最終話 鏡の中の君へ 後編(加賀美朱里編)その7
私の中の君へというのは、おそらく妊娠していた子供のことだろう。マキナはこれらの手紙に別れの属性があることを保証した。ということは、子供とも別れる気だったということだ。
朱里にそこまでする動機があるだろうか。考えるまでもない。梓馬はそれをいとも簡単に想像することができる。
「朱里には俺とは別に、本命の男がいましたね?」
言った途端、口端が曲がっていく。そして思わず拳を握りしめていた。
待っていたんだ、こんな展開を――
子供すら捨てて、知らない男とどこかで暮らす。その想像は一瞬で梓馬のなかで広がり、視野を塗り替えていった。
加賀美朱里は最低の女だという推測。それは意識の表層で望んでいる朱里の正体でしかない。梓馬はそれを否定できる材料を持ちながら、そうあってほしいという願いに抗えなかった。
マキナは口元に笑みこそ浮かべていたが、同時に肩をすくめてもいた。
「沙月がせっかく許可を出したというのにそれですか。あなたのためになるからと、そう伝えたはずですよ」
痛いところを突かれて、反発したくなった。しかしマキナの言うことはもっともで、子供じみた返答をする気になれない。
ならばと梓馬は、別の切り口で返すことにした。
「あなたが真意を知っているという保証はあるんですか?」
「ええ、もちろんです。いまを見なさい。ある一面において、私はあなた以上にあなたのことを知っているでしょう。あなたもそれをわかっているからこそ、問いに正面から答えず、いま攻撃的な発言をしているのでは?」
「…………」
またも見透かされ、梓馬は闘争心を失いかける。あまりにひどい状況だった。戦うことすら、マキナの保証がないとできない。それでも諦めない。最後まで戦うと決めた。そしてこれを最後の戦いにすると。
「俺のことを見抜けたからといって、朱里のことを見抜けたかというと別の話だと思いますがね」
「確かにそうですね。この展開でなければ、良い発想だと褒めていたところです」
「そうやって煙に巻くのがあなたのやり方ってことですか? わかることだけ話せば、わからないことまで知っているように見えますからね」
梓馬は言いながら、なに一つ手応えを感じていなかった。目の前の立花マキナという人間は、おそらく詭弁の類を使わないタイプだろうと。詭弁めいて見える言葉はすべて雑談でしかない。
そしてマキナはただ一言、告げる。
「同じ人間を二度も殺したと、あの子は言ってましたよ」
一瞬で朱里の真相の半分を貫いた。だが梓馬はまだ怯まない。病院とパンフレットの関係から、マキナと朱里の出会いは簡単に想像できる。長谷川知恵のことを知っていても不思議ではない。
ここは押すタイミングだ――
そうすれば、マキナを傷つけられる自信があった。
「だったら朱里の子供の父親を……」
言いかけて、咄嗟に後悔する。もしここでそれを暴けば、真相が幹彦に伝わってしまう可能性がある。あの反社会的な見た目の男が、死んでしまう気がした。
「父親があなたでなければ、もう特定する気はないと幹彦くんは言っていましたね」
「え……」
マキナの二撃目で、梓馬はもう硬直してしまう。短い言葉ながら、すべてを知っていないと言えない言葉だった。
「安心しなさい、その件についてはシュリーから聞いています。まだ足りないならば、はっきりと口にしましょうか。誰か特定できないほどの――」
「やめてくれっ」
「ええ、話す必要のないことです……」
ここでマキナは、初めて右目を遠く細めた。纏っている空気は相変わらず落ち着いているが、その背中には許容を越える十字架が乗っているように見える。
それまで梓馬にあった対峙しているという気概が、急速に衰えていく。目の前にいるマキナもまた、朱里を失った被害者の一人だということがわかったからだ。被害者ぶっていた態度が恥ずかしくなる。
「知っていることをすべて話してもらえませんか」
マキナは両肘を太ももに乗せる。初めて見せた、困っている様子だった。
「できるならば、私もそうしたい……」
「そうすればいいじゃないですか」
「私は守秘義務に縛られています。ですから、ここが境界なのです。迷えるあなたを導く使命を言い訳にして、どうにか自力で真意に至ってほしいと願っています」
義務と使命の重さは、梓馬にはまだわからない。しかしマキナが信念を曲げてまで、いまここにいることはわかった。この人もまた、自分の味方をしようとしているのだと。そして言っていた、力があるのなら見せてみろと。
