第12話 正しさの奴隷(大橋久美編)その3

 久美はいささか逡巡すると、ぽつりと言った。

「私は、あなたのことを訊いてるんだけど……」

 横山さんはフルネームを横山司といい、日本・犯罪シンポジウムの品川区支部に所属する男だ。

「あ、あぁ、俺のことか……」

「あなた何者なのよ」

「…………」

 梓馬は躊躇った。偽名を使おうかと思ったが、久美の観察眼を侮るべきではない。下手をすれば、偽名を耳にした瞬間の沙月の反応を、読まれる可能性がある。

 今日どういった結末が訪れるかわからない以上、本名を教えることは避けたい。

「あともう一度だけ訊く。もしあなたが自分の正体を明かせないなら、悲鳴を上げたあとに警察を呼んでと叫ぶわ」

「この人は市原梓馬、朱里の彼氏だったんだよ」

 沙月があっさりと白状した。

 思い切りが良すぎる。梓馬は驚きすぎて、なにも声を出すことができなかった。その反応は、この発言が真実であると保証している。

 久美は口元を手で覆っていた。微笑んでなどいない。驚いていた。だがそれも束の間、眼球をくるりと動かすと、視線は虚空に固定される。自分の推論と、目の前にいる男が朱里の恋人だったということを計算し始めていた。

 そうか、ルールは取引だったのか――

 梓馬は久美が細かく計算していることから、あちらにもなにか目的があると読んだ。そう考えると、周囲に人がおらず、監視下にあるこの場所を選んだのも納得がいく。実に密談に適していた。

「わからなかったのよ……。味方で良かったわ」

 考えがまとまった久美は、本当にリラックスをしたようで、爬虫類の印象が薄れていく。こうしてみると、目鼻立ちが綺麗な美人だった。

 沙月はそんな空気などお構いなしに、自分たちの情報の穴を埋めにいく。

「なんで朱里が来れないってわかったの?」

 久美は生唾を飲み込んでから、夜空を見上げた。過去の方角だった。

「私は過去に同様の事件があったのを知ってるの」

 事件という単語には違和感があった。なぜなら朱里の死は事故と表現されるからだ。

 梓馬はあえて指摘せず、続きを聞くことにした。

「どういう事件か聞かせてもらえるか」

 久美は頷いた。

「約四年前、うちの高校で女生徒が飛び降り自殺をしたと報道されたの」

「ああ、テレビで見たことがある」

「私ね、その女生徒と友達だったの。長谷川知恵よ、名前知らない?」

「知っている名前だ」

 実際に梓馬がこの名前を知っているのは、朱里と親交があった人間のリストを見ているからだ。

「知恵に呼び出されて、突然言われたわ。レイプされたって。逆推薦の話についていったら、お酒を飲まされて無理やりされたって」

 梓馬の顔が歪む。松本花の様子から、性犯罪があったのではないかと疑っていたからだ。

「テレビでは飛び降り自殺だったと言っていたが、なぜ殺されたと思ったんだ?」

「知恵はあいつらを訴えようとしてたの……」

「なぜそれを知ってるんだ」

「知恵とそのことで、話し合ってたのが私だったからよ。法学部志望だって言っていたから、私を頼ってくれたのね」

 久美はこめかみに手を当てて、顔を傾かせた。典型的なセルフタッチ、涙はいつもどおり重力に従う。二本の線が斜めに走っていた。

「その直後、殺されたのか」

「ええ、そうよ。絶対に罰を与えてやるって、準備している最中だったの。自殺なんてするはずなかった。なのに、飛び降りたって……」

 久美は目を硬く閉じた。体中の関節に力を入れることで、震えを隠そうとしている。

「それで朱里も殺されたと?」

 梓馬の問いかけに、久美は何度も顔を縦に振った。その姿は、先ほどまで自信に溢れていたものとは程遠い。

「私も、殺されるかと思った……」

「その言い分だと、朱里も知恵さんと同じ目にあったように思える。なにか心当たりはあるのか?」

 梓馬は口から心臓がこぼれ落ちないよう、慎重に自分をコントロールした。

「ええ……」

「そうか……」

 同調しつつも、梓馬はどうにも腑に落ちなかった。警察が朱里の死を事故だと断定している。それに朱里がレイプされていたとして、訴える準備をしていたようには思えなかった。

 いや、朱里は日曜日は会えないって言ってたな――

 日曜日にだけ訴訟の準備をしていたのではないか。そう考え始めて、どうもそれも現実的ではないように思えてくる。

 さらに久美の発言に対して、いまいち信憑性を感じなかったのは、松本家との差だ。確かに久美も、予め話し合う場所を選定していた辺り、警戒はしていただろう。だが松本家に比べるとずいぶん違う。

