、心臓が止まりかけた。加賀美幹彦だった。
『そうです』
『気を落としているだろうが、試験は絶対に受けなさい』
受験をしないことが、看破されているという図星。そして唐突すぎる切り出しは、梓馬を苛立たせるのに十分だった。朱里をもう、過去のこととして扱っているのがありありとしている。
『幹彦さんはもう立ち直られたんですか?』
『泣いて朱里が戻ってくるならそうする』
皮肉に対して堂々と返す幹彦は、確かに正論を言っただろう。それが梓馬を余計に興奮させることになる。
『元気にしてれば戻ってくるわけでもないでしょうが』
『そうだ、どちらにしろ過去はもう戻らない。なら未来のことを考えなさい。君が試験を受けなければ、朱里は絶対に悲しむ』
『まるで生きてるみたいに……』
梓馬は震えていく声を聞かれたくなくて、即座に赤いボタンをタップした。切り際、『試験は絶対に』という声が聞こえた。
梓馬はスマートフォンを壁に投げつけようとして、定価を考えてできなかった。
あれが大人の判断なのか、正しいことなのか、そんな考えが頭を巡る。
俺が劣っているのか――
幹彦の言動があまりに理解できず、逆に自分がおかしいのではと思えてくる。
確かに受験時期のいま、なにもしなければ失うものは大きい。わざわざ電話してきてくれたことからも、親としての責任や気遣いがあったのはわかる。それでも。
幹彦の人間臭い部分が見たかったわけではない。ただ梓馬は、朱里がいないとわかっていながら、それでもいないと告げられることが許せなかった。
全身にあった悲しみが体積を超えていく。そして水分に分解されて、目から排出された。ストレスの限界を迎えた梓馬の思考は、寝返りを打つことで進路変更をしていく。
いまこの瞬間に、朱里が地球のどこかにいたら、と思った。もしそうだったなら、また顔を見ることができる。そのためならなんでもするだろうと。
草原に風が吹く穏やかな国で、なにかしらの事情があって、連絡ができなかった朱里と再会する場面を想像する。
寂しかったと連呼する自分だったが、どうしてか救われた気分になり、流れている涙が暖かくなった。逃避の沼に身を沈め、外国で朱里とふたりで暮らす妄想を始める。何度も抱きしめた。どれだけ大切に思っているか、存分に伝えた。自分もすべて捨てて、ずっと一緒にいると約束した。
ふたりで小さなボロアパートに住み始める。草原広がるこの国には似合わないが、これだけは外せない。農業と狩りでくたくたになるが、アパートに帰れば朱里がいるという生活は喜び以外のなにものでもなかった。
朱里はとても幸せだと喜んでくれて、頼りになる男だと言ってくれて、セックスをさせてくれる。眠るときは自分の胸を枕にし、同じものを見て笑い、ことあるごとにキスをせがんでくる。
どうせ影で浮気をしている――
浮気相手は家柄と成績が良く、顔の輪郭も整っており、親の金で車の免許を取った男だ。女をセックスの道具だと思っているタイプで、朱里とどうしてもセックスがしたいわけではない。やらせてくれるから、やるだけ。
その男には他にもセックスをするだけの女が複数いて、朱里はそのことを悲しんでいるが文句は言えない。言うと捨てられるからだ。
また俺を捨てるのか――
梓馬がそう独り言ちると、エアコンから吹く暖かい風が勢いを増す。唸りだした機械音の中に、かすかな人間語が混じっていることに気付いた。
梓馬はベッドから立ち上がると、机の上に置いてあるリモコンを手に取った。人間語を止めようと思ったからだ。だがそのとき、カーテンの向こうに、気配を一方的に感じ取った。
また幻覚の朱里か――
「なにも言わないんだろ」
梓馬はカーテンで隠れた窓にそう声をかけた。
どうせ顎をからかわれるだけ。そうわかっていても、好きと言ってもらえるかもしれないという一縷の望みには抗えず、カーテンに手を伸ばした。
顔が見たかった。
それを遮るように、振動するスマートフォンが梓馬を現実に呼び戻す。すぐに頭が冴えて、また幹彦からかと思ったが、沙月からの着信だった。
五十嵐沙月という名前を映して震えるスマートフォン、背景の黒に自分の顔が反射していた。それを見て、またおかしくなってたなと気を落とす。
『もしもし』
『お前の言う通りにしたら、アポ取れてた子にまで断られたっ』
沙月は勢いよくまくしたてていた。帰り際のあの不思議な空気感は、もう吹き飛んでいるようだ。
梓馬は視線をエアコンに向けた。人間語が出ていないのを確認してから返事をする。
『そうか……』
無数にある仮説のなかから、朱里がなんらかの理由で悪人だと誤解されているルートに進みたかった。そのために沙月に、条件をつけてアポ取りをするように頼んでいた。
その条件とは、加賀美朱里の名前を出すことだ。
『なんでみんな、朱里の名前を出した途端……』
朱里の名前を出した理由は、今後も同じことがあるか知りたかったからだ。もし松本家だけが警戒していたのであれば、あちらが狂人だっただけ、ということになる。しかしそうはならなかったようだ。
『名前を出して断られた人間に、今度は被害者の会の結成についてだと言ってみてくれ』