すべての謎は、解かれるためにあるはずだ――
「見せますよ、俺にあるっていう力を」
「どうかよろしくお願いします。いまのところまったくの期待外れですが」
姿勢を持ち直していたマキナは、また不遜な態度を見せていた。
その様子に、どこまで信じられるのかとまた思う梓馬だったが、不思議と前向きな気持ちは残ったままだ。気持ちを新たにして、基本に立ち返る。
嘘吐きを見つけるコツは、すべてを信じることだったはずだ――
視野を広げろという指示に、素直に従うことにした。そして沙月の気持ちを、汲み取ることにした。
先ほど明らかになったのは、手紙にはすべて別れの属性がついていることだ。さらにマキナの直近の言質は、朱里が男と暮らすわけではなかったこと、『私の中の君へ』を読む権利は存在しなかったということ、この二つを保証している。
そのなかで梓馬が注目したのは、権利が存在しませんでした、というマキナの言い回しだ。この言葉には、二つの解釈を想像することができる。
一つ目は、権利があると思っていたけどなかった、ということ。
二つ目は、権利が生まれる予定だったがなくなった、ということ。
これらのうち二つ目の解釈には、宛名の人物と符合する部分がある。梓馬は確信を持った。
「この手紙、権利が存在しなかったのは、出されることがない手紙だからですか?」
「そのとおりです。この手紙は可能性の一つでした。どうかその意味を、深く考えてください」
「子供を堕ろそうとしていた?」
「梓馬、深くと言ったばかりです。ここは教会なんですよ? 仮に堕胎予定だったとして、どうして手紙があるというんですか」
「いや、土着の儀式とかで死者に手紙とかありそうじゃないですか」
「教会だと言っているでしょうに。良いでしょう。先ほど私は、あなたは目に見えているものすら見えていないと言いました。必然性の話です。誰にも読めない手紙を、私があなたの目に触れさせたのはなぜですか?」
「子供と別れる気があったということに気付かせるため?」
「浅いと言っているんです。その手紙をあえて見せた私に、あなたはどういうタグをつけているんですか?」
信じるべき嘘吐き――
梓馬は心でそう唱えて、言えるわけないなと考えた。そしてその瞬間、確かに自分の思考が浅かったことに気付く。沙月という存在が、自分のためになるからと保証してくれていた。梓馬はそれを、自分に都合の良いことがこの世にあるという証拠のように感じた。
「朱里は子供を捨てて、また元の生活に戻ろうとしていた?」
「そのとおりです。あの子は本気で子供をここに預けるか悩んでいましたよ」
梓馬の脳裏に、朱里が子供に優しくしていた光景が蘇っていく。自分との貴重なデートの途中でも、困っている子供を見つけて助けていた。子供にどう接すればいいかわからなくて困っていた。自分自身が親に傷付けられた子供とわかった上で、助ける側に回ろうと思える心を持っていた。その朱里が自分と暮らすために、子供を捨てるか本気で悩んでいた。それは身を切るよりも辛いことだっただろう。
だからどうした――
「その可能性の掲示が真意ですか。現実、捨てられたのは俺なんですよ。その選択をしたのは朱里だ。途中にどんな葛藤があっても、朱里は他の男とセックスしまくって妊娠して、俺を捨てるという決断をしただけだ。そんなことを俺に教えて、どうしたいんですか」
充血していく目を必死に尖らせて、梓馬はマキナを睨みつけた。信頼してしまっていた自分を呪いながら。
一方でマキナは、その呪詛を正面から捉えていた。いくらも怯む様子なく、その言葉を否定することもなく。
「いつかあなたが言ったそうですね。親に虐待された子供は、親になったときに自分の子供を虐待すると。自分は絶対そんな人間にはならない、生まれた子に罪はない、全力で責任を取ると。その言葉はあなたが思っている以上に、傷付いた子供であるあの子の心に刻まれました」
「あのときの……」
梓馬の脳裏に、神社の光景が蘇る。朱里とふたりで、球技をする子供たちに注意しにいった思い出。三位一体の話をして、まるで通じていなかった。
あのときはまだ、朱里が期待に殺された子供だと知らなかった。胸の奥になにがあるか知らず、胸の先端を見ることに必死だった。
子供に対して全力で責任を取ること。その重みが朱里の心にどれだけ刻まれるかなど、想像することもできなかった。朱里にとって子供を助けることは、過去の自分を助けることと同じだっただろう。