「久美さんも被害にあったのか?」

「私はされてない。なにもされなかったの」

 久美はまっすぐ目を合わせて答えてきた。

「そうなのか?」

「本当よ、信じて」

 嘘だろうな――

 松本花と似た反応を見せられては、梓馬はそう思うことしかできなかった。当然、それを暴くような真似はしない。久美がいま嘘をついているなら、その嘘に信憑性を持たせる手助けをすればいい。硬い口は簡単に開かれるはずだ。

「なるほど、久美さんは助かったのか。そのときのことを詳しく話してくれ」

 それを聞いて、久美は露骨に嫌そうな顔をした。だが結局は話し始めた。嘘を吐いた手前、拒否することができない。

「うちの付属大学の法学部、推薦枠は三十名あるの。私は自信あったんだけど、先生に厳しいって言われたわ。そのことで、落ち込んでたときだったわね。朱里ちゃんが相談に乗ってくれたの。最初は内部生の人に話しかけられてびっくりしたけど、すごく話しやすかったのよね」

 内部生とは、中等部以前から在籍していた者たちの総称だ。久美と沙月は高校から入学したので、外部生ということになる。

「朱里は人を肩書とか見た目で判断しないんだよ」

 沙月は嬉しそうに鼻をこすった。

「そうね。ヒエラルキーに対して、強い憤りがあるようにも見えたわ。そして自分がその頂点にいることを、申し訳なく思ってたのかな。すごく謝られたの」

 久美が話す加賀美朱里の造形は、確かに梓馬たちが知っているものだった。やはり松本家がおかしかったのかもしれない。梓馬はそう思って、続きを促した。

「どういうことだ」

「定員は三十名だけど、そのうちの二十名はもうすでに決まってるって言われたわ。汚くてごめんねって」

「あー、ありそうな話」

 沙月はそう言い捨てた。よほど内部生が嫌いだったらしい。

「うん。それで朱里ちゃん自身も、枠が取れていたそうよ。それをすごく申し訳なく思ってたみたい」

 朱里の年齢が確実に暴かれた瞬間だったが、沙月は無反応だった。

 梓馬はすでにこの場の二人も含めて、年齢がかなり上だと知っていた。それだけに沙月が狼狽を見せないことを妙に思いつつ、久美の話に耳を傾ける。

「残り十名の枠を外部の子で取り合うんだけど、私の成績じゃ十位以内は厳しかったの。そしたら朱里ちゃんが、逆推薦があるよって言ってきたのよ」

「逆推薦、裏口入学みたいなものか?」

「そう思ってもらって構わないわ。違う点は、うちの裏口は加点されるだけだけど、逆推薦だと確実に合格できるってところね」

「なるほど」

 梓馬はそうは言ったが、裏口入学が加点だったとは初めて聞いた話だった。むしろ確実に合格するものと思っていただけに、現実的な話だと感じてしまう。

「五十嵐さん、ノーマンズクラブって知ってる? 内部生限定のサークル」

「名前とふざけた噂話なら」

「すべて本当のことよ。目の前で本当にぼこぼこにしてたわ」

「それって入会の儀式のこと?」

 沙月の背筋がぴんと張る。

「そう、儀式よ。殴られてた人、泣きながらここどこですかってずっと言ってたわ。本当に知らない人を、無理やり連れてきたんだと思う」

 梓馬は、真面目な顔で話している二人を見て、まともに情報を整理しきれなくなっていた。

 裏口と逆推薦で現実的な話かと思えば、今度は内部生限定のサークルで暴力を振るっているという。妄想としか思えない話だ。それでも嘘だと言い切れないのは、隣の沙月がさも当然のように、話についていけているからだ。

「そのノーマンズクラブが、逆推薦をくれるのか?」

「いえ、逆推薦枠を持っている人を紹介してくれるの」

「それで久美さんはその場に行ったというわけか」

「ええ、朱里ちゃんが内部生だったから、紹介してもらえたの。暴力は振るわなかったわ」

 久美はそう言って、自分の右手を見た。

「朱里はどうだったの」

 沙月が唐突に訊ねた。

「私と一緒よ。見てるしかないじゃない」

 久美のその口調は発作的だった。よほど苦しい記憶のようだが、沙月はまったく遠慮しなかった。

「違う、朱里なら絶対に止めるはず」

「無理に決まってるでしょ。あの場にいたら絶対に無理よ。本当にすごく悪そうな人ばっかりで、本当に怖くて。だから私、そのあと…………」

「そのあとがなんなの」

「私そのとき未成年だったから、お酒を断ったの。そしたらソフトドリンクのメニュー見せられて、一杯五千円って書いてあったわ。とても払えないって思った……」

「払うべきだったんだよ」

「そうね、でもあのころの私には無理だったの。それでお酒、お前のために用意したんだからって。飲んでくれないとって。お前のためにここ貸切るのに、五十万も払って用意したんだからって。そのとき朱里ちゃんがお酒を飲んだから、私も仕方なく飲んだわ」

 なるほどな――

 情報はとぎれとぎれだったが、これに関して梓馬はよくわかる。

 罪悪感にかけられるアプローチは、非常に強力な威力を持っている。これは様々なシーンで使われており、詐欺のシーンではコストの重さを偽るのが定石だ。久美には金銭が使われたが、それ以外にも時間や気持ちなど、返品することができないものもよく使われる。

「あたしならそれでも断るよ」

 沙月は本当に断れる。

「無理よ、絶対に無理なんだから」

「あたしはそんな奴らとは酒を飲まないよ」

 沙月は変わらず、断言だけをする。いつもよりも賢そうだった。

「その場にいなかったあなたに、なにがわかるのよ。私は逆推薦が欲しかった、お母さんがうるさいから。私立行けって命令するくせに、私立の学費が高いって毎日言ってくるのよ。もしお前がいなかったら、おかずがもう一品増えたって。でも大学は行けって。私が国立に行きたいって言ったら、東大なら行かせてやるって。無理に決まってるでしょ、そんなの。逆推薦で進学するしかなかったのよ」

 久美がわめく様子は、先ほどまでの知性を感じさせなかった。この一時的な幼児化は久美という人間を知る上で、非常に重要な意味を持っている。誰もが子供のころに、その資質を決定されるからだ。

 同意してもっとしゃべらせるんだ――

 梓馬は心でそう言ってから、沙月にアイコンタクトした。

 沙月は、うん、と力強く頷いた。

「そんなの無視すればいいんだよ」

 強力な否定が、久美に突き刺さった。

「あのときは子供だったのよ」

「いまも子供だよ。さっきお母さんの言いなりだった」

「じゃあなんであなたは、貧乏八百屋の娘なのにあの高校にきたのよ」

「貧乏じゃない」

「あなただってどうせ、親の理想を押し付けられた口でしょ」

「そんなこと団地住みのお前に関係ないよ」

 沙月は立ち上がると、一歩前に踏み出した。

 それを見て久美は一瞬顔色を変えたが、自分もすっと立ち上がる。蛇と狸の睨み合いのようだった。

 梓馬は急いで間に割って入り、「やめよう、話し合おう」と言った。険悪な空気を払おうと、手をひらひらと振ったが、それは逆効果で、沙月に思い切り手を叩かれた。

「痛っ。沙月、落ちつ――」

「下の名前で呼ぶな」

「えぇ……、だってお前が」

「うるさいよ」

 沙月はそう言い捨てると、また久美のほうを向いた。目を話したら次の瞬間には、取っ組み合いを始めていそうな雰囲気だった。

 仕方なく、確実に沙月を鎮静化させられる言葉を吐く。

「もし朱里が見てたら、どう思うだろうな」

 梓馬は視線を下に向けた。もしかしたら朱里の亡霊が、団地の窓のどこかに映るかもしれないと怯えたからだ。

「あたしを叱ってたと思う……」

 朱里の名前を出せば、沙月は簡単に黙る。まだ納得いかない様子だったが、おとなしくすることを選んだように見えた。

「久美さん、すまなかった。もし俺がその場にいたら、俺もなんでもしてたと思う。抵抗できる奴なんていないだろうな」

 今度は久美を鎮静化させる番だった。

「ええ、無理だったわ。本当に無理だったの」

 久美はまだ肩に力が入っていたが、どうにか落ち着き始めていた。ここから聞き役に徹し、さらに同意をくり返していけば、話の続きを聞くことができる。

「久美さんの判断は間違ってなかったと思う。下手に抵抗すれば、被害はもっとひどいものになっていたはずだ」

「そうね……」

「いつだって悪いのは加害者のほうだ。見て見ぬふりを共犯と言う奴がいるが、そんな馬鹿な奴の言うことには耳を貸さなくていい。いつでも正しい意見を押し通していたら、逆恨みされて殺される」

「そうよ。私も殺されるってずっと思ってた……」

「それで酒を飲まされたあとはどうなったんだ?」

 梓馬は久美の目を、まっすぐに見て訊ねる。

 久美は目線を右下に逸らした。

「そのあと……? 帰っていいって言われたわね。それで朱里ちゃんと一緒に帰った」

「本当か?」

「ええ、本当よ」

 それっきり、梓馬は次の言葉を出せないでいた。嘘だというのは間違いない。

 長谷川知恵がレイプされて、訴訟を起こそうとしたのが原因で殺害された。これが久美の主張だ。そしてそれと同じ理由で、朱里もここに来られない、つまり殺害されたと推測している。これは朱里がなにもされずに帰ったという話と、辻褄が合わない。

 久美は自身がレイプされたことを隠すために、自身が提唱した朱里他殺説さえ歪ませてしまっている。

 朱里がレイプされていればいいのに、梓馬はそう思っていた。

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