第10話 正しさの奴隷(大橋久美編)

 4 正しさの奴隷(大橋久美編)


 梓馬は三軒茶屋のホームに立っていた。

 今回も最後尾の車両で落ち合う予定だったが、あえてそうしなかった。

 両手で二つの飲み物を持っている。一つは自分用のコーヒーで、もう一つは沙月が好むバナナオレだ。バナナオレはアイスのみの販売で、店員は無言でコーヒーも冷たいほうを持ってきた。

 冬に冷たい飲み物を二つ持って、手を凍えさせている理由は、沙月との関係性を良好に保つためだ。前回のように相手の前で、口論に陥るようなことは避けたかった。梓馬自身、本来は飲み物など必要としていなかった。しかし沙月に飲み物を渡して、自分が手ぶらという状況は避けたい。気を遣わせないこともまた、人間関係において必要な配慮だ。

 両手を冷やして立っていると、遠くから速足で歩いてくるライダースジャケットの姿を見つける。今日はダブルだが、サイズにいつもよりゆとりがある。紙の手提げを持ったその人影はやはり沙月だった。

 白金の髪色が人の注目を引く。ガラスレザーのローファーが地面を踏むたびに、水袋のような乳房が揺れていた。腰が細いせいで動きが目立ち、アヒルが尻を振りながら歩いているようにも見える。

 沙月はインナーにグレーのニットを着ており、首元からはシャツの襟が出ていた。襟付きの服を選んでくれと伝えていただけあって、黒い細身のスラックスにも気遣いが見られるが、なぜいつもアウターは反抗的なのか。

 ここでもう一度指摘すれば、またおかしな空気になるな――

梓馬は何気ない挨拶を演じた。

「よう」

 手に持っていたバナナオレを差し出すと、沙月の表情が歪んだ。

「あ、ありがと」

 沙月はそう言うと紙の手提げから、アイスコーヒーを出した。バナナオレの顔も見えている。梓馬もまた、顔を歪めることになった。

「お前もか……」

 これで二人とも、同じ飲み物を二つ持っている状態だ。ただ沙月は紙袋にしまえるので、そこまで不審にはならない。問題は梓馬だ。両手をアイスコーヒーでふさいだ男を、電車で見たことなどない。おまけにこの時期にアイス、ストローが飛び出ている。

「朱里から聞いてたんだよ、コーヒーが好きだって」

「好きなわけじゃない。なんとなく他に飲むものがないんだ」

「嫌いだった?」

 沙月は目を細める。上下のまつ毛が触れ合いそうだ。

 その仕草に梓馬は慌てて否定する。

「いや、そんなことはない」

 そして二つのストローを寄せて同時に咥えた。両成敗だ。

「そんなに好きなの……」

 そんなことをしている間に、電車はやってきた。ここから錦糸町までいき、乗り換えて千葉県に向かう。そこで大橋(おおはし)幸代(さちよ)と待ち合わせをしていた。

 日曜の昼時、上り線は座席が埋まっているが、車内は空いている。これが夕方の下り線になると、体が浮くほど人が詰め込まれる。帰りはそれに巻き込まれるだろうなと予想して、沙月のアヒルのような尻を見た。スラックスがぱつぱつに張っている。

 沙月は守護神のようにドアの前に立っていた。差し込んでくる日の光を、丸い胸で受け止めきっていた。

 その胸になにが詰まっているか。朱里への想いに違いないと言い聞かせて、梓馬は車窓の外を見た。重そうなものは目の前だけではなく、この先にも待っている。

 今回は前回よりも特殊な日となる。それは状況から想像できるし、常識からでもそうだ。

 今日会うことになっている大橋久美は、元々はアポが取れていなかった人間だ。

 大橋久美には当初、朱里の話を聞かせてほしいと伝えた。その際に断りの連絡をもらったが、追撃で被害者の会の連絡だと告げると、あっという間に話が決まった。

 そこから待ち合わせや日程の調整が始まる。その最中で沙月は、メールの相手が娘の久美ではなく、その母の幸代であることに気付いた。母親が娘の携帯を監視している状況は、松本家とは違った意味で大橋家の異常さが現れている。

 幸代はやり取りの中で、金はもらえるのかと、汗をかいた顔文字とともに訊いてきた。沙月はそれにどう答えていいかわからず、詳しい人を連れていくからその人に訊いてくれと返した。

 その詳しい人に扮しなければならないのが梓馬だった。

 車窓にうっすらと映る安物のトレンチコート、スリーピースのスーツ姿の自分を見て、まるで似合っていないという自覚があった。唯一、年齢を偽らずに自然なのが、言葉とともに朱里にプレゼントされたコインローファーだ。学校でもプライベートでも使えるということだったが、まさかこんな形で使うことになるとは思っていなかった。