だからどうした――
「俺だってまだ未成年なんですよ。法的に子供で、保護されるべき存在なんだ。なのに誰も俺を助けようとしない」
「そうですね。あなたは子供で、まだまだ保護が必要です。ですから私も、幹彦くんも、遠坂も、そして沙月もあなたを守ろうとしています」
守るという言葉に傲慢さを感じて、梓馬はさらに頑なになっていく。ここまで辿りついたことに、沙月の助けは確かにあった。しかし足掻いてきたのは自分だという自負がある。
「幹彦さんに助けられた覚えなんかありませんよ」
「そこです、そこが今回の誤算なのです。本来あなたは、試験の出来が悪いにも関わらず大学に合格したという地点から、ここに辿りつくはずでした。幹彦くんがなにも言わなかったから、知っているものだとばかりに」
「え、俺が合格……?」
言うと同時に、何度も幹彦から着信があったことを思い出す。朱里がいなくなったことよりも、自分の受験を心配していたことに腹が立っていた。そんな親だから子供が狂ったんだと言ってやりたかった。
「はい、あなたは試験を受けていれば必ず合格していました」
「幹彦さんがやったんですか……?」
マキナはすぐには答えなかった。その様子は迷っているようにも見えて、同時に憎んでいるようにも見えた。
「違いますよ……」
「じゃあ誰なん――」
梓馬は言いかけて、言葉を飲み込んだ。驚くことに、マキナが人間の証拠を目から流していたからだ。
マキナは苦しそうな目で呟いた。
「シュリー以外に、誰がいるというのですか……」
「朱里が……?」
梓馬は聞いて、首を傾げた。自分の合格と朱里の行動、それが交わる妥当なルートをまったく想像することができなかった。
「試験の合格は文字通り、あの子が体を張ってもぎ取ってきたものです。過去に自ら捨てた権利を、もう一度取り戻してあなたに渡そうと……」
「え……」
梓馬の視覚が天井の一面を映した。首を支える力が抜けて、体が後方に倒れていく。支えてくれるのは、ソファーだけになっていた。
「クラブは本当に、逆推薦の枠を持っているのです。あの子は悪の功績からそれを得ていて、罪悪感からそれを捨てていました」
いままで覗けなかった深淵に、光が指していく。朱里が他の男とセックスをしたという事実から裏切られたと考えて、そこで思考が止まっていた。潜った先には更なる暗闇が待っていると怯えて、恨みで満たすしかなかった。
「信じられませんか?」
マキナの問いに、梓馬は答えなかった。固定された事実、それらに付属する情報が書き換えられていく。そのことで頭がいっぱいになっていた。
朱里と初めて出会った日、駅前で鳩池とすれ違った際に朱里はどんな反応をしていたか。長谷川知恵の自殺をきっかけに入院し、自らも自殺を試みるほど悔やんでいただろうに、なぜまた鳩池とコンタクトを取ったのか。
電話だ、と梓馬は思い当たった。何気ないやり取りのなかで、ほんの少しの違和感があった。恰好いいところが見たいと言われて、娶ると結婚を匂わされて、有頂天になって気付かなかった。
朱里はあのとき、自分が絶対に合格させてみせると誓っていた。合否には受験者の実力しか及ばないというのに、完全に言い切っていた。
「あんな些細な言葉で、自分を犠牲にすると決心したのか……?」
梓馬が問うているのは天井だったが、答えたのはマキナだった。
「あなたには些細と思えることも、あの子にはそうではなかったのです。それほどシュリーの資質は、幼いころに破壊されていました。自分にはあげられるものがないと、よく言っていませんでしたか?」
梓馬の脳裏にコインローファーが浮かぶ。
「一度だけ、言っていた……」
「あなたはよく、自分の肩書のなさに押しつぶされそうになっていたそうですね。シュリーはそれをあなたに渡したかったのです」
「そんな馬鹿な考えが……」
「人間とは愛情を与える生き物です。ではあげられるものがない人間は、どうやって愛情を表現すると思いますか?」
梓馬は言われて、自分の罪を思い出した。それは同時に朱里の罪も思い出させる。
「奪うこと……」
マキナは首を振った。
「いいえ、捨てるのです。あなたを大事に思えば思うほど、あの子は自分の大事なものを捧げようとします。そしてそれが今回、自分の体でした」
「極端すぎる……」
「思い出してごらんなさい。あなたとの出会いの日にも、きっとそれはあったはずですよ」
出会いの日という単語が、夏のデパートを思い出せた。