『意味がわからないよ』
『これでもアポが取れないなら、そのほうがいいんだ。確かめたいことがある』
結局のところ梓馬は、なにがあったかを知るのが怖かった。自分のなかにある理想の朱里が崩れてしまうと。
『わかった……。なにか注意することはある?』
『すべて任せる。俺はリストの人間の詳細を知らないからな。沙月の直感で選んでもいい。案外、頼りになる』
期待する言葉をあえてかけることで、沙月にやる気を出してもらおうという魂胆だった。だが沙月が気にしたのは別の個所だった。
『また下の名前で呼んだ』
『あっ……』
指摘されて息を呑んだ。
『ねえ、まだ恋人って設定、続いてるの?』
状況によってそう演じることもあるが、梓馬はそれを素直に口に出せなかった。
返事を待たずに、沙月が再度の質問をする。
『あたしも梓馬って呼んだほうがいい?』
『……そのときはそう、伝える。俺はもう寝るから、結果が出たらメールで連絡してくれ』
梓馬はメールの部分を強調して言うと、返事を待たずに通話を切ろうとした。スマートフォンを耳から離して、赤いボタンをタップしようとしたとき、五十嵐沙月と表示されている画面から『ねえ』と呼ぶ声がした。
『朱里は悪くないよね』
沙月の声が遠いのは、距離だけのせいではないだろう。
梓馬は画面に唇を添えると、自信を持った口調で言う。
『朱里は趣味が人助けみたいな奴だった、信じていい』
『うん……』
梓馬はその返事を聞くと、今度こそ通話を切った。
草原広がる国に帰る気にもなれず、エアコンの電源を切れているかを確認してからベッドに戻る。そして枕に顔を埋めることで視界を消した。
瞼の裏に広がる無限の空間に身体を投げ出して、自分も暗闇の一部になりたかった。そうすれば無になれる。
もし悲しみを消せるなら、この先の幸せすべてなくなっていい――
これは心が疲弊しているときの特徴だ。幸と不幸のバランスが崩れて、天秤が死へと傾き始めている。
いっそのこと死ぬか。そうすれば朱里に会える――
その思考が、梓馬をより深い無限に落とし込んでいった。黒の奥に広がる黒を眺めていると、光の残像が見えてくる。それは朱里の残したものだった。
もし死んで朱里に会えたら、自分は文句をたらふく言うだろう。梓馬はそう考えて、そのときの論戦に勝つ準備をしなければと思った。
そしてコンマ数秒のちに、スマートフォンの振動音で跳ね起きる。画面に表示される時間で、自分が小一時間ほど寝ていたことを理解した。
件名 なし
一人だけ返信きたよ。被害者の会に興味ない。関わらないでほしいって。
梓馬は返信をせずに溜息をついた。状況はどんどん悪くなっていく。アポは確かに取れなかったが、興味がないという部分が問題だ。それはつまり、参加はしないが被害者の会が結成されることを、疑問に思わないということだ。
胸の裏で不安が膨らみ始めていた。このまま進めば確実に後悔するという手応えが、傷付かないルートを探そうとしている。
一度寝てしまったほうがいいと考えた梓馬は、また枕に顔を沈めた。瞼の裏の暗闇、黒いスクリーンが映るだけの世界に、自分の体が同化する気配がない。寝よう寝ようとしても、無数の雑念、記録、閃きが点滅してしまう。
雑念はマフラーを映した、雲のようにふわふわとしていた。記録では松本花がそれに手をかけている。そして閃きが、あれは本来の使われ方ではなかったと嘯いた。
梓馬はその閃きが映す映像を直視した。松本花がマフラーを外そうとしている。そのときの視線は自分に向いていた。
俺がいたから、マフラーを取るのをやめたのか。なんのために――
沙月の暖かそうな胸の膨らみを思い出し、それから目を離せなかった自分を思い出す。そこから連鎖的に広がっていく推論は、梓馬が進みたくないルートだった。
発作的に別の可能性を無理やり絞り出す。材料はいくらでもあった。例えば、松本家のあの異常な警戒心だ。
マフラーになにか仕込んであっても不思議じゃない――
録音か、あるいは録画かと無理やり考える。録音はないとすぐ結論づけた。それならばマフラーに仕込まず、松本父に持たせるのがベストだからだ。
マフラーに仕込まれていたのはカメラだったんじゃないか――
梓馬は録画ということを、結論にしたかった。そもそも外す予定だったマフラーにカメラを仕込むわけがないことに、気付かない振りをしていた。
思考は進むが状況は変わらない。どれだけ自分を誘導しようとしても、マフラーが隠していたものに見当がついてしまう。その閃きはあまりにまぶしかった。
いやいやながら、結論の一つをスマートフォンにメモする。
被害者の会ですと言って、松本家に会っていればどうなっただろう。そう考え始めたとき、梓馬の意識は今度こそ暗闇に沈んだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ここまで読んでいただき、ありがとうございます。もしよろしければ☆評価とフォローお願いします!
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