 本当に大丈夫か――

 少しでも老けて見えるように、髪をかき上げて、生え際と目の距離を長く見せている。幸いにも、からかわれるほどの面長な輪郭は、同年代に比べればやや大人びている印象を醸し出していた。

 梓馬は当初、こちらも被害者という形で大橋久美に会おうと思っていた。一緒に被害者の会に入ろうと。しかしよくよく考えてみれば、これは非常に難しい。

 被害者が被害者に、どんな被害にあったんですかと質問することは、奇妙の一言に尽きる。今日一番の問題は、被害内容を知らないのに、常に話を合わせ続けなければならないという点だった。

 俺はいま正気なのか――

 車窓に反射するのは自分だけだった。

 船橋で降りて、北口のロータリーに向かう。一番手前はバスのレーンで、その奥にはタクシー乗り場がある。さらにその奥のレーンに、一台の白い軽自動車が停まっていた。シルバーのライナーが張ってあり、近づかなくても白い猫のぬいぐるみや、ヒョウ柄のカバーシートが目立っている。近くにドンキホーテがあるのかな、と梓馬は思った。

「大橋さん家の車、あれかも」

 約一時間ぶりに聞いた沙月の声は調子が低く、梓馬はその心情を、緊張していると読み違えた。

「一応確認の電話をしてくれ。いま北口に到着しました、と言えばいい」

「うん」

 そしてしばらく後、沙月が「やっぱりあれだったよ」と言った。梓馬は感想は述べず、背筋を伸ばして軽自動車に向かった。

 梓馬と沙月は二人して後部座席に乗り込み、新車独特の香りに包まれた。そして簡単な挨拶と迎えの礼を述べると、それ以降は一言の会話もなかった。

 車窓の外では、平成初期に大きく店舗数を伸ばした外食チェーン店や、ドラッグストアなどが目につく。その間にアクセントのように刺し込まれた個人経営の飲食店は、手作り感満載のポップやのぼりを掲げている。まるで悲鳴をあげているようだ。その派手な装飾は、劣勢であることを告白しているに等しい。

 駅から少し外れて国道を渡ると、大きなホームセンターが丘の左手に見える。その真向いには大規模な市営団地が陣取っており、一行を乗せた軽自動車はそこへと進入した。

 白い線だけで簡単に仕切られた駐車場に、軽自動車は収まる。梓馬は先に降りてから、送迎の礼を改めて言おうと、素早く運転席のドアに回り込んだ。そして正面から大橋幸代という人間を見て、少し動揺してしまう。

 まんまるとした体形に、張り付いているかのようなダウンジャケット姿。それは黒く艶のあるゴミ袋のようだった。その下には大きな犬が構えた白のセットアップが、破壊的なコントラストを生み出している。そしてアクセントとして加えられたミニショルダーは、女性解放のイメージを持つフランスのブランドだったが、どちらかというと幸代の太った体を締め付けているように見えた。

「こっちです」

 幸代はそう言うと、大きな体を足で移動させ始めた。その道すがら、梓馬はまじまじと周囲を観察する。親と子供という小さな単位や、子供だけのグループという単位をいくつか目にし、衝撃を受けた。

 休日なのに、学校指定の体操服を着ている子供がちらほらいる。数名の子供が携帯ゲームをやっていて、もっと大勢の子供がそれを後ろから覗き込んでいる。

いくらかの人妻は、幸代を見て声をかけようとしたが、梓馬と沙月の姿を確認して会釈だけにとどめた。その反応から、梓馬は自身の姿が大人に見えたかと、少し余裕を取り戻す。

 そこまで自信が持てたのは、この市営団地に住む人々を低く見積もったからだ。知識や教養、そして機転までも、自分が負けるわけがないと思い込んだ。梓馬の劣等感は、こういった性格に端を発している。普段から、裕福な人間に見下されていると感じるのは、自分が他人に同じことをしているからだ。自分がしているから、相手もすると思い込む。

 D棟の三〇二号室には、プラスチック製の表札が出ており、そこには黒のマジックで田所と書いてあった。

「狭いところですが」

 幸代はそう言うと、玄関を開いた。途端にむわっとした暖房と、他人の家の匂いに包まれる。傷んだ靴が靴箱に収まりきっておらず、あちこちでひっくり返っていた。

 入ってすぐの右手には、浴室とトイレが並んでいた。壁にいくつかの家庭内暴力の痕跡が残っており、左手には襖が見える。

 その半開きの襖の奥には、老人の夫婦が並んでおり、口も半開きになっていた。古く狭い部屋に不釣り合いな大きさのテレビでは、ワイドショーが流れている。梓馬はつい覗き込んでしまい、老人夫婦と目が合った。丁重にした会釈は無視される。

