第32話 最後のデート

 普段は早朝に牛乳配達。それが終わってから百貨店の鮮魚コーナーでアルバイトして、三時には家に戻り、留学準備の勉強をする。留学するための英語力とテストで必要なスコアを取るために勉強していた。

 正月の鮮魚コーナーは本当に忙しかった。正月に集まる家庭が多いのだろう。お寿司が売れに売れていく。僕は最初、巻き寿司を巻いていたが、下手すぎてパートのおばちゃんに怒られ、ちらし寿司担当にされた。そしてついにはカッパ巻きのきゅうりを切る係になった。器械にきゅうりを差し込むだけなのだが。そんなわけで、正月の雰囲気はたっぷり味わえたのだが、労働時間も長く、体も疲れ果てて夜に家に戻ることになった。家に帰ると、すでにお酒を飲んでいい感じの二人に絡まれるのが面倒でさっさと風呂に入る。テレビからは賑やかな正月番組が流れている。正月期間は牛乳配達がないから少しは夜遅くまで起きててもいいのだけれど、今日は本当に疲れたので、早く寝てしまいたかった。お風呂から出て、台所に行くと、鍋にはお雑煮がそのまま残ってあるし、メインが食い散らかされたおせち料理が置かれていた。黒豆、ごぼう、たでん作りが残されていた。数の子なんて、あったのかわからない。何を食べるか迷っていると、電話が鳴った。きっとあの二人は電話を取るなんて気持ちは最初はなっからなさそうなので、僕が素直に受話器をあげた。

「もしもし」

 しばらく相手が無言なので、また無言電話かと思った。まさか千佳が? と千佳の方を向いて声を出そうとした時、「奏太?」と遼子の声がした。本当に久しぶりだったので、驚いた。声を聞いただけで、懐かしさに気持ちが抑えられなくなる。

「遼子…。どうかした?」

「あのね…。電話してごめんね」

「うん?」

「最後に会いたい」

 電話をかけてきたことにすら、謝って、どれだけ勇気を出してくれたか、痛いほど分かる。最後という言葉をつけなければ、会う約束もできないなんて、哀しいと思った。

「うん。僕も会いたいから」

「奏太…。私、ニューヨーク行かなかったの」

「どうして?」

「…誰かの紹介じゃなくて、自分で行こうって思ったから」

「そっか」

「でもね。奏太、ありがとう。私のこと思ってくれて。奏太のこと好きだから…。だから…このままだと…ダメになってたと思う」

 僕は返事ができなかった。今でも、声を聞いてるだけでも、抑えることができない気持ちが込み上がってくる。

「ドイツ語の試験あるでしょ? 私のテキストあげるから、使って」

「ありがとう…」

 僕たちは時間と場所を決めて電話を切った。長電話をすると苦しくなるからだ。受話器を置いて、自分の部屋に戻ろうとすると、千佳がこっちを見て、何か言いたそうにしていたが、結局、また視線をテレビに戻した。


 最後だと言っているのに、僕は遼子に会う日が楽しみで仕方がなかった。初めてのデートの日のように、服を選んで出かけた。待ち合わせ場所は川沿いのカフェだった。半分はオープンテラスになっていて、川が見える。都会の川なので、そんなに綺麗な川ではないけれど、僕は川が見える席に座って待っていた。冬の日にしては暖かく、テラスにはストーブが置かれていて、そんなに寒く感じることはなかった。

 僕は入口を見なくても、遼子が来たことが分かった。それだけ、彼女は僕にとって特別だった。長かった髪の毛はバッサリと切られていて、短いボブになっていた。

「久しぶり」と僕から声をかけた。

「うん」

 遼子は小さく笑った。

「可愛くなったね」と髪のことを言ったけど、遼子は「え? どういうこと?」と唇を尖らせながら聞き返した。

「前は…美人だったけど、雰囲気が変わった」

「どっちがいい?」

「どっちも…好きだ」

 本当に、心からそう思う。僕はメニューを差し出して、遼子は座りながらメニューを見た。

「奏太は何、頼んだの?」

「ホットコーヒー」

「私は…ミルクティにする」

 店員さんを呼んで、遼子の分をオーダーした。遼子は鞄からドイツ語のテキストを取り出して、僕に渡してくれた。

「返さなくていいから」

「ありがとう。これ、すごく勉強してるんだけど…。なんでドイツ語落としたの?」

 僕はパラパラページをめくった。空白はなく、全部、埋められている。

「テスト受けなかったの」

「病気? 診断書出してもらったら、…救済措置があったんじゃない?」

「仮病で休んだから」

「え?」

「わざと落としたの」

「どうして?」

「…私の好きだった人はドイツ語の先生だったから」

 僕は固まってしまった。

「ちょっと、待って。どういうこと? なんで、好きな人がドイツ語の先生で、単位を落とすことになるわけ?」

「単位を落としたら、再履修でまた会えるかと思ったから」

「でも…必ず同じ先生になるとは…」

 そう言いかけて、僕はテキストを眺めた。テキストは講師が選ぶことになっている。書きこまれた同じテキスト…。

「まさか…。だから…四回生まで落とし続けた? それで、ようやく同じ先生になった? ってこと?」

 遼子が頷くのを見ていた。少し、感じていた違和感が繋がった気がする。いつか遼子と一緒にランチを食べた時にドイツ語講師が通り過ぎた時の遼子の反応。好きになってはいけない人って言っていた台詞。全くノートを取らない態度。

 驚きで言葉が出ず、僕は黙って遼子を見ていた。遼子の隣で僕は授業を受けていて、遼子の好きな人が目の前にいた。その状況に混乱した。勝手に想像していた遼子の好きな人は芸術家で、既婚者で、僕が会うこともない人だと思っていた。イメージは浅田久みたいな男だった。まさか毎週会っていたとは思いもしなかった。

「私、綺麗じゃないって言ったでしょ? 最初に奏太に声をかけたのは…」

 言いにくそうだったので、僕から言った。

「僕じゃなくて、先生の気を惹きたかったから?」

「気なんて惹けないんだけどね。完全に私の片思いだから」

「伝えなかったの?」

 首を横に振った。

「でも伝わってると思う。だって毎回、授業の後、質問しに行ったり、課題でもないのに、無理矢理ドイツ語の本を持って言って、訳がわからないって教えてもらったりしてたから」

 目の前にオーダーしていたコーヒーとミルクティが運ばれる。僕は口をつける気にもならなかった。

「それにね…。私、自分の恋が叶わないから、どんな人とでもデートしたりしてたの。好きな人と一緒にいられないなら、誰でもいいって思って」

「うん」

 ひどく間抜けな相槌を打った。

「それから…アーティストに近づいたり…」

「ストップ」

「自分で…」

「もういいから」

 自分でも予想外に冷たい声が出た。遼子が少しこわばった顔になった。

「そりゃ、驚いたけど…。今でも驚いてるけど…。そんなことしなくてもいいから」

 遼子に触れられるのなら、触れて伝えたかった。

「好きなままで、ちゃんと別れられるから」

 大きく開けられた遼子の目が揺れている。

「そんな嫌われる様な努力はしなくて大丈夫。前にも言ったけど、何をしても、何があったとしても、気持ちは変わらないから。別れるのは苦しいけど、嫌いになんかなれない。遼子を嫌いになる方が辛いよ」

「どうして」と掠れた声で呟いた。

「僕の心を軽くするために、自分のことをそんなに酷く言わないで欲しい」

 遼子の目から涙がこぼれる。ハンカチくらいは渡してもいいかと思って、差し出した。

「僕が好きな人はとても素敵で、夢があって、可愛くて、綺麗で、どうやったって嫌いになんかなれない。…でも大好きだからこそ、夢を叶えて欲しい」

「…私は奏太に嫌われたかった。じゃないと忘れられない」

 僕のハンカチで目を押さえながら、遼子は言った。

「僕は忘れる気はないよ。ずっと。…辛くなったら、いつでも頼ってくれていい。でもチャンスが来たんなら、試してみるべきだと思う」

「別れることになって、絵なんかどうでも良くなって、奏太と一緒にいたいって思ってた。今でもそれは思ってる。奏太と結婚して…、すぐそばで絵を描いて。そんな幸せな想像してた。でもあの日、版画展で賞をもらって、浅田さんに声をかけてもらった時、自分の未来に小さな光が見えたの。でもそれは…私が想像してた幸せとは違ってて。私は怖くて、気づかないふりをしたくて、何も言わなかったのに、誰より奏太がそれを分かってて…逃げたの」

「…うん。僕だって気づかないふりして、ずっと一緒にいたかった。でも…やっぱり違うって思ったから。それに僕も人生を考え直すきっかけにもなったし」

「考え直す?」

「うん。あの会社で働くの辞めたんだ」

「え?」

「遼子と結婚できないなら、就職しなくていいかって思えて。しばらく百貨店のアルバイトと牛乳配達を掛け持ちしながらお金を貯めて、留学することにしたんだ」

「そうなの?」

「辛かったから、就職も吹っ切れた。だから悪いことばかりじゃない」

「私も大学辞めて、スペインに行ってきたの。一人で」

「え?」

「ゲルニカ見に行って、すごく大きな絵でね…その前に立ったら、絵なんて描かないって思ってたのに、やっぱり諦めきれないって分かったの。スペインの空がとっても青くて、言葉もわからない場所にいて、一人でもやって行けそうな気がしたの。その時はね」

 僕たちはようやく飲み物に口をつけたが、すっかり冷めてしまっていた。

「でも日本に帰ってきたら、奏太のことばかり考えてしまって」と言って、鞄から写真を取り出した。

 僕が公園で遼子に撮られた写真だった。そしてキスの写真もあった。頬にキスされたのはしっかり写っていたけれど、最後の唇が触れてたのは、シャッターを押した瞬間にズレたのか、僕たちの首から下がぶれたように写っていた。それでもあの日の高揚感が伝わってくる。

「奏太は私の宝物だから…。その宝物を諦めるんだから、頑張らなきゃって。そう思って。大学も辞めたの」

「びっくりした。辞めるなんて思ってなかったから」

「卒業制作が作れなかったのは…心残りだけど。こんな気持ちで奏太の絵は描けないし」

「…ごめん」

「でも、スペインでスケッチブックに描いた絵があって。それを見てたらいろんな国に行って、絵を描こうかなって思ったの。奏太が背中を押してくれたから」

「いつか、ニューヨークの画廊で会いたいな」

「そうね。最終地点がそこになるように目指して、まずはアジアから行ってみる。地球を一周して…」

 僕の写真の上を遼子の人差し指と中指がてくてく歩いていく。

「帰ってきてもいい?」

 僕は頷いた。そんな先のことはお互いにどうなっているか分からない。でも僕の気持ちは近くにいれなくてもずっと応援したいと思ってたから。

「帰る前にどこかでまた会えるかもしれない」

 同じ地球上にいて、生きてる限り、その可能性はきっとあるから。

「奏太に会うと…磁石みたいにくっついちゃうから…」

「…僕もものすごく我慢してる」

 そう言うと遼子は笑った。僕の写真を鞄にしまって「これ、ずっと持ってるね」と言った。

「僕も遼子の写真、欲しいな」

「私の?」

「うん…」

「…じゃあ、証明写真撮りに行こう」と遼子が言った。

 冷めた飲み物をそのままにして、店を出た。外は優しい冬の陽が柔らかい日差しを投げかけていた。

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