第13話 正しさの奴隷(大橋久美編)その4

 朱里がレイプされていればいいのに、梓馬はそう思っていた。

 妊娠していたのは事実、別の男とセックスをしたことは確定している。

 梓馬は当初、朱里が浮気したものだと思っていた。そして次に思ったのは、自分こそが浮気相手で、本命が別にいたのではないかと。どのルートも、これまでに味わったことのない深い苦しみだ。

 それを和らげる唯一のルートが、朱里がレイプされていた場合だった。もしそうならば、自分はやはり朱里の愛情を得ていたということになる。いま心の傷を占める多くは裏切りで出来ており、愛でしか癒すことができなかった。

 話をどう進めるか。梓馬が迷っているところで、久美が口を開いた。

「今度はあなたたちが答える番よ。私の訊くことに答えて」

「わかる範囲で答える」

 梓馬は曖昧に答えた。久美の本心は、話題の転換だと知りながら。しかしここは付き合ったほうがいい。相手のルールを順守すれば、またこちらが訊ねる順番が回ってくるからだ。

 久美が最初にする質問は、答え合わせのようだった。

「朱里ちゃんしか突破口がなかったの?」

 嫌なことを訊いてくるな、と梓馬は思った。

「勘違いしないでくれ、俺はそもそも、ノーマンズクラブの存在を知らなかった。当然、朱里と関係しているという前提もない。知りたいのは本当に朱里のことだ」

「朱里ちゃんの話を聞きたい理由はなに?」

「朱里と親しかった人間を知りたいからだ」

「素直にその質問をしない理由はなに?」

「リスクはなるべく抑えたいからだ」

「それは答えになってない」

 久美が指摘することは、もちろん梓馬も自覚している。かと言って正直に、朱里を妊娠させた男を殺そうと思っていますとも言いたくない。そもそも久美は、朱里が妊娠していた事実を知らない。この切り札はまだ切れない。

 梓馬は同調を狙うことにした。

「俺の気持ちはわかってもらえるはずだ。そっちが警戒していたように、こちらもやはり警戒していることはある」

 そちらと同じ事情だと匂わせることで、久美の頭脳が勝手に辻褄を合わせてくれると期待していた。しかしそうはならない。

「ノーマンズクラブを知らなかったのに?」

 やはり攻撃能力では久美の方が格上。これで梓馬には説明義務が、また一つ増えてしまった。

「確かに名前は知らなかったな」

「あなたはノーマンズクラブが、実在するとすら信じられないようだったけど」

 久美は完全に急所を突いてきた。梓馬が秘匿するべき目的を持っていると、頭のなかで完全に成立させている。

「…………」

 梓馬はとうとう言葉を失ってしまった。

 久美はその様子を観察し始めた。首を少し傾げて、黒目を絞っていく。数秒もせずに不気味な笑顔が覗いた。

「なにか悪いことしようとしてるわね? そのことと朱里ちゃんの動向にどんな関係……、朱里ちゃんが亡くなったことに不審な点でもあった?」

「朱里は事故死だった。不審な点はなにもなかった」

「事故に不審な点がないのに、自分たちの正体を隠して、朱里ちゃんのことを調べるの?」

「そういうことになるな……」

「妙な話ね。多分、朱里ちゃんの事故以外の部分に、不審な点があった。それは朱里ちゃんの知り合いが関係していると思えることだった」

 久美の推測は正確ではないものの、ほぼ梓馬が持っている事実に近いものだった。このままでは時間の問題で、自分の計画が暴かれるかもしれない。

 久美は松本家ほどではないものの、やはり訪問者である梓馬を警戒していた。それはつまり、まだ自分が殺される可能性があると思っているからだ。そんな久美が殺人の計画に気付けばどうなるか。

 もし梓馬が朱里を妊娠させた男を見つけ、殺害に失敗したとする。その場合、その男は梓馬を過去からの復讐者だと思うだろう。ではその梓馬と接触していたことがばれたら……。当然、久美は自分もなんらかの仕返しを受けると考える。その可能性を潰すために、警察に通報することは簡単に想像できることだ。

 梓馬は、逮捕されることを避けたいが、その可能性も受け入れてはいる。いまもっとも避けたいのは、殺人の計画が明るみに出てしまうことだ。もしそうなれば、朱里を妊娠させた男にまで警戒されてしまう。そうなってしまうと、相手がどこの誰かすらわからないまま、計画が潰れることは十分に考えられる。

 状況はひっ迫していくが、それでも梓馬は打開策を思いつけなかった。

 久美はそんなことなどお構いなしに、どんどん推測を展開していく。

「多分、あなたが目的を隠していることと、朱里ちゃんの知り合いを探しているということは繋がっているんでしょうね。事故に不審な点はないと言っていたけど、じゃあその知り合いのせいで朱里ちゃんに事故が起きたと考えたらどうかしら」