 幸代に案内されて奥に進むと、すりガラスが格子状にはめ込まれたドアがあった。幸代が汚れたノブカバーを引くと、無理やり片付けたような居間が視界に収まる。

 壁には色々な物がよりかかっている。部品が足りなさそうなおもちゃや、ほこりをかぶったUFOキャッチャーの景品。それら無造作に並ぶ横で、ハイブランドのショッパーだけが綺麗に畳まれている。

 左手にはキッチンがあり、埃の積もった調味料群が、スチームパンクのようにそびえたっていた。近くに置かれたテーブルには、材質や高さの違うイスが備えられており、コンセプトが不明。床に置かれているピザ屋の大袋の横で、新品に光る空気清浄機がこの部屋をどうにかしようと頑張っている。

 右手には大きなタオル地の布が垂れ下がっており、この部屋を無理やり二つに仕切っていた。おそらくあそこが大橋久美の部屋だろう、そう梓馬は推測した。

 座るように言われ、梓馬は正座で、沙月はあぐらをかこうとしてから正座した。

 梓馬がコートを脱ぐと、沙月が手を出した。流れでそのまま手渡すと、沙月はコートを器用に畳んだあと、自分が脱いだライダースに重ねて置いてしまう。そのあとに、ぽんぽんと手で叩いた。

 お前のなかで俺たちはどういう設定なんだ――

 梓馬はやめろと言いたかったが、古着の匂いに関して複雑なものがあるだけに、黙っているしかなかった。そして自分たちの関係を問われたら、どう答えようかと悩んだ。

 ダウンを投げ捨てた幸代は、冷蔵庫から二つのチルド飲料を取り出して勧めてきた。有名コーヒーチェーンがコンビニやスーパー用に開発した三五〇ミリリットルサイズのものだ。小売価格は二百円ほどだが、スーパーなら百五〇円でお釣りがくる。

 梓馬はストローを突き刺して一口吸うと、すぐに話題を切り出した。

「本日はよろしくお願いします」

 そう言って名刺を差し出す。

そこには『日本法律・犯罪シンポジウム 品川区支部 横山(よこやま) 司(つかさ) 』と書いてあった。名刺屋で一枚だけ作ろうとしたら唖然とされ、一〇〇枚の注文することになったものだ。

 この名刺は、国名や有名な区で適度な権威を表現し、カタカナを混ぜることでいささかの誤認を誘発させ、しかし自分が本物の専門家ではないということを説明できるニュアンスに仕上がっている。自分で作っておいて、意味がわからないと思っていた。

 幸代は受け取ると、まじまじと見入ってから「ははぁ」とわかったかのような声を出した。

 梓馬は幸代の娘、大橋久美が在宅か確認することにした。

「早速ですが――」

「あのお、無料なんですか」

 幸代は自分の言いたいことを押し込んできた。

 梓馬は用意しておいた回答を口から出す。

「やはり費用はかかります。ですがアメリカではですね。訴訟をしたいが費用がないからと諦めている方々に投資する団体がありまして、日本でも最近は増えてきているんですね。私どもはそういった団体や、それと連携できる法律事務所などの仲介に強く、訴訟予定の方々になるべく負担がかからないよう案内をしておりますのでご安心ください」

 梓馬は、訴訟が盛んな国の名前を盛り込むことと、負担は最小限にするということで安心できると伝えたつもりだった。

「ははあ、なるほど。どれくらいかかるんです、なんとなくでいいので」

 費用の具体的な金額など焦点になるとは思っておらず、梓馬は少し目を泳がせた。しかしその裏では、もしやという予測が立ち始めており、それを見極めるためにも、響きが嫌いな言葉を使うことにした。

「実質無料です」

 やや強めの口調で言ってしまうと、幸代は今度はそれなりにわかったのか、ふんふんと顎を縦に振った。

「奥様のご心配はごもっともです。他のみなさんも最初はやはり、そこを心配されるんですね。でも大丈夫です。費用などはファンドから支払われますし、いくらかの手数料や報酬分も私どもが間に入ってファンドと法律事務所に分配しますので、実質無料です」

「じゃあ私はなにもしなくていいの?」

「ほぼそうですね。書類の記入なども事務所のほうでほぼ代行できますので、ああでも代行の委任状にもサインなどいただくことになりますが、ほぼなにもしなくて結構ですよ」

 ほぼの連続が効いたのか、幸代はまたも首をふんふんと縦に振った。

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