確かにそうだ、いま考えるとあれは異常だった――
朱里は面識すらない梓馬を見かけて、万引きを予想した。そしてただ更生のためだけに、高額なダウンベストの代金を支払っていた。考えられない出来事だ。どう考えても異常な行動だ。
それはあれだけ常識ぶっていた朱里が、あの場で一番壊れていたということを証明している。
あのときの梓馬は、朱里の美しさに浮かされていた。だからそこまで深く考えられなかった。自分に気があるのではと、性の衝動に飲み込まれていた。
天井のスクリーンに数々の思い出が浮かんでいく。ふたりで食い気味に撮った写真、そこに流れる観覧車のメロディーは悲鳴だった。
「朱里さえいれば、それだけでよかったんだ。学歴なんて……」
「地位や名誉が空虚だと言うには、実際にその手で掴んで確かめる必要があります。あの子はその機会を与えたかったのです。手に入れなければ、あなたはそれを求め続け、人生を殺されていたでしょう」
「自分を犠牲にしてまでやることじゃないですよ……」
「メジャーを一つしか持っていなかったのね。真っすぐ伸びることができなかったあの子は、そのまま歪んだ成長を遂げ、自分の値札にフリーとしか書けなかったのです。あなたにも、どうしようもない劣等感の魔力はあったでしょう」
確かに梓馬は劣等感によって、万引きをくり返していた。犯罪の誘惑に駆り立てられたのは、自分に価値がないと思っていたからだ。
梓馬は自分の異常性を完全に忘却して、普通の人間のような顔をして生きていた。そして周囲の大人を愚かだと断定して、そのことに気付けない劣等種の集団だと思っていた。
違う、みんな自分を直視したくないんだ――
梓馬の母が参考にする日本人という脚本は、必要だから配られた。自分を劣っていると認めたくないとき、誰もがそこに助けを求める。それに従えば、せめて自分を普通という存在にできるだろうと。
人間が生まれながらに罪を持っているかはわからない。しかし劣等感は必ず持つことになる。他者という鏡が、常に自分を見はっているからだ。
朱里はそれに加えて、罪悪感を手にしていた。劣等感よりも重いそれを抱えたまま育てば、どんな綺麗な花も歪に育っていくだろう。
「助けられたはずだった……」
「あなたに責はありませんよ。あるとしたら私たち大人のほうです」
責任の所在を明らかにされて、梓馬はそのとおりだと言ってやりたかった。攻撃をすることで逃避したかった。しかしそれらはすべて出会う前のことだ。
「幼いころに破壊されていたらみんな死ぬのか? 違うに決まってる。俺にもっと実力があれば、朱里には違う未来があった。俺がもっとしっかりしてれば朱里は助けられた。自分を犠牲にする前に助けられたんだ」
この言い分にはいくらかの正当性があった。出会いの日のように、責任をいくら分散させたところで、選択権を持っているのはいつも自分だ。人間だから仕方ないという言葉は他人にかけるべきもので、自分にかける言葉ではない。
「梓馬、多くの人間がよってたかってあの子を殺したのです」
「だとしても、俺だけが聴いた。助けてという声を、俺だけが聴いたんだ……」
両腕で目を覆う。なにを見たくないのか、もう自分でもわからない。それでも塞ぐことのできない耳が、助けてという声をいまも耳に漂わせていた。
死んだ人間は、もう助けることができない――
永久の先に朱里が待っていてくれないこと。意識すら及ばない時間の果てでも、解決できないということが明確になっていく。梓馬は自分の心が、体より先に死んでいくのを感じていた。ならばやることは一つしかない。
「今日は俺なんかのために、ありがとうございました。わからなかったことが色々わかりました。もう帰りますので、ジャケットを返してください……」
涙を腕で受け止めたまま、床に向かってそう言った。しかしマキナの答えは聞こえず、ただ待つしかなかった。
腕が作る暗闇のなか、体の隣でソファーが沈む気配がする。マキナが隣に座ったとわかった。そして自分の膝に、他人の軽量な手の感触が添えられた。そこに温かみはない。
「あの子は時間に正確な子でしたが、一度だけずいぶん早い時間にきたことがあります。顔を真っ赤にしていて、眠い目をこする私を叩き起こしたのです。なにがあったと思いますか?」
「わかりません……」
「聞いて呆れましたよ。男の子に助けると言われたと、何度もそのことばかりを言うのです。あんな嬉しそうな顔は、見たことはありませんでした。そのときからです。あの子が私に、過去の罪を少しずつ告白するようになったのは」
マキナはそう言うと、枯れ木のような手を、梓馬の頭頂部に乗せる。そしてこれまで誰も撫でてこなかった頭を、ゆっくりとさすり始めた。
「気付いていませんでしたね、梓馬」
「なにが、ですか……」
「あなたはもう、あの子を助けていましたよ」
「……っ」
マキナは梓馬を撫で続けた。その手が往復するたび、自分に向けられた朱里の小さな笑顔と、顎をからかういたずらな表情が浮かんでいく。その輝きは朱里の短い人生に、確かな救いがあったことを証明していた。
気付けば涙に温かみが戻ってきていた。これまでの苦しみ、憎しみ、寂しさにようやく三十六度五分の優しさが染みわたる。
「私からも礼を言いますよ。よくぞ、あの哀れな子を助けてくれました……」
マキナは声までも枯らしていた。
「俺は……、朱里が大好きで。だからもう一度だけ好きって言われたくて……」
「ええ、だからあなただけが私に勝てるのです。市原梓馬だけが世界でただ一人、あの子の声を聴く力を持っているのですから」
とうとう梓馬は嗚咽を漏らし、声をあげて泣いた。それはまるで幼い子供のように。
外が暗くなり始めていた。四枚の窓はやはり中央が開け放たれたままで、ライトアップされた桜の木から伸びる影が、部屋に感傷を持ち込んでいた。
子供のように泣いていた梓馬は自分が恥ずかしく、対面に座りなおしたマキナにそっぽを向けていた。
マキナは梓馬のコーチジャケットから取り出した果物ナイフを、面白そうにもてあそんでいた。
「暗くなってきましたね」
部屋の照明がつけられると、自分の情けなさにスポットライトが当てられているように感じる。そろそろ帰ろうかと思った矢先、日常を知らせる足音が聞こえてきた。そのどたどたした遠慮ない歩調は、まったく空気を読めていないものだった。
赤く腫れた目を晒しながら、梓馬は入ってきた三人を見る。子供の男の子が二人と、先ほど池のほとりで見た大学生くらいの男だった。
「マキナ、すいません。この二人が喧嘩を始めて――」
「裕明(ひろあき)が殴ってきたんですっ」
一人の男の子が、食い気味に割り込んだ。名前は陽介(ようすけ)くんだ。
その訴えを聞いたマキナは、もう一人の男の子の裕明くんに質問をした。
「陽介の言うことは本当ですか?」
「殴りました」
裕明くんは短くそう答えた。顔はしかめたままで、反省の色はない。
マキナは嬉しそうに溜息を吐くと、裕明くんに質問をする。
「原因はなんですか?」
「言いません」
「そうですか、困りましたね。では謝ることは?」
「ないです」
裕明くんの強情な返答を受けて、マキナは次に陽介くんに質問をした。
「殴られる覚えは?」
「ないです」
「でしょうね」
マキナは肩をすくめると、梓馬のほうを見て顎をしゃくる。
梓馬はここまでのやり取りを見ていて、殴られた方の陽介くんが、気付かないうちに裕明くんになにかしていたのではないかと思っていた。
指名されたと思った梓馬は、さっそく質問をする。
「誰かをかばってるのか?」
「えっ……」
殴った方の裕明くんは、ぎくりと背筋を伸ばした。
梓馬はさらに質問を続ける。
「俺がここに来る途中、池に数人でいるところを見た。年齢がばらばらだったが、君より小さい子がいたな。陽介くんがその子たちになにかして、それで君は怒ったんじゃないのか」
「…………」
裕明くんは伸びた背筋を、戻すことができなくなっていた。
その様子を見ていた陽介くんは、自分に非があるものかと口を尖らせて抗議する。
「ぼくなんにもしてないですっ」
その声の調子から、嘘は吐いてなさそうだな、と梓馬は思った。
「じゃあ、知らないうちになにかしたんだろうな。なにをしてたんですか?」
質問の矛先を大学生に向けた。
「鯉がいるんですよ。餌をあげてて、あと絵日記も描いてました」
「なるほど。じゃあ陽介くんが知らないうちに餌をあげすぎていたとか、他の子の前に割り込んで絵を邪魔していたとか、他にもいくつか考えられるが」
梓馬はいくつかの可能性を述べながら、裕明くんの顔を見ていた。明らかに絵のくだりで表情を変えていた。子供は実にわかりやすい。
これでおそらく陽介くんに真相が伝わったとは思うが、念のためにもう少し絵の話をしようとする。子供ならばさらにボロを出すだろうと。
そこでマキナがストップをかけた。
「梓馬、あまり感心しないやり方です。ですがボランティアをやるならば歓迎しますよ」
それで今度は、梓馬が口を閉ざすはめになった。確かにやり過ぎたかもと思ったからだ。
裕明くんは謝りたくないようだった。男の子として譲れない部分があるのだろう。その意地が、謝罪の言葉を口にすることを躊躇わせている。
マキナは加害者の裕明くんの肩に手を置いた。
「裕明、私はあなたがすべて悪いと思ってはいません。問題は抗議の手段です。あなたが理由なく人を叩くなど、ないことだと知っていますよ」
手に力は入っていない。しかし言葉の重力がかかったか、裕明くんの頭が徐々に沈み始めている。そして動機を語り始めた。
「ぼくは悪くない、陽介が間違ってます。自分より小さい子を守れってシュリーが」
マキナは梓馬に一瞥すると、口元で指を立てた。そして改めて裕明くんに向き直る。
「もし相手の考えを変えたいなら、暴力は最も遠い手段だと言えるでしょう。なぜなら痛みという現実的な手段がコントロールできるのは、同じく現実的な身体だけだからです。心に挑むならば、心を用いないといけません。それとも表面的な同意さえあれば、それで良しと言いますか?」
子供には難しすぎる、梓馬は聞きながらそう思った。たったこれだけのことを理解していない大人が、社会の大半であり中心だ。それを子供に言ったところで、どれだけの理解があるだろうか。だがマキナがそんなことに気付いていないわけがないことも明白。そこに至り梓馬は、自分に向けて言われたのかと考えた。暴力という言葉が、果物ナイフのように胸に刺さる。
「わかったよ……わかったから」
子供ながらも裕明くんはわかっていたようだった。そして陽介くんに体を向けて、ただじっと見つめた。直接の謝罪の言葉は、まだ言えないようだ。しかし自分に非があると思っていることは明白で、それはきちんと伝わる。
「ぼくも……、わかったよ」
陽介くんは目に大粒の涙をためながら、顎をとても重たそうに頷かせた。相手の思想を受け止めると表明したということだ。
その様子をマキナは嬉しそうに見ていた。
「お互いに言葉を選んだようですね、私の悪ガキさんたち。あなたたちがそれでいいならば、私ももう口を閉ざしましょう。そしてまたケンカしないかと不安に思う私を、二人はきっと安心させてくれます。こんなときどうすればいいとシュリーは言いましたか?」
裕明くんと陽介くんは、照れ臭そうにはにかんだ。目線が微妙に外れていることから、わだかまりが完全になくなっていないことがわかる。しかし口角は上がり、反発しあっていたパーソナルスペースが、徐々に重なり始めていた。
先に陽介くんが動いた。人差し指と親指で、自分の顎を摘まむ。
それを見た裕明くんも同じように、自分の顎を指で摘まんだ。
「えっ」
梓馬は小さな声を上げ、思わずソファーから立ち上がっていた。目の前の動作から、これからなにが起こるかを直感的に理解したからだ。
裕明くんと陽介くんは二人同時に、顎を摘まんでいる指を下に引っ張った。向き合うにっこりとした笑顔には、恥ずかしさが彩られていた。
それを見て唖然としている梓馬に、マキナが微笑んだ。
「シュリーが考えたのです。ここの子供たちは意地っ張りが多くて、素直に謝罪することができません。しかし態度とは中身の一番外側だと、誰かさんが吹き込んだようですね」
サロンの朱里が蘇る。確かに自分は、そんなことを言ったと。
「そんな、俺はてっきり……」
「シュリーはそれをこの子たちに教えました。喧嘩をして素直に謝れないなら、言葉にできないことを仕草で伝えましょうと。手話ですよ。有馬という子に必要で、シュリーはずっと勉強していました」
「俺はてっきり、からかわれているとばかり……」
脳裏に、これまでの朱里との思い出がせり上がってくる。告白したとき、クリスマスのとき、なにげないとき、朱里はことあるごとにこの動作を行ってきていた。
声のない思い出の数々にいま、『ごめんなさい』という声が書き加えられ、輪唱のように広がっていく。
「ずっと俺に謝ってたのか……」
朱里の微笑みの裏に潜んでいた感情を想像すると、もう責める言葉はなくなっていた。向いた矛先は自分に移り、ただただ後悔が波のように押し寄せてくる。
朱里がどれほどの罪悪感の嵐のなかにいただろうか。まっすぐ立っていられないほど不安定な心は、いつも罪悪感のベクトルに引きちぎられていたはずだ。
それでもただの一度も、痛みを声に出すことはなかった。溢れていく血の涙を飲み干しながら、笑顔で困っている人に手を差し伸べていた。そして世界に謝罪し続けていた。自分を永遠に許さないと誓って。
梓馬は朱里を守ると約束していながら、自分の心を守ることに夢中になっていたことを恥じた。自分が傷つくことよりも、朱里が傷つくことがこんなに辛いと、なぜもっと早く気付けなかったのかと。
届かないとわかっている声が、それでも行き場を探して宙に浮かんでいく。
「しゅ、り……」
謝るのは俺の方なんだ――
「しゅり……」
自分の無能さをお前にぶつけてた――
「しゅりっ……」
他人よりも俺を助けてくれって思ってた――
「朱里っ、大好きだ」
好きだと言われたくて、俺が自分を好きじゃなかっただけなのに――
「朱里、お前がいなくて寂しいよ。俺は頭がおかしくなっちまった。声が聴きたいのに……」
ここにくれば決着が手に入ると思っていた。どちらにせよ自分は救われるだろうと。いまはその考えすら子供じみて思える。朱里が自分を犠牲にしている間、どれだけ情けないことを言い続けてきたか。そして、朱里はそれをどういう気持ちで聞いていたか。
「そんなの決まってる。俺の人生が上手くいくようにと、地獄に落ちる決意をしたんだ。助けてを声に出さず、謝罪をくり返しながら、俺のために地獄に飛び込む女なんだ、あいつはっ」
悲鳴にも似た叫びが、室内に響いていた。周囲が見えなくなっている梓馬は、床に向かって拳を何度か落とした後、今度は自らの頭を打ち付け始めた。
ごつごつと鈍い音が自分を責めている。心配する人間たちの声が、自分を気味悪がっている。それはありもしない悪口とともに。
『あなたのせいで死んだのですよ』
『女を助けられなかったらしい』
『シュリーにずっと謝らせてたんだって』
『自分のことしか考えてないらしいよ』
梓馬は急に上半身を起こした。
「俺が殺したのか……?」
自分に集中している視線を受けて、梓馬は急に正気に戻った。しかし直前の自分の声は、いまも生々しく耳にへばりついている。お前が殺したと囁いている。
半ば強引に鳩池に向けていた殺意は、なにかを隠そうとしていたのか。これまでの一筆書きで培った推測が、自分を裁こうと法廷を開こうとしている。しかしそこに一人だけの部外者がいた。
マキナだけが、梓馬に話を合わせられた。
「いいえ、違いますよ」
「あんたがいまそう言った。俺が朱里を殺したって」
「気付いていませんか。あなたが自分に言ったのです」
真実が付与された言葉は、的確に梓馬に刺さった。
「あっ……」
いままで聞こえていた人間語の悪口。その正体を他人に知らされて、しかし梓馬はこれ以上ないほど納得していた。
この一連のやり取りから、マキナは梓馬がかなり危険な状態にあると判断した。そして見落としていた果物ナイフの意味にも気付く。どうやら自分は、沙月に引っ張られていたらしいと。
「まったく梓馬、強がりだけはたいしたものです。だとしたらこの小さな悪意は、私ではなく自分に向けていたのですね。これでは窓を開けっぱなしにしていた私が、ただの馬鹿みたいじゃないですか」
「死ぬと決めたら、色んなことが楽になったんだ……」
指摘された梓馬は俯くしかなかった。気まずさが視線を逃がそうとして、窓が見えそうになると、また目をそむける。
もちろんマキナはそれに気付いた。
「おや、あなたは窓に私とは違うタグを付けていますね。それは先ほどの取り乱しようと関係していますか?」
「え……」
梓馬は信じられないと思った。自分にしか見えていないはずのものを、どうして推測することができるのかと。
「目に見えるものすらと言いましたが、先ほどの様子は幻覚か、幻聴か……、まあ両方でしょうね」
まだ悪夢から覚めていないかもしれない、そんな不安が梓馬を襲った。目の前のマキナの言葉はそれほど的確だった。
朱里、どうして俺がこの人に勝てると思ったんだ――
途方もないほど力の差を感じた梓馬は、白状するしかないと諦めた。
「朱里がいなくなってから、俺はたまにおかしくなります……」
「見えているのはシュリーですね?」
「なんでそこまで……」
「あなたは激しい妄想を、現実として生きてきました。それは実際よりも、ずっとひどいものだったでしょう。では、そんなあなたを脅せるものはなんでしょうか。あなた自身か、シュリーか、そのどちらかです。でもいま目の前であなたは、自分を必要以上に責めていた。だったらもうシュリーしかいないでしょう。いま、見えているんですね?」
「いえ、いまは見えていません。でもさっき俺の悪口が聞こえたから……」
「なるほど、では止めを刺しましょう。それは窓に映っていますね?」
マキナはそう言ってから、窓を完全に閉めに向かった。勢いよく閉められた窓が音を立てて、部屋に伸びてきていた桜の木の影が切断されてしまう。それで梓馬はようやく金縛りから解放された。
「合わせる顔がない、やめてください」
梓馬は咄嗟に体ごと翻し、窓を見ないようにする。振り返った先では、大学生、裕明くん、陽介くんの心配そうな顔が向けられていた。
その優しくて遠い視線が苦しかった。彼らの目が、自分をどう映しているかを知りたくない。かといって窓の方へ振り向くこともできなかった。
もう目のやり場は残されていない。
「振り向きなさい。窓を見るのです、梓馬」
「嫌だ……。本当は俺が悪いはずなのに、朱里に謝られたくないんだ」
「違います、あの子は許されようとは思っていませんでした。あの子の真意、その心の声が本当にわかりませんか。あなたにはそれを聴く力があるんですよ」
マキナは言うと、梓馬の髪を掴んだ。そして無理やり窓へと振り向かせる。
梓馬は意地でも窓を見ないと、目をぎゅっと結んだ。すると瞼の裏に、黒のスクリーンが広がっていく。やはり耳を塞ぐことはできず、マキナの声が暗闇に侵入してくる。
「目に見えるものを見てきたあなたにいま、とうとう目に見えないものを見るときが来ました」
梓馬は聞きたくなくて、より強く目を閉じる。しかしそれではマキナの声を止めることはできない。
「梓馬、あなたは先ほどの仲直りの手話の意味を、勘違いしていますね?」
マキナのその言葉には、別の意味があるという情報が惜しみなく添えられていた。
どんな暗闇も目を完全に塞ぐことはできない。暗闇もまた一つの景色だからだ。
無数の雑念が明滅する宇宙の彼方で、ただ一つの可能性が煌めき始めていた。そこから紡ぎ出される真意へのルートは、次々とこれまでの情報を連結していく。やがて現れた朱里の真意と思われるものは、信じられない光量を放っている。
それは太陽だった。直視すると、目を焼かれてしまう。逃れるためには目を開くしかなかった。
「嘘だ……」
「いいえ、それがあの子の真意です。シュリーは素直になれない子供に、謝罪を強要する子ようなことはしませんでした。争いを終わらせるのに必要なもの、それを知っている子でした」
マキナは顎の先端を、人差し指と親指で摘まんだ。そしてそのまま下に下ろしていく。
「これが意味するものは……」
梓馬は最後まで聞かず、立ち上がると窓の方へと歩き出していた。夜の闇を利用して、窓を鏡面へと作り上げていく。そこには自らの姿が投射されていく。
鏡の梓馬は泣いていた。情けない自分を目にして、それが似非の客観性だと理解できた。ずれていた焦点を、マキナによって調整されていたからだ。
自分だけへと過剰に向いていた意識。そのピントが調整されたとき、梓馬は鏡に映る自分の隣に別の像を結んでいた。
「朱里……」
加賀美朱里がすぐそばに立っていた。まるでずっと隣にいたように。
そこに立つ朱里は、にっこりと笑っているだけだった。そしてやはり顎を指で摘まみ、下へと引っ張っている。もう何度となく、くり返し見てきた動作だった。
そこに梓馬は、先ほど知った手話の意味を上書きしていく。
『だいすきです』
そう言った朱里は、にっこりと笑った。しかし梓馬はすでに太陽を見つけている。朱里が自分にこの手話をくり返していたのは、確かに顎をからかってもいたからだと知っている。少しブラックなジョークが好きなんだと知っている。
ロングロングアゴーって言ったとき、肩を震わせていたよな――
梓馬はとうとう見つけた。むかしむかしから、ずっとくり返されてきた動作の意味。加賀美朱里の真意を。
いま市原梓馬の推測は、この一点において立花マキナを凌駕していた。
朱里が指で顎を摘まんで、引っ張った
『あいしています』
朱里はそう言っていた。これまでずっと聴こえていたはずだった。
『あいしています』
朱里は何度も言っていた。梓馬だけにしか聴こえない声だった。
『あいしています』
朱里はずっと梓馬を愛していた。それはきっといつまでも心の果てで。
ふたりはあいしあっていた。
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【完結】鏡の中の君へ むれい南極 @nankyokumurei
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