 久美の独り言めいた言葉は、これまでずっと頭のなかだけで唱えられていた。それが思考の世界から現実に飛び出すだけで、簡単に梓馬を追い詰めていく。

 この女、危険すぎる――

 梓馬はどういう反応をしていいか、それすらわからなくなっていた。なにをしても切り返される恐怖に、硬直してしまっていた。

 そのとき、声が割って入ってくる。

「ねえ、朱里が亡くなったのに面白がってない?」

 沙月は両手を組んで、久美を睨みつけていた。敵意を隠していないその姿勢は、いまにも飛びかかりそうだ。

「そんなわけ、ないでしょ」

 久美はそう言うが、歯切れが悪い。

「お酒を飲みたくなかったって言ってたけど、酔っぱらうのが好きみたいに見えるよ」

「なんてこと言うのよ」

 確かに沙月の皮肉はひどい。後先考えず、思ったことをそのまま口にしてしまっている。だがこの状況の停滞が、梓馬に考える時間を与えていた。

 沙月は尚も攻撃を続ける。

「こっちのセリフだよ。朱里の事故をワイドショーみたいに言って楽しい?」

「そっちこそ、朱里ちゃんのことをこそこそ嗅ぎまわってるじゃないの。どっちがワイドショーよ。それに私だって知恵を殺されているのよ」

 久美の正論、しかし沙月はまったく怯まない。

「本当に殺されたの? 飛び降りだったんでしょ」

「根拠ならあるわ」

「直前まで訴える準備をしてたってこと? あたしは直前まで楽しくしゃべってたのに、次の瞬間に手首を切った人を知ってるよ」

 梓馬はそれが耳に入って、朱里のことか、と思った。そして同時に沙月の言葉からヒントを得て、この状況を動かす重要なルートを思いつく。

 もう少し考える時間をくれ――

 梓馬は沙月にそう願うと、思いついたばかりのルートに足を踏み入れていった。

「知恵は正常だったわ。その手首を切った人は、頭がおかしくなっていたんじゃないの」

 この久美の言葉に、沙月の表情が大きく歪んだ。それは完全に狼狽と取れる反応だ。これは沙月の嘘を暴くための手がかりがだったが、梓馬はルートの確認をするために、この一連の流れを見逃してしまっていた。

 沙月は知らず声が大きくなっていた。

「なにも知らないくせに。あたしたちは、本当のことが知りたいんだよ。お前のお粗末な推理なんか求めてない」

「じゃあなんで私を頼ってきたのよ。自分で考える力もないくせに偉そうに」

「あたしが頼っているのは――」

 沙月はそう言いかけて、言葉を止めた。梓馬が手を出して、沙月を制止していたからだ。

「落ち着いてくれ」

 そして心のなかで、助かったよと告げた。

 梓馬は主導権を握り続けるため、すぐに久美と目を合わせた。

「久美さんの言うことは正しい。いくつかはかなり核心部分を突いている」

 口調に力を持たせて、場の発言権を無理やり確保した。

「どの部分が当たっていたの?」

 久美はほっとした顔だったが、すぐに頬に別の感情も浮かばせる。

「朱里の事故に関してはなにもなかった。でも当日の朱里の行動には、不審な点があったんだ」

「行動に不審な点……、やっぱり。持っているはずのない物を持っていた、いるはずのない場所にいた。あとはそうね、いないと言っていた人物と行動をしていた、そのどれかね」

 ここで梓馬は、自分の考えが正しいことを確信した。久美は確かに鋭いが、あまりに断定的過ぎる。まるでなにかを参考にしているようだ。

「どれが当たっているかは言えない」

「誰といたか、ではなさそうね。それならあなたたちはこんな探し方をしない。物か場所がおかしかったとして、それらから第三者の関与を想像できるもの……。あなたたちは第三者の名前を特定できていないはずだから、物のほうが妥当ね。いや違う、そうじゃない。おかしかったのは場所のほうだわ。だって第三者のせいで死んだと思っているなら、その場所いたことこそが事故の原因に……違う、これもどちらとも言えるわ……」

 久美は考えが詰まると、地面をつま先でこすった。自分にしか見えないルート群が、地面にあるようだった。

「どちらとも言えないが、久美さんの持ってる材料から出せる最高の答えだと思う」

 梓馬はそう言って、久美を泳がせることにした。残念なことに、誘導した方向には泳がなかった。

「両方ね。両方であるからこそ、明確に第三者がいると気付けた? 物はメールか手紙で呼び出されたってことかしら。それともなにかの計画書? 場所は呼び出された場所とも考えられるし、あるいは用がないと絶対に行かない場所かもしれない。もしかして……結果的に事故になったんじゃないかしら。本来、朱里ちゃんは呼び出された場所で、危険な目にあうはずだった。その前に事故で死んでしまった」

 途中までは切れ味もするどかったが、その結末がひどい。あまりに飛躍しすぎている。だがそれは梓馬にとってありがたく、わざと顔をぎくりとさせておいた。

 久美がやけに遅いスピードで、表情を変化させていく。笑顔だとわかるまでの数拍後、風が前髪をかき上げた。

「これなら他殺ではなく、事故だと言えるわね。そしてあなたたちは、その誰かを捜すために今日ここにきた」

 久美はよほど興奮していたのか、セリフの最後には人差し指を立てていた。自分の能力を披露する快感に、吞まれてしまっている。沙月の皮肉はそのまま事実だったということだ。だから理性が働かず、余計なことまで口にしてしまう。

 ここで梓馬は、久美がなにを参考にしたのかが完全にわかる。やはり長谷川知恵の事件だったと。朱里の事件を推測しているようで、ただ過去に起きた出来事をアレンジしているだけだ。だから途中で、危険な目に合うはずだったと言ってしまう。

 そんな手がかりは、俺の話のなかになかったはずだ――

 なかったよな、と梓馬は心配になりつつ、自分もまた久美の参考書を使うことにする。もちろんこれで同条件とはならない。やはり久美の能力は梓馬を上回っており、正面から崩すには力が足りない。そう、正面からでは。

 梓馬は裏口から参考書を持って入ることにした。口にはいつもの笑いが浮かんでいた。

「なあ、長谷川知恵を殺したのは久美さんだろ?